戦国時代

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5.信長上洛
 

京都やその周辺に支配を回復しょうとしたのは細川晴元であり、1536(天文5)年、京都に入り、管領に就きました。
京都の町衆は自検断は持っていました。これに対し、管領細川家として京都支配に最後の努力をしていました。
1539(天文8)年、三好長慶(ながよし)が淡路から入京し、父元長が持っていた代官職を晴元に要求しました。三好氏は阿波の豪族で、阿波細川氏の被官となっていました。
元長は晴元を擁していましたが、晴元は元長を堺に囲み自殺に追いやりました。
晴元は長慶の要求を拒否します。両者は対立します。将軍義晴は両者の和解を命じますが、失敗します。長慶は晴元を近江に追って、京都を制圧します。

1552(天文21)年、長慶は将軍義輝を京都に迎え、晴元を若狭に追いました。細川高国の養子氏綱を管領に据えて、実権を握ります。長慶は阿波・淡路・摂津・河内・山城・丹波を抑えました。
翌年、晴元が力を回復して、将軍義輝を近江に脱出させます。摂津でも国衆の離反がおこり、足元を揺さぶられます。長慶は攝津に拠点を定めます。この後、長慶は公家や社寺の旧勢力の支持を得るように活動し、1558(永禄元)年、将軍義輝と和解し、京都に迎えました。

この頃、将軍自身は全く無力でした。擁立され、邪魔になれば追放されました。しかし、それにもかかわらず、戦乱の世となり旧秩序が崩れてくれば、逆に価値が増すという半面がありました。
地方にいる立場を中央の権威によって高めようとしたり、下克上によって権力を握る場合は、将軍をいただくことにより名分を与えられることがあったり、調停として将軍はその役目を果たしたりしました。将軍を擁する者は優位な立場に立つことができました。
この様なことは天皇についても言えました。形式上は、天皇は将軍を任命する最高の地位にありました。実質的には京都の一定の商工業に対する権限を持っており、そこより収入を得る権利を持っていました。このため、京都の経済を掌握する目的や権威に対する崇敬を戦国大名は天皇に対して持っていました。

古くから三好氏の主家細川氏は対明勘合貿易の主導権を大内氏と争い、堺はその根拠地をして栄えました。このため、三好氏は堺の豪商達と深い関係にありました。
港湾都市堺は貿易都市として栄え、一大商業都市になり、多くの商人が住んでいました。堺は商人達による自治が行われました。商業活動の規模が大きくなるにつれ、大名の豪商への依存が増え、自治権は有力商人を中心にした会合(えごう)衆に集中し、強化されました。
京都でも町衆による自治が発展していました。町々とその連合である親町組が発展し、それぞれの親町組は月行事や宿老を置いて、自治的に運営されていました。このように町衆の自治は整然と行われました。これら町衆は法華信徒が多く、傭兵を持ち、自らも武装する法華一揆としての武力組織も持っていました。
三好長慶がこの様な町衆のいる京都を支配下に置くことは容易なことではありませんでした。長慶は京都の治安を司る京都所司代に松永久秀を任命しました。

京都の角倉(すみくら)・茶屋(ちゃや)などの豪商達は金融・貿易などのあらゆる商業活動を行っていました。戦国大名にとり、京都支配は豪商を通じて全国に到る流通網を掌握することにもなりました。
商業活動だけでなく、京都は種々の織物・刀鍛冶・金銀細工・皮革を材料にした武具製作などの手工業が発達していました。堺は鍛冶・鋳物師の伝統での鉄砲鍛冶が発達していました。この他、絹織物も行われました。応仁の乱後、京都から堺に移り住んだ職人達が中国の技術を取得した後、京都に戻り、西陣織が生まれました。このように手工業の中心地としても京都や堺は戦国大名にとっては魅力の的でした。

三好長慶には三人弟がいましたが、病死したり、近隣の守護との争いで戦死したりして全て亡くなりました。そして、長慶自身も急死しました。松永久秀は長慶の権力をそっくり手中に入れました。
将軍義輝は長慶と和解していましたが、裏では旧勢力と手を握っていました。1565(永禄8)年、久秀は三好三人衆と手を結び、京都の義輝を襲い、殺害しました。しかし、次第に久秀と三好三人衆との対立が表面化していきました。

 

戦国争乱の最終局面に織田信長が登場します。
1551(天文20)年、父信秀の死により信長が家督を継ぎました。信長の家は尾張下田郡を支配した、清洲を本拠としていた守護代織田氏の三奉行の一つでした。
信長が家督を継いだ頃、尾張の状況は混沌としていました。信長は清洲の織田信友を殺害し、清洲に移りました。家中に弟を擁立して対抗しょうとする動きに対し、弟を殺害しました。1558(永禄元)年、尾張上四郡を支配する織田信賢(のぶかた)を攻めて破り、尾張を統一しました。

1560(永禄3)年、今川義元は駿河・遠江・三河の大軍を率いて尾張を目指しました。鳴海・大高城を前線基地として一気に尾張に突入する方針でした。
信長は砦を築いて食い止めようとしましたが、今川軍先鋒松平元康(家康)によって、これは押し潰されました。義元は元康を大高城に入れ、自らは桶狭間の北方に布陣しました。
義元の早い進撃に対し、信長は初め清洲を動きませんでした。しかし、熱田を経て、夜から未明にかけての風雨の中、義元の本陣を突きました。
この奇襲攻撃で、今川義元は戦死してしまいました。義元の死を知って松平元康は大高城より岡崎に引き揚げ、翌年には信長と和平を結びました。1562(永禄5)年には両者は同盟を結び、この同盟は信長が上洛を目指すのに重要な支えになりました。

信長・家康の同盟の翌年1563(永禄6)年、信長はその娘を家康の子竹千代(信康)に嫁がせ、近江の浅井長政に妹お市の方を嫁がせました。
同年、信長は清洲から小牧山に本拠を移します。そしてその北の犬山城を取り、美濃進撃の準備をしていました。
美濃に於いては、1556(弘治2)年、斉藤道三はその子義竜(よしたつ)と戦い、道三に味方する家臣や国人は少なく、道三は戦死しました。信長が美濃を目指した頃、義竜は病死し、その子の竜興(たつおき)の代になっていました。
美濃攻略の足がかりとして、1566(永禄9)年、木下藤吉郎により、墨股(すまた)城が築かれました。そして美濃三人衆と言われた竜興の重臣達が信長方に寝返りました。その期に信長は稲葉山城を攻めました。1567(永禄10)年、稲葉山城は落ち、信長はここに本拠を移し、岐阜としました。

当時有力な商人達は大名と結びついて排他的特権を得て商業活動を行い、新興の商人達が入り込む余地がありました。岐阜に入った信長は楽市楽座制を実施しました。楽市楽座により岐阜は活況を呈しました。
稲葉山城が落ちると、正親町(おうぎまち)天皇は信長に綸旨を送り、尾張・美濃の不知行になっている皇室領の回復を命じています。
将軍義輝が松永久秀により殺害されると、南都一条院から脱出した義輝の弟は還俗し、義秋(後、義昭)と名乗り若狭・越前を経て信長に招かれて美濃に入りました。
1568(永禄11)年、上洛を開始します。江南の六角氏を攻め滅ぼします。そして義昭を擁して信長は京都に入りました。
三好三人衆は抵抗しますが、阿波に追い落とされました。三好三人衆に押され気味だった松永久秀は信長に降伏しました。こうして畿内のあらかたを信長は支配するようになりました。

信長は軍勢に乱暴狼藉を働かないように禁制を出し、禁裏御料所の公事・諸役は本所から納めるように命令し、摂津・和泉に矢銭を課し、本願寺にも矢銭を納めさせました。しかし、堺は矢銭の要求を拒否しました。
義昭は将軍に任ぜられました。信長は副将軍か管領になることを勧められますが、堺・大津・草津の3箇所を直轄地にしたいと申し出ました。降服した松永久秀には大和を与える所領問題など戦後処理をすると、信長は岐阜に戻りました。
1569(永禄12)年、逃げていた三好三人衆が突然義昭の居所の本圀寺を襲いました。これを聞き、信長はすぐに上京しますが、その前に鎮圧されていました。しかし、三人衆を堺の商人達が支援していたことを知ると、信長は再度味方するようなことがあれば町人を一人残らず殺害し、堺を焼き払うことを申し渡しました。
信長の強硬な申し入れに堺の町は恐怖におののき、家財道具を持って逃げる人々で大混乱になりました。堺の町衆は信長に屈服し、信長に謝罪し、矢銭を納めました。
信長は商業の一大中心地であり、鉄砲の生産地で、本願寺に対して戦略的位置にあった堺を信長は手に入れることができました。信長は松井友閑(ゆうかん)を奉行に任じ、統治に当たらせました。

1570(元亀元)年になると、将軍義昭の行動に信長の怒りを買うようなことがあったと思われ、次第に対立していきます。
同年信長上洛の折、出兵を拒否した朝倉義景に対し、信長は越前朝倉領に侵入します。一乗谷を本拠とする朝倉氏は足利将軍家とも関係が深く、成り上がり信長を義景はよく思っていませんでした。
坂本から若狭を経て越前に入った信長に対し浅井長政が朝倉義景と通じて反乱を起こしました。妹のお市の方が嫁いでいる長政の反乱は信長には意外でした。しかし、祖父の時代から浅井と朝倉は関係があり、信長が強大となり、その圧力を快く思っていませんでした。
背後からの長政の攻撃を避けるため、撤退を決意し、湖北から辛くも京都に入りました。この状況を見た六角氏の残党や一揆が各地に蜂起し、近江路での岐阜帰還は困難となり、伊賀を抜けてようやく岐阜に帰還しました。

岐阜に戻った信長は兵を整え、三河の徳川家康に援軍を頼み、近江の長政の本拠小谷(おだに)城を目指しました。小谷城の南の姉川で織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激突しました。これが姉川合戦で、浅井・朝倉軍の敗北となりました。
この戦いの直後、摂津方面で三好党と本願寺が結びつき活動が活発になっていました。これを討つため松永久秀は河内に入り、信長は義昭を擁して出陣しました。この時、根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆も信長方で参加しました。根来・雑賀衆は地侍・土豪などの連合で、この当時最も強力な鉄砲隊を編成していました。

本願寺顕如(けんきょ)は浅井及び三好党と手を結び各地門徒一揆に蜂起を指令しました。蜂起した一揆は信長に襲いかかりました。浅井・朝倉連合軍は南近江に軍を進めました。
信長は挟撃される形になりました。信長はやむなく陣を解き、京都の兵を帰し、浅井・朝倉軍に対して布陣しました。予想外の早い展開に浅井・朝倉軍は比叡山に入り、立て籠もりました。
そんな中、信長の弟織田信興の小木江(おきえ)城を伊勢長島の一向一揆が攻め、信興は殺されました。
正親町天皇と将軍義昭の調停で、浅井・朝倉と織田方の和議が成立しました。
帰国した信長は再び戦いの準備をしました。1571(元亀2)年、信長は近江に進出して佐和山城を獲り、浅井を牽制しました。
続いて長島の一向一揆を攻撃しました。これに対し、一向一揆側も反撃し、織田側も大きな被害を受けました。将軍義昭と信長の関係も良くなく、松永久秀は武田信玄と連絡を取るような動きをしています。
こうした状況下で信長は自ら軍を率いて近江に出て、江南を進み、比叡山を襲撃しました。根本中堂以下全山に火を放ち、男女の別なく皆殺しにしました。

 

信長が次第に優位な地位に昇って来る中で、その前に立ちはだかる勢力は一向一揆を率いる本願寺でした。戦乱の中、講と呼ばれる教団組織は、時として一揆の組織として機能しました。一向一揆がそのような力を持つに従い、地侍や国人の中にも門徒となるものが増え始めました。

大名領国化は国人・地侍の家臣化を進め、農民に対する年貢や兵糧・夫役の徴収を厳しくしました。しかし、自立した国人・地侍は大名の家臣になることを嫌い、農民の反大名の行動を組織し、国人・地侍が連合して権力を維持しょうとしました。

応仁の乱の頃、蓮如は門徒が一揆を結んで領主と対立することを抑えようとしました。しかし戦国争乱になると、門徒一揆の力が大きくなり、本願寺法主(ほっす)の主張も変わってきました。
蓮如の子の実如は、細川政元と畠山義豊の戦いで、政元の要請に対し、断り続けますが、遂に摂津・河内の門徒に政元方を支持するように指令しました。しかし、門徒達はこれを拒否しました。
法主と門徒の立場が違ってくると、本願寺は門徒の統制を強化するようになりました。法主と大名達の間では婚姻関係が結ばれました。そして一家衆(いっけしゅう)の権限を強め、統制手段として勘気(かんけ)と生害(しょうがい)という宗教的処分が行われました。
勘気とは破門のこと、生害とは死刑のことです。勘気は蓮如の時代にもありましたが、乱用されたのはそれ以降の一家衆の権限が強化されてからでした。
生害は実如の頃まで行われませんでした。広く行われるのは、法主と門との間の距離が離れた証如の時代になってからです。


法主の専制がはっきりし、往生できるかどうかも法主の意思しだいという態勢になりました。それに伴い、門徒が法主に志納金を上納することが欠かせないこととなり、多額の浄財が集まってきました。
証如に次いで顕如が法主になった頃には、戦国大名同士の闘争に介入し、大名からはその武力を期待されるだけの門徒に対する統制力を持っていました。
一向一揆の中で、信長に抵抗し続けたのは長島の一向一揆でした。長島は木曽川・長良川・揖斐川が合流する河口近くのデルタ地帯です。肥沃であるが水の脅威にさらされるデルタ地帯では輪中(わじゅう)を堅固に築き、補強することが必要で、そのため人々の協力が不可欠でした。輪中が結合する中心はそこに住む地侍でした。
一向一揆は惣村を基盤にしていました。村の中では地侍と百姓との身分の二分化はありましたが、一揆にとり地侍は指導層としてなくてはならない存在でありました。そして、百姓達も村々の惣代になり、その存在が認められてきて一揆は村ぐるみの性格を持つようになりました。
一向門徒は惣村を基礎とし、主要寺院の所在地では寺内町(じないまち)を建設しました。寺内町の代表は総本山石山でした。石山の寺内は本願寺の直轄領で、年貢や地子の収納権を持ち、諸公事役免除・徳政免許の特典を持っていました。石山の他、富田林・今井などの寺内町がありました。寺内は一向宗寺院を中心にした、領主権から独立した世界であり、一揆の拠点でした。

 

将軍義昭、浅井・朝倉、本願寺顕如などが信長打倒に一番期待したのは武田信玄でした。1571(元亀2)年、北条氏康の子氏政は上杉謙信との関係を絶ち、信玄との関係を結びました。これにより信玄は背後の不安を除きました。
1572(元亀3)年、信玄は顕如や将軍義昭と連絡を取っています。北条氏政に対しては安房の里見義尭(よしたか)、常陸の佐竹義重と連携し、上杉謙信に対しては北陸の一向一揆と連携して動きを抑えました。また大和の松永久秀、浅井・朝倉とも連絡を取っています。

1572(元亀3)年、信玄はいよいよ甲府を出発しました。この報を聞くと、信長は謙信と同盟を結び、遠江・三河で武田軍を迎え撃つ家康を援けようとします。しかし、自分自身も困難な状況にある信長が十分な援軍を送れない内に武田軍は家康の本拠浜松に南下してきます。
武田軍は家康を一言坂で破り、二俣城を攻略します。信玄は徳川軍を三方ヶ原(みかたがはら)に誘い出そうとします。織田方より援軍が到着しますが、徳川・織田連合軍に対して武田軍は圧倒的な兵力でした。
この様な不利な状況下、家康は家臣や国人・地侍達の信頼を失うことを恐れ、挑発に乗って勝ち目のない戦いに応じました。結果は家康の完敗でしたが、武田軍は深追いせず、この近くで越年します。
1573(天正元)年、信玄は三河に入ります。野田・長篠城を攻略します。しかし、ここで武田軍に不利な状況が続きます。信長が江北から岐阜に引き揚げると朝倉義景も越前に引き揚げてしまいます。信玄は義景に再出陣を求めますが、義景はこれに応じませんでした。
信玄は病魔に襲われます。野田城攻略の頃より病状が悪く、長篠城で進攻を断念します。信玄は帰国の途上、伊那で死去します。

三方ヶ原合戦の前に将軍義昭に対し信長はその行動を糾弾します。義昭は二条城の守りを固め、敵対していた松永久秀や三好党と手を握り、軍事行動に出ます。これに対し、信長は拠点を叩き、京都に火を放ち義昭を威嚇します。
両者対決の直前に正親町天皇の仲介で和平が成立します。信長は一旦岐阜に帰り、京都突入の準備を始めます。義昭が挙兵すると信長は二条城を抑え、義昭を捉え、将軍職を奪い、京都から追放します。ここに形だけだった室町幕府は完全に滅亡します。

信玄が亡くなり、将軍義昭が没落すると、信長の矛先は浅井・朝倉に向かいます。信長が浅井長政の小谷城を攻めている時に朝倉義景は援軍を率いて駆けつけ、布陣します。
しかし、朝倉軍は戦意が上がらず、追い落とされます。朝倉の本拠越前一乗谷は織田軍によって攻撃されます。義景は一乗谷を捨てて逃げますが、途中で自刃します。
朝倉を倒した後、小谷城を攻め、ここで浅井長政は敗れて亡くなりました。この後、信長は六角義治(よしはる)を討ちます。南近江は明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛に配分し、浅井の遺領の北近江は羽柴秀吉に与えられました。そして秀吉に、湖畔の長浜に城を築かせました。

 

信長にとって浅井・朝倉を破ると残る敵は本願寺と一向一揆だけでした。1573(天正元)年、再度長島攻撃に取り掛かります。立て籠もる一揆を破り、村々を攻めました。そして信長は砦を築いて守りを固めようとしますが、一揆方の鉄砲隊に逆襲されます。この鉄砲隊には伊賀・甲賀の腕のいい鉄砲撃ちが入っていました。大きな被害を受け、信長は遂に岐阜に引き揚げました。
3度目の長島攻撃は翌年行われました。水陸から包囲し、退路を断ちました。立て籠もった砦から脱出しょうとするところを斬り殺し、包囲のため餓死状態になり降伏を申し出、退去するところを鉄砲を撃ち浴びせました。必死の反撃に織田軍の被害も多数出ました。信長は立て籠もっている城の周りを柵で囲み、四方から火を放ち中の人々を全滅させました。こうして長島一揆は殲滅されました。

1575(天正3)年、信玄の跡を継いだ武田勝頼は三河に進出し、長篠城を包囲しました。家康・信長は援軍を率いて出陣しました。陣の前に柵を設け、その後に足軽鉄砲隊を配置しました。織田軍は鉄砲を三段構で発射し、武田の騎馬隊はその的になりました。この長篠合戦で武田軍は敗走し、信長は岐阜に帰りました。
この頃、越前一向一揆はその勢いは衰えを見せず、越前を加賀と同じように門徒領国にしょうとするほどの勢いがありました。長篠合戦の直後、信長は越前に進攻しました。一揆に対し、徹底的な攻撃を加えました。信長は大量殺戮により越前一向一揆を鎮圧しました。そして柴田勝家に越前を与え、北の庄を本拠に、前田利家ら3名を目付けとしました。

 

織田軍が他の大名より優れていた点は、その機動性にあると思われます。特に御馬廻り衆(おうままわりしゅう)といわれる親衛隊の充実ぶりであるといわれます。彼らは足軽衆と呼ばれる者ですが、すべて姓のある名主クラスの人々であり、百姓達の雑兵ではなかったと思われます。
濃尾平野のように当時農業生産の高い地帯では、農業経営は百姓に任せ、貸し付けた土地からの名主加地子(かじし)という地代を取って名主は地主化していました。従って名主達は専業の足軽、つまり常備軍になっていました。
反対に農業後進地は、名主クラスも自分の農地を経営することが多く、兵農は分離していませんでした。
信長の足軽衆はそれぞれの部将クラスの御馬廻り衆が率い、何人かの部将で兵団が編成されました。その質量は卓越したもので、実践の中核部隊でした。鉄砲装備率は高く、兵農が分離されていたので、練度の高い常備軍でした。

戦国大名の軍は国衆連合軍という性格を持っていました。そのため国衆の反乱に悩まされていました。織田の場合も他国衆や外様衆には十分警戒していました。
逆に尾張以来の直臣には厚い信頼を置いていました。柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・羽柴秀吉は尾張出身でした。それ以外では明智光秀・滝川一益などが加わりました。彼らは各方面の大将となって活躍した部将たちです。

農民の年貢減免要求に対しては信長は断固減免禁止の立場を貫きました。農民の共同体としての治水築堤には直接介入し、その効果を高め、生産力を挙げようとしました。ただし、自治的統合は解体しょうとしました。
職人に対しては従来の座の特権を認め、座外者の参入を禁じ、座職人の信長への奉仕を求めました。
商人に対しては利益価値の高い商人の特権は認め、一般的には自由に諸国から商人を招き、商業の繁栄を図りました。
尾張・美濃は都に近い立地の他、農業生産力が高く、伊勢の桑名・大湊は東海地方と畿内の交易の中継地であり、三河は国内木綿の主産地で、火縄としても兵衣としても重要でした。
この地方には比叡山や南都勢力、権門社寺といった旧勢力に悩まされずに、信長は領国経営を自由に行えました。このことと経済力の高さにより名主層が地主化し、専業的に武家被官になり易い条件により、訓練された機動的な兵団を持つことができました。
いよいよ天下統一のため、信長は本拠を近江に移そうとしました。一挙に京都に移せば、旧勢力の干渉や反発がうるさく、京都は大量の常備兵を集結させるにはその空間も食糧も不安がありました。近江の安土を本拠に選びました。

 

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