江戸時代1

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江戸時代1
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関ヶ原の戦いの後、家康は論功行賞を行っています。宇喜多秀家・長宗我部盛親・小西行長・石田三成などの領地を没収し、毛利輝元・佐竹義宣などの領地を減封しました。
中部・近畿には西軍に加わった大名が多く、これらの没収地の一部は徳川氏の直轄地に編入され、軍功のあった大名の加増や徳川一門・譜代大名の取立てに当てられました。

家康は豊臣方大名を取り潰しにしたり、豊臣の地盤から遠ざけました。その跡には徳川一門・譜代大名や親近の外様大名を配置しました。

関東は完全に徳川氏の領国となりました。この時、御三家の水戸と尾張藩のもとが形成され、家門の越前松平家が成立しました。

徳川一門及び井伊直政・本多忠勝・酒井忠次・榊原康政の徳川四天王をはじめとする譜代大名が尾張・美濃・伊勢・越前・近江に配置されました。また徳川旧領5ヶ国には豊臣方大名が入っていましたが、それらは他に移され、一門・譜代が配置されました。
 
豊臣氏の直轄地である太閤蔵入地は、その近くの大名に預けて管理させていました。徳川氏もしばらくはそのような方針を採りましたが、次第に直属の代官に支配させる方法に切り替えていきました。
旧領5カ国の内、甲斐の大部分が直轄地に編入されます。平岩親吉が甲斐郡代となり、その下に代官頭大久保長安が国奉行として検地を行い、蔵入地と知行地の配分を決めました。
甲斐以外の三河・遠江・駿河・信濃の4国にも幕府領があり、越前・越後にも徳川の代官がいました。しかし、西日本の直轄地は譜代大名領とともに重要でした。美濃・近江・河内・和泉・丹波・備中・伯耆にも直轄地が置かれ、九州の豊後にもありました。

家康は重要な商業都市も直轄化を推進しました。それぞれに堺奉行・京都所司代・尼崎郡代を置きました。そのほか、奈良・山田・伏見・長崎が直轄地になりました。更に駿府城ができると、駿府町奉行も置かれました。
しかし、都市の機能を握るためには、そこの有力商工業者を統制下に置くことが必要でした。京都の茶屋四郎次郎・後藤庄三郎・角倉了以・同与一・堺の今井宗薫・大国座常是・平野の末吉勘兵衛・同孫左衛門・伊勢の角屋七郎次郎などで、彼らは経済政策担当の官僚的性格を持っていました。
直轄都市の内重要なものは、堺と長崎でした。堺は鉄砲生産と大坂に近い商工都市及び貿易港として重要でした。長崎は南蛮貿易や朱印船貿易の拠点として重要で、肥前唐津城主寺沢広高を長崎奉行に起用しました。

大久保長安は、武田信玄にその経済的手腕を買われていました。武田氏滅亡後、他の蔵前衆(代官)とともに徳川氏に仕えました。直轄地の支配、知行割、検地などで活躍しました。
佐渡金山は関ヶ原の戦いまで上杉氏の支配下にありましたが、徳川氏の直轄となり、大久保長安の管轄下に入りました。長安配下で、上杉氏の旧臣が佐渡奉行となり、豪商が補佐しました。
長安が管理すると、佐渡金山の産金は激増しました。石見大森金山も長安が管理すると、その産金は激増しました。伊豆の土肥・湯ヶ島などの金銀山、但馬の生野銀山、甲州の黒川金山などでも高い成績を残しました。
家康の長安やその配下の山師に寄せた信頼は絶大なものがありました。当時大森銀山は採掘技術が最も優れているといわれていましたが、長安は甲州流の採鉱技術に、大森銀山の先進技術を学んだと思われます。
また銀の分離法として、鉛を利用する従来の方法に対し、メキシコから渡って来た新技術の水銀を使う方法を採用しました。輸入された水銀の購入者は家康で、これにより銀の増産を図ったと思われます。この当時、日本は世界有数の銀産出国でした。
長安は鉱山のほか、東海道・中山道の修理や伝馬制度の整備に貢献しました。更に、江戸城・名古屋城の普請に当たって資材調達に活躍しました。

家康は蓄積した巨額の金銀で、通貨の鋳造を行いました。大判座の後藤徳乗光次は代々室町幕府に仕えた家柄で、橋本庄三郎はその手代でした。庄三郎は徳乗から後藤姓を許され、光次の極印を譲られて、1600(慶長5)年、一分判(1両の1/4)をつくり、一分判小判に極印を打ちました。
こうして、後藤庄三郎は幕府小判座初代となり、徳乗は大判座として翌年より京都で慶長大判(10両)を鋳造しました。
銀貨は大黒座常是が世襲で鋳造していました。平野の豪商で大津代官の末吉勘兵衛は物価が混乱しているのは銀価が不安定であるためで、銀貨発行の急務を訴えました。
1601(慶長6)年、伏見に銀座を設置しました。銀座はその後京都に移され、駿府・大坂の3ヶ所になりました。家康は上方で流通していた雑多な銀は、銀価の一定した丁銀・小玉銀に統一しょうとしました。こうして目方を測って使う銀貨と表記貨幣の金貨が併用されることになりました。
この他に家康は永楽銭の通用を禁止しょうとしました。室町時代中頃から貿易を通じて永楽銭をはじめ、種々雑多な中国銭が入って来ました。これに中国や日本の模造銭や私鋳銭が加わり混乱し、良貨と悪貨の価値が違うため、良銭を選んで退蔵する撰銭(えりせん)が行われました。
そのため、永楽銭を駆逐しょうとしますが、永年流通していたため整理することができず、後年の寛永通宝の大量発行を待つしかありませんでした。 

 

1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任ぜられました。「吾妻鏡」を愛読していた家康は、武家政権創立者の源頼朝に傾倒していました。徳川政権の長期安定を考えるには、武家政権の独立性が保持されなければならないと考えていました。
この年、家康は孫の千姫を秀頼に嫁がせています。しかし、この頃には両者の間には、将軍と大名というかなりの差が生じていました。
1605(慶長10)年、家康は将軍職を子の秀忠に譲りました。この年、家康は江戸を発ち、伏見城に入りました。遅れて秀忠は大軍を率いて伏見に着きました。これは、源頼朝の先例に倣ったものでした。
早期に秀忠に譲位したのは、政権は徳川氏が世襲することを宣言し、豊臣氏に政権回復の期待を断念させる狙いがあったものと思われます。

江戸幕府が開府されると、江戸城も、城下町も、その威容を整える必要が出てきました。江戸城普請は、諸大名の将軍に対する軍役の一環として行われました。幕府にとり、有力外様大名の財力を消耗させることができ、結果的には忠誠心を量ることができました。
1606(慶長11)年、本丸の建物と石垣、外郭の石垣が完成し、翌年、天守閣が完成し、濠普請が行われました。これで全て完成した訳でなく、その後、1610(慶長15)年から翌年には西の丸の修築が行われ、その後も工事は行われ、3代家光の時の1636(寛永13)年、完成しました。

1万石の以下の幕臣である旗本の屋敷は番町・麹町・小川町で形成されました。1616(元和2)年、家康が亡くなると、駿府城詰めの家臣が江戸に引き揚げ、神田山が堀割されて、その南北が開発されます。これが駿河台です。この後、旗本が知行地から離れ、江戸に生活の本拠を移すことが一層促進されます。
江戸は首都となり、参勤交代のため外様大名の屋敷も加わり、江戸の2/3は武家地といわれるように拡大しました。
町づくりは、まず神田山の切り崩しで海面を埋め立て、下町一帯を造成しました。また干潟を対象に新田が造成されました。慶長の町割りで道三堀と平川の延長の堀川に日本橋が架けられ、里程の原標とされました。そして、城下町の中心は、ますます河岸から日本橋に移っていきました。

江戸城増築には、多量の石垣用の石材が必要でした。この石材の調達に、その過程で石材商人は登場しました。また木材についても同じことが言えました。道三河岸には木場ができ、そのうち材木問屋や仲買が生まれてきました。
資材だけでなく、労働力も必要でした。色々な職人や日雇も集められました。この時期、町方が15万、これに武士を入れて20〜25万人の消費人口が江戸にいました。
この人々の消費物資は相当量になりました。魚や野菜の生鮮食料品は、江戸湾や後背地の農村で確保できました。
伊勢や近江出身の商人が多く江戸に進出しました。この頃、地元では生活物資は調達できず、上方から下り物に頼らざるを得ませんでした。下り物はその高度な伝統的技術による優れた品質を珍重されました。また、高野聖や連雀商人の行商も重要な役割を果たしました。

1604(慶長9)年、日本橋を基点にして東海道・中山道などの主要街道に一里塚を築き、榎または松を植えさせました。
江戸時代には水上交通が発達し、物資輸送に重要な役割を果たしました。これは陸上輸送に比べて輸送量が大きく、輸送費が安いことがあります。
家康は当初より利根川水系の整備を図りました。そして、寛永年間に一応その目的を達しました。江戸湾に流入していた利根川を鹿島灘に変え、支流の江戸川の下流に新しく掘割して、関東各地から川船が水路で江戸湾内に乗り込めるようにしました。
家康は関東以外にも重要な河川の改修や水路の開削をさせました。角倉了以に富士川の堀割を命じています。了以は大井川の開通、京都の加茂川・高瀬川の開削を行っています。

幕府の最初の農政の方針は「死なぬ様に生きぬ様に」との家康の言葉が伝わっているように、検地によって農民の耕地を確定し、収穫の内本人や家族の一年分の経営費と食料を差し引いた残りは、全部年貢として取り上げることでした。
幕府成立後の総検地が1604(慶長9)年行われました。幕府領は代官頭伊奈忠次・大久保長安・彦坂元正の三目代が主に担当し、大名領は城主が独自に行いました。年貢増徴を目指して、検地基準は精密化されました。

 

1600(慶長5)年、豊後臼杵近くの海岸に、オランダ東印度会社のリーフデ号が漂着しました。リーフデ号を堺に回送させ、家康は大坂城で船長、イギリス人航海長ウィリアム=アダムス、オランダ人航海士ヤン=ヨーステンの3人と会見しました。
関ヶ原戦後、船長は東印度方面に出かけ、アダムスとヨーステンは帰国を許されず、日本に永住することになりました。ウィリアム=アダムスは相模三浦郡の知行地を与えられ、三浦按針(あんじん)と名乗りました。ヤン=ヨーステンが住んでいた所は、その名をもじって八代洲(やよす)と呼ばれ、後、八重洲になりました。

リーフデ号の漂着は、日本貿易を独占していた旧教国ポルトガル・スペインと敵対する新教国オランダ・イギリスが日本貿易に介入する一歩となりました。
家康がキリスト教の布教を黙認しましたが、それは、貿易のもたらす巨大な利益に惹かれたためでした。
ポルトガルはマカオに拠点を築いて以来、中国産生糸(唐糸、白糸)を一括購入(パンカドまたはパンカダ)によって日本に輸出し、日本から主に銀を輸入するという方法で、長崎での貿易を独占してきました。
1604(慶長9)年、白糸をポルトガル船は積んで来ますが、日本商人にそれを引き受ける資金がなく、困っていました。そこで、家康は京都・堺・長崎の裕福な町人に一括して購入する仲間をつくらせました。これが糸割符仲間です。そして、国内の業者に配分しました。この仕組みが糸割符法で、ポルトガル人のパンカドに似たものでした。
家康はポルトガル商人に打撃を与えるとともに外国貿易の独占と管理を推進しました。そして、スペイン領ルソンと通交を開きました。

家康は東南アジア諸国に対親善外交を進めました。ルソンの他、バタニ・アンナン・カンボジア・シャム・チャンパ・コウチ・マカオ・デンダンと国書を交換しました。
官許の貿易は必ず家康に願い出て、承諾を受ける必要がありました。その承認の印として、朱印状が授けられました。これを携行した商船は法的効力を持って航行できました。朱印状貿易を行ったのは、九州の大名や京都・大坂・堺・長崎などの豪商でした。
朱印船の渡航先は、台湾・マカオからマレー半島に及び、地域で、特にインドシナ半島のコウチ・カンボジア・シャムやルソンに行く者が多く、これらには日本町ができました。有名なものは、コウチのツーラン・フェフォ、カンボジアのプノンペン、シャムのアユタヤ、ルソンのマニラ・サンミゲルなどです。有名な在留日本人では、シャムの日本町の山田長政がいます。

1609(慶長14)年、キリシタン大名有馬晴信の朱印船がマカオに滞在中、その乗組員がポルトガル人と喧嘩をし、双方に死傷者が出る事件が発生しました。マカオ当局はマードレ=デ=デウス号を日本に派遣し、朱印船の寄航禁止を要請しました。
そこで、家康は長崎奉行に命じて、船長を召還しょうとしましたところ、船長は身の危険を感じ、逃げ出そうとしたため、長崎奉行と有馬晴信に命じて、マードレ=デ=デウス号を撃沈させました。このため、ポルトガルとの貿易は3年間中絶しました。
同年、前ルソン太守ドン=ロドリゴが日本に漂着します。家康はスペインに対し、鉱山技師の派遣依頼を要求して、ロドリゴに船を提供し、ロドリゴは本国に帰りました。しかし、家康の要求にスペインは応えませんでした。この後、スペインとの関係は発展することはありませんでした。

1613(慶長18)年、伊達政宗は家臣の支倉(はせくら)常長を派遣して、スペイン国王やローマ教皇に布教を認める代わりに、メキシコ貿易の開始を要請しましたが、丁度この頃、日本では禁教となり、この話はうやむやになりました。

オランダ・イギリスの日本における活動は活発になり、1609(慶長14)年にオランダ商館、4年後にイギリス商館が平戸に開設されていました。
1624(寛永元)年、オランダは台湾を占領し、ここを本拠に日本との貿易を発展させました。イギリスはこの様な根拠地を確保することができず、その前年に商館を閉鎖し、日本から退去しました。

1612(慶長17)年、家康の側近本多正純(まさずみ)の家臣岡本大八がマードレ=デ=デウス号の有馬晴信に恩賞が与えられるようにと持ちかけました。晴信はその運動費を取られますが、その後、音沙汰がないため、正純に督促し、大八の不正が暴露されます。
大八の取調べの過程で、晴信がマードレ=デ=デウス号事件で長崎奉行と対立し、長崎奉行を暗殺しょうとしていたことが暴露されます。このため、岡本大八は火刑に、有馬晴信は切腹となりました。
大八・晴信ともにキリシタンであったため、この年、第1回のキリスト教の禁教令が発令されました。その時の範囲は、駿府・江戸・京都・長崎その他九州の若干の地域でした。
1613(慶長18)年、第2回の禁教令が発令されました。その範囲は全国に及びました。

 

秀吉の死後、朝鮮に出兵していた軍勢を引き揚げ、五大老は講和の交渉を対馬の宗氏に指示しました。
当初秀吉は朝鮮を入貢させ、それを先導として明を討つつもりでした。しかし、宗氏は、戦争になれば、日鮮貿易が打撃を受けることを恐れ、朝鮮の意向を正しく秀吉に伝えず、秀吉の意向を正しく朝鮮に伝えませんでした。そこで、秀吉は態度のはっきりしない朝鮮を討つべく出兵しました。
日鮮貿易の打撃を恐れて画策したことが、結局深刻な打撃を受ける結果となりました。しかし、なかなか朝鮮は和平の呼びかけに応じようとしませんでした。

1600(慶長5)年、宗義智と家臣の柳川調信(しげのぶ)は捕虜の一部送還を条件に、使節の派遣を朝鮮に要請しました。1604(慶長9)年、朝鮮から使節が派遣されました。
翌年、一行は伏見で家康・秀忠と会い、交渉が開始されました。
折衝の過程で、宗義智は交渉の全権を命じられ、以降宗氏が代々日鮮外交を担当することになります。朝鮮側は、宗氏に講和条件を提示します。一つは家康から先に朝鮮に国書を渡すこと、もう一つは出兵の折の先王の陵を荒らした犯人を朝鮮に送還することでした。
国書を先に送ることは、日本側の降伏を意味していました。しかし、宗氏は国書を偽造し、対馬にいた犯罪人を犯人として送還しました。これに対する返答使が対馬を経由して江戸に着き、帰途駿府に寄ります。宗氏は返答使の国書も偽造して辻褄をあわせました。
宗氏はこの様な苦しい工作を続けて、1609(慶長9)年、貿易協定を結びました。これは己酉(きゆう)約条と呼ばれます。これによって、釜山だけが開港場として許され、倭館が置かれました。そして、宗氏が定期的に朝鮮に送る貿易船、歳遣船が20隻、2年後から渡航しました。

1635(寛永12)年、宗義智の子義成と家臣柳川調信の孫調興(しげおき)が対立する事件が起きました。
幕府は柳川氏に特別の封禄を与え、駿府に駐在させました。これは、宗氏と柳川氏との対立を引き起こすことになりました。調興は義成をないがしろにし、自分は宗氏の家臣ではないとし、藩を二分するような混乱に陥りました。
幕府は役人を対馬に派遣して調査すると、国書改竄や将軍の使船を、許可なく朝鮮に派遣していたことが判明しました。そこで、将軍家光の前で両者は対決させたところ、宗義成の勝で、柳川調興は津軽に流罪となりました。
翌1636(寛永13)年、朝鮮より初めて通信使が派遣されました。

家康は琉球を薩摩の島津氏に任せました。室町時代には、琉球は幕府に使節を送りましたが、戦国時代には島津氏に従属する形になりました。しかし、中国を宗主国とする関係もそのままでした。
琉球は明に近づき、島津氏から離れようとする意向がありました。島津は琉球の善処を促しますが、琉球は古くより中国に属していたとして、交渉は決裂します。幕府の許可を得ていた島津家久は1609(慶長14)年、島津の琉球入りを決行します。
島津軍は、奄美大島・鬼界島・徳之島・沖永良部島・与論島を平定し、琉球島に到り、首里・那覇に突入します。尚寧王は講和を申し入れ、薩摩に送られました。翌年、家久は尚寧王を伴って駿府に行き、家康に引き会わせました。
琉球領は島津氏の検地を受け、奄美大島・鬼界島・徳之島・沖永良部島・与論島を島津氏の直轄領とし、残りは琉球国王領としました。琉球は事実上島津氏に服属しながら、中国の冊封を受けるという微妙な立場に置かれました。これは中国との進貢貿易の利益を確保するという実利の側面がありました。明が滅亡した後、清と琉球との関係もそれまでと変わらず続きました。

蝦夷地に本州人が多数渡り、南部に居住地をつくるのは、15世紀前半です。若狭・加賀・越前などの北陸の商人達が館(たて、砦)を構えました。これらの館主は若狭源氏武田信広を祖とする蠣崎(かきざき)氏の家臣となっていきます。
サケ・ニシン・コンブなどのアイヌの漁獲物を米などの本州の産品と交易する商場(あきないば)が知行地として安堵されます。農業生産がない蝦夷地では、アイヌとの交易権が知行に該当するものとして商場知行制が成立していきます。
大館(松前)を本拠とする蠣崎氏は道内の統一を進めました。1590(天正18)年、蠣崎安弘が秀吉から蝦夷国主として認定され、1599(慶長4)年、松前氏と改姓し、家康より黒印状を受けています。こうして松前藩は成立しました。

 

花笠をかぶり、手に造花を持ち、七福神に扮したり、趣向をこらした衣装や持ち物を持って踊るのを風流踊りといいます。死者を弔い、胸に下げた鉦を叩き、念仏のような歌を歌いながら踊るのが念仏踊りです。全国各地で、種々の民衆の踊りがつくられ、流行りました。伊勢踊り、兵庫踊り、住吉踊りなどです。
家康は民衆の宗教的な興奮が反権力闘争に転化するのを恐れ、民衆の熱狂的な踊りを好みませんでた。
1614(慶長19)年、三河から駿河にかけて大雨が降りますが、神異が起こり、これが伊勢に降るとの伊勢大神の託宣があり、伊勢踊りが始まります。
これが伊勢国中に広まり、遂には、京都・大和・近江・美濃に広がって行きました。
伊勢踊りは1616(元和2)年にも、1624(寛永元)年にも流行りました。幕府は社会不安を煽らない限りは黙認し、時には風流踊りを流行らせて、民衆の不満を紛らわせる手段に使いますが、人心を動揺させるような場合は断固弾圧しました。

京都の祇園の門前の市場河原には、諸国からの芸能者が集まって来ました。1603(慶長8)年、ここで出雲の阿国を座長とする一座が、念仏踊りに工夫を凝らした歌舞伎踊りで名をあげました。阿国は1606(慶長11)年、江戸に下り、勧進歌舞伎を興行します。
歌舞伎踊りが人気になると、京都六条の遊女の間で、遊女歌舞伎が生まれます。しかし、風紀を乱すとして、1629(寛永6)年、禁止されます。その次には、若衆歌舞伎が脚光を浴びます。

桃山期の巨匠狩野正信以来、御用絵師の地位を固めた狩野派は、永徳が一門を率いて信長の安土城の障壁画を描き、秀吉の聚楽第や大坂城の障壁画を描きました。
その長男光信は1603(慶長8)年、家康に召されて江戸城の障壁画を描きます。その5年後亡くなったため、弟の孝信に狩野派の実権は移ります。その子守信(探幽)・尚信・安信の三兄弟は京都から江戸に移り、幕府の御用に勤めます。尚信の子常信の次男岑信が分家して、四家が奥絵師四家と称し、画壇に君臨しました。

探幽の技術は卓越したものがありましたが、豪放な桃山期と違い、空間の巧みな利用と日本的情緒が特色でした。それとともに聖王・忠臣の徳を顕彰する画を多く描いて大名達に人気でした。探幽は東照大権現縁起絵巻を描き、家康の神格化に貢献していますが、晩年は淡白洒脱な水墨画を多く描いています。

古田織部は戦国部将で、豊臣系の大名でしたが、関ヶ原戦後は将軍秀忠の茶の師範となります。しかし、自由奔放で、色々批判されることもあり、大坂夏の陣で、大坂方に内通したとの嫌疑をかけられ、弁明せず、自害しました。
織部の茶は華やいだ大名茶でした。織部の門から、師の利休とともに三大茶人と呼ばれる小堀遠州や、書・画・焼物・和歌に一流であった本阿弥光悦らが出ました。
光悦は一族の他、紙屋・筆屋・蒔絵師などの工芸家とともに洛外に集団移住し、工房を開きました。これに豪商の茶屋四郎次郎が加わった村ができました。その中に、元禄期の光琳・乾山の祖父尾形宗伯もいました。

 

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