江戸時代1

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江戸時代1
3.大御所と将軍
 

1607(慶長12)年、家康は駿府城に移りました。上洛することはほとんどなくなりましたが、この後、しばしば家康が江戸に出掛けたり、秀忠が駿府を訪ねたりしました。表面上は政治から隠退した形を採りましたが、依然として家康が実権を握っていました。
駿府と江戸の二元政治は、それぞれ独立した政治機構で行われました。家康は駿府に移る際、重臣の配置替えを行っています。
本多正信を秀忠に付け、青山忠成・内藤清成とともに関東総奉行を勤めさせました。自分には正信の子の正純を付け、若手の譜代層が勤めました。
駿府の側近は多彩な顔ぶれでした。後藤庄三郎・茶屋四郎次郎・長谷川左兵衛・亀屋栄任(えいにん)などの豪商、大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正の代官頭、天海・崇伝らの政僧、林羅山らの儒者、ウィリアム=アダムス・ヤン=ヨーステンらの外国人まで加わっています。
政治の表舞台の裏で、家康の側近で活躍した女性がいます。その代表格が阿茶局(あちゃのつぼね)です。秀吉の異父妹の朝日姫と家康の婚儀の際、阿茶局は、朝日姫の身の回りを世話したり、家康の使いとして秀吉や大政所に会ったりします。こうした実績を積み、家康の駿府に引退後は、有力な側近になっています。

1601(慶長6)年、家康は、禁中・女院・門跡・公家に知行を贈与しています。更に1605(慶長10)年、秀忠の将軍宣下の後、皇居の拡張、新殿の造営を、家康は指示して公家を喜ばしています。しかし、統制は次第に厳しくなっていきます。
家康は、後陽成(ごようぜい)天皇の譲位を望んでいました。この当時、公家の中で秩序を乱したり、女官との密会の事件が起こりました。しかし、自主的に処理することができず、処分を幕府に任せました。この様な状況下で、後水尾天皇への譲位が実現しました。
後陽成上皇は後水尾天皇と対立しました。この対立は、公家の間の対立となり、風紀の退廃と絡んで、処理能力を欠いたため、幕府の干渉を招きました。
1613(慶長18)年、家康は、「公家衆法度」を制定し、京都所司代板倉勝重に与えました。これは公家に対する制裁規定となっています。そして、2年後1615(元和元)年、「禁中並公家諸法度」が制定されました。
更に、婚姻により家康は天皇の外戚となって、統制を強化しょうとしました。しかし、将軍秀忠の五女和子(東福門院)の入内が実現したのは、家康の死後でした。

社寺に対する統制は、その伝統や教義の違いもあって、一律に規制はできず、個別的な法度を下しました。その中で、末寺に対する本山の権限を保証しました。ここに、寺院の本末制度が成立しました。
幕府の統制は、時には勅許を超えて発動されました。大徳寺・妙心寺などの七大寺の住持が勅許を受ける前に、幕府に申請し、紫衣を授かる「勅許紫衣法度」がその例にあげられます。
家康は、仏教に劣らず、神道にも関心がありました。神・儒・仏の三教を支配思想とすることを考えていました。家康の宗教統制は一宗一派に偏することはありませんでした。
家康の側近で、寺社行政を担当したのは、以心崇伝でした。崇伝は南禅寺の塔頭(たっとう)金地院(こんちいん)に住んでいましたので、金地院崇伝と呼ばれました。
崇伝は最初、外交文書を扱いました。この仕事は相国寺住持西笑承兌(さいしょうしょうたい)が担当していましたが、承兌の死後、崇伝が担当しました。
京都所司代板倉勝重の相役となって、崇伝の本格的活動が始まります。勝重と崇伝の間には明確な職務上の分担はなかったようです。

駿府の政権は家康の信寵を得た出頭人によって構成されたため、彼らは駿府に詰めるより、任地で活動することが多くありました。このため、彼ら側近と家康との間を仲介したり、家康の上意を伝える人物が必要で、その役割を果たしたのが本多正純でした。
これに対し、江戸幕府の慶長19年の職制は、年寄(後の老中)・老中(後の若年寄)・町奉行・留守居などの役職に分化し、評定所が成立して、年寄・老中・町奉行の合議により重要案件が決裁されていました。この時期、その政策や法令は関東を中心とする東日本が中心で、西日本は駿府政権の統治範囲でした。

家康によって秀忠に付けられた本多正信の権勢を嫌って、譜代武功派の本多忠勝・榊原康政は幕政から離れていきました。1606(慶長11)年には、同じ関東総奉行の青山忠成・内藤清成が家康の怒りを買って、解職されました。江戸の譜代層は、正信に反感を持っていました。正信の子の正純も反感を買っていました。
先のマードレ=デ=デウス号事件を発端とする岡本大八事件の大八は正純の家臣でキリシタンでした。正純の責任は追及されるべきでしたが、家康の信任が篤く、そのままにされました。
事件の決裁者であった大久保長安は1613(慶長18)年病死します。その死後、長安の生前の不正が摘発され、遺子は切腹、所領は没収されます。
1614(慶長19)年、キリシタン禁圧の総奉行として京都にいた大久保忠隣(ただちか)に改易の命が下されました。これは、大久保長安に近かった忠隣に対する本多正信・正純父子による陰謀によるものでした。この忠隣追放は幕閣の土井利勝も加わっていました。この後、利勝は幕府の最大実力者になっていきます。

 

1605(慶長10)年、秀忠が将軍に就き、家康・秀忠への祝賀に諸大名は伏見城に参りますが、大坂の豊臣秀頼からの挨拶はありませんでした。家康は秀吉の未亡人高台院を通じて秀頼の上洛を促しますが、淀殿はこれを拒否しました。
この後も、家康は威嚇と懐柔で、豊臣氏を臣従させようとしました。1611(慶長16)年、再び秀頼の上洛を要求しました。淀殿は拒否しょうとしましたが、加藤清正・浅野幸長らの説得で、秀頼は上洛し、家康と対面しました。
その年、家康は在京諸大名に幕府への忠誠を誓う誓約を取りました。多くは外様大名でした。翌年、将軍秀忠は関東その他東日本の大名にも誓約させました。
諸大名は、駿府の家康と江戸の将軍秀忠への参勤を始めました。そして、それはしだいに義務化されていきました。この他に、婚姻政策が採られ、めぼしい外様大名は婚姻により徳川氏の姻戚関係に取り込まれていきました。

この頃になると、秀吉子飼いの大名であった加藤清正・福島正則ですら、豊臣氏が政権を奪回することは不可能であることを知っていました。幕府に従い、豊臣の家名を残すことが最善の道だと考えていました。
家康・秀頼の会見の年、加藤清正は病死します。その2年後、浅野幸長も病死します。
関ヶ原の戦いで敵中突破して帰国した島津義弘の子の忠恒(後の家久)は、家康と親しくしていました。しかし、島津家中には複雑なものがありました。島津氏討伐の動きも幕府内にありましたが、家康は中止させ、義弘が謹慎しているのを評価して、1602(慶長7)年、薩摩・大隅・日向の本領全てを安堵しました。
 
1602(慶長7)年、家康は片桐且元を通じて、秀頼母子に太閤の遺志である京都東山に方広寺大仏の再興を勧めました。この後、寺社の建立や再建が数多く行われ、その都度、豊臣氏の財産が費消されます。
秀吉が建立した方広寺の大仏は木像でしたが、地震で損壊したため、今回は金仏にするように着工しますが、火災で焼け落ち、1609(慶長14)年に再度工事に取り掛かります。その費用として大坂城に蓄えていた軍用金に手を付けました。そして、大仏は1614(慶長19)年に完成しました。

家康は難題を吹きかけてきました。方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字があるが、前者は家康の名前を二つに切って呪い、後者は豊臣氏を君として楽しむとして、豊臣の繁栄を祈ったものとしました。
片桐且元は、家康への弁解のため、駿府に下りましたが、面会を許されず、秀頼が江戸に参勤するか、淀殿が人質をして江戸に下るか、秀頼の国替えを承知するかを選べとの無理難題を突きつけられます。
且元は大阪に戻り、要求に従うのが賢明だと説きますが、主戦派の大野治長(はるなが)らは、且元が徳川方に内通しているとして殺害しょうとします。この危機を察して、且元は大坂城を出ました。且元の失脚は豊臣方と徳川方の断交を意味していました。

家康は、全国の大名に動員を命じます。1614(慶長19)年10月、家康は駿府を出発します。京都二条城に着いた頃、秀忠が大軍を率いて江戸を出発し、11月に伏見に着きました。
家康の挑発に乗った豊臣方の準備は俄仕立てでした。豊臣恩顧の外様大名に使者を派遣して援軍を求めました。しかし、大名は一人として応援する者はありませんでした。
関ヶ原の戦いの後、取り潰されたり、改易になった大名は多数あり、その結果、牢人が多数出ています。中には、再任官したり、場合によっては、帰農したり、商人になった者もありましたが、過半数は主取りの機会をうかがっていました。これらの牢人が大坂城に集まって来ました。
その中には、真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・明石掃部(かもん)・後藤又兵衛という大名クラスの人もいましたが、金につられて集まって来た者もいました。これに豊臣譜代の大野治長を含む大野三兄弟や木村重成が加わり、大坂籠城軍が編成されました。

家康は大坂城を望む茶臼山に本陣を構え、大坂冬の陣は始まりました。この冬は厳しい寒さでしたが、家康は短期決戦は避け、包囲網を狭めていきました。
その裏で講和のための外交戦を始めました。その主役は本多忠純と、金銀改役(きんぎんあらためやく)の後藤庄三郎でした。織田有楽斎・大野治長などに働きかけました。有楽斎は元来和睦に熱心でした。治長は強硬派でしたが、軟化していきました。しかし、秀頼だけは講和に反対でした。
家康は砲撃を強化しました。そして、大筒で淀殿のいる所に撃ち込ませました。淀殿がいる櫓は崩れ、側にいた女房達が負傷しました。このため、強気であった淀殿が弱気になってしまいました。これにより、秀頼も講和に傾いていき、12月に妥結しました。

この講和には付帯条件がついていました。臨時の惣濠や矢倉の取り壊しは関東方が行う、二の丸の石垣・濠・矢倉の取り壊しは大坂方が行うというものでした。
関東方は突貫工事で終了しました。そして、そのうちと考えていた大坂方に対し、手伝いを申し入れて、二の丸・三の丸を埋め立ててしまい、本丸だけを残す裸の状態にしてしまいました。
家康は更に、城中の牢人を全部追放するように通告しました。これに対し、大坂方は、新たに牢人を召抱えました。家康は、大坂方が再挙を謀っているとして、1615(元和元)年4月、再び大坂城攻撃を指令しました。これが大坂夏の陣の始まりです。

大坂方は城外に出て、不利な戦いをせざるを得ませんでした。塙(はなわ)団右衛門・後藤又兵衛・薄田兼相(すすきだかねすけ)・毛利勝永・木村重成らは、奮戦むなしく戦死しました。長宗我部盛親も敢闘しますが、捕らえられ獄門に架けられました。
真田隊は最後の決戦において、家康の本陣を突き崩し、家康に迫りますが、家康は危機を脱します。そして、真田幸村以下全員が玉砕します。
大坂城は炎上します。大野治長は秀頼の妻、千姫(秀忠の娘)を城から脱出させ、使いを出して、家康に秀頼母子の助命を嘆願させました。
しかし、その望みは認められず、秀頼・淀殿の母子は、大坂城中で自殺しました。豊臣氏はここに滅亡します。この時をもって、武をしずめるという意味で、後世、元和偃武(げんなえんぶ)といわれました。
 
この年、1615(元和元)年、豊臣氏が滅亡した後、一国一城令が公布されました。大名の本城を除く全ての支城を破却するように命じました。
次いで、「武家諸法度」13条、「禁中並公家諸法度」17条が公布されました。
「武家諸法度」では、大名や家臣の反逆の摘発、居城修理の許可制と新築の厳禁、参勤交代の作法などを規定しています。
「禁中並公家諸法度」では、天皇を政治から遠ざけるように仕向けています。官位の内、武家の分は、幕府が取り扱うようにしました。そして、各宗法度も発布し、寺院統制も厳しくしました。

朱子学を世界観の原理として、学問の理想を政治に実現しょうとして、新しい権力に働きかけようとしたのが、儒学者藤原惺窩(せいか)でした。家康には「貞観政要」を講義しています。
しかし、自分の信ずる道の実現が彼らによって実現できないことを悟り、退隠を決意しました。惺窩によって、林羅山は、その学力と志を認められ、激励されました。
京都で売り出し中の新進気鋭の儒学者林羅山は、1605(慶長10)年、家康と出会い、その2年後、招きを受け、駿府と江戸に行き、俸禄を与えられました。

家康は生来頑強でしたが、40歳を過ぎると、色々病気にかかり、薬好きでしたので自分で調合した薬をよく飲んだようです。
1616(元和2)年、家康は発病します。そして、次第に悪化していきます。枕元に本多正純・天海・崇伝を呼び、遺体は久能山におさめ、葬儀は増上寺で行い、位牌は菩提寺の三河大樹寺に立て、一周忌の後には、日光に小さい堂を建てて、勧請せよと言い渡しました。家康は75歳で逝去しました。
家康の遺体は久能山に移され、造営された廟地に葬られました。
家康の死後、駿府政権は瓦解しました。本多正信は家康を追うように亡くなりました。駿府詰めの番士や女中は江戸帰任が知らされました。そして、江戸神田山が切り開かれて、彼らの宅地がつくられました。このため、神田山は駿河台と呼ぶようになりました。

平安時代に神と仏は本来同一のもであり、日本で仏が形を現したのが神であるという、神仏習合思想が成立しました。しかし、鎌倉時代以降、仏教から神道を独立させようという動きがありました。朝廷神祇官である吉田家の唱える唯一神道、伊勢外宮神職度会(わたらい)家の奉ずる伊勢神道などがあります。
山王一実神道は天台宗と神道の習合した神道で、山王は比叡山の神で、権現とは、仏が人間に分かる形をとって現れるということでした。
家康を神葬するのあたり、崇伝は吉田神道を支持し、天海は山王一実神道で祀ることを主張し、論争となりました。前者の神号が大明神、後者は権現です。結局、30歳も年長の天海の主張が通り、朝廷から提示された中から、東照大権現の神号が決まりました。
家康の一周忌を期して、久能山から下野国日光に改葬されました。この時築かれた社殿は立派でしたが、3代将軍家光によって改築された日光東照宮社殿は更に大きく豪壮なものでした。

 

1616(元和2)年、キリシタン禁令と貿易統制を規定した法令が出されました。この年、家康は亡くなり、神として祀られることが決まっていました。秀吉を豊国大明神として祀られていましたが、神号は剥奪されました。
キリシタンの存在は一切許さない状況になっていました。厳しい弾圧が始まりました。その重点は宣教師と寺院に置かれました。
キリシタン大名有馬晴信が自殺させられた後、本領地肥前高木郡(島原半島)は、その子直純(なおずみ)に与えられました。直純は転宗していました。家臣にも転宗を迫りましたが、うまくいかず、家康はこの地の統治は無理として、直純を日向延岡に移封しました。
代わりにこの地に転封されたのは、板倉重政でした。重政は、大坂の陣での武勇が知られていました。重政は半島南部の日野江城に入りますが、後、北部の島原に築城しました。
 
元和二年の法令は、将軍の上意をしたためた奉書形式で出されました。それは、本多正純・安藤重信・土井利勝・酒井忠世(ただよ)・酒井忠利の連署によるものでした。
駿府政権に属していたのは正純ひとりで、他は将軍秀忠の側近でした。重信・利勝・忠世が江戸年寄衆、後の老中で、忠利は江戸城留守居、次代将軍家光の補佐役でした。

1617(元和3)年、秀忠は、大軍を率いて上京しました。伏見城に入った秀忠は、大名の転封を行いました。譜代大名を大坂防衛のために、摂津・播磨に投入しました。この時、信濃松本城の小笠原忠真(ただざね)は播磨明石城に10万石の大名として入っています。
上洛中、秀忠は、禁裏・御所・関白・摂家・門跡・宮家に銀子(ぎんす)を配っています。そして、大和の長谷寺と越前の永平寺に法度を下し、山城・大和を中心にした皇室と関係の深い寺社の所領を安堵し、豊臣氏と縁の深い外様大名を改易(領地を没収し、家を断絶すること)・転封を行いました。

1619(元和5)年、秀忠は再度上洛しました。上洛中、福島正則に安芸・備後両国の召上げと津軽への転封を命じました。
広島城の無断普請が法度違反したので、本丸だけを残して全て破却し、子の忠勝を上洛させ、忠勝の子二人を江戸に差し出すように申し渡していたのに、実行されなかった末の沙汰でした。
津軽氏を信州川中島に、正則を津軽に転封予定でしたが、正則を川中島に転封しました。
同じように無断での城普請を理由に本多正純が失脚し、朝廷には勅許紫衣法度の励行を迫るなど、法度による政治が進められました。

福島正則の事件後、幕府は大名の大規模な移動を行いました。広島城には、外様の浅野長晟(ながあきら)を入れ、備後を分割して、和歌山にいた譜代の水野勝成を入れ、福山城を築かせました。
駿府にいた徳川頼宣(よりのぶ)を和歌山に入れ、紀伊・伊勢を領知させました。これにより、尾張・紀伊・水戸の御三家が確定しました。
駿府城は幕府直轄となり、城番が入れられました。大坂城も直轄となり、大坂の町には奉行が置かれました。

秀忠の娘和子を後水尾天皇に入内させることは長い間の懸案でした。いよいよ実現かと思われた1618(元和4)年、およつ御寮人が後水尾天皇の皇子を産んだため、徳川家は許されざる事柄のため、延期となり、藤堂高虎が上洛して善後策を講じました。
翌年、再び、およつ御寮人が皇女を産むことになり、藤堂高虎は近衛信尋(のぶひろ、後水尾天皇の弟)と相談しています。この時、天皇は信尋に譲位の意向を表明しました。
秀忠は天皇の近臣を風紀をみだしたとして配流や出仕停止にしました。この時、朝廷の信任の厚かった京都所司代板倉勝重を罷免し、子の重宗を就けました。しかし、再び天皇は譲位の意向を告げました。
藤堂高虎は城普請に優れていて、江戸城をはじめ膳所(ぜぜ)・伏見・篠山城などの工事を行っています。家康の信任が厚く、高虎は和子入内を遺言されたといわれています。
高虎は懸命に説得しますが、天皇の翻意がなく、高虎は強硬な態度に出ます。このため、天皇も折れ、入内が決まり、1620(元和6)年、徳川和子が入内しました。

女御として入内した和子は1623(元和9)年、女一宮を産み、翌年中宮となりました。この年、秀忠は将軍職を家光に譲り、大御所と呼ばれました。
秀忠は上洛して二条城に入りました。家光は、京都防衛のため新装された淀城に入りました。この年、伏見城は取り壊されました。
秀忠は二条城に天皇を迎えました。二条城への行幸は豪華絢爛で、天皇・中宮・公家・門跡への献上も莫大でした。

秀忠も家康と同様に多くの大名を改易していますが、家康が法度違反の口実の外様大名の改易が多いのに対し、秀忠は世嗣断絶の理由による一門・譜代大名の改易が多かったといえます。松平忠輝・忠直の改易、本多正純の改易などがあげられます。

秀忠の正室は江与(えよ)の方です。江与の方は於江(おごう)・小督(おごう)ともいいました。浅井長政と織田信長の妹市の三女です。上の姉が茶々、秀頼の母淀殿で、下の姉が初、京極高次の夫人になりました。
江与は大御所の妻、天皇・将軍・関白達の母で、秀忠を織田・豊臣氏と結びつけ、皇室・公家、更に大名達との絆を結びつける結節点にいました。

 

村上当安は、文禄年間、マニラから輸入した壷の件で、取調べのため、秀吉に呼び出され、かえって気に入られて、長崎代官に任命されました。しかし、イエズス会の報告によりますと、イエズス会の後押しにより地位を築いたにもかかわらず、江戸幕府の最初の禁教令が出た頃、早くも棄教したといわれています。
マードレ=デ=デウス号事件を契機に、長崎奉行長谷川藤広と村上当安は、生糸価格決定の主導権を握ろうとしました。
長崎での当安のライバルは末次平蔵でした。当安にとって長谷川藤広が死去し、弟権六が奉行になり、権六が平蔵と結びつくという不利な状況になってきました。
平蔵も朱印船の経営者で、キリシタンでしたが、棄教していました。当安と平蔵は親戚関係もありましたが、平蔵は当安が不正を働いているとして、幕府に訴えました。平蔵は当安が修道士をかくまったこと、次男に武器、弾薬を持たせて大坂城の秀頼の元に行かせたこと、長崎でのキリスト教の聖行列に参加したことなどを暴露しました。当安は処刑されました。彼とキリスト教の関係は布教の保護者ということができます。

1618(元和4)年と翌年、幕府は京都と長崎でキリシタン弾圧を行っています。宣教師を盗賊と同列に扱い、宣教師をかくまっただけでも処刑されるようになりました。
諸大名は幕府の取り潰しを恐れていました。更に、大坂方に加担したとの容疑を加えて、キリシタン禁令を推進しました。領内での厳しい処置を取ったのは、転宗した大名でした。大村純頼、長谷川藤広、細川忠興らは厳しい弾圧を加えていきました。
1620(元和6)年、イギリス船とオランダ船が1隻の朱印船を台湾海峡で捕らえて、平戸に入港しました。オランダとイギリスはスペインの日本侵略を阻止しているので、宣教師の来航を止めるため、ルソン・マカオへの渡航朱印状を与えないように上申しました。
平戸の松浦隆信は、長崎奉行長谷川権六・代官末次平蔵の援けを受けて、拷問による詮議の結果、外国人宣教師が判明し、2年後、2人と船長の平山常陳が長崎に送られ、火刑に処せられ、他の乗組員も斬首に処せられました。
同じ年の1622(元和8)年、長崎の西坂の丘で、外国人及び日本人の宣教師と、宣教師に宿を貸した者25人が磔に架けられ、火刑に処せられました。その前では、信徒やその妻子達30人が斬首されました。

 

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