江戸時代1

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江戸時代1
1.徳川家康
 

徳川家康が三河に生まれ、戦国時代を生き抜き、江戸城に入り、関東で領国経営をするまでを、ここでは時代を遡って、見てみたいと思います。
家康は松平氏の始祖親氏から数えて九代目になります。室町幕府が成立して、三河が足利氏の将軍料所となり、松平氏は政所執事伊勢氏の被官として、三河にその地歩を築いていました。
その本拠の加茂郡松平郷は山間の部落で、有力領主になるには三河中部の河川流域の平野に進出する必要がありました。
 

2代目泰親になって、額田郡に入り、矢作(やはぎ)川中流を占有し、西三河に踏み入れました。
3代目信光は父泰親とともに矢作川の東の岩津城を略取して、ここを本拠にしました。応仁の乱の頃、信光は矢作川を渡り、西岸の碧海郡に進出して安祥城を占拠し、更に額田郡の岡崎城を攻め落とし、西三河の1/3を支配下に置きました。
信光には沢山の子女がおり、彼らを各地に分封したり、国内の領主達に嫁がせました。惣領の信光は、兄弟や子を庶流として支配下の要地に配置しました。
4代目親忠は岩津城から安祥城に移りました。親忠の時代から5代長親、6代信忠、7代清康の時代も一族の分封は続けられました。松平の支族は14家となりました。
松平宗家と庶流家の関係は、それぞれが成長するに従い、庶流家が離反するような動きになりました。自分の手足となって働く直属家臣団を育成して対抗する必要がありました。これが三河譜代の始まりです。

7代清康は家督を継ぐと、安祥城から岡崎城に本拠を移しました。そして西三河の国衆達を攻略して支配下に入れました。更に、今川氏支配下の東三河の攻略に着手しました。
松平氏が三河を統一するには一族の抵抗を抑えると同時に、隣接する有力大名の侵略を排除しなければいけませんでした。機先を制して清康は尾張守山に出陣しました。
しかし、尾張織田氏と婚姻関係にあり、六代目相続で破れた松平信定は参陣せず、他の支族の動きも不穏なものがありました。この陣中で、清康は家臣の子によって背後から不意討ちされ、斬殺されました。
信定はこの機に一族や家臣を誘って岡崎城の横領を謀りました。このため、清康の子広忠は伊勢に亡命しました。主を失った三河の大半は今川義元に占領され、西三河は織田信秀に侵略されました。
松平氏は勢力の大きい今川氏を頼って織田氏に対抗するしかありませんでした。忠義な譜代達の力によって8代広忠は岡崎城に復帰しました。

 

1542(天文11)年、岡崎城で松平広忠に嫡男が誕生しました。竹千代と名付けられました。後の家康です。家康の生母は三河刈谷城主水野忠政の娘於大(おだい)です。水野氏は松平氏に比肩する西三河の有力領主であり、この時、織田信秀に通じていました。
竹千代が生まれた翌年、忠政が死んで、その子の信元が家督を継ぐと、水野氏は織田氏との関係が強くなりました。松平広忠は今川氏との関係悪化を恐れ、信元と絶交し、於大と離別しました。そして、於大は織田氏部将の久松氏に再嫁させられました。
この頃、織田信秀により安祥城は落とされ、今川義元の尾張侵攻の機先を制して、織田軍は三河に出兵し、今川軍は岡崎城近くの小豆(あずき)坂で撃破されました。今川軍の一翼を担う松平広忠は敗走しました。松平家中では親織田派の勢力が強くなっていきました。

広忠は今川義元に援助を請いました。義元はこれに対し、竹千代を人質に出すことを要求しました。やむなく広忠は竹千代を駿府に送り出しました。
その道中、渥美郡田原城主で、竹千代の義理の祖父戸田康光によって船に乗せられ、尾張の熱田に送られ、織田信秀に引き渡されました。
信秀は広忠に竹千代を使って織田氏に帰属することを要求しますが、広忠は竹千代が殺されることを覚悟の上で拒否しました。
1548(天文17)年、広忠は義元の援けを受けて小豆坂で信秀の軍を破りました。しかし、広忠は近臣の者により斬殺されました。

広忠の跡を立てようにも嫡子竹千代は織田の人質に取られていました。混乱している松平氏に対し義元は、岡崎領は義元の支配下に置くので、家老以下一門ともども駿府に移るように命じました。
義元は織田氏に占拠されている安祥城を奪回し、西三河から織田氏を駆逐しました。また東三河の有力国人達は今川氏に服属するようになりました。
安祥城奪回の際、織田信秀の庶子信広を捕らえ、今川氏は竹千代と交換することに成功しました。竹千代は今川氏の人質として、駿府に移されました。この後、6歳から19歳の間、竹千代は駿府で暮らしました。

1555(弘治元)年、竹千代は14歳となり、元服して松平元信と称しました。1557(弘治3)年、今川氏の重臣の娘を娶ります。これが築山(つきやま)殿です。この2年後、長男信康が生まれ、この頃、元信を改め元康と称しました。
1560(永禄3)年、上洛の好機とばかりに、今川義元は2万5千の大軍を率いて駿府を出発しました。松平元康の任務は義元の部将が守る大高城に兵糧を入れることでした。
元康が義元の部将に代わって大高城を守っている時、わずか4q程離れた桶狭間で、義元は、織田信秀の跡を継いだ信長の奇襲を受け、敗死しました。その夜、大高城を出た元康は、岡崎城から今川軍が引き揚げるのを待って、13年ぶりに入城しました。
元康は義元の子の氏真(うじざね)に父の弔い合戦を勧めますが、氏真は優柔不断で、決心がつきませんでした。そんな時、信長より講和の申し入れがあり、元康は今川氏に見切りをつけ、信長と同盟を結びました。この同盟は信長が死去する本能寺の変まで続きます。

 

三河は近畿・北陸と並んで、一向宗の有力な地盤でした。農村の在地小領主や名主・作人を含めた講組を結成し、共同体ぐるみ門徒に組織していました。松平氏は代々浄土宗でしたが、農村に根を下ろした松平氏の武士団の中にも本願寺門徒は数多くいました。
土着している譜代やその一族の中には宗門護持と譜代の忠誠のどちらを優先するか迷っている者も少なからずいましたので、元康改め家康は早晩一向宗と対決せざるを得ませんでした。
1563(永禄6)年、三河一向一揆が蜂起します。一揆軍に反松平の松平支族や国衆・譜代も参加しました。激しい戦闘の末、翌年和議が成立します。
家康の戦後処理は寛大で、帰順した家臣の大半は再奉公を許されました。しかし、一揆の中心であった寺院に一向宗から浄土宗に転宗を迫り、応じない寺・道場を破却しました。
一向一揆が鎮圧され、西三河には家康の威令が徹底されました。その後東三河の平定に乗り出し、三河をほぼ支配下に置きました。

1565(永禄8)年、三河奉行が設置されます。松平氏が土豪から戦国大名に発展するにつれて、領国経営の組織も形成されていきました。しかし、在地小領主からなった近世の大名の組織は家父長的な名主経営に基づく小規模な家政組織が出発点でした。
1566(永禄9)年、家康は三河守に任ぜられます。この時、家康は松平を旧姓徳川に改称したいと願い出ました。
それによれば、松平氏の祖先である徳川氏は源氏の惣領であり、途中で藤原氏に改称したことがあるというものでした。家康は、徳川氏を清和源氏新田氏の末裔に仕立てあげました。しかし、これは根拠のあるものではありませんでしたが、武家政治の伝統に対する思い入れの深さが影響したものと思われます。

1568(永禄11)年、織田信長は将軍足利義昭を奉じて入京します。この報せを聞いて、甲斐の武田信玄は甲府から南下して駿府に向かいます。信玄は家康に対し、駿府・遠江領国の分割を約束したと伝えられています。
今川氏真は遠江掛川に逃げ、信玄は駿府に入ります。家康は遠江に侵入しました。北条氏政が伊豆に出陣し、家康は越後の上杉謙信と結びつきます。氏政が謙信に信濃出兵を勧めると、翌年、周囲の状況の悪化に対し、信玄は甲府に引き揚げました。
掛川城の氏真は家康に和議を申し出て、城を明け渡して、伊豆に移って行きました。ここに事実上、今川氏は滅亡しました。
遠江に入って行った家康は、今川氏の給人を服属させていきます。そして、三河譜代に次ぐ新しい譜代として彼らが家臣団に加わっていきます。

天下統一に動いていた信長に対し、越前の朝倉義景と近江の浅井長政は対抗しました。1570(元亀元)年、信長は浅井方の横山城を囲みました。これを救うため浅井・朝倉軍が出陣してきたのに対し、織田・徳川の連合軍が姉川で撃破しました。
この姉川の合戦の頃、家康は岡崎城から引馬城を本城に変え、浜松城と改めました。

1571(元亀2)年2月、信玄は駿河に侵入し、さらに遠江に侵入して高天神(たかてんじん)城を攻めますが、落とせず信濃に去ります。4月信玄は嫡子勝頼とともに三河に侵入し、吉田城に迫ります。家康は浜松から吉田城に入り、守りを固めたため、信玄は甲斐に引き揚げます。
この年、北条氏政は上杉謙信との仲を断ち、信玄と結びます。これで背後の脅威が除かれ、翌年、大軍を率いて信玄は甲府を出発します。事前に家臣を東美濃に侵入させ、信長を牽制し、更に東三河にも侵入させ、家康の背後を撹乱させました。
信玄は家康のいる浜松城を通り越して、東三河に侵入させた軍勢と合流しょうとしました。この様な信玄の挑発に、家康は信長からの援軍を合せて、三方ヶ原(みかたがはら)に討って出ました。兵力の違いと信玄の用兵の妙により、家康は敗走し、浜松城に逃げて帰りました。
1573(天正元)年、西に進んだ信玄は陣中で病気になり、悪化したため、帰国の途に就きますが、信濃伊那郡で急死します。
信玄の跡を勝頼が継ぎます。同年、家康は勝頼より三河長篠城を奪回します。しかし、翌年、高天神城を奪われます。

1575(天正3)年、勝頼は家康家臣の手引きで三河に侵入し、長篠城を包囲します。家康は長篠城の西、設楽原(しだらがはら)に出陣します。信長も遅れて布陣します。対峙した武田勝頼軍に対して、家康・信長連合軍は数倍の兵力を有していました。
信長は陣地前に二重の壕を掘り、柵を沢山つくり、鉄砲隊を3隊に分け、武田の騎馬隊の突撃を交替で射撃する戦法を採りました。この頃、武田や家康軍と違い、信長軍は軽装で、弓・鉄砲・長槍などを機能的に配置した足軽の集団戦法になっていました。
長篠の戦いの勝利は、騎馬に対し、鉄砲の威力を印象づけるものでした。しかし敗退した勝頼は依然として遠江を狙っていました。

家康と妻の築山殿の間には長男信康と娘がいました。家康が桶狭間の戦いの後、母子を駿府に残し、岡崎に戻り、今川と手を切り、信長と同盟するに至り、今川一族の出であった築山殿との間は、不和の状態になっていきました。
信康は信長の娘の徳姫と結婚します。二人の間には娘二人が生まれますが、築山殿は信康に跡継ぎの男子が必要だとして他の女との関係を勧めます。このため、築山殿と徳姫は不和となり、徳姫は築山殿と信康が武田氏と内通していると信長に訴えます。
家康の家老が信長に呼ばれ、詰問されます。そこで、弁解されなかったため、信長は信康の切腹を申し渡します。1581(天正9)年、家康は築山殿を殺害しました。その後、武田氏との内通は事実無根であると言い残して、信康は自決しました。

この年、家康は武田氏によって奪取されていた高天神城を攻めました。城主以下の討死により、武田氏は拠点を失い、家康は遠江を再確保しました。
1582(天正10)年、武田氏本国甲斐は、徳川・北条・織田の連合軍によって四方から攻められ、勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。信長は家康に駿府を与え、甲斐・上野・信濃を信長の部将に与えました。
 
武田氏が滅んだこの年の6月、本能寺の変が起こり、信長は没しました。この時、家康は堺で遊覧中でした。この報を聞いた家康は、危険になる堺から三河に早急に帰ることにします。危険な目に遭いながら、最短距離の伊賀越えを行い、伊勢に着き、三河に戻りました。
本国に戻った家康は、信長の弔い合戦として出陣しますが、山崎の合戦で光秀を滅ぼしたとの秀吉の使者により、浜松に戻りました。そして、甲斐・信濃攻略のため甲府に向かいました。北条氏も目指しますが、講和が成立し、甲斐・信濃を家康は占領します。この時点で家康の領国は、三河・遠江に駿河・甲斐・信濃が加わり、5ヶ国となりました。

 

1583(天正11)年、秀吉は柴田勝家を賤ヶ嶽(しずがたけ)で破って、北陸を平定しました。この翌年、秀吉の圧迫を感じていた織田信雄から家康は援助を求められました。
1584(天正12)年、家康は尾張小牧山に布陣しました。秀吉は犬山城に入り、その後、小牧山に対陣しました。しかし、戦闘はなく、持久戦に入りました。
池田恒興は秀吉に、家康の本国を攻めることを進言します。秀吉の賛成を得て、恒興は森長可(ながよし)らとともに三河に向かいます。
この情報を得ていた家康は急追して、長久手で撃破し、恒興・長可は戦死しました。この報せを聞いて秀吉は出陣しますが、戦いは終わり、家康は引き揚げた後でした。
この後、また持久戦に入ります。戦局は一部で激戦が繰り広げられます。しかし、秀吉・家康・信勝が戦場から引き揚げます。秀吉は信勝に働きかけ、両者の講和は成立します。家康はこれを承認して、浜松に帰りました。

小牧・長久手の戦いは講和がなく終結しました。そこで、秀吉は家康と結んでいた諸勢力を各個に撃破していきました。
1585(天正13)年、紀州の根来・雑賀の一揆を滅ぼし、四国の長宗我部元親を降伏させ、越中の佐々成政を屈服させました。更に、信濃の上田城主真田昌幸が秀吉に通じることになります。
甲斐・信濃を家康と北条氏が争っていた頃、昌幸が城主であった上州沼田城を北条氏に割譲し、その代わりに信濃伊那郡を与えることを約束しましたが、なかなか実行しませんでした。
代わりも与えずに取り上げると疑心に駆られた昌幸は、家康に拒否の通告をします。家康はこれに怒り、討伐の軍を派遣します。昌幸は智策を用い、嫡男信之・次男信繁(幸村)の奮戦もあって、徳川軍の敗戦となります。これを神川合戦といいます。

この敗戦の直後、徳川家家老石川数正が岡崎を出奔する事件がおきました。数正は三河譜代最古参の一人でした。徳川家臣団の中で数少ない秀吉との和睦派の代表でした。岡崎を脱出した数正は上京し、大坂に行って秀吉に面会しています。後、数正は家康が関東に入部すると、豊臣方番城の信濃深志(松本)城主になっています。
石川数正の出奔に、家康は大きな衝撃を受けますが、陣容を立て直し、家臣団の動揺を抑えることに成功します。これにより、秀吉は家康討伐の出陣を思い直しました。
1586(天正14)年、織田信勝が岡崎に来て、家康と秀吉の仲を取り持ったため、両者の和議は成立しました。

和議が成立しても、家康が上洛しないため、九州征伐を控えて、異父妹朝日姫を築山殿殺害後正妻のいない家康に嫁がせ、上洛させようとしました。しかし、それでも上洛しないため、秀吉は母の大政所を岡崎に下らせ、朝日姫を見舞わせました。
これは換言すれば、人質を寄こしたことになります。家康は浜松から岡崎に行って、大政所を迎えました。そして、大軍を率いて上京し、更に大坂に到り、大坂城で秀吉と対面し、諸大名の中で、恭敬の礼を表しました。この後岡崎に戻った家康は、大政所を大坂まで送り届けました。
大坂から戻った家康は、浜松から駿府城に本城を移しました。今川氏の人質時代を過ごした駿府を領国経営の中心にしました。

1588(天正16)年、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎えました。諸大名が起請文を書いています。家康も含まれています。天皇への忠節を誓わせ、関白である秀吉に従うようにというもので、家康がこれに従ったことが秀吉は満足するものでした。
朝日姫は、この年大政所が病気になったため、家康とともに上京して見舞い、間もなく大政所が全快すると、家康は帰国しますが、そのまま聚楽第に留まりました。その後、朝日姫は病気になり、1590(天正18)年、亡くなりました。

九州を制圧すると、秀吉の全国統一は関東と奥州が残りました。関東は北条氏政・氏直父子が支配していました。氏直は家康の婿の関係にありました。家康は北条氏を上洛させようとしましたが、北条氏はこれに応じようとしませんでした。氏政父子の妥協に応じない態度に家康は匙を投げ、秀吉は討伐を決意しました。
北条氏との関係が悪化するにつれ、家康は領国5ヶ国の統一的基準による支配体制を編成しました。5ヶ国一斉に検地を行い、権力構造を強化しました。
北条氏は前衛線を固め、小田原本城に立て籠もり、持久戦に持ち込む作戦でした。1590(天正18)年、家康は駿府城を出発し、遅れて秀吉も京都を発ちました。
関東の諸城は戦闘らしきものもなく陥落し、小田原城は大軍に包囲されました。大勢は決し、氏直は高野山に追放され、氏政は自刃しました。ここに早雲以来五代の北条氏は滅亡しました。
北条氏討伐後、秀吉は北条氏遺領を家康に与え、家康の5国は織田信雄に与えようとしました。しかし、信雄はこれを断り、旧領への残留を願ったため、下野に追放されました。家康はこの転封を受けました。そして、秀吉は本拠を江戸城にすることを家康に指図しました。

 

同年、家康は江戸の向かいました。江戸城は1457(長禄元)年に、太田道潅が築いた城で、この当時は北条氏の遠山氏が城代をしていました。
城内の建物は古く、多くが破損している状態でした。日比谷から江戸城大手門にかけて入江が深く、浅草では海苔が採れる状況でした。
徳川領国は伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の6カ国でした。関東の他国では、常陸太田の佐竹・同江戸崎の芦名・安房館山の里見・上野の佐野・下野宇都宮の宇都宮・同皆川の皆川・同佐野の佐野・同烏山の成田・同喜連川(きつれがわ)の足利・同那須の那須氏が蟠居していました。
関東以外では、越後の上杉景勝、駿河の中村一氏、甲斐の豊臣秀勝、のちに加藤光泰、信濃小諸の仙石秀久、同上田の真田昌幸などが境を接していました。

家康は家臣の知行割を急ぎました。1万石以上の上級家臣は江戸より遠くに、下級家臣は近くに配置し、徳川氏直轄地の蔵入地は江戸付近の諸国に集中させました。
徳川支族の十四松平は、ほとんど1万石クラスの城主で、譜代部将は5万・10万と、譜代重視の方針が知行割りに現れています。
関東入部を境に、知行は貫高や俵高だったのが、石高で示されるようになりました。石高で示されるようになると、細かく配分がされるようになり、知行地の分散・入組みが一層激しくなりました。村の石高と石高を所持する農民が決まれば、入組みが複雑でも、年貢は徴収できました。年貢だけでなく、軍役も石高に応じてかけることができました。
関東入部後、天正・文禄期に太閤検地を基準にして検地が行われました。検地を媒介に兵農分離が行われ、兵農分離により石高制が成立しました。
村ごとの検地により、村高が決められたことにより、村の範囲や農民の本貫地などを決める必要が生じました。年貢・諸役を決める仕組みも、本百姓とされた上層農民を責任者とする村請制が成立していきました。

小田原落城後、秀吉は奥羽まで出陣し、奥羽諸大名の安堵や没収転封などの処分を行いましたが、政権の監視が緩むと騒動が起こりました。
1591(天正19)年、伊達政宗が会津を攻め取り、佐竹義重・相馬義胤と戦ったため、責任を追及され、会津その他が没収されました。そして会津黒川に秀吉は蒲生氏郷を入れました。
ところで、陸奥の大崎と葛西が小田原に参陣しなかった理由で、所領が没収され、秀吉子飼いの木村吉清・清久父子が入りました。木村氏は検地と国人を抑圧したため、国人達は一揆を起こしました。
この鎮圧に政宗と氏郷が出動し、両者は対立します。腹心の氏郷は政宗の反撃を恐れ、秀吉に報告したため、秀吉の疑心は強くなりました。
家康からの手紙で、政宗は至急上洛して秀吉の感情を和らげるように、しきりに勧められます。死を覚悟した政宗に対し、秀吉は歓待しました。
政宗帰国後、家督相続を巡って南部の一族九戸が反乱を起こします。このため秀吉は、家康と羽柴秀次を総大将に、大軍を奥州に派遣しました。

 

家康が入城した江戸城は規模が小さいものでした。1592(文禄元)年、朝鮮出兵のため家康は京都に出発しました。その留守中に、西の丸を中心にした江戸城の修築工事が始められました。
家臣団が江戸城下へ生活の本拠を移すまでには至っていませんでした。江戸に生活の中心を置くようになったのは、行財政を担当する重臣達であり、それに次いで一定期間在番する者達でした。
青山・内藤新宿・池端向岡などには上級家臣の広大な屋敷地が与えられました。在番の中・下級家臣は組屋敷に集団居住しました。
麹町方面は小さな谷が入組んだ地域で、谷を埋め、ここに大番組を配置しました。番町が成立したのは1592(文禄元)年といわれています。これに次いで、駿河台下が造成され、上級・下級家臣の屋敷となりました。神田山(駿河台)の土を取った跡は道がつくられ、神田山一帯は下級家臣の宅地となりました。
この頃の江戸は、西北部の山の手の丘陵地を除けば、江戸湾あるいは河川下流の低湿地でした。このため、江戸の下町は飲料水だけとっても、人の住める所ではありませんでした。家康は入国前から上水道の建設を始めました。井の頭池を水源にする神田上水をまず建設しました。

家康は、入国早々に、平川河口と江戸城を結び船入堀を開掘しました。この堀は道三堀と呼ばれました。この堀を利用して海上から物資を江戸城に運び込むのが目的でした。
道三堀に沿って材木町や船町などがつくられました。これらが町人町の最初でした。
道三堀の開掘と平行して、低湿地の埋立てや堀がつくられ、それらに橋が架けられました。堀割は無数の沼沢を通って町割に従って水路は変えられていきました。
最初の町割は本町(ほんちょう)の町割で、道三堀に沿った地域でした。この工事を担当したのは普請方や地方(じかた)の役人でいたが、茶屋四郎次郎や江戸の町年寄に起用された樽屋・奈良屋・喜多村などの豪商も参加しました。
本町町割に続いて、千束村の住民が浅草寺の門前に町屋を開くことを願い出て、許されました。そして、江戸城西丸築造工事で出た土で、日比谷入江を埋め立てました。その後に堀割してつくられた八代洲(やよす、八重洲のこと)河岸に沿って武家屋敷の消費を賄う内町ができました。

入国当時の町割の際、地子免除の特権が移住して来た商人や職人に与えられたと思われますが、移住希望者は余り多くありませんでした。
入国当初の江戸は治安が悪く、盗賊や浮浪人が横行しました。それらのあぶれ者達は農村を追われて新開地の江戸に集まって来ました。
江戸の町年寄の樽屋・奈良屋・喜多村三家は、徳川氏の領国全体の流通統制を担当していました。
連雀は商品を背負う道具ですが、連雀商人は行商人であり、僧形の行商人も多く、高野聖(こうやひじり)と呼ばれました。喜多村には、その取締りの権限である関八州連雀商札座の特権が与えられました。
樽屋には、関東一帯に通用する桝に、極印を押して手数料を取る権限が与えられました。
遠隔地からの物資は伝馬問屋の手を経て、神田川を通って連雀町に入って来ましたが、樽屋や奈良屋は伝馬問屋の支配権を握っていました。
道中伝馬役は国役と呼ばれ、一国平均の夫役でした。そして技術労働を提供するのも国役でした。それらを負担する町は職人町が多かったといえます。
職人は、紺屋・鍛冶・鉄砲・研(とぎ)・壁塗り・大工・畳・鋳物・桶大工・木具師・塗師・土師大工などから呉服・酒肴・菓子など多数にのぼりました。
これらの職人頭は町年寄と同じく、江戸に広大な屋敷を拝領し、職人を呼び集め、徳川氏から請負った国役を彼らに負担させました。

 

1592(文禄元)年、朝鮮出兵で、家康は肥前名護屋に参陣しています。翌年戦況は不利になり、日本側の講和の機運は高まりました。そして、秀吉は内地帰還を命じ、自分も大坂に戻りました。
間もなく淀君が秀頼を生みます。家康も秀頼の祝賀のため大坂に戻りました。
1594(文禄3)年、江戸城を発って上京します。そして吉野の花見に秀吉のお供をします。家康の京都の邸や聚楽第などで秀吉は家康との懇親に努めます。
この頃、家康は「吾妻鏡」の講義を受けたり、数多くの和漢籍を借りたり買い入れて、学問に熱中しています。
学問の他に、柳生但馬守宗厳(むねよし)から新陰流兵法の奥義を伝授されています。また、一刀流の小野次郎右衛門忠明(ただあき、神子上典膳)を兵法師範として招きました。
宗厳の子宗矩(むねのり)は2代秀忠、3代家光に新陰流極意を相伝しました。宗矩は幕府の大目付として諸大名の動静を監視して、情報機関の役目を果たしました。

高齢の秀吉にとって秀頼の将来は心配で、養子の秀次の立場は微妙な立場になりました。秀頼の嫡流である立場を確立しょうとした石田三成らの動きにより、秀次は追放され、自害させられました。
この事件の後、朝鮮出兵の明との講和を期待しますが、無視されたため、秀吉は再び出兵を命じました。しかし、苦戦が続きました。
この頃、江戸を留守にしていて秀吉の相談相手をつとめる家康は、五大老の筆頭として、政治的地位を強化していました。
朝鮮出兵後、秀吉の怒りを買って、家康のとりなしで救われた大名は少なくありませんでした。浅野長吉・加藤清正・福島正則・黒田長政・小早川秀秋などでした。
石田三成を代表とする秀吉子飼いの大名の五奉行が官僚的であるのに対し、同じ秀吉譜代部将である加藤清正・福島正則らは朝鮮にあって苦労ばかりさせられ、指図ばかりする彼らに反感を持っていました。
秀吉は死を直前にして、秀頼の将来を、特に家康と前田利家に頼みました。

1598(慶長3)年、秀吉が亡くなると、早急に朝鮮出兵の軍勢を引き揚げました。そして、伏見にいて政務を総括する家康は、次第に生前の秀吉との誓約に違反するようになりました。
利家が亡くなると、武功派と五奉行派の対立は激しくなっていきました。石田三成は家康を倒すことに執念を燃やすことになります。
1600(慶長5)年、京都にいることに危険を感じた家康は伏見城を出て、江戸城に戻ります。江戸城に到着して間もなく、会津の上杉景勝に対して出陣します。しかし、間もなく三成挙兵の報せを聞きます。
家康は外様諸将を京に向かわせます。自らは江戸に戻り、上杉景勝を釘付けにする工作を進めました。外様諸将の東軍は岐阜城を落とし、家康を待ちます。家康の子秀忠は宇都宮を発って、中山道を上りますが、真田昌幸・幸村父子の抵抗で、関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。
家康が到着すると東軍は活気づきます。これに反し、西軍では毛利輝元は到着せず、吉川広家・小早川秀秋は家康と内通していました。
関ヶ原での東西軍の決戦は、午後には東軍の完勝で終わりました。伊吹山に逃げ、近江に潜伏中の三成は捕らえられ、刑死しました。

 

1.徳川家康↑|→2.江戸開府

江戸時代1

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