安土・桃山時代

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安土・桃山時代
2.織田政権
 

1575(天正3)年、越前で一向一揆を解体後、織田信長は分国全域に関所撤廃を行っています。その後もこの政策は一貫して行われます。これは、川の船着場、陸上交通の要衝に、それらの場所を荘園として持つ貴族達の荘園領主や在地領主達が設けていた関税徴収権を取り上げ、織田政権の下に編成し直そうとする政策でした。
しかし、すべての領主の権益を否定するものでなく、現実に支配していた荘園については朱印状によって保証しょうとする荘園保護の政策も採っています。
交通・流通といったものは切り離して、織田政権下に置こうとしたものでした。半生にわたって石山戦争に費やした信長には、一向一揆の人々が大坂を中心に築いてきた流通路を壊そうとする意図もありました。

京都の町衆に近い北野や祇園の社寺は、山門といわれる比叡山の末社や末寺でした。土倉・酒屋などの高利貸の営業は山門の本末の関係で成立し、それによって町衆は支えられる面がありました。
その比叡山を信長は焼討ちしました。そして、その直後、信長は洛中・洛外の荘園領主や地主に田畠1反につき1升の米の拠出を命じました。この米を京の町ごとに、3割の利付きで、強制的に貸付けました。その利息米は将軍・天皇の財源に当てるという名目でした。
信長は分国支配の拠点の都市に楽市楽座令を出しました。その目指すところは開放市場の創設でした。そしてそれは、新しい流通経済体系に組み込むと同時に、一揆の基盤をその根底から掘り崩すことを課題としました。

この様な新しい町場の創設を更に強力に推進したのが、安土城下に新たに造り出された町づくりでした。
この都市は、武士・商人・職人の集住を高めて、京都との陸上・湖上交通を通じて京都の持つ経済機能を安土城下に直結させて、分国の経済中枢としての機能を高めようとしました。
寺内は守護権の介入を排し、領主からの賦課を逃れ、徳政の適用から除外される治外法権の世界でした。これらの寺内を解体して、統一的な流通体系に編入させることが楽市楽座令の役割でした。
寺内の解体には、楽市化する市場政策と、検地を行う農村政策が採られました。

 

上洛後、荘園領主ごとに将軍の下知に信長の朱印を添えるという手続きをしました。荘園を旧領のまま認めた上で、それを信長に帰属する知行地として編成し直そうとしました。
荘園に種々の領主の権益、即ち、職(しき)の複雑な関係を整理し、名主百姓には負担関係を整理しょうとしました。
織田方が荘園領主に代わって土地台帳の提出を荘園の農民に命令し、監視しました。
各国内に大名領が設定される場合、領主権を領域として与えられ、一職一円を言いながら、元々の荘園領主との関係では、その所領はそのまま認めました。
荘園年貢の押妨や不納をやめない荘園の代官を改易するという布告を信長は出しました。貴族の権益を保護しながら、いくつもの領主権益の実態を掌握しょうとしました。偽りの申告は没収の対象となり、信長の権力の下に組み込むことが、貴族・公家領保護の真意でした。

各地で本格的検地が行われるのは、1580(天正8)年のことで、大和一国検地という指令を受けて、明智光秀と滝川一益が興福寺にやって来ます。興福寺に対し、田畠・屋敷・山林など残らず面積を届け出よと指示します。権益が複雑に入り組んでいましたが、詳細に書き直しをさせ、1ヶ月をかけて指出(さしだし、届けによる検地)が認められました。
この他、法隆寺・多武峰(とうのみね)・薬師寺・東大寺などの大寺や大きな国侍達の所領も指出をさせられました。
その前に摂津・河内・大和の城割が行われ、国中の諸城が破却されました。
指出により、5つの帳簿が作られています。1つは土地基本台帳、2つ目は自村にある他村民の持分(入作)とその逆の場合の持分(出作)を調べた帳簿、3つ目は知行人ごとに年貢額が書き出された帳簿、4つ目は損免控除査定のための主に水害で荒れた農地を調べた帳簿、5つ目は戦に徴発される人夫の負担を決める家数調査の帳簿です。

 

織田軍団の編成を見てみますと、御一門衆、在安土衆、他国衆に大別されます。一門衆は信長の血族達であり、岐阜の信忠、伊勢の信雄(のぶかつ)をはじめとして、それぞれ家臣団を擁しています。
安土衆は御馬廻衆・御小姓衆など親衛隊として安土に集住させられている軍団です。
他国衆は越前衆など国名を付けて呼ばれる軍団で、織田家の宿老クラスと、親衛隊クラスの家臣が組み合わされて配置され、その下に地つきの国衆が組み込まれました。
前田利家のような直属の有能な家臣は各国・郡の大名となり、それぞれの国衆の軍団を率いていました。
分国の拡大に伴い、尾張・美濃等の出身の家臣達が各国衆軍団を統治するようになり、信長から独立していくとともに、権力組織が分化・肥大化することが大きな問題となってきました。
信長自身は、将軍から名門家の名跡や副将軍の地位を受けることを拒否し、将軍が失脚しても、取って代わろうとはしませんでした。また朝廷からの官位も全て返上しています。しかし、一向宗の法主に対抗しては、勅命に頼らざるを得ませんでした。

国衆の軍団に対しては、土着の国衆をどのように結集するかが問題でした。信長はその方策として、国替えという方法を採りました。
佐々成政(さっさなりまさ)を越中、前田利家を能登に配置替えをしました。それにより、知行していた旧領・居城は返上させ、妻子・家臣団も移動させられました。家臣団には土着の侍も入っていました。
同じように、細川藤孝を丹後、明智光秀を丹波に国替えしました。後には、河尻秀隆を甲斐、森長可(ながよし)と毛利秀頼を信濃、滝川一益を上野に新たに配置しました。
織田政権において、地方の国侍に対しては朱印状により知行を保障しました。また、敵方の所領を没収して、接収した土地は侍達に恩賞として配分されました。
1580(天正8)年、織田家宿老の佐久間信盛父子が高野山に追放されて失脚しています。その理由は、直轄領を家臣の加増や採用に当てずに、私物化したというものでした。
その真偽は分かりませんが、信長が大名に対し、どのような資質と実践を期待したかがうかがえます。佐久間父子追放は、それを強制する見せしめであり、その効果は大きいものがありました。
1582(天正10)年、信長は安土山の一角にハ見寺(そうけんじ)を創建しました。ここに、信長自らを地上の神の命を持つ不滅の主として祀り、礼拝せよと高札を掲げました。これは命令でした。すべてを自分の下に従わせようとするものでした。
この19日後、毛利方と総力戦で対決しつつあった秀吉を援け、戦いを終結しょうと、信長は、長子信忠らとともに出陣しました。その途中、京都本能寺で、明智光秀の謀反のため、命を断たれました。49歳でした。

 

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