安土・桃山時代

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1578(天正6)年、大友宗麟は、島津氏が日向の伊東氏を破って進出してきたため、軍を率いて豊後から南下します。この時、宗麟は正室を離縁してキリシタンとなります。
日向の耳川での戦いで、大友軍は大敗し、多くの部将を失います。この戦いの後、大友家は次第に衰退していき、国人の中には島津や竜造寺に寝返る者も出てきます。

肥前の竜造寺隆信が軍を動かし、秋月・筑紫・原田氏が同調するという知らせで、岩屋城の高橋紹運(じょううん)、立花城の立花道雪は来攻に備えます。
秋月・筑紫軍が大宰府に侵攻し、岩屋城を攻めます。立花軍が援軍で駆けつけます。このため、秋月・筑紫軍は撃退され、退却の際、民家に放火したため、その火が天満宮に燃え移り、全てが灰となりました。

翌年、宗麟は家督を義統(よしむね)に譲ります。鳴りを潜めていた毛利氏は、北九州への活発な活動を始めます。小倉の高橋鑑種(あきたね)に決起を促します。
宝満山城から小倉に来て10年の高橋鑑種は宗仙と号していました。鑑種は秋月種実の子、元種を養子にしました。そして、秋月・原田・筑紫・麻生の筑前の国人達と連絡を取り合っていました。
秋月軍が岩屋城を攻めていた頃、高橋鑑種は松山城(苅田町)を攻め落とし、香春岳城を落とし、そこを養子の元種に守らせました。1579(天正7)年、高橋鑑種は小倉城で亡くなりました。小倉北区の安全寺に葬られています。

豊後では反乱が起こったり、大友家中で宗教対立が生じていました。肥前では竜造寺隆信が勢いを伸ばし、筑後に進出し、更に肥後北部に進出して来ました。
隆信は次には筑前に向かいました。背振山系の三瀬峠を越えて来ました。博多西部の大友氏の城は次々と奪われます。遂には立花・岩屋・宝満山城が残るだけとなりました。そのため立花・高橋両氏は豊後の援助も難しいため、筑前西南部を竜造寺領、東北部を大友領として和議を成立させました。

立花道雪と高橋紹運は協力して主家大友家を支え、反大友勢力と戦っていました。この協力体制を支えるように両家の間で養子縁組がありました。
跡継ぎのない道雪は、紹運の長男を道雪の娘の婿養子にしたいと願っていました。嫡男であったため断り続けていましたが、最後には承知しました。ここに立花統虎(むねとら)が誕生しました。後の立花宗茂です。

1581(天正9)年、大友方の鷹取城(直方市永満寺)では、飢餓で食糧が欠乏していて、秋月方の攻勢が伝えられていました。そのため城主は立花道雪に食糧の救援を求めてきました。
道雪はこれに応じ、輸送隊を送りました。立花から鷹取の道中は宗像領を通るため、宗像氏貞の許可を得ていました。
氏貞は一時反大友の立場でしたが、この頃は大友氏に従っていました。また、氏貞の妹が道雪の側室に入っていました。しかし、氏貞が道雪と和睦した時、宗像領の一部を立花方に割譲していたため、そこに住んでいた武士達は立花家に恨みを持っていました。その武士達が立花方の通路近くに住んでいました。彼らは立花方の帰路を襲いました。近くの秋月方も宗像方に加わりました。これを聞いた宗像氏貞は使者を出し、制止しようとしました。しかし、使者達は彼らに同情し、これに参加してしまいました。
犬鳴川沿いの台地、小金原(鞍手郡若宮町)に、宗像・秋月の軍が集結し、休息中の立花軍を攻撃しました。双方とも多くの被害が出ました。
小金原合戦の後、立花・宗像家は敵対関係になりました。そして、筑前のおいて、立花・高橋の大友方と竜造寺と結ぶと結ぶ秋月・原田・筑紫・宗像との争乱は続いていくことになります。

佐賀の竜造寺隆信は、大友衰退後、肥前を抑え、筑前西部・筑後、更に肥後北部に勢力を伸ばし、北に進出して来た薩摩の島津義久と対立するようになりました。
1584(天正12)年、島津側に寝返った有馬晴信を討つため、竜造寺隆信は島原に出陣します。しかし、隆信の大軍は敵方の計略にはまり、沼地の隘路に誘い込まれて、壊滅状態となりました。敗戦の中で、隆信は討たれてしまいました。

竜造寺隆信の死後、領国各地で離反が起こり、島津を頼る国人が増えました。一方、大友義統は隆信に奪われていた筑後を奪回するため出陣しました。耳川の戦いで多くの部将を失った大友軍は失地回復ができませんでした。このため、大友義統は立花道雪と高橋紹運に出陣を命じました。
両将の指揮の下、猫尾城(黒木城、八女郡黒木町)は陥落しました。その後、柳川城を攻めますが、陥落させることはできませんでした。このため、両将は高良山(久留米市)に陣を移しました。
島津軍の北上の勢力は日々に強まってきました。これに反し、大友方の失地回復は不可能な状況でした。そんな中、1585(天正13)年、立花道雪は陣中で病に倒れて亡くなってしまいました。筑紫広門は道雪の死去の翌日、手薄な宝満城を攻め落としました。

この年、関白豊臣秀吉は島津義久と大友義統に和平を命じました。大友方はこれに従いますが、島津方は拒否しました。島津義久は大友方の本拠の豊後への侵攻を計画していました。
翌1586(天正14)年、再度秀吉は義久に和平を命じます。しかし、義久は拒否します。義久は進攻のため軍備を増強していました。
隠居の身であった大友宗麟は、大坂に赴き、秀吉に島津を討つように訴えました。秀吉は宗麟に翌年出陣することを約束しました。

この出陣に先立って、秀吉は毛利・吉川・小早川に先遣を命じ、黒田孝高を軍奉行として、準備に入らせました。
この様な状況下、宝満城を占拠した筑紫広門は高橋方と和議を結び、紹運の次男と広門の娘の婚儀が成立しました。
この年、宗像氏貞が赤間の居城で病死しました。氏貞には嗣子がなく、家臣達は家名維持を図りましたが、翌年、秀吉が九州に出陣の際、家臣は離散となり、居城も破却されました。

 

秀吉から毛利への動員令は、毛利分国内での要衝以外の城を破却し、関所を撤廃し、蔵入地を確保する、門司・麻生・山鹿・宗像氏の城へ軍勢や兵糧を集積し、道路を整備することなどでした。
毛利氏はこの動員令を利用して、分国内の在地領主の権力を抑え、直属の蔵入地を確保し、その権力を強化しました。
大名達は限度一杯の負担を強要され、豊臣政権の圧倒的な物量動員力に依存せざるを得なくなっていきました。

関白秀吉の命令を拒否した島津義久は、秀吉の進攻の前に、秋月種実に促されて北上します。二手に分かれて、軍事行動を起こします。一手は西側から筑後を経て、筑前に侵入、もう一手は日向より豊後に侵入する作戦でした。
筑後川を渡った島津軍は立花・宝満・岩屋の3城の攻撃に向かいました。
大宰府周辺に集結した4・5万といわれる島津軍は、6・7百人が守る岩屋城を攻めます。連日の猛攻撃が続きますが、攻める島津軍の方に、守る高橋軍より多くの損害が出ます。
しかし、遂に島津軍の最後の攻撃が始まります。激戦の末、1586(天正14)年、岩屋城は落城します。高橋紹運は奮戦の末、深手を負い、自害します。
 
岩屋城落城の後、老幼女子の避難場所になっていた宝満城も開城しました。この先、島津軍の矛先は立花城に向かいましたが、毛利軍の上陸の報せを聞いて、島津軍は撤退しました。
立花城を守っていた立花統虎(むねとら)は島津軍が撤退すると、秋月方が守っていた岩屋・宝満城を奪回しました。そして、秀吉によって派遣されている黒田孝高と会見しています。
薩摩に降伏されて連行されていた筑紫広門は、脱出して、秋月方が守っていた城を奪回し、豊臣軍に参加しています。

毛利方の門司城と高橋元種の小倉城の間で戦いが始まります。毛利本隊が上陸すると、小倉城は攻め落とされ、城方は香春岳城に退却します。
毛利軍によって築上郡の宇留津(うるつ)城が落とされ、拠点の香春岳城も落とされ、高橋元種は降伏します。
花尾城の麻生家氏は小早川軍に加わって香春岳城攻めに参加しています。黒田孝高の宣撫工作も効果を上げ、豊前・筑前から島津勢は一掃されていきました。
秀吉は40ヶ国近くに動員をかけ、20余万の大軍を率いて、1587(天正15)年、出陣しました。
 
豊前小倉に着くと、秀吉はすぐに京都郡の馬ヶ岳に移り、秋月種実の出城、岩石城(がんじゃくじょう、田川郡添田町)を攻めさせます。蒲生氏郷・前田利長らの軍勢に攻められ、岩石城は落とされます。種実は嫡子種長が守る秋月古処山の本城に籠城しますが、豊臣軍の圧倒的兵力に恐れ、降伏します。
しかし、その代償として、島津軍討伐の先陣に立たされます。秀吉が秋月に滞在中に、立花・秋月・高橋・筑紫・原田・麻生・長野・城井らの筑前・豊前の諸氏が参陣し、謁見しています。
 
豊後府内(大分市)を占領していた島津軍は次第に豊後から撤退していきます。豊臣軍は二手に分かれて、秀吉は筑前・筑後・肥後に向かいます。もう一手は羽柴秀長が率いて豊後に向かいます。
島津義久は秋月氏が秀吉に降伏し、次第に投降したり、離反する者が出るに従い、孤立状態に陥ったことを悟ります。1587(天正15)年、義久は、鹿児島に迫っていた秀吉の川内(せんだい)の本営に来て降伏しました。その1ヶ月も経たない後に、大友宗麟は病死しました。

義久の降伏は、将軍の講和勧告を受け容れるという形をとっています。信長によって追放された足利義昭は備前鞆ノ浦(とものうら)にいました。出陣途中の秀吉と備後で義昭は会っています。翌年、義昭は帰京し、秀吉は1万石の知行を与えました。
島津制圧には、本願寺(中島御堂)の実力者下間頼廉(しもつまらいれん)が秀吉に随行して働いています。
16世紀初め、九州に一向宗は広まります。ここでも、大名領主と一向宗との間では対立がありました。そこで、秀吉は一向宗門徒の力を借りようとしました。水俣から出水への上陸作戦には獅子島などの不知火湾の一揆の援けがあったといわれています。
それだけでなく、島津氏は一向宗を禁圧する政策を採っていたため、それに対抗する門徒達の動きもあったと思われます。しかし、この後、島津領内では一向宗は更に厳しい弾圧を受け、その後も一向宗は禁制とされました。

 

九州を平定した秀吉は大宰府に入り、天満宮や観世音寺に参詣し、筥崎八幡宮にも詣でました。ここで国割りを行っています。
小早川隆景は筑前一国と肥前・筑後の一部が与えられました。弟の毛利秀包(ひでかね)が久留米の城主になりました。立花統虎は筑後3郡で、柳川の城主になりました。彼は後、宗茂と名乗っています。統虎の弟の高橋統増は三池郡を与えられ、後改姓して、立花直次と名乗りました。秋月種実の子の種長は日向高鍋、弟の高橋元種は日向延岡に移されました。黒田孝高は、豊前6郡を与えられ、中津城に入りました。残りの企救・田川2郡を秀吉の家臣毛利勝信は与えられ、小倉城に入りました。
筑紫広門は筑後で1郡を与えられました。島津・大友・竜造寺・松浦・有馬・大村・宗・相良・伊東・五島の各氏は旧領を安堵されました。肥前の鍋島直茂は竜造寺氏から離れて1郡半を与えられました。肥後には佐々成政が、日向2郡に伊集院忠棟が入りました。

以上が大名達ですが、大名になれなかった在地領主もいます。原田氏は糸島の領地を没収され、佐々成政の与力として肥後に行きました。
麻生氏の当主麻生家氏は小早川隆景の与力として筑後に行き、知行を得ています。その後、浪人をしていますが、筑前に入国した黒田長政に召抱えられています。

箱崎滞在中に、秀吉は焦土と化した博多の町割りを指示しました。黒田孝高・石田三成に指揮させ、小西行長・滝川雄利(かつとし)・長束正家らが奉行として工事を進めました。
この工事には島井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)らの博多商人が協力しました。彼らは千利休と連絡を取り合っていました。秀吉の出陣には千利休や津田宗及が随行しています。彼らと宗室・宗湛は会合していたと思われます。
秀吉は問・座などの特権を廃し、諸課役・徳政を免除し、博多津には武士は居住しないなど、博多は町人のための町づくりを目指していました。
宗室・宗湛には広い屋敷が許され、他の有力な博多商人にも屋敷が許されました。道路は南北に広く、東西は狭い小路にしました。棟塀は焼け落ちた瓦礫を利用してつくられました。

 

企救・田川郡で6万石の知行を与えられた毛利勝信は、秀吉と同じ尾張の出身で、その側近でした。小倉城に置かれたのは、九州の喉仏の要衝に信頼が置ける者を、と考えたからだと思われます。勝信は弟を岩石城に、香春岳城に部将を置きました。
勝信はキリスト教を保護したといわれています。朝鮮出兵にも参加しています。しかし、彦山とは対立しました。彦山座主に自分の子を就けようとしたためといわれています。

秀吉が病死した後の関ヶ原の戦には、毛利勝信は西軍につきます。中津城の黒田孝高は東軍についていました。勝信が出陣を準備すると、香春岳城は黒田方と内通し、小倉城を攻めました。小倉城は黒田方に落とされ、勝信は逃走します。筑前の小早川秀秋は関ヶ原の戦で、東軍に寝返りました。
関ヶ原の後、毛利勝信は改易され、土佐の山内一豊に預けられ、そこで勝信は死去し、勝信の子は大坂の陣に参加し、夏の陣の落城の際に討死します。

 

秀吉は大陸への侵攻計画を九州平定の前から持っていたと思われます。関白になった秀吉は、家臣団に対する統括と家臣団の奮起を促すため、その計画を公言しています。九州への動員はその前段階とも言っています。
九州を平定すると、それは夢の段階ではなくなってきました。取り敢えず、対馬の宗氏に高麗との外交交渉を委ねました。
博多の町づくりも、進攻のための基地づくりが念頭にありました。博多の古くからの大陸との交易港として、そこの豪商達の情報や貿易商としての力を秀吉は期待したと思われます。

秀吉は九州平定に際して、九州にキリシタンが集中していることを重視し、その勢力を味方につけることを考えていました。1585(天正13)年近畿の国替えには播州明石に高山右近、播州室ノ津に小西行長などのキリシタン大名に港を与え、九州平定、大陸侵攻への布石としました。
九州のキリシタン大名のうち、平戸の松浦氏と対立した大村純忠は横瀬浦(長崎県西海市)を教会領とし、後、竜造氏との戦での中で、長崎を教会領としましたが、これは一面にはポルトガル船がもたらす軍需品や交易品によって巨利を得るという目的もありました。
箱崎滞在中、秀吉はキリシタンを禁制しました。その内容は、日本は神国であり邪法を持つキリシタン国ではない、キリシタン領主は豊臣政権下にあり、治外法権は大名も宣教師も持たない、宣教師は追放する、但し、ポルトガル船との交易は認める、といったものでした。
また大名・領主に対しては、信仰は個人の自由であるので、領主が百姓に信仰を強制することは違法である、領主が信者になるには秀吉の許可が必要であるとしました。
キリシタンに対し、秀吉は一向一揆以上になるとの恐れを抱いていたと思われます。高山右近はこの禁制に抗議して、大名の地位を捨てました。小西行長・黒田孝高(如水)らはこの禁制に反抗はしませんでした。

 

佐々成政が肥後の支配を始めて間もなく、隈府・阿蘇の有力国衆に主導された一揆が成政の軍を破ります。これにより周辺国の領国内でも不穏な気配が見られるようになります。この一揆は佐々成政一人の手に負えず、秀吉は西国の大名を鎮圧に動員します。
豊臣軍に包囲されて、半年の抵抗の後、一揆は鎮圧されました。一揆の主導者は処分され、傍観していた肥後の国衆も掃討され、その結果、子飼いの加藤清正(隈本城)・小西行長(宇土城)が入国します。

秀吉は、国衆一揆といわれる肥後一揆は、佐々成政が秀吉の指示に背いて国侍の知行を交付せず、村々に検地を強制して百姓に迷惑を及ぼしたもので、佐々成政の失政が原因で発生したといっています。成政は謝罪のための上洛も認められず、尼崎に幽閉されて、死罪になっています。
しかし、加藤清正・小西行長は成政の政策をそのまま推進していきます。そして百姓には検地・耕作が強制され、徴税・徴発も定められました。掃討を免れた国衆は本領を離れた所に分散して知行を与えられました。
小西行長は天草一揆の抵抗を受け、加藤氏の援軍を受けるような状態でした。豊臣政権は深刻な危機感を持っていました。そのため、一揆の全責任を誰かに転嫁する必要がありました。

 

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