安土・桃山時代

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安土・桃山時代
6.太閤秀吉
 

1591(天正19)年、秀長・利休が相次いで亡くなり、内儀・公儀の体制は崩れました。秀吉の養子の秀次が奥州一揆の鎮圧に出動している間に、石田三成などの秀吉側近達の御前帳作成、身分法の発布、出兵動員令の発動などが進められ、その年の暮れには関白職が秀次に譲られ、太閤秀吉を頂点に、側近達を中心に朝鮮出兵にのめり込んでいきました。
側近で、知行方を総括する地位にあった増田長盛は、一国の御前帳の提出を各国に指示しています。一国の御前帳は郡ごとにまとめられた検地帳でした。検地を強化し、日本国中の石高の総体を掌握しょうとしました。
検地の狙いは一つに検地帳に登録された農民がその村を離れることを禁ずることのありました。そして、中世における複雑な百姓の間の地主小作関係を否定するものでした。名主の小作人であった百姓達が小作地を自分の作職(さくしき)として登録されることは少ないことではありませんでした。
太閤検地は村の成立ちを変え、百姓達が独立を強めていく転機となりました。

この年の天正19年令と呼ばれる一般法が公布されました。内容は兵・農・商・工の身分確定、農の土地に縛りつけ、兵の主従関係の固定の三点でした。いわゆる身分固定令と呼ばれるようなものでした。百姓が商いや賃仕事などで村を離れて町場に行くことを禁じました。
この年の暮れ、秀吉は養子の秀次に関白職を譲って、太閤(前関白の呼び名)として朝鮮出兵に没頭することになります。
村に縛りつけた農民の一部を戦地の人夫として徴発し、その留守中の田畠の耕作は村の連帯責任とするという指令を、翌年、関白秀次は出しました。
こうして農村は村請体制への道を強制されていきます。更に、それを徹底するため66ヶ国人掃(ひとばらい)令と呼ばれる戸口調査が指令されました。
身分別・村別の家数・人数を調べようとしたものでした。そしてそれは、出兵を控えて、緊急性が強調されました。

200万石を超える豊臣家の直轄領、いわゆる太閤蔵入地の配置も出兵態勢の一環を表していました。山城・摂津・河内・和泉の蔵入高は30%を占めていました。そして、摂津・河内・和泉の3国は蔵入地と馬廻衆の知行地でした。
美濃・尾張・伊勢・近江には蔵入地の1/4が集中し、織田・豊臣政権で取り立てられた大名を集中的に分封していて、彼らは豊臣軍団の中枢を担っていました。これに越前・紀伊・播磨・淡路に高い割合で蔵入地が配置されました。
以上の国々から讃岐・伊予を経て豊後・筑前に蔵入地は伸びていました。豊後・筑前は国高の48%を占めていました。

 

朝鮮との交渉は対馬の宗氏を通じて行われました。対馬は朝鮮に近く、山が険しく、田が少ない地形のため、昔より朝鮮との交易が盛んでした。
秀吉は中国に攻め入るので、朝鮮はその先駆けになれと迫りました。朝鮮を日本の大名と同列に置いた秀吉の外交交渉はうまくいくはずはありませんでした。

朝鮮出兵の軍団編成は次のようなものでした。30万の軍勢は先鋒として九州・四国・中国の全大名を動員し、約19万の地域的な軍団に分け、これを壱岐・対馬と島伝いに玄界灘を越えて釜山に送る九鬼氏をはじめとした瀬戸内を拠点とする水軍の約1万の輸送軍団が編成されました。
本営として築かれた肥前名護屋城には秀吉直属軍を置き、周囲の広い地域に大名の陣営が設営されました。30万の残り10万が名護屋城に布陣しました。他に秀次の下に京都を10万の軍団で固めました。

九州の大名と輸送を担当する水軍の大名は100石につき5人動員の本役で、、四国・中国の大名は1人少ない四人役に決められました。小西行長は14万6千石だから7千人、加藤清正は20万国だから1万人の軍役が課せられました。
しかし、すべてが総知行高を基準としたものでなく、国の台所入や京都の台所入の名目で、軍役控除がみとめらる大名もいました。筑前30万7,300石の小早川隆景は1/3が無役として控除され、1万の軍役がかけられました。
この軍役には大量の農民が動員されました。騎馬の侍は1割にも満たず、足軽など武士身分の含めても3〜5割で、動員された民衆が3〜7割を占めていました。
 

陣立ては次のようでした。第1軍小西行長・宗義智・松浦鎮信(まつらしげのぶ)らの軍勢、第2軍加藤清正・鍋島直茂らの軍勢、第3軍黒田長政・大友義統(よしむね)らの軍勢、第4軍島津義弘・毛利吉成らの軍勢、第5軍蜂須賀家正・生駒親正・福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親らの軍勢、第6軍小早川隆景・立花宗茂らの軍勢、第7軍毛利輝元の軍勢、第8軍宇喜田秀家の軍勢、第9軍羽柴秀勝・細川忠興らの軍勢でした。
1592(文禄元)年、小西行長・加藤清正を先鋒として約10万(一説には15万)が渡海しました。上陸後は連戦連勝でした。慶尚道を突破し、王都漢城を陥落させました。
朝鮮の八道を編制に従って分担しました。第1軍は平安道、第2軍は咸鏡道、第3軍は黄海道、第4軍は江原道、第5軍は忠清道、第6軍は全羅道、第7軍は慶尚道、第8軍は京畿道でした。

李王朝では党争を繰り返し、農民に対して搾取や抑圧が行われていました。日本軍の上陸とともに、官軍は逃走し、慶尚道では無政府状態となりました。この状態は日本軍が上陸しない地域にも及び、官人や両班(ヤンバン、地主)に対する民衆の反乱が起きました。
更に日本軍に協力したり、投降する人達が現れ、日本軍を案内し、日本軍とともに武器や食糧の略奪を行いました。
隣接する全羅道や東北端の咸鏡道でも反乱が起き、日本軍を解放軍として迎えました。緒戦3ヶ月は民衆の反乱により圧勝しました。 


平壌まで進出していた小西行長軍を少数の明軍が鴨緑江を渡って攻撃しました。1593(文禄2)年、明軍と朝鮮軍は平壌城を攻め、小西行長は漢城まで退却しました。
日本軍は捕虜にした者の姓名を日本名に改姓させたり、子供にいろはを教えたり、髪形を変えさせたりしました。
朝鮮各地で食糧を略奪したため、民衆が餓死する状況が出てきました。冬の訪れの早い朝鮮で、寒くなってくると食糧は窮乏するようになり、戦況も敗色が濃くなっていきました。

李舜臣が指揮する装鉄船の亀甲船を中心とする朝鮮海軍から輸送船団の日本水軍は南部の多島海域で攻撃を受けました。この攻撃で船団は壊滅状態になり、制海権は分断され、日本からの補給は困難な状態になりました。
略奪による現地補給も、延び切った補給路の維持も、抗日に転じた民衆の攻撃により断たれ、絶望的な状況になっていきました。
地方の地主や土着の官人達を指導者として、民衆は決起しました。抗日を掲げたこれらの私兵は王朝から公認されて義兵となり、両班層を中心にして官軍に吸収・編入されていきました。元来の民衆達の開放のための闘いは抗日の下に抑えられ、李王朝の支配体制を補強する結果となりました。
文禄元年の出兵を日本では文禄の役といいますが、朝鮮では壬申(じんしん)の倭乱(わらん)と呼びます。

 

軍事費の調達は蔵米の換金によって賄われていました。このため、多くの商人が朝鮮出兵の陰では活動していました。九州ではその活動は顕著でした。博多の鳥井宗室は小西行長や対馬の宗氏の家臣とともに朝鮮に渡り、外交交渉を行っています。
博多は軍費を調達し、兵糧米を集積する兵站基地として、また前進基地の名護屋と大坂を結ぶ中継地として、多くの人や物資を集め、その経済的機能は高められました。こうした中、鳥井宗室や神屋宗湛らの活動は拡大していきました。
鉄砲や大筒の鉛や煙硝の調達は対外交易に頼らざるを得ませんでした。長崎を教会領から直轄領にしたのは、バテレン追放というより、南蛮貿易の独占が狙いだったと思われます。

肥前名護屋には城が築かれ、海岸に沿って大名の陣屋が築かれました。城下には商人が集まり、酒をはじめとした大量の商品が持ち込まれ、一大消費都市が出現しました。
秀吉は戦勝していた初めの頃、次のように言っていました。大唐(明)の都(北京)へ天皇を移して、都周辺の10国を御料所として進上し、公家衆にも知行を10倍増にし、秀次は大唐関白にして100国を渡し、自分は寧波(ニンポー)を居所にし、朝鮮の都には宇喜田秀家か誰かを移そう、先鋒の大名達には天竺近くの国を与えよう、あとは伐り取りしだいだ。これは夢の三国(日本・唐・天竺)国割り構想といわれるものです。

次第に講和が日程に上ってくると、交渉は朝鮮国王の頭越しに日明だけで続けられました。この交渉の中心には小西行長がいました。
明側は天皇の王位を剥奪して、秀吉を国王にし、通商を許そうというもので、日本を従属国とみなす中国の伝統的な考え方でした。これに対し、日本は朝鮮南部四道の割譲を求めて、朝鮮国王を無視して進めていきました。

出兵の動員が始まる前に、日本中で大反乱が起こるだろうという噂が広まっていました。そして噂だけに終わりませんでした。
島津家の梅北国兼(うめきたくにかね)らは肥前平戸に集結していながら渡海に加わらず、一揆を結集し、肥後の佐敷城を攻撃しました。島津軍は渡海していましたが、割当の半分しか動員はできていませんでした。
出兵の先鋒で渡海した加藤清正の留守を狙った攻撃で、一揆指導者は中世以来の在地領主で、攻撃を受けた佐敷城下でさえ、町人・百姓は一揆に味方する状況でした。
梅北らが殺されると、一揆は崩壊してしまいました。名護屋から戦後処理に使者が乗り込み、島津領にも派遣されて、動員を拒否していた者達は処分されました。

名護屋でも前線でも戦線から離脱する者が増えていました。大軍を運んだ船は全て引き揚げました。これは逃亡したり、退却するのを防ぐためといわれています。石田・増田・大谷などの側近の大名を朝鮮の主要な港湾に送ったのは補給のためより、軍監の役目のためといわれています。
軍役を果たすため、中には商人や一部の大名から借米をして、苦境に追い込まれている大名もいました。遠国の大名さえ、この様な状況でしたので、九州の大名はもっと厳しい状況でした。

豊後大友領では、農民に夫役出陣を命じたところ、農地を返上し、百姓を捨てて、諸課役も不納する動きに出ました。農地返上は小作地に多く出ました。
出兵の翌年、大友吉統(よしむね)は戦場での臆病を理由に改易され、豊後は直轄領として接収されました。
豊臣方から豊後に山口玄蕃が乗り込みます。豊後では、大規模な百姓の逃亡が起こっていました。逃亡の範囲は島津領から毛利領まで広がっていました。出兵の中で農村は荒廃していました。
過酷な耕作の強制が待っている以上、農民が帰って来ることはありません。このため、山口玄蕃は渡海している夫役の者達の朝鮮からの召還を指示し、豊臣政権は陰陽師を妻子とともに京都に集め、豊後に農民として移住させました。

この様な農村の荒廃と農民の離村は、全国的な傾向になってきました。1596(文禄5)年、荒田没収令が公布されます。大名の力だけでは対処できず、耕地の荒廃に統一的に対処しょうとするものでした。しかし、これは知行権を否定し、中央集権の強化を図ろうとするものと見なされ、領主階級の激しい抵抗を受け、撤回を迫られました。

 

出兵した翌年の1593(文禄2)年、講和の機運は高まりました。日明との講和の機運は、不利な戦況下における日本軍の将士の間で、厭戦気分を強めました。援助に入っていた明軍の追撃の様子がないのに安心して、将士に内地帰還を命じ、秀吉も大坂に引き揚げました。
すると間もなく側室淀殿が男子を産みました。これが秀頼です。

1594(文禄3)年、秀吉は朝鮮での講和交渉が進展しないことにいらだっていましたが、関白秀次以下を連れて、大和吉野に花見に出掛けています。
1595(文禄4)年、朝鮮出兵も4年を迎え、明との講和交渉は進展せず、停戦状態で、現地の日本軍の士気は緩んでいました。養子の関白秀次と子の秀頼の間の調整を秀吉は痛感していました。秀次は微妙な立場に立たされ、両者の間の対立は最悪の状態になっていました。

秀頼方についた石田三成の豊臣氏の嫡流であるという意見が大勢を占めていました。そして、秀次に謀反の疑いがあるということで、秀吉が三成を派遣して詰問したことが表面化しました。
秀次は高野山に追放され、自害しました。秀次の妻や子女は全て殺害されました。

この頃、秀頼への忠誠を誓った誓書が有力大名から提出されています。
しかし、これだけでは安心できず、秀吉は徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景の5人の連署で御掟(おんおきて)が、その後、上杉景勝が加わって御掟追加が公布されました。
この中で、諸大名の豊臣政権への服従と農民に対する検見(けみ)を行い、収穫の2/3が地頭、1/3が農民という二公一民の制が規定されています。
連署のうち、宇喜田秀家を除いた5人が後大老となり、秀吉の譜代大名、石田三成・増田長盛・長束(なつか)正家・前田玄以(げんい)・浅野長吉(ながよし)が後五奉行となりました。

1596(文禄5)年、土佐にスペインのサン・フェリペ号が漂着しました。この船の航海長の尋問がもとで、京都・大坂での宣教師や信者が捕らえられ、同年の1596(慶長元)年、長崎で26聖人が処刑されます。

 

秀吉は明との講和に大きな期待を寄せていました。しかし、1596(慶長元)年、明からもたらされた国書には、講和条件は全く無視されました。秀吉は激怒し、再び、小西行長・加藤清正を先鋒として14万の大軍が渡海しました。これが慶長の役で、朝鮮では丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ばれました。

今回は初戦より苦戦が続きました。この年の暮れ、厳冬の蔚山(ウルサン)城は数万の明・朝鮮の軍に包囲されていました。城内は寒さの中、飢餓や渇水で悩まされました。
この城の救援に加藤清正が駆けつけましたが、この軍勢に米商人もついて来ました。そして餓死に瀕している城内で米売りを始めたという日本人の記述も残されています。更に軍勢に人買いの商人もついて来ていて、売買を目的に人々、特に幼い子供達を生け捕りにしているとの記述が残されています。

日本への土産として綾錦・仏像・経典・茶碗などが略奪されています。独自の商船団を組んだ商人達が人身や財宝を買い漁りました。秀吉自身が手のきく、技がある技術者を送れと諸大名に命じています。
陶工達が多く連行されました。連行された陶工達によって、九州を中心に、各地で陶磁器が作り出されました。有名な焼物としては、唐津焼・伊万里焼・有田焼・高取焼・上野焼・薩摩焼・萩焼などがあります。今に伝えられられている陶工としては、有田焼の李参平、上野焼の尊楷、薩摩焼の沈寿官などがいます。

飢餓と寒さの中で、籠城している蔚山城中は悲惨な状態でした。そんな中で、ある者は捕らえられ、ある者は投降しました。

慶長の役に出陣した大名家に文書に鼻請取状という文書が残されています。これは各大名の戦功の証拠として、首の代わりに削り取った鼻を提出させ、その請取証を発行したものです。その記載数は残されているものだけで、数万個にのぼります。

朝鮮出兵に際し、神功皇后伝説の三韓征伐が注目され、この伝説を吉例として、日本は神国であると喧伝されました。
武士の間では、南無八幡大菩薩と唱える八幡信仰が定着し、八幡神いわゆる天皇の母神、神功皇后伝説は広く根づいていました。
そして、神社の祭りや縁起により、広く民衆の中まで、三韓征伐を通じての朝鮮に対する蔑視と、神国観はこの時代に植えつけられたと思われます。

豊臣政権の組織は五大老・五奉行でした。五大老が出征命令や知行割など重要項目を合議制で決定し、五奉行がそれぞれを分担して執行しました。秀吉子飼いの大名である五奉行は官僚的性格が強く、特にその中の石田三成は辣腕を振るいました。
これに対し、同じ譜代大名で、武功派の加藤清正・福島正則らは戦地に出兵し、ただ指図する三成に対し不満を持っていました。

 

1598(慶長3)年、秀吉は秀頼・北政所・淀君を伴って醍醐寺の花見に出掛けています。端午の節句には伏見城で諸大名と対面しています。その後、秀吉は病に倒れます。
病床で秀頼のこと、豊臣家のことが気になります。秀吉は諸大名に秀頼に忠誠を誓わせます。そして特に五大老の家康と利家に秀頼の今後を頼み、8月に秀吉は死去しました。
秀吉の死を受けて、五大老は朝鮮に出兵している全軍の撤退を指令します。そして、300艘の船が用意されて、五奉行が撤退の陣頭指揮を取りました。

世界の情勢では、1588年、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破り、オランダが独立し、1596年にはオランダ艦隊がジャワに姿を現しています。
異邦で戦った武将である武功派は、実戦経験のない五奉行派が我がもの顔で権力を行使するのに、腹を据えかねていました。
1599(慶長4)年、秀頼は前田利家を従え、伏見城から大坂城に移りました。徳川家康は伏見城に残りました。この頃、家康は秀吉の遺令に背いて、伊達・福島・蜂須賀家と政略結婚を行いました。四大老は家康を詰問し、家康は陳謝してこの問題は一応収まりました。

前田利家が亡くなると、対立している勢力は勝手な行動に出ました。武功派は三成を倒そうとします。三成は窮地に陥り、家康の屋敷に逃げ込みます。家康は今後を考え、三成を居城の佐和山城に送り届けます。この結果、家康の独壇場の状況になりました。

豊臣家の内部では、秀吉の北政所は武功派の大名と結んで、徳川氏との妥協の中で、豊臣氏の延命を考えました。これに対し、秀頼の生母淀殿は五奉行と親しく、家康を排除して政権の回復を狙っていました。
佐和山城に引き籠った三成は、家康打倒の執念を燃やしていました。三成は五大老の一人で会津の上杉景勝と図って、家康を東西から挟撃する態勢を作ろうとしました。
家康は景勝を懐柔しょうとしますが、できず、反対に景勝は軍備を強化していきました。

家康はそのまま京都にいることが危険に感じ、東国に戻ることを決めました。
家康は伏見城に鳥居元忠と少数の守りを残して江戸城に戻りました。家康は子の秀忠を先発させて、下野の小山(おやま)に自分が到着した時、三成挙兵の報せを受けました。

三成は五奉行の大谷吉継・長束正家らと協議し、五大老の毛利輝元を西軍の盟主に迎えました。宇喜田秀家・小早川秀秋・島津義弘もこれに応じました。
三成は家康について関東に行った大名の妻子を人質として大坂城に入れました。この時細川忠興の夫人はこれを拒否し、自殺します。忠興の夫人は明智光秀の娘で、本名を玉といい、熱心なキリシタンで、ガラシャといいました。

島津義弘・小早川秀秋の西軍は伏見城を攻撃しました。これを鳥居元忠以下よく防ぎますが、遂に敗れ、落城します。
三成は信州の真田昌幸(まさゆき)を味方につけます。家康が攻め上がるのに、真田・佐竹・上杉がその隙に関東に攻め込むことを期待しました。
家康はその子秀忠に会津に向かわせ、最上・南部・伊達の東北の大名や、加賀の前田、越後の堀らに会津を攻めさせる作戦を採りました。
ところで、家康の本隊は上杉を倒すのが先か、そのまま西上するか思案しました。家康は小山で討議させ、西上すべしとの結論が出ました。

 

家康は福島正則・池田輝政を先鋒として西上させました。そして、自分は江戸に戻りました。福島正則・黒田長政・池田輝政・加藤嘉明・藤堂高虎の外様大名は岐阜城を攻略しました。
岐阜城を落とした東軍は、家康の到着を待ちました。秀忠は宇都宮を出発して、信濃の真田昌幸・幸村父子を破って中山道を上る予定でしたが、防戦にあい、ついに秀忠は関ヶ原の決戦に間に合いませんでした。

大垣を間近にする赤坂に東軍は布陣していました。家康が赤坂に到着すると、東軍の士気は高まりました。これに対し、西軍はかなり乱れていました。西軍についていた吉川広家は家康に和議を申し入れ、小早川秀秋も北政所に勧められて家康に内通していました。
軍議を開いた家康は大垣城を一隊で抑え、本隊は近江佐和山城を落とし、大坂城に向かうことを決め、この情報を西軍に流しました。
西軍はこれに驚き、一隊を大垣城に残し、石田・島津・小西・宇喜多の軍は関ヶ原に向かいました。

西軍の主力は石田・小西・島津軍でした。特に自らの命運がかかった石田軍の奮戦は目を見張るものがあり、石田の部将の島左近の奮闘ぶりが伝えられています。
これに対し、内通していた小早川秀秋はいつまでも動こうとせず、家康は使いを出して催促します。そして、最後の手段として小早川の陣地に鉄砲を撃ち込みます。
秀秋は遂に決意し、布陣していた松尾山から大谷吉継の陣地に突入しました。大谷隊は総崩れとなり、宇喜多秀家・小西行長の陣地も崩れていきます。
東軍は側面からも石田軍を攻めます。よく防ぎますが、石田軍は壊滅し、三成は逃走します。

残るは島津隊だけになり、奮戦しますが多くが戦死します。
島津義弘は残った兵を率いて東軍の正面を突破して、伊勢路へ脱出します。そのとき従ったのは80名に過ぎなかったといわれています。

ここに関ヶ原の戦いは終わりました。
参戦せず、戦いの成行きを見ていた長束正家・長宗我部盛親・毛利秀元らは逃亡しました。逃げていた三成や小西行長・安国寺恵瓊(えけい)も捕らえられ、処刑されました。

 

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