安土・桃山時代

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安土・桃山時代
5.天下統一
 

旧平安京内裏跡の内野に新第(しんてい)の普請が1586(天正14)年に始められ、1年後に竣工していました。九州から凱旋した後の1587(天正15)年に関白政権の政庁として秀吉はここに入ります。長生不老の楽を聚(あつ)めたとして、聚楽第(じゅらくだい)と呼ばれました。
翌年1588(天正16)年、後陽成(ごようぜい)天皇を迎え、諸大名を聚楽第に招集して5日間の華麗な儀式を繰り広げました。その中で、秀吉は天皇に地子銀を、上皇や親王に米地子を進納し、公家・門跡達には近江高島郡を配分しました。
また諸大名に天皇への誓紙を出させる儀式を行いました。天皇へ誓紙であっても、本当は関白の命令には背かないという誓詞がその中にはありました。

同じ年に、刀狩令と海賊禁令が出されました。これは農民・海民・倭寇に対する武装解除と、交易を統制することに狙いがありました。国主・給人・代官に武器の没収が命じられました。
没収した武器は大仏殿の釘やかすがいに鋳造するとしました。この大仏殿は聚楽第行幸の直後に南六波羅に造営を開始しました。この造営に伴い、その負担は諸大名に課せられました。
秀吉はこの年、長崎を豊臣直轄領にして、鍋島氏をその代官にしました。このことや海賊禁止令は、海の商人や倭寇の活動を独占しょうとする一面もありました。

 

東国に於いて、東海・関東・東北に独自の領国を形成する徳川家康・北条氏直・伊達政宗にとって中央集権化を進める豊臣政権の政策は邪魔なものでした。しかし、この周辺の群小の領主にとっては、豊臣政権の干渉は望ましいものでした。
石田三成・増田長盛・上杉景勝らの強硬策はその要請に応えようとしました。しかし、その強硬策は徳川家康・豊臣秀次を始め、前田利家・浅野長政・千利休達までも反対派に押しやりました。強硬派の中心人物は石田三成でした。三成は近江坂田郡石田村の生まれで、年少の頃から長浜城主の秀吉に仕えました。同じ江北出身の増田長盛とともに秀吉の側近にいました。
彼の目指すところは徳川・北条・伊達などの大名勢力を解体しょうとするもので、徳川の分国を基地にして、北条を、そして伊達を粉砕しょうとするものでした。こうした強硬派の政策によって小田原征伐・奥州仕置(しおき)という東国制圧は推進されました。

彼ら強硬派は、内儀を掌握し、徳川家康と結びついていた千利休を自殺に追い込みました。
1589(天正17)年、北条氏に対し、秀吉は宣戦布告しました。その理由は公儀の命令を無視し、上洛を拒否したことを挙げています。
浅野長政や秀次・利家などの融和派は伊達政宗に上洛を勧めますが、政宗は拒否しています。北条氏直は秀吉の母の大政所と引換えならば、父の氏政を上洛させようと言ったり、宣戦布告されると、家康に和解の仲立ちを依頼しています。
しかし、強硬策はもう大勢を占めていました。関東・東北の弱小領主達は強硬策を望んでいました。

北陸・東海から中・四国まで大動員が行われました。検地政策による大名達の知行高を基準として軍役は賦課されました。
この動員に伴い、人質の提供と検地の実行が要求されました。軍役を免れた九州にもその指令が行われました。
軍役の賦課は徳川をはじめ、東海・北陸に重く、畿内以西に軽くなっています。特に、徳川の分国に於いては、三河岡崎城に羽柴秀長が入り、全域を他国の大名の守備に任せるようになりました。
兵糧の補給には長束正家が担当し、各地の秀吉蔵入地(直轄地)の東海諸国から米を買い集め、馬の飼料とともに、小田原近郊の港に集積させました。
この輸送には毛利水軍、長宗我部水軍、加藤嘉明の水軍、それに九鬼嘉隆の豊臣直属の水軍がその任に当たりました。

1590(天正18)年、秀吉が出陣した頃には小田原包囲の陣容も、補給態勢もすべて整っていました。
北条も数年前より籠城の準備をしてきました。北条氏の分国は広く、多くの支城を擁していました。秀吉はその一つづつを潰しながら、最後は本城を潰す作戦でした。
秀吉は小田原城を見下ろす、一夜城に本陣を構えました。その頃には大勢は決していました。小田原城の接収は家康に任せ、北条氏政・氏照の兄弟は自害し、氏政の子で、小田原城主の氏直ら一族は高野山に追放されました。

家康は小田原城落城の直前、江戸城を本拠として、三河をはじめとする旧分国から北条の分国への国替えの内示を受けました。
徳川の旧領への国替えを拒否した織田信雄は下野・出羽に追放されました。徳川・織田の分国であった尾張・伊勢・三河・遠江・駿河・甲斐・信濃はやがて豊臣秀次をはじめ豊臣の直属家臣に分け与えられました。
豊臣軍の関東出陣は東国の大名達に選択を迫りました。奥州北端の津軽為信は東下する秀吉に沼津で臣礼を果たし、南部信直は小田原で参陣しました。
会津を巡って対立する伊達政宗・佐竹義宣も小田原入りしました。出羽の最上義光も小田原に来ました。

 

秀吉は小田原城落城を待たずに、奥州の制圧策を打ち出します。伊達政宗の会津黒川城を没収し、彼に小田原に参礼しなかった相馬義胤(よしたね)の討伐を命じます。
奥州出動のため、道路や橋の整備が指示され、小田原城落城の翌日には、秀吉の会津出陣が公表されました。佐竹・宇都宮氏には先陣が命じられました。小田原に参礼しなかった小山秀綱(おやまひでつな)の所領は没収されました。
1590(天正18)年、秀吉は宇都宮に着くと、伊達政宗・最上義光に妻子を人質として上洛させるように命じました。その後、会津黒川城に入りました。この地は秀吉の直轄領に繰り入れられ、伊達氏は米沢に移って行きました。
ここで、奥州仕置と呼ばれる政策が行われます。それは、国分けが行われ、検地が強行されました。

国分けは、出羽では群小の領主達の地位が保障され、現状維持されました。これに対し、陸奥は津軽・南部・伊達・相馬・岩城の諸氏は別として、群小の諸氏の所領は没収され、蒲生氏郷・木村吉清の豊臣方大名が入って来ました。秀吉は奥州の統括を養子の秀次に任せて、京都に戻りました。
出羽の検地は、上杉・大谷・前田らに指示され、その後陸奥の検地は検地奉行に任命された大谷吉継らの指示により、南陸奥の検地は秀次・宇喜田ら、北陸奥は浅野・木村・前田・石田らが指揮を採りました。

制圧されたように見えた奥州で、一揆が一斉に起こり始めました。旧領主の所領が没収された地域を中心にして起こりました。奥州の一揆は旧領主だけの反抗でなく、侍達から百姓までを含んだ中央政権に対する反発となっていきました。
一揆は旧領主やその家臣によって指導されました。鉄砲で武装した豊臣軍に対し、粗末な武器で抵抗しました。
検地が行われ後、豊臣軍の主力は引き揚げますが、その後、大規模一揆が発生し、翌年にかけて秀吉は軍を奥州に投入しました。
奥州仕置の前後、本願寺の下間頼廉や秀次の家臣田中吉次らが一揆が発生した地域の一向宗の寺と連絡を取り合っています。一向宗門徒を奥州仕置に従わせることを目的にしたと思われます。

奥州の一揆にはアイヌの人々も巻き込まれ、一揆方に動員されたのに対し、豊臣方には北海道の松前の蠣崎(かきざき)慶広に従って動員されています。
南の琉球では、島津氏が関白の権威を背景に、琉球王尚寧に対し、前年使節をもって臣礼をとらせました。更に従属を強制しました。

 

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