戦国時代

北九州の歴史

ホーム

2.戦国大名←|→4.軍事力と領国経営 

戦国時代
3.戦国時代の北部九州
 

大内義隆が陶隆房の謀反のため、1551(天文20)年、自刃しますが、義隆の側近で、隆房と対立していた相良武任(さがらたけとう)は事前に山口を逃れていました。
相良武任は筑前花尾城に入り、500の兵で立て籠もりました。しかし、陶の部将野上隠岐守の3000人に攻められ、花尾城は落城し、武任は自刃します。
陶隆房は大友義鎮(よししげ)の弟の晴英を大内氏当主として迎え、晴英改め大内義長となり、隆房は晴賢(はるかた)となります。この時晴英に大友家から随行した家老の一人が高橋鑑種(あきたね)です。

陶晴賢は、宗像氏を父にもつ姪の子、黒川鍋寿丸(なべじゅまる)を、宗像氏の相続人として送り込みました。宗像氏は天照大神の宗像三女神を祀る宗像神社の大宮司職として、宗像郡を支配していました。大内氏が九州に進出して以降は、その傘下に入っていました。
宗像氏の側では家督相続に反対する者も多かったのですが、陶の力と策略により切り崩されました。1552(天文21)年、黒川鍋寿丸は黒川から宗像の姓になり、1557(弘治3)年、宗像氏貞と改名しました。

大友義鎮は、弟が大内義長として大内家を継いでいる間、北部九州に進出して来ました。秋月・原田・筑紫・宗像・麻生・杉らの筑前の国人達の掌握に努めました。
陶晴賢討伐の機会をうかがっていた毛利元就は、1555(弘治元)年、厳島で撃破します。その2年後、毛利軍に追われて、山口を脱出した大内義長は長府に入りますが、毛利軍に包囲され、長福寺(後、功山寺になります)に移され、元就と義鎮の間ではお互いに縄張りは守るとの密約があり、義長には兄義鎮からの援けはありませんでした。ここで義長は自刃します。

 

毛利元就は周防・長門二国を統一すると、豊前・筑前を手に入れるため、大友義鎮との約束を破り、九州に侵入します。元就は大内氏のように博多を確保し、貿易の実権を握ろうとしました。
大内氏支配に反発していた秋月文種は元就からの誘いに応じて古処山城(甘木市秋月)で挙兵します。筑紫惟門(これかど)も五箇山城(筑紫郡)で挙兵します。
秋月氏は鎌倉時代以来、筑前国夜須郡秋月荘に住み、原田・高橋とともに大蔵氏三豪族の一つでした。一方筑紫氏は少弐氏の支族でしたが、大内方に入り少弐氏を攻めたため、少弐氏はますます弱体化しました。
これらに対し、大友軍の大軍は古処山に籠城する秋月文種を攻めました。堅固な要害だった古処山も落城し、文種は自害しました。一方の筑紫惟門も秋月氏の敗戦を知って、城に火を放って落ちて行きました。

大友義鎮は豊前・筑前の支配体制を確立するため、軍事的権限を有する守護代的役割を果たす城督を置きました。その一つが大宰府の宝満山・岩屋城に高橋鑑種(あきたね)を筑前城督に任じました。
鑑種は大友氏一族の一万田氏の出で、大友義鑑(よしあき)・義鎮(よししげ)父子に仕え、義鑑の一字をもらっています。高橋家は筑前の原田・秋月とともに平安末期の原田種真の流れの大蔵一門で、筑後を本拠としていましたが、相続人がないため断絶しょうとしていました。当時高橋家が大友氏を頼っていたため、義鎮は鑑種に高橋家を継がせました。
鑑種は宝満城を築きました。そして、その兵力は大宰府周辺の社寺、筑前・筑後の大蔵一門の勢力で構成されていました。

 

1557(弘治3)年、長府で大内義長が亡くなった後、大友義鎮は門司城に兵を入れ、怒留湯主水(ぬるゆもんど)に守らせます。戦国時代、門司城を本拠にしていた門司氏は大内・大友の争いの中で翻弄されていました。
毛利元就は1559(永禄2)年、門司城を攻め落とします。怒留湯主水は豊後に敗退します。1554(天文23)から始まった門司城争奪戦は1569(永禄12)年まで数多く行われます。門司城は関門海峡をにらみ、貿易の中継点であり、貿易都市博多への九州の足かがりになる所でした。
1561(永禄4)年、大友義鎮は門司城に大攻勢をかけました。毛利方は小早川隆景の援軍が駆けつけました。戦況は一進一退でした。しかし、本国と戦場が遠い大友方が不利になっていきます。毛利水軍は海を制し、輸送力で優位に立ちました。
大友軍は撤退を始めます。これを知った毛利水軍は退路で襲撃し、大きな被害を出して大友軍は豊後に撤退します。この撤退により、香春岳城(香春町)や松山城(苅田町)を放棄してしまいました。

門司城争奪戦に敗れた大友義鎮は剃髪し、宗麟を号しました。宗麟は外交交渉により、幕府に働きかけ、毛利背後の尼子氏と同盟を結びます。
将軍義輝の斡旋が始まりますが、交渉は長引き、1564(永禄7)年、和議が成立し、宗麟の娘と元就の子の婚儀が決まりました。
元就は門司城を確保する代わりに、大友方より奪った松山城を放棄し、香春岳城を破却することになりました。
高橋鑑種は大友氏の筑前の領国経営に尽力しましたが、元就の長子隆元の説得により、毛利方に通じるようになりました。隆元はこの説得の翌年の1563(永禄6)年に急死しました。
毛利方は香春岳城から撤退し、門司城を確保しました。高橋鑑種は表面上は大友方に従うふりをして、宝満・岩屋を拠点に、原田・秋月などの大蔵一門や宗像・筑紫氏と連携を強めていきました。

 

1566(永禄9)年、毛利元就が尼子義久を滅ぼすと、元就は豊前の杉・長野・城井、筑前の麻生・高橋・秋月・筑紫・原田・宗像らの国人達を味方につけ、大友方へに反撃態勢を整えていました。
高橋鑑種の兄一万田弾正が宗麟に殺されました。鑑種は宝満・岩屋城で籠城の準備に入り、太宰府天満宮の神官達や宝満山の山伏達も鑑種の指揮下に入りました。
1566(永禄9)年、鑑種は反旗を翻しました。鑑種と盟約していた秋月種実も反旗を翻し、古処山城に籠城しました。この他に、筑紫・宗像・原田氏が蜂起しました。宗麟は大軍を筑前に向かわせます。翌年、宝満城攻撃が始まります。この際、岩屋城が攻められ城兵の大半が討たれ、落城します。筑紫惟門が籠もった五箇山城も攻められ、惟門は死去します。
大友軍は高橋・秋月軍への二面作戦を行っていました。特に宝満城攻めは被害が増えるばかりでした。そこで、大友軍は秋月攻略主体の作戦をとりました。
秋月種実は弘治年間大友軍に攻められ死んだ父文種の恨みを晴らす思いがありました。古処山城や出城に兵を配して大友方の大軍に対抗しました。
秋月軍は大友軍に夜襲をかけます。大友軍は大混乱を起こし、大きな被害を受けて撤退しました。この戦果は毛利方に力を与えました。肥前の竜造寺隆信も毛利に加担することを表明しました。
 

博多に近い立花城(新宮町)は、14世紀前半に大友氏の分家が立花山に築いた城で、その一族は立花氏を名乗っていました。城主の立花鑑載(あきとし)は宗像に攻め入り、宗像氏貞と戦っていました。しかし、翌年の1568(永禄11)年、毛利方について決起します。
鑑載は大友軍の奪還に備えて毛利方に援軍を頼みます。毛利軍は伊予に出陣中でしたが、博多を支配するに重要の拠点である立花城を確保するため、できる限りの兵力を援軍に振り向けました。

立花城跡がある立花山

大友軍の大軍は立花城攻略に向かいます。内通者の手引きにより城内に攻め入り、立花城は陥落しました。立花鑑載は逃げますが、追撃を受け自刃します。
毛利元就は、伊予より戻った吉川元春・小早川隆景に休む間もなく出陣を命じます。しかし、大友軍の攻めが早く、立花城を救援することはできませんでした。
 

毛利領から動員された大軍は、海を渡って豊前小倉に集結しました。最初の攻撃目標は長野弘勝の大三岳(おおみつたけ)城(小倉南区辻三)でした。これは13世紀後半に築城された長野氏の拠点でした。毛利軍に包囲された大三岳城は落城し、弘勝は討死しました。
1569(永禄12)年、小倉に毛利軍は平城を築きます。この築城に、のち豊臣秀吉に従う外交僧安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が関係していました。築城の一部を小倉の町衆が担いますが、その交渉に恵瓊が当たりました。

大三岳城跡がある大三岳


この年、毛利軍は立花城下に入り、立花城攻撃準備を進めました。肥前に出兵していた大友軍は博多市中から箱崎にかけて布陣しました。
毛利の補給は小早川隆景が率いる小早川水軍が海上輸送しました。蘆屋・宗像・新宮などに基地がつくられました。これらの設営には麻生隆実や宗像氏貞が協力しました。
立花城は毛利の大軍に包囲され、大友軍はこれを遠巻きにする状況でした。城中では食糧が尽きかけていました。宗麟は開城を命じ、毛利方に城を明け渡しました。
対陣していた毛利・大友軍は半年の間に多くの戦闘を行いました。しかし、毛利方にとって誤算が生じました。高橋鑑種とともに毛利方の味方であった秋月種実が大友方についてしまいました。

宗麟は新たな作戦を立てました。彼の下に大内義隆の従兄弟の輝弘が庇護されていました。彼に大内氏再興の大義を立て、山口に進撃させようとするものでした。輝弘は豊後を発ち、吉敷郡秋穂(あいお)に上陸しました。
また宗麟は、尼子勝久を擁立して出雲に侵入していた遺臣山中鹿之助に働きかけました。毛利領国内でも、謀反の動きがありました。
こうした情勢下、大内輝弘の山口侵攻が始まりました。毛利元就は情勢の急変に驚き、筑前に出陣していた兵力の撤退を命じました。
山口に入った大内輝弘は帰国した毛利軍により討たれ、逃げる輝弘は途中で自刃しました。この撤退により、筑前の国人達は動揺し、支援を失った高橋・秋月・原田・筑紫・宗像・麻生氏は大友氏に降伏しました。

宝満城に籠城していた高橋鑑種(あきたね)は実家の一万田氏に助命を嘆願し、領地は没収され、毛利と大友の緩衝地帯の小倉に移されました。鑑種は入道となり、宗仙と号しました。そして、秋月種実の弟元種を養子にしました。高橋氏の居所は城というより、館というものであったと思われます。
筑前の騒乱が治まると、宗麟は宝満・岩屋城の後任城督に吉弘鎮理(しげまさ)を任命します。1570(元亀元)年、鎮理は着任します。その際、名家高橋氏の名を継ぐことになり、高橋鎮種と名も改めます。後、鎮種は剃髪し、紹運(じょううん)と号しました。
また、宗麟は立花城の重要さを考え、戸次鑑連(べっきあきつら)を城督に任命しました。鑑連は肥後出陣、門司城争奪戦、秋月攻め、佐嘉城攻め、立花城戦に大友軍を率いた大友家随一の勇将でした。彼は後、立花姓を名乗り、道雪と号しました。

 

2.戦国大名←|↑3.戦国時代の北部九州 |→4.軍事力と領国経営

戦国時代

北九州の歴史

ホーム