安土・桃山時代

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2.織田政権 

安土・桃山時代
1.石山戦争
 

石山本願寺の攻防を巡る石山戦争は、1570(元亀元)年から1580(天正8)年まで続きますが、1576(天正4)年は一大決戦になりました。
石山本願寺は、大和川を東に、淀川を北にした上町台地の北端の要害の地にありました。本願寺は年5万石の年貢を集め、城郭で守りを固めました。これに対して、織田信長は焦土作戦による封じ込めの戦法をとりました。
戦いは、大坂の川や海を巡る激戦で始まりました。砦を築いて通路を切断するように織田軍は鉄砲の射撃を浴びせますが、一向一揆軍も銃撃戦で応じました。本願寺は籠城し、信長は長期戦の構えをとりました。
3ヵ月後、大坂湾に大船団が姿を現しました。毛利水軍の能島・来島水軍や、小早川水軍、安芸水軍が織田軍の海上包囲網を突破して、兵糧・軍需品を大坂にもたらしました。織田水軍は制海権を奪われました。毛利水軍の多くは一向宗門徒でした。
彼ら安芸の一揆水軍による大坂湾の海上突破は雑賀衆(さいかしゅう)といわれる紀州門徒との連携による勝利でした。

雑賀衆には、雑賀鉄砲隊と雑賀海賊隊の2つの働きを本願寺法主顕如は期待しました。長島一向一揆の敗北の体験から、顕如は中国衆と紀州衆による連携を促しました。
紀州の一向宗は紀ノ川下流のデルタ地帯で発展しました。顕如の頃、その中心は平井(鈴木)孫一の領分の鷺森(さぎのもり)でした。その地の雑賀の中心に位置していました。
雑賀衆の内部で対立が発生していました。年寄衆と「すえの者共」の対立でした。「すえの者共」の狼藉といわれるような行動が、雑賀鉄砲衆や雑賀船手衆の戦力の根源でした。
一揆内部の対立が織田方の雑賀攻撃を容易にしました。翌年1577(天正5)年、紀州門徒の中で、雑賀衆と対立する者達に手引きされて、雑賀に乱入しました。そして、紀ノ川沿いに根来(ねごろ)口へと攻め込まれました。高野山・根来寺・雑賀などの紀州勢力集団は織田方にしだいに屈服されていきました。
ところで、この年、大坂包囲網の一角の天王寺に配備されていた松永久秀が、突然その地を引き払って大和信貴山城に戻って反旗を翻しました。織田軍に抗戦しますが、2ヵ月後、久秀はこの城と共に滅びました。

1578(天正6)年、播磨三木城別所長治(ながはる)が石山本願寺と通じて、決起しました。この2年後、長治が自殺するまで、三木城は英賀(あが)の一向門徒による補給によって支えられました。英賀は播州平野の夢前(ゆめさき)川が瀬戸内海に注ぐ姫路市の一角の寺内町でした。
この数年前より安芸・播磨・紀伊の一揆水軍は共同作戦を行っていました。瀬戸内海と大坂湾一帯の制海権の行方が、一向一揆と織田方の命運を決する重要なことでした。海上の戦線はともに決め手を欠き、膠着状態でした。

1578(天正6)年、長島の一向一揆で大きな働きをした九鬼義隆の伊勢水軍の大船が紀州に向かいました。雑賀や淡輪(たんのわ)の水軍が小舟で迎え撃ちますが、大船の大鉄砲の発射による威力と機動力で一揆軍を圧倒し、制海権を奪回しました。
鉄装船に大鉄砲という重装備は、九鬼氏の対する信長の物資供給の指示により、堺などの直轄地よりの調達により達成されました。伊勢大湊で2年を要して建造された戦艦を擁する九鬼水軍は織田海軍と呼ぶようなものでした。
この危機的状況で、顕如はその子教如(きょうにょ)を安芸に派遣しました。制海権を奪い返すべく、毛利水軍は九鬼の大船を包囲しますが、大船からの大鉄砲で壊滅的状態になりました。

陸上でも大きな転機を迎えていました。摂津を治める有岡(伊丹)城の荒木村重と、その従兄弟の中川清秀が本願寺と盟約し、毛利氏とともに結託して信長に背く動きを進めていました。
荒木氏は伊丹から尼崎にかけて、中川氏は茨木城一帯を抑えていました。これらの地域は摂津一向門徒の拠点でした。
1578(天正6)年、荒木村重は挙兵しました。衝撃を受けた信長は総動員をかけ、伊丹・茨木城を包囲しました。更に、本願寺方や毛利方に講和を働きかけました。この講和には正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)を利用しようとしました。
その直前、茨木城の中川清秀が織田方に降伏しました。六甲山での荒木方の抵抗に対し、織田軍は略奪・虐殺しました。1579(天正7)年、荒木村重は伊丹を捨て、尼崎に移りますが、行方は分からなくなりました。残された荒木一族は洛中を引き回され、斬殺されたり、焼かれたりしました。
翌年は、三木城の別所長治も、秀吉の徹底的な兵糧攻めに屈し、一族とともに自害しました。

 

本願寺を包囲し、信長は軍事的に圧倒的に優位に立っていました。しかし、本願寺との最終対決では、勅命講和という方法を採りました。1570(元亀元)年、1578(天正6)の講和の勅命を出したのは、信長の危機回避策の一環でしたが、今回は状況が違っていました。
1580(天正8)年、信長が本願寺側に出した講和条件は、惣赦免即ち全員の生命の保証と、大坂退城でした。これに対する本願寺方の返答は、信長方の条件は全て天皇の命令として受け容れるという無条件降伏でした。

勅命講和を法主が受託しても、地方の門徒や一揆の人々から強い抵抗が出ると信長方は予想していました。そこで、惣赦免により顕如の法主の権威を保って、それを通じて一揆を抑え込もうと考えました。
摂津尼崎、和泉淡輪、播磨英賀(あが)、加賀などの部将に対し、信長は停戦命令を下しました。そして、惣赦免は、たやすくおさまらない諸国の一揆を、天皇や法主による勅命講和の秩序の下に封じ込めようとしました。
更に信長は、講和条件が履行されれば、加賀の江沼・能美2郡を返したやろうという条件もつけていました。顕如は勅命講和に服するように門徒たちに繰り返し命令しました。

顕如は大坂を退去し、紀州雑賀の鷺森御坊に移りました。しかし、すぐに本願寺内で内紛が発生しました。その中心人物は顕如の子の教如でした。
法敵信長には法城は渡さぬ、法敵を討てという檄文を摂津・河内・和泉・紀州は勿論、尾張・美濃・近江・加賀・能登・越前・越中・越後・甲斐・武蔵、北は東北、西は備後と広く教如の檄文は広がっています。
父顕如は飛び火を消すように、これを打ち消す書状を送っています。この様な状況で、加賀2郡の返還は絶望的になっていました。

信長の停戦命令を無視して、柴田勝家は金沢御坊を攻め落としました。この後、播磨の英賀御坊、摂津の塚口御坊も落ちました。大坂は孤立状態になっていました。
教如が法敵として信長に対抗したのに対し、勅命講和を受け容れた父顕如は違勅の非難を恐れ、教如と父子の縁を切って、異母弟の光昭に跡を継がせて、准如(じゅんにょ)とします。これが東本願寺・教如と西本願寺・准如の分裂になっていきます。
信長は大軍を動員し、大坂に迫ります。ついに教如は屈し、教如は大坂を退去します。明け渡された石山寺内から火を発し、全ての伽藍は焼け落ちました。

 

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