戦国時代

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4.軍事力と領国経営
 

戦国大名の動かす兵力は、直属家臣団の兵力と国衆の兵力に分けられます。大きな戦いをする場合は、国衆を掌握動員するのが大きな問題でした。
家臣団編成の狙いは、彼らを一門・譜代・国衆・外様など、その信頼度によって編成し、譜代家臣を中核にした直属兵力を強め、それによって国衆や外様に対する統制を強めていくことにありました。
家臣団に対しては、統一基準の軍役をかけ、給地の有力名主などを被官・郎従に編成して、動員できる態勢を整えさせました。
その軍役は家臣の知行地の規模に応じたもので、その基準は広く見られるのは貫高でした。田地1反500文という、例えば基準数字があります。この際の面積は検地によって確定されました。これにより家臣は知行をを受けていました。この貫高の知行高に対し、騎馬、徒士、そして鉄砲などの軍役が定められていたのです。
ところで鉄砲の装備は、武田・上杉・北条・伊達といった東国の戦国大名は、弓・槍などと一緒に各軍役衆ごとに少数の鉄砲が装備されている程度で、大規模な鉄砲集団にはなっていませんでした。鉄砲は威嚇や狙撃が主で、勝敗を決する武器ではなかったようです。
これに対し、西国の大名は東国よりも充実していたようです。また、織田信長や根来・雑賀衆の鉄砲装備は充実していました。

豊臣秀吉による兵農分離以前であるため、兵士は、農民であると思われがちですが、常時軍役に編入される足軽と臨時に徴発される農民の兵士がいました。ともに農村に居住していますが、足軽は戦時以外にも定期に集まり、武器などの点検を受け、その代償として一定の扶持を受けていました。
戦いの規模が大きくなりに従い、総力戦の様相を持つようになり、兵力の構成は複雑になり、それに伴い、軍規の厳しさが要求されました。
大名が最も重んじたのは軍法度(いくさはっと)でした。合戦は大将の下、体験と知識が深い人が軍奉行となり、指揮は軍配者がとりました。軍奉行・軍配者は場合によっては、その手腕・才能を買われて外部から招聘することもありました。

総力戦の下では、特殊な兵力も活躍しました。その代表は忍びでした。調略という各種工作を大名達は行っていました。戦力的・政治的なものは大名自らや上層部が行っていましたが、戦術的なものやスパイ行為を忍びが行っていました。
忍びとともに被差別民も特殊工作員として活躍しました。彼らは漂泊したり、定住しても農民や町の人々から差別され、居住地が別個のため、秘密保持や情報活動を行うのに好都合だったと思われます。
彼らのうちで、芸能者が少なくありません。他には死者の埋葬、皮革・武器製造など軍事的に不可欠で、触穢(しょくえ)思想によって押し付けられた仕事を行う集団の人々がいました。彼らは大名によって保護されました。

戦国の軍事力として見逃せないのが水軍です。毛利元就は小早川水軍の実力に注目して、子の隆景に小早川家の家督を継がせました。小早川一族は室町時代中期頃までに、瀬戸内海の島々に進出して、海賊衆と呼ぶ水軍に成長していました。
瀬戸内海海賊衆の代表である因島の村上氏は、能島(のしま)及び来島(くるしま)の村上と合せて三島村上と呼ばれ、南北朝時代以来、大きな力を持ち、独立を維持し、合戦の度に大名の求めに応じて味方して活躍しました。
毛利水軍は、小早川水軍や客分の形の村上水軍、太田川河口から上流に力を持つ川内警護衆などの集団からなっていました。彼らは海上戦や海上輸送の面で大きな力を発揮しました。
彼らは制海権を握って、航行する船から通行税を徴収したり、商人の船団の航行を警固して礼金を取るのが通常の活動でした。それに従わないと、攻撃を加えたり、荷物を奪うようなことがありましたので、海賊と恐れられていました。

 

広大な領国を統治するには、鎌倉時代の武士のように一族を使い、地域に定住させたり、荘園領主のように王朝や幕府による秩序に頼ることでは、もはや統治することはできなくなっていました。
民衆を納得させ、国人・地侍を統制するには独自の組織を作り、法と制度で統治するしかありませんでした。そのため、かなりの大名が独自の分国法を制定しました。
守護から戦国大名になった大名が比較的早く制定しました。分国法の基本は、領国支配の基本法で、軍法や家臣統制に留まらず、民衆支配に及びました。
大名と民衆との間には、国人・地侍などの中間支配者が幾層にも介在していましたが、戦国大名は中間支配者を極力家臣団に繰り入れ、その民衆支配を制限しょうとしました。

民衆の方は、独自の秩序意識を持っていました。村・郷などの地縁社会が検断権を持つこともあり得ましたし、債務を履行しない債務者に対し、差押さえるという報復行動も慣習的に行われていました。様々な自治が行われ、報復も許されたこの時代、国家権力が保障する秩序は限定された範囲でした。
この様な状況では、農民の年貢や夫役の減免要求や領主に対する抵抗や離反は不法であるという意識なしに行われました。惣・郷・郡という広域の地縁結合で、それらが集団的に行われました。
そのため、国人ばかりでなく、地侍を如何に支配の末端組織に編成し、農民の惣的結合にくさびを打ち込むのが、大名の大きな問題でした。

平安後期から鎌倉時代にかけて、国衙と守護が荘園と公領別に作成した大田文に登録されたもの、つまり公田を基準にして、守護大名は自分の国全体に守護段銭などをかけました。
このため、長い間に開発された新田は記載されず、大田文の面積は実態とはかけ離れたものになっていました。この様な荘園領主や守護に掌握されない新田は国人や地侍などの在地領主を生み出す温床でもありました。
戦国大名達は、そのため、領国検地を目指しました。土地の掌握は軍役と年貢確保のために絶対に重要なものでした。検地により、年貢やその他諸税が確定されました。年貢は1反当たり銭500文程度が標準でした。この他に段銭や棟別銭などの諸税がかけられました。
農民は、年貢や段銭のほか、種々の夫役も取り立てられました。従来の在地領主が課していた夫役や課役は廃止されますが、城普請や工事の人夫や、戦時の陣夫などは戦国大名によって課せられました。

戦国大名にとり、農民支配とともに職人の掌握も重要な問題でした。武器製造に関わる職人は細かく専門化されていました。彼らや日常の必需品を生産する職人を掌握することは戦国大名にとって軍事力に関わる問題でした。
職人を掌握する方法としては、彼らに給分を与え、御用職人とする方法がありました。他に、営業上の特権を与えて職人を保護することもありました。
職人の側でも、分業の進行に伴う需要の増加により、定住し、集団化して、営業条件を改善しょうとしました。大名達もこの様な状況に対応して、つながりを強めていきました。

戦国大名の城下は徐々に町場らしい姿になっていきました。大名の優遇策により、商人達が各地から城下に集まって来ました。大名達は城下町の商人に種々の特権を与え、御用商人として育成しました。
大名領国の流通政策として、六斎市があります。旬日に2回市が開かれ、月に6日の市が戦国大名達により計画的に編成されました。この時代既に、地方の村落市場が数多く成立していました。六斎市を編成することにより、貨幣獲得と軍事力強化が促進され、大名は市場の保護育成に力を入れました。
大名は農民からの年貢や段銭を良貨で取り立てようとしました。しかし、悪貨の増加により、良貨による納入の負担は農民には耐えられなくなりました。農民の激しい抵抗により、貨幣納から一部年貢米納が許されるようになってきました。
六斎市を相互に結びつけ、領国を統一的経済圏にするため、戦国大名は宿駅・伝馬(てんま)制度を充実させ、交通網を整備しました。主要な宿駅には問屋と伝馬が設けられました。伝馬は公用が優先されました。諸物資の運搬と公用の職人とその資材の運搬が行われました。一般の利用は、使用料が取られました。

大内氏や島津氏は海外貿易による富の蓄積がありました。伊達氏の成長には陸奥の砂金がありました。尼子・大内・毛利は大森銀山を巡って争いました。この時代、金銀の産出が急激に高まりました。
鉄も産出高が増えました。この時代の原料鉄は砂鉄からつくられるたたら鉄でした。主産地は中国山地でした。鉄分を含んだ砂鉄を堀り、これに水流をかけて土砂分を除き、これをたたらによって溶解して鉄塊としました。当初のたたらは露天の竪穴だったものを小屋掛けの泥土で築いた炉を設ける形に改良されました。炉に原料砂鉄を入れ、大量の炭にふいごで風を送り、高熱でこれを溶かし、溶解すれば、泥の炉を壊して鉄塊を取り出しました。この作業工程には高度の技術を要し、それにより製品区分が行われました。
金銀などの採鉱冶金やたたら製鉄は坑道掘削の土木技術と冶金を中心にした技術に分けられます。特に土木技術は築城や治水灌漑などに活用されました。

 

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