安土・桃山時代

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安土・桃山時代
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1582(天正10)年、本能寺の変の2日後に、毛利方の備中高松城の水攻めの陣中で、豊臣秀吉はこれを聞き、高松城を降伏させ、和議を結びました。4日後に、一向衆を経て、毛利方は変を知りました。5日後に、秀吉は摂津尼崎に軍を返していました。堺見物をしていた徳川家康は、やっとの思いで伊賀越えして帰国しました。
信長の死は一向一揆の再起の好機でした。そのため、織田信雄は伊勢に、前田利家は能登に釘付けされました。
天王山・山崎で秀吉と対峙した光秀は敗れ、山科で土民に討たれました。明智一族は滅び、安土城も坂本城も焼け落ちてしまいました。河尻氏や滝川氏が敗れて崩壊し、上野・甲斐・信濃は家康に抑えられました。行方不明であった本願寺教如が姿を現し、天皇のとりなしで、雑賀の父顕如の元に戻りました。
 

尾張清洲城で、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・羽柴秀吉の5人による清洲会議が開かれました。秀吉は信長の孫、本能寺の変で亡くなった信忠の子の三法師を安土に擁立し、信長の遺領分配では山城を抑えました。勝家は信忠の弟の信孝を擁立し、秀吉の旧領長浜を獲ろうとしました。
勝家は、もう一人の兄弟信雄を秀吉の方に追いやりました。中央である山城を抑えた秀吉は、早速検地を開始し、京都奉行を更迭して、新たに任命し、山崎に築城して、中央を掌握する態勢を整えました。
大徳寺で信長・信忠の葬儀を盛大に行うと、秀吉と勝家の優劣ははっきりしました。丹羽・堀・池田の宿老達が秀吉側に付きました。

翌1583(天正11)年、南下して来た加賀の佐久間盛政、越前の柴田勝家を秀吉は賊ヶ嶽(しずがだけ)で打ち破りました。両氏はそれぞれ分国に逃げ帰り、攻められて滅び去ってしまいました。
 

秀吉は、清洲会議で大坂を得ていた池田恒興父子を、織田信孝を滅ぼした後の美濃に移しました。その大坂に30余国の大名に割り当てて、築城普請を始めます。秀吉は京都に変わる都を、本願寺の跡の大坂につくろうと考えました。

 

1584(天正12)年、織田信雄は徳川家康と計って、伊勢・尾張の軍を起こします。秀吉は動員して、自らも出動します。清洲城に入った信雄は家康と合流して、小牧山城に向かいます。秀吉は犬山城に進めます。
信雄は美濃・尾張の一向宗徒を味方に誘います。更に、信雄・家康は本願寺を誘い、紀州一揆は和泉・河内を襲います。
決戦は回避され、小競り合いが尾張の長久手をはじめ、美濃・尾張・伊勢で繰り返されます。小牧・長久手の戦いといわれたこの戦いの間に、旧織田軍団の武将達は信雄か秀吉かの選択を迫られました。秀吉の動員体制の中で、秀吉の直属軍団の編成が固まっていきました。
決戦なき長期戦の末、信雄と秀吉の間で、和議が話し合われました。

この年、秀吉は大阪城に移りました。大坂を退去した法主顕如を擁する紀州一揆は一揆行動を行っていました。しかし、法主自身は戦意がなく、鷺森御坊を引き払って和泉の貝塚御坊に移って行きました。
紀州一揆は新たな城を築いて抵抗し、水軍も健在でした。北国でも前田利家に対し、抵抗しました。これらに対し、法主は破門でその行動を抑えようとしました。
伊勢の長島辺りで、北伊勢一揆が蜂起しました。顕如はあわてて、叱責状を送り付けました。信長の法主を通じて一向宗を統制しょうとする惣赦免の方策は破綻していました。

秀吉と家康は小牧・長久手の戦いを停戦にしました。1585(天正13)年、秀吉は紀州に出動しました。それに先立ち、秀吉は毛利水軍の総動員を命じました。かって織田水軍に対抗した安芸の一揆水軍は豊臣水軍に従属しました。
一揆方の城や根来寺は炎上しました。この頃、秀吉の軍の兵糧の補給態勢は万全でした。長期に耐える持久力は飛躍的に向上しました。
紀州一揆の中で、太田城が抵抗の最後に残りました。秀吉は備中高松城の経験を元に水攻めの作戦を採りました。土木技術と物量を投入して湖水をつくり、そこに水軍を入れて、鉄砲で攻撃して降伏させました。
凱旋の帰途の秀吉を顕如父子は出迎えました。気を良くした秀吉は大坂城の近くに寺内を与えようと言いました。その寺域は広大で、そこに、親鸞を祀る中島御影堂が建立されました。

 

この年、秀吉は関白となりました。秀吉は京都の町衆に命じて仙洞(せんとう)御所を修築させ、本願寺顕如に大坂中島に寺地を与え、比叡山延暦寺の復興の援助を与え、高野山金剛峰寺の金堂の再建を援け、公家を対象とする徳政を行いました。
この頃、中国の毛利氏は、毛利の両川(りょうせん)と呼ばれる吉川・小早川氏を含めて秀吉に従っていました。四国では豊臣軍に攻められて、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は土佐一国を認められました。
越中で抵抗していた佐々成政も屈服し、越中の1郡の知行を認められました。越中惣国は前田利長に与えられました。
飛騨は金森長近、阿波は蜂須賀家政(小六)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景に与えられました。
 

 

 更に、国分け、国替えがありました。大坂城のある摂津は直属家臣団を配し、河内は直轄領とし、和泉・紀伊・大和に弟の秀長や一族を置き、山城は重臣の前田玄以に任せ、丹波には養子の秀勝を置き、近江には養子の秀次を置いて年寄衆を補佐させました。
播磨は近習達の知行地とし、淡路は子飼いの部将を置きました。大和の筒井定次は伊賀に、近江の堀秀政は越前に国替えしました。
この国分け・国替えの中で目に付くのは、秀吉の異父弟の秀長の起用です。官位もこの時参議に昇進し、後には右大臣になっています。秀長は公儀を担当しました。
公儀を国政とすれば、内儀は家政ということができます。茶堂として秀吉に密着していて、利休の号を勅賜された千宗易は内儀を統轄していました。

 

秀長は大和・紀伊と和泉・伊賀の一部を合せて知行高100万石と超えていたといわれます。大和から足しげく大坂入りして秀吉と連絡を取り続けていました。1586(天正14)年、秀吉・秀長年賀の参内の後、秀吉最初の法典、天正14年令が発布されます。
内容はまず、武士階級の人々の主従関係の変動を抑えようとしました。そして、服装も含めて身分に応じた規制になっています。主従の秩序・身分を確定しょうとしました。
百姓に対しては、年貢・夫役の皆納を強制し、移動を禁止しています。年貢収納で、領主(知行者・給人)と農民(百姓)の関係で、領主に田畠の災害控除を最大限に認めさせる損免要求が抵抗の基本でした。そこで、秀吉は二公一民という一律の損免率を確定しました。

これまで小さな地域の領主や、大きくても一分国内の法でしたが、秀吉が次第に支配地を広げる従い、関白法が確定し、公布されていきました。百姓は年貢拒否や逃亡で対抗したり、主従関係を下の者から変更することは絶望的になっていきました。領主階級にとってはその支配を補強する画期的なものとなりました。
京枡(10合)を強制し、これまでの雑多な枡を排除しました。この政策は石高制を整備する上での基礎となりました。
なお、この年、秀吉は関白近衛家の養子になって、藤原姓を借りて、関白になっていましたが、新しく豊臣姓を名乗り、豊臣秀吉となりました。

 

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