江戸時代1

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江戸時代1
4.寛永期
 

1627(寛永4)年、幕府は、家康の下した法度がないがしろにされているとし、元和以降に授けられた五山十刹の入院・出世と、浄土宗の僧侶に上人号を与えた綸旨は無効と宣言しました。
紫衣を着るような高位の寺の住持職は、勅許の前に幕府の承認を得なければならないとされていました。大徳寺では、抵抗する派と従順な派がありました。一致して抗議することになり、沢庵が執筆し、他の2人の長老が連署して意見書を上申しました。法度に挑戦したこの事件を紫衣事件といいます。
2年後、金地院崇伝・南光坊天海・藤堂高虎が沢庵の処分を相談しました。厳しい処置を崇伝は主張したのに対し、3人に分ける軽い処分を天海は主張し、この処分が決まりました。

この処分が決定しょうとした頃、天皇は譲位の決意を固めました。この頃、家光の乳母福が伊勢神宮と愛宕社に家光の疱瘡回復の願をかけていたため、そのお礼に代参し、天皇への参内拝謁を願いました。参内拝謁により、福は春日局となりました。
後水尾天皇の譲位の意志に、当初秀忠・家光は立腹しますが、遂にはこれを認め、女一宮興子内親王7歳が即位し、明正(めいしょう)天皇となりました。
女帝は飛鳥・奈良時代に6人8代が出て以来で、この後現在まで、後桜町天皇の例があるのみです。
後水尾院は、譲位と同時に院政を行うつもりでした。しかし、上洛した老中酒井忠世・土井利勝は所司代板倉重宗と金地院崇伝を伴い、摂政以下摂家衆に、女帝の補佐に万全を期し、公家の法度を厳守することを申し入れ、院政の企ては果たせませんでした。

1632(寛永9)年、大御所秀忠は亡くなりました。この年、加藤忠広の処分は、家光の権威を示すためにも、厳しいものであったといわれています。
加藤忠広は清正の子で、肥後の大名でしたが、その子光広とともに改易処分となり、父子は別々に大名にお預けの身となりました。理由は光広の不祥事と監督不行き届きというものでした。肥後国仕置のため、上使が派遣され、熊本・八代城が没収されました。

この年、肥後と豊後3郡合計54万石に細川忠興の子忠利を転封させました。細川忠利のいた豊前小倉に明石から譜代の小笠原忠真(ただざね)を転封させました。小笠原長次は播磨竜野から豊前中津へ、忠真の弟忠知(ただとも)は豊前杵築へ、摂津三田から松平重直を豊後竜王(大分県安心院町)に転封させました。豊前・豊後は譜代によって抑えました。

秀吉は島津の抑えとして、肥後に子飼いの加藤清正を置いたともいわれています。幕府が信頼の置ける細川家を肥後に入れたのも、対島津の考えがあったと思われます。
加藤氏改易の時、島津家久は、家臣の石高に応じた軍役に整備するように国許に指令しました。転封の経験のない大名は、戦国以来の在地領主制の名残が残り、大名の命令が届かないため、そのような大名は、改易の危険がありました。
石高に応じて軍役を整備する制度は、幕府の意志として強制され、幕府に対し、主君に対し軍役を負担させるため、大名の家臣に対する統制力を強化しました。

加藤氏改易の同じ年、幕府は駿府大納言徳川忠長を上野高崎城に幽閉しました。忠長は家光の弟で、幼少の時より利発でした。しかし、2年ほど前よりおかしくなり、酒を飲んで家臣を手討にし、その犠牲者は多数にのぼっていました。
秀忠の娘婿の越前福井の領主であった松平忠直がやはり乱行のため、豊後に流され、配所生活を送っていたため、忠長もそのようになるのでないかという噂がもっぱらでした。
忠長の行状が沈静した折に駿府から甲府に移されました。この頃、父秀忠の病が重くなり、忠長は見舞いを申し出ますが、許されませんでした。秀忠の死後、高崎に幽閉され、翌年の1633(寛永10)年、自刃しました。

この年、松平信綱・阿部忠秋・堀田政盛・三浦正次・太田資宗(すけむね)・阿部重次の六人衆が置かれ、翌1634(寛永11)年、彼らが後の若年寄の職務である旗本の掌握、京・大坂・駿府その他の城番・役人以下の支配が定められました。
この頃、譜代大名の軍役・普請役も確定されました。この様な制度化は、改易・転封により譜代大名の数と知行高が増えたことにあります。そして、譜代の中に大名と旗本という新しい身分ができ、それぞれ別の編成を受けるようになります。

この頃、幕府は江戸を中心とした関所の制度を整備しています。謀反のための鉄砲が江戸に入り、江戸に人質としている大名の妻子が逃げないように、いわゆる、入鉄砲に出女を関所では監視したといわれています。
1631(寛永8)年、関東一円の関所に、手形を持っていない者の通行を禁じる指令を出しました。これに先立ち、必要な道を残して関所を置き、その他の道を閉鎖し、関所と関所の間は柵でふさぐようにしたといわれています。

江戸城は家康が将軍になった直後より、諸国の大名に命じて普請を始めました。秀忠の時代にも続き、家光になって完成しました。
1629(寛永6)年の工事は、濠と石垣の修築が中心で、大手門や諸門が築造され、小堀遠州作の西の丸の庭園も完成しています。
1635・36(寛永12・13)年、二の丸・三の丸の規模を修正し、外郭の大工事が行われました。1637(寛永14)年には天守閣が新たになりましたが、1639(寛永16)年火事で消失しています。

統治機構は、大御所の死去により、将軍の下に掌握されることになりました。1634(寛永11)年、老中と若年寄の職務内容が定められました。老中は、大名を統括し、普請・知行割り・国絵図などを担当し、朝廷・寺社との関係、外交・財政など幕府の公儀の側面を担当しました。
若年寄は、旗本や一万石以下の武士を統率して、江戸城をはじめ京・大坂・駿府などの諸城と城下の軍事・行政を担当しました。
1635(寛永12)年、武家諸法度が全面改訂されました。林羅山・弟の永喜によって作成され、家光が決定しました。この法度で、大名の参勤交代が確定されました。それともに、大名身分が定まり、領国統治の責任が明確となり、幕藩体制の基礎が与えられました。

 

1623(元和9)年、イギリスは、東南アジアでオランダと競争に敗れ、日本との貿易の基地が持てず、平戸商館を閉鎖して、日本から撤退しました。同じ年、宣教師の潜入を警戒し、日本人のマニラ渡航を禁じ、ポルトガル人を日本から追放しました。
翌年、通交と貿易回復のため、ルソン総督が来日しましたが、幕府はこれを拒否し、スペインと断交しました。
シャムのアユタヤで、朱印船がスペイン艦隊に捕らえられたり、シャムでは、山田長政が王位継承の紛争の中で毒殺され、日本人町が焼き払われたり、朱印船貿易で親密な国との交通も冷却していました。

こうした中、オランダ東印度会社は着実に勢力を拡大し、台湾に基地を築いていました。ところが、台湾は朱印船の渡航地であり、中国貿易の中継地でもありました。
オランダの台湾長官と長崎代官の末次平蔵は激しく争い、事件も起き、日本とオランダは1628(寛永5)年より4年間断交しています。しかし、オランダは台湾長官を幕府に引き渡すことにより、解決を図りました。
この様に諸外国との断交が行われていた時期、その地位を固めたのが中国からの来航船でした。福建方面からの唐船が薩摩・肥前・筑前の各地に来航しました。長崎に大部分の唐船は入港しました。しかし、1635(寛永12)年には、入港するのは長崎のみに限るようにしました。

この時期、朱印船はコウチ・シャム・カンボジア・トンキン・パタニ・台湾の各地で活動していました。末次孫左衛門・角倉与一・茶屋四郎次郎・平野藤次郎といった豪商が活躍しました。
この活動の原因は、中国人が望む銀資本を持って行ったこと、日本町などの日本人移住者が商品の買付・集荷を行ったこと、朱印船経営者が市況に通じ、海外と国内の市場の結合に強みを持っていたことがあげられます。
朱印船には、当初西国の大名はかなり参加していましたが、1612(慶長17)年以降はその姿は見えません。しかし、手を引いたのかといえば、そうとはいえず、密かに手を出した節はあり、そのことが唐船を長崎に集中させるように統制を強めた背景にあります。

1630〜32(寛永7〜9)年に長崎奉行竹中重次が発行した渡航許可状があり、松浦隆信・松倉重政と竹中本人が朱印船を派遣しています。この時代幕府の高官の中にも、貿易投資を行う者がいました。こうした中、利益の分け前を巡る暗闘がありました。丁度この頃、貿易の実権を掌握していた末次平蔵が死去しました。
肥後国仕置のため上使達が九州入りすると、黒田家のお家騒動が表面化し、竹中重次の不正が明らかになり、1633(寛永10)年、重次は長崎奉行を免職となり、翌年、切腹となりました。
重次に対する訴状は2年前に出ていました。その2年前の1631(寛永8)年、朱印船を重ねて渡航させる場合、その都度、老中の奉書を長崎奉行宛に出すという奉書体制が発足しました。
これにより、将軍から朱印船経営者への朱印状と老中から長崎奉行への奉書の二つの文書が必要となり、幕府機構における指揮系統が整備されました。竹中重次の失脚により、長崎奉行は大名クラスから旗本クラスの二人制となり、1年交替で勤めることになりました。
 

1634(寛永11)年、幕府は、長崎の富裕な町人に海中を埋め立てて出島をつくらせ、1636(寛永13)年、あちこちに居住していたポルトガル人をここに住まわせました。
1633〜39(寛永10〜16)年にわたり、鎖国令が厳しく定められました。まず、日本人の海外渡航が禁止され、帰国も禁止され、寛永12年には完全に禁止となりました。
次にキリシタンの取締りを行っています。伴天連の密告者の褒賞は次第に引き上げられています。そして、島原の乱後の寛永16年、ポルトガル船の来航が禁止されました。

ポルトガル人との混血児は既に海外に追放されていましたが、同じ年、オランダやイギリス人との混血児とその母をジャカルタに送るように命じました。この中の一人がジャカタラお春でした。
1640(寛永17)年、平戸のオランダ商館は取り壊されました。そして、商館長はこの年以降、毎年交代し、その挨拶に江戸に参府することになりました。翌年、オランダ人は平戸を離れ、長崎の出島に移されました。

日本人の海外渡航が禁止されたため、貿易は外国船によって行われるようになりました。輸入商品の取引は白糸の値段が立てられ後初めて行われました。この値段は一括購入価格で、その取引方法を含めてパンカダと呼ばれました。
東南アジアの諸国では、パンカダの当事者は市民や商人の代表でしたが、日本では将軍であり、その命を受けた長崎奉行でした。商人は代理人であり、一括購入した生糸の一部を分担し、また後で分配してもらったに過ぎませんでした。
糸の値段が決まると、倉庫の封印が解かれ、商品の販売が始まりました。その中心は中国産の生糸でした。絹織物、綿織物、毛織物、牛・鹿・鮫などの皮革類、鉛・錫・水銀などの鉱産物、染料、木材、漆、砂糖、薬などが輸入されました。
輸入生糸をパンカダによって京都・堺・長崎、後に江戸・大坂が追加されて5箇所の特定の商人に独占的に購入させ、国内市場への転売により生じる利益を一定率で配分しました。これを糸割符制度といいます。長崎での貿易体制が確立すると、パンカドと糸割符は同一のことを示すようになっていました。

 

対馬は土地がやせていて、古くから、漁業と交易で生計を立てていました。朝鮮との通交の窓口は鰐浦でした。ここに領主の宗氏は国境の番所を置きました。
1636(寛永13)年、最初の朝鮮通信使が来日しました。その規模は正使以下475名の大使節でした。
通信使は釜山から鰐浦に渡り、府中(厳原)に入りました。日程が決まると、船で瀬戸内海を通り、大坂で船を下り、淀川を川舟で淀に入りました。そして、東海道を通り、江戸に着くというのが行程でした。
使節は江戸城に入り、家光に謁見しました。将軍家光に正使より国書の奉呈があり、その後饗応となりました。使節からは、将軍・御三家・老中などへの進物がありました。道中では、一行に対し、大名達の警固や接待がありました。

幕府はこれ以前の使節も通信使と思っていました。しかし、朝鮮は幕府からの国書への回答の使いであり、文禄・慶長の役で日本に捕らえられた捕虜を送還する使いと考えていました。朝鮮との交易を切実に望んでいた宗氏はこの間で策略を凝らしていました。

捕虜の総数は5・6万人で、慶長年間から43年間に送還されたのは7500人以上といわれています。しかし、九州・中国地方の陶磁器産地の工人や織物・印刷などの技術者は、どの大名も手離したからず、日本の地に埋もれていきました。
幕府の態度は、捕虜でわずかに残っていた者も子や孫の代になっていて、帰りたいものはいないというものでした。朝鮮も今回の使節は通信使として来日しました。このため、日朝の戦後処理はこの年の使節で終結したものといえます。

シベリア沿海州から中国東北部にいた女真族はヌルハチを王として、1616年、後金(こうきん)を建国しました。明の衰退に乗じて、遼陽ついで瀋陽に都を移しました。このため、朝鮮の北境は後金に制圧されました。
朝鮮の仁祖は後金と戦いますが、ヌルハチの跡を継いだ太宗の攻撃を受け、国内まで攻め込まれていました。通信使が帰国したのはこの頃です。
この間、後金は大清国と国号を改めました。朝鮮は清の冊封体制の下に入りました。1644年、明では大飢饉で、各地に反乱が起きました。その期に、清は北京を占領し、ここに首都を移しました。
日本から朝鮮への使いは釜山浦の倭館に留められました。いわゆる釜山倭館は交渉や接待の客館のほか、貿易場でもありました。日本側は宗氏が行い、朝鮮側は政府か私人が行い、それにより公私の区別がありました。宗氏は倭館の一部の営繕・管理を行い、館守のほか担当役人・僧侶を置きました。
白糸・人参・木綿などを輸入し、銀・銅や南方からの胡椒・水牛角などを輸出しました。

 

1634(寛永11)年、家光が上洛していた二条城に、琉球国中山王尚豊の使者の三王子が、島津家久に率いられて訪れました。1644(寛永21)年にも家綱誕生の賀使として二王子が派遣され、日光にも参詣しています。
琉球国中山王の称号は中国皇帝の冊封を受けることによる進貢貿易を続けるためのものでありました。鹿児島に人質を駐在させ、王の継嗣や重職者の任免は島津氏の承認が必要でした。

北海道渡島半島では、鮭と昆布の採取と販売が盛んで、松前氏は海辺を家臣に分割して与えました。この商場(あきないば)に、家臣は本州の商品を持ち込み、アイヌ人と交易し、アイヌの産物を松前で日本の商人に売り、利益を上げました。これを商場地行制といい、松前氏は石高を持たない大名でした。
鮭と昆布に代わって鰊(にしん)がその重要性を増してきます。これは、綿などの特産物商品の生産が盛んになるにつれ、農産物反当り収量を引き上げることに関心が集まり、鰊は干鰯(ほしか)とともに金肥の主力になったためでした。
元和・寛永期、松前や蝦夷地では砂金の発見により、数万人の本州人が渡来しました。砂金は川床から採掘するため、河川の漁業権を共同体の財産とするアイヌ人の生活を脅かし、アイヌ人の内部においては、集団同士が漁業権を巡って争い、大反乱へと展開しました。

 

1636(寛永13)年、幕府は寛永通宝を鋳造しました。寛永通宝4貫文で金1両にすることを触れ、私鋳を禁じました。大名領国においても、鋳銭が行われていました。
豊前細川氏は、1624(寛永元)年、新銭を鋳造し、領国内の流通を図りましたが、うまく通用しませんでした。幕府は大名から銭貨鋳造権を取り上げ、寛永通宝を大名に買わせ、銭貨の急速な流通を図りました。
1637(寛永14)年、寛永通宝の鋳造のため、銅の輸出が禁止されました。しかし、銅銭の輸出は許され、インドシナ半島やオランダ統治下の地域では日本産銅銭が流通しました。

1636(寛永13)年、日光山東照宮が造替されました。完成までに1年5月かかっています。この時、35棟の建物が造り替えられ、全ての費用は幕府が支出しました。
日光には朝鮮通信使や琉球賀慶使が参詣しました。オランダ商館長からはシャンデリアが献上されたり、後には色々な灯架が献上されています。

 

島原半島はキリシタン大名の有馬氏、その北は同じく大村氏の故地でした。有馬氏は家臣を統制できず、転封を願い出ました。大村氏は信徒を弾圧し、家臣団の統制を強化しました。
有馬氏の本拠であった島原半島の南部に旧家臣達は在地していました。新領主の松倉重政は居城を南部の日野江から、北部と南部の境目の島原に移し、1618(元和4)年から7年を費やして、島原城を築城しました。

当初、松倉重政はキリシタンに寛大だったといわれていましたが、家光自らの叱責により、重政は1627〜31(寛永4〜8)年にかけて、残忍なキリシタン弾圧が行われました。水責め、穴つるし、針刺し責め、竹鋸引きなど、それに温泉(うんぜん、雲仙)岳で煮えたぎる硫黄の熱湯をかけるなどの拷問・刑罰が行われました。
松倉重政が亡くなり、その子の勝家が跡を継ぎます。その年領内の検地を行い、年貢をかけました。本年貢の他、様々な小物成や租税を徴収しました。
高い収奪のため、未納や延納が続出し、これに対し、両手を縛って、蓑を着せ、それに火をつける蓑踊りや色々な手段で辱めを加えました。

天草も事情は島原と変わりはありませんでした。キリシタン大名小西行長が関ヶ原の戦いで滅びると、天草は肥前唐津城主寺沢広高が領知しました。
天草を検地し、下島の富岡に城を築き、唐津から番代を派遣しました。他に河内浦・本渡・栖本に郡代を置き、民政に当たらせました。
寺沢氏のキリシタン弾圧も惨烈を極めましたが、信者の組織も深く潜行しました。

島原・天草地方は、1634(寛永11)年以来、凶作に見舞われ、松倉氏は対策もなく厳しい取立てを続けるだけでした。1637(寛永14)年、島原領の百姓が一揆に立ち上がり、島原城を包囲しました。
ここで天草四郎が登場します。四郎は肥後宇土の小西行長旧臣益田甚兵衛の子といわれ、父はキリシタンでした。四郎は子供の頃から才知をうたわれ、長崎で勉学し、信者になりました。

四郎の周りには、5人の牢人グループがあり、彼らは事前から四郎を担ぎ、百姓一揆に結集させるシンボルとしました。
キリシタンにとって色々な儀式は欠くことのできないもので、多くの信者が転宗したのは、儀式を司祭する宣教師が訪ねて来なくなったことが大きな理由になっています。四郎はキリシタンの弔いや宗旨の勤めをして回りました。
四郎のこれらの行いに、転宗を余儀なくされた百姓達はすがりつきました。牢人グループは自然界の変異を予言と結びつけ、四郎を天の使いだと説きました。
転宗した信徒が再び信仰に戻ることを立ち上がりといいました。天草ではこの年、立ち上がりが始まりました。富岡城代は唐津に援軍を頼みました。

一方、島原城を囲んだ一揆勢は堅固な城と鉄砲に阻まれました。天草の蜂起を聞き、四郎がまずは天草を固めようと言ったのに対して、島原勢は上島に上陸して、天草勢と合流しました。
一揆勢は上島で唐津勢と衝突し、下島の本渡まで押し返しました。本渡を攻撃されて富岡城代は戦死し、唐津勢は富岡城に立て籠もりました。
一揆勢は壮烈な城攻めを行いました。しかし、城攻めに失敗し、一揆勢は敗退します。一揆勢全ては島原半島の口ノ津に引き揚げました。

四郎は要害の地に立て籠もって、時間を稼いでいるうちに、九州の中で宗旨に立ち帰り、寝返る人も出るであろうと言い、一揆勢は原城に籠城することになりました。
原城は三方が切り立った崖で、海に囲まれ、一方が街道に面していました。島原築城の際、石垣・塀なども解体して運ばれていたのを急ぎ修築しました。原城には3万7千人が立て籠もりましたが、老幼婦女子が1万3・4千人いたといわれています。

幕府においては、1637(寛永14)年11月、討伐の上使に京都所司代板倉重宗の弟重昌(しげまさ)が決まり、江戸を出立して、大坂から船に乗って小倉に到着しました。
12月10日攻撃は開始されますが、数百人の死傷者を出して敗退します。12月19日から本格的な城攻めを行います。塀や柵などの仕寄(しより)をつくって、城に近づきます。
包囲軍は松倉・鍋島・板倉・有馬・立花勢の3万4千人程でした。しかし、大名同士の協調が悪く、一揆勢は攻め手を十分引き寄せて、的確な反撃を加えて、大損害を与えました。

諸国のキリシタンが連鎖的に蜂起することを幕府は恐れました。九州はキリシタンの本拠であるのに、譜代の勢力が弱かったため、九州の外様を抑え、幕府の威信を保持するため、老中松平伊豆守信綱と美濃大垣城主戸田氏鉄(うじかね)が上使に任命されました。12月28日、信綱は小倉に着きました。

12月29日、板倉重昌は軍議を開き、1月10日か20日に城攻めを行うことを決めました。しかし、翌日、元旦を期して城攻めを行うことを命令します。これは、兄嫁の父の戸田氏鉄からの、自分達が到着する前に落城させろとの書状のためと思われます。
準備不足のため、結果は惨憺たるものでした。攻め手が遠い時は、弓・鉄砲で撃たれ、石垣に取りつくと、大木・大石を落とされ、壁を乗り越える時は、鑓や長刀で突き落とされました。寄せ手は抜け駆けの功を焦るため、城内から集中的に反撃されました。
この状況を見た板倉重昌は、陣頭に立って采配を振るいましたが、城方の狙い撃ちにより、銃弾を受けて即死しました。

松平信綱は1638(寛永15)年1月2日島原に到着しました。信綱は城攻めを停止し、持久戦に入ることを決め、諸大名に出動を命じました。1月下旬から2月初旬にかけて諸大名は島原に着陣しました。
以下その陣容を見てみます。松倉勝家(肥前島原)・鍋島勝茂(肥前佐賀)・寺沢堅高(肥前唐津)・細川忠利(肥後熊本)・有馬豊氏(筑後久留米)・立花宗茂(筑後柳河)・黒田忠之(筑前福岡)・黒田長興(筑前秋月)・有馬直純(日向延岡)・小笠原忠真(豊前小倉)・小笠原長次(豊前中津)・松平重直(豊後高田)・水野勝成(備後福山)など総勢12万5千人となっています。

湿田を埋め、道をつくり、築山を築き、井桁に組んだ矢倉をつくりました。仕寄の塀・柵を二重三重にむすんで、しだいに仕寄を前進させました。ゆっくりと城内の糧食が尽きるのを待ちました。
1月12日海上にオランダ船が停泊し、城内に砲撃を始めました。オランダ商館長は末次平蔵の依頼で、包囲軍のために、弾薬や大砲の輸送を行っていましたが、信綱が島原到着するとともに、砲撃を命じられました。幕府の要請を受け容れることが得策と商館長は判断しました。
しかし、なぜオランダ人の援助を受けるのかとの声が上がり、武士の面目に関わるという意見が出て、砲撃は中止されました。

1月末頃になると、城中の兵糧は不足してきました。兵糧・弾薬が不足すれば、夜討ちをかけてくることは包囲軍は予想していました。2月21日、一揆勢は夜襲をかけ、激しい戦闘となりました。飢えが浸透し、脱走する者も増えてきました。
2月26日、信綱は総攻撃を命じました。鍋島勢前面での激しい戦闘が始まり、鍋島の抜け駆けとして、全軍が突撃しました。切り捨て、なで切り、突き殺しの大虐殺が行われました。天草四郎は細川氏家臣によって討ち取られました。
一揆勢は全滅しました。包囲軍に内通していた、かっての牢人グループの一人、南蛮絵師山田右衛門作だけが生き残りました。

4月4日、参陣の諸大名は豊前小倉に集められ、上使として来た若年寄の慰労を受けました。松倉勝家は乱の責任を問われ、所領没収され、後、斬罪となりました。寺沢堅高は所領の内天草領を没収され、後、自殺しています。
両家は領民に対する失政で処分を受けました。公儀への奉公とともに、領民に軍役を際限なく転嫁することは許されなくなりました。参陣した大名も家臣への恩賞は自領内で行わなければなりませんでした。

この年、武家諸法度の運用の改定があり、公儀の下知なく領国を動くことができなかったのを、将軍に対する反逆の場合は、幕府の許可なく隣接諸大名の協力で鎮圧するように指示がありました。同時に500石積み以上の大船建造の禁止を、商船に限って解禁されました。

戦功により、松平信綱は武蔵忍(おし)3万石から同国川越6万石の領地を与えられました。島原には譜代大名が入りました。天草は一時外様大名が入りますが、後、幕府直轄地になり、代官が置かれ、鈴木重成(しげなり)が赴任しました。
唐津は寺沢氏断絶の後、幕府直轄地となりますが、譜代大名が入りました。
天草と同じように幕府領の豊後日田にも代官が置かれました。

この年、堀田正盛が老中から家光の側近に回り、中根正盛と2人で家光のブレーンとなりました。土井利勝・酒井忠勝の門閥譜代大名は大老に棚上げされ、彼らの子2人も若年寄から罷免されました。ここに側近2人と老中松平信綱・阿部忠秋の家光体制が成立しました。
この年、大番頭・留守居・先手(さきて)鉄砲頭・先手弓頭などの軍事、三奉行をはじめ、大坂・伏見・駿府・堺奉行などの行政・裁判機関が老中の支配下に属しました。
1644(正保元)年、幕府は国絵図と郷帳の作成を諸大名に命じました。

 

寛永期の産業を見てみます。京都は医薬品、絹を中心にした衣料織物、これに対応した染色、武具とそれに関連する金属工業、美術工芸品及び雑貨品があります。これを見ますと、京都は当時は第一級の手工業都市であったことが分かります。そして、洛外は京都への食料供給地として農産物・加工食品・醸造業が発達しました。

全国的にも、木綿・麻布・絹織などの衣料と鉄砲・冑・鎧・馬具・刀剣・弓矢などの武具生産を中心に発展しています。この時代の新しい衣料の木綿と武具両方とも畿内・九州北部で生産されました。木綿では豊前・豊後・肥前・肥後で生産されました。
他に、畿内と九州北部の共通点としては、美術工芸品を特産としていることがあげられます。筑前の芦屋釜、豊前の上野焼などがありますが、その中心は肥前でした。唐津・伊万里の焼物、唐蒔絵、絵筵(むしろ)、佐賀畳表などがありました。
この当時、畿内と九州北部と東南アジアは美術工芸品の生産と原料供給でつながり、更にヨーロッパの市場とも結びついていました。
当時の輸入品は高級織物及びその加工原料、美術工芸品の加工原料、軍需品の原料、香料・薬品の原料、その他異国の珍品でした。輸出品は銅・銀・鉄・銭、美術工芸品、雑貨品でした。

これら高級品でもなく、一般向けの広い層を対象とする特産品が近畿で生産されるようになりました。特に、木綿と雑貨品の生産が代表的なもので、先進農村と都市の庶民の需要に応じるものでした。

この時代、都市では沢山の牢人がいました。牢人とは禄を失って自家に閉籠している武士のことで、幕末の郷里を離れ、諸国を浮浪した浪人とは異なり、仕官し、新しい主君に仕えることを期待していました。
改易される大名があれば、加増転封の大名もいましたし、優秀な家臣を抱えたい大名は多かったので、その機会の多い都市に牢人達は集まりました。

江戸の後背地の武蔵野一帯は、水利の便がありませんでした。前面の平川・隅田川のデルタ地帯は低湿地でした。江戸の開発は堀を通して溜池の水を流し、掘り上げた土と丘陵の土で低湿地を埋立て、出来上がったところで、後背地から上水道を引くというものでした。
元和・寛永期、平川の流れを小石川からお茶の水へ切り通し、神田川を通し、その上で日比谷入江を埋め立てました。城の西から北へ溜池から平川支流、そして神田川への外濠を掘りました。そして、武蔵野を縦断する玉川上水を建設しました。

江戸は武家の町で、町人の土地はわずかしかありませんでした。しかし、その分離ははっきりせず、武士の消費生活と結びついた経済活動は活発で、都市機能は十分発揮されていました。
江戸の後背地は経済的後進地で、奢侈品は勿論、日常生活物資まで上方から供給されました。菱垣(ひがき)廻船・樽廻船によって上方から回送されました。

大坂に年貢米を回送する西国大名は買物担当を京都に、蔵米担当を大坂に置きました。京都では、高度な技術の手工芸生産が諸大名の注文で行われました。
寛永期、担当者の比重は次第に大坂に重くなっていきました。しかし、大坂は天下の台所になっていませんでした。大名は自力で年貢米を販売していました。あちこちの市場で販売していて、米市場はまだ単一化されていませんでした。しだいに大名の蔵米は大坂に集中し始めていました。こうした状況を読み取る商人は、いち早く大坂に進出しました。

領地の年貢米の販売を、米相場の情報を捉え、敏速そして大量に輸送する手段を持つ大名に、個々の家臣は依存せざるをえませんでした。
幕府への軍役・普請役の負担は、大名の財政を赤字にしましたが、家臣の財政も赤字にしました。大名は、領国統括の権威で借金の肩代わりをするなどで、家臣の従属度は進行しました。
こうして政治単位の藩が形成されていきました。そして、大名領の領国統治の政治的・経済的中枢として、城下町が建設されていきました。

慶長から寛永期は、わが国金銀山が最も繁栄した時代で、但馬生野・石見大森・佐渡相川はじめ多くの金銀山がありました。

江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町、長崎の丸山は代表的な遊郭です。元和・寛永期、これらの遊郭は一つのまとまった地域に隔離された傾城(けいせい)町としてつくり出されました。
京都の傾城町は六条三筋町と称されていました。ここは町が三筋からなり、多くの遊女屋が軒を並べ、吉野・対馬・初音・小藤・石州・土佐・三笠大夫が妍を競っていました。
吉野のような遊女が公家・武士・町衆と対等に交わり、文化的雰囲気を醸すことが広がるのは、身分制を確立しょうとする幕府には、権威を犯す望ましいことではありませんでした。
島原の乱後、幕府が遊女のために城郭を築き、社会的に隔離したのは、傾城町が身分制を超える性格を持っていたためでした。こうして京都の傾城町は島原に移転されました。

寛永10年代は、飢饉が進行し、1642(寛永19)年ピークとなりました。年貢を納めるのが農民にとっての至上命令でしたが、作物が取れなければ身を売るしか方法はありませんでした。また、年貢を納められず、田畑の売却も行われました。このため、1643(寛永20)年、田畑永代売買禁止令が出されました。
大名の財政は軍役に代わって、江戸参勤費用の重圧にあえいでいました。このため、大名は知行制度を改革し、年貢米を個々の知行地で徴収するのをやめ、藩が統一して徴収して換金する体制がつくり出されていきました。
しかし、検地による小農の本百姓達は、この負担に耐えうる生産基盤を確立できていませんでした。農民の立場を考慮して年貢を徴収しなければ自滅することを、大名は飢饉から学びました。
1635(寛永12)年、畿内・近江・遠江・駿河・美濃・関東に初めて巡検使が派遣されました。巡検使は貢租の状態、政道や民情を調査しました。人々の生活の安定を図る立場に幕府は立とうとしていました。

1644年、清は明の首都北京を陥落させました。中国各地で1662年まで抵抗が続きました。鄭芝竜(ていしりゅう)は、唐王を迎えて抵抗しますが、芝竜は清に降伏します。その子の鄭成功(ていせいこう)は、魯王を戴いて抗戦を続け、後、台湾に渡って独立政権を樹立しました。
鄭芝竜は福建省から東シナ海一帯に勢力を持つ海賊の棟梁でした。若い頃、平戸に来ていて、その後、日本に帰順し、長崎の唐船貿易の実権を握っていました。
鄭芝竜が平戸滞在中、日本娘との間に男子が生まれました。その子が成功です。成功は唐王から明王室の姓、朱を与えられました。国姓爺と呼ばれるのはそのためです。
1645(正保2)年、芝竜の使いが薩摩に来て、我国に援軍を請いました。同年、唐王の正使が来日して、重ねて援軍を請いました。家光は大老・老中・御三家らと密議しました。そうこうしている間に清軍に追い詰められ、唐王と鄭芝竜父子は逃亡しました。
唐王は捕らえられて殺され、芝竜は投降しますが、成功は反攻を狙い、日本に援助を求めました。幕府は一度も返答せず、彼らが軍需品や貿易品を積み出して、交易で利益を上げることは黙認しました。
1662(明暦元)年、糸割符は廃止されます。この頃、鄭成功達が生糸貿易に最も勢力を持っていました。パンカド価格は、中国やオランダ商人が利益確保に策動したため廃止されました。
1662年、成功は台湾に入り、勢力を拡大しょうとしますが、この年、父芝竜は殺され、翌年、成功も死去しました。

1649(慶安2)年、検地条令と慶安の御触書が出されました。検地条令では、百姓の死後田畑を子供達が分割所持した場合、分割登録するように決めました。従来は跡継ぎ一人の名義で登録しましたが、小農経営が安定してきたためと思われ、五人組などの相互救助組織が整い、小農中心の農村支配を宣言したものといえます。
御触書は、単位面積当たりの労働と肥料をできるだけ多く投入し、集約農法により、反当り収量を上げようとする考えがあり、零細な百姓を貢納基礎単位に置く農政が始まりました。

この様な百姓を中心に編成される農村の自発的行動と組織を未然に抑止する方策として、宗門改めと寺請檀家制度が登場しました。
1640(寛永17)年、切支丹奉行を置いて、キリシタンの改宗者に宗門を改め、寺がその証明を行いました。しかし、この後、全住民と対象とした宗門改めが実施されました。江戸時代全ての人は、生まれるとすぐに宗門改帳に登録され、家の所属する寺院の証印を受け、村役人を通して領主に報告の義務を負いました。宗門改帳が戸籍の役割を果たしました。
寺請檀家制度は、1635(寛永12)年頃から形成され、その後、宗門改め制度の整備に従い、全国的に成立しました。人々は生まれながらに寺の檀家として帰属し、寺はその人の信仰が邪宗でないことを保証する制度でした。
この制度により、全ての人々が寺と檀家関係を持ち、しかもそれは、家を単位にしたものでした。このため、形式的にどこかの寺院に帰属し、生前から宗旨と檀那寺が決まっていました。
檀家制度は、信仰を空洞化し、寺と檀家は、葬儀と年回の行事にその関係の重点が置かれる結果になりました。
自発的な信仰とその組織を禁じられた農民は、貢納のための共同扶助組織である村と五人組に編成されていきました。

 

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江戸時代1

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