江戸時代1

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4.寛永期

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5.小倉・福岡藩の成立
 

豊臣秀吉は細川藤孝(幽斎)に丹後宮津を与えていました。秀吉の死後、細川氏は徳川氏と関係を持ちます。石田三成が大坂にいた諸大名の妻子を人質として要求した際、藤孝の子、忠興の妻玉子(ガラシャ夫人、明智光秀の娘)はこれを拒否し、自害します。
この時忠興は家康陣中にいますが、丹後田辺城にこもる幽斎の救援を家康に命じられます。忠興が戻ったため、三成軍はこのために兵力を割かなければいけない状況になりました。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、黒田長政は小早川秀秋を寝返らせました。
父の黒田孝高(如水)は中津城にいて、徳川方に付いて、九州の諸大名の動向を監視していました。孝高は大友義統を破り、小倉城の毛利勝信(森吉成)を攻め落としました。

関ヶ原の戦いの結果、豊前国企救・田川郡を領知していた毛利勝信・吉政父子は、西軍に属していたため改易されました。
筑前国と筑後国二郡を領知していた小早川秀秋は東軍に寝返った功により、岡山に転封されました。 

豊前国の企救・田川以外を領知していた黒田長政には、筑前一国52万石が与えられました。
毛利・黒田氏の後の豊前一国と豊後国国東・速見郡の39万石が細川忠興に与えられました。

1600(慶長5)年12月、黒田長政は中津より筑前に入り、初め小早川氏の居城名島城に入りました。
入国当初、福岡藩には一門の黒田利則・黒田直之や井上之房・栗田利安・母里友信(太兵衛)・後藤基次(又兵衛)などの1万石以上の大身が多くいました。
黒田氏は備前邑久(おく)郡福岡の出身といわれます。長政の3代前に備前から播磨に移りました。父孝高は織田信長と結び、秀吉が播磨に入ると、居城の姫路城に迎え入れました。この後、秀吉の中四国の攻略に従います。
黒田家の大身の家臣達は、長政にとっては、播磨以来の盟友的な存在でした。しかし、彼らは改易や領地の削減により、力を失っていきます。

1600(慶長5)年、丹波宮津12万石の細川忠興は、黒田氏の居城であった中津城に入り、門司城に長岡延元(のぶもと)、小倉城には弟の興元を入れました。しかし、関門海峡の向うには、西軍の盟主だった毛利氏が存在し、隣国の黒田氏とは、年貢引継ぎで紛議があり、貿易を志向する点からも、小倉に移ることが便利として、1602(慶長7)年、忠興は小倉城を築きました。
弟の興元は大名になれなかったことが不満で、前年大坂に出て行きました。中津城を三男忠利に与え、忠興は小倉城に入りました。
 

小倉城は東の紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。足立山から紫川に流れ込む寒竹川(神嶽川)も濠に利用し、寒竹川の途中から海に濠を築き、東の外濠(現在の砂津川)としました。東の外濠と紫川の間を町割して、東曲輪(くるわ)としました。
小倉の城下町である曲輪は、北は海、残る三方は濠で囲まれ、中央を紫川が流れていました。曲輪の北には常盤橋(寛永12・3年頃架橋、当初は大橋と呼んでいた)、南には豊後橋(細川氏治世下に架橋)が紫川には架かりました。

小倉城は天守閣である本丸の南北に松の丸・北の丸があり、この中心部は濠で囲まれ、その外側に二の丸・三の丸があり、それぞれ濠で囲まれていました。

1959年(昭和34年)再建された小倉城天守閣

天守閣は五層で、一から四層までは壁が白く、五層は黒く塗られ、四層より大きく造られていました。石垣は足立山から切り出された自然石が使われました。
忠興は諸国に名を高めていた小倉鋳物師のために鋳物師町をつくり、地子と賦役を免じて保護しました。又、鋳物師町に、京都の八坂神社を招請し、祇園祭りを始めています。これが太鼓祇園の小倉祇園として有名になりました。八坂神社は、現在は城内に移されています。

 

一方、小早川氏の跡に名島城に入った黒田長政も、草ヶ江に築城していました。この草ヶ江を黒田氏の出身地である備前国邑久郡福岡に因んで福岡と改名し、1602(慶長7)年、長政は福岡城に移りました。
福岡城の天守閣は初めから築かれなかったといわれていますが、徳川家へに恭順の意を表すため、一度築いたものを取り壊したともいわれています。城と荒戸山を軸に左右に広がる地形から、別名舞鶴城と呼ばれました。

黒田氏が入国した当時、島井宗室や神屋宗湛らの豪商も健在でした。そのため、長政は、博多をそのまま城下町にはしませんでした。しかし、1641(寛永18)年、鎖国体制が完成すると、博多の商人達は海外貿易に従事することはできなくなりました。
しだいに博多は福岡藩の領国体制に組み込まれていきました。それとともに福岡とあわせて博多も城下町の役割を果たすようになっていきました。
 

黒田長政も細川氏と同様に、豊前との境界の警備に重点を置きました。このため、1604(慶長9)年、井上周防之房(すおうゆきふさ)に黒崎城を築かせ、居城させました。三宅若狭家義には、洞海湾の中ノ島に若松城を築城させ、居城させました。このほか、鷹取(直方市)・大隈(嘉穂町)・小石原・左右良(までら、朝倉町)の4城を修築させ、国辺防備のための6端城の構築を進めました。

黒崎城跡の城山

黒崎城主井上之房は、黒田家の大身で、御牧郡(みまきぐん、遠賀郡のことで、1664年までこう呼ばれました。)のうち、1万7000石が与えられました。
黒崎城は洞海湾に突き出た岬の丘にあり、北・東・西は海に囲まれ、南麓には外郭の堀を有していました。城山の南麓一帯には之房や家臣の屋敷が設けられました。これによって黒崎の町が形成されました。城下には民家はなかったため、築城後、藤田村の本村である上の銘(かみのみょう)から人家を移し、藤田村を、隈崎の人家を移して、隈手本村を建て、宿駅とした。これによって、街道は山手側の鳴水村経由の古道から黒崎宿経由に変わりました。

海上交通の重要地点であった若松城には、多くの船を備え、番所を設けて、洞海湾を往来する船を取り締まりました。この中ノ島は、1940(昭和15)年、切り取られ、現在はありません。位置は若戸大橋の下になります。

1615(元和元)年、幕府は一国一城令を発しました。これにより、小倉藩では門司城、福岡藩では黒崎城・若松城などが廃城となりました。この結果、小倉藩では小倉城と中津城、福岡藩では福岡城と秋月城だけとなりました。

 

細川忠興は領内の検地を行いました。その結果、石高は1601(慶長6)年、39万9千石で、そのうち10万石を藩主の蔵入地とし、残りは家臣の知行地としました。
検地を手始めに、忠興は農村の整備を行いました。それは行政上の合理化であり、年貢徴収の基礎を確立するものでした。
1621(元和7)年、忠興は隠居して中津城に入りました。そして、2代目藩主には三男細川忠利がなりました。忠興は中津周辺に隠居蔵入地を持ち、直属の家臣も抱えていました。

1622(元和8)年、人畜改帳(じんちくあらためちょう)が完成しました。これは各村ごとに、戸数・人数・牛馬数・職業を調査したので、本百姓・小百姓・僧侶・神職・鍛冶屋などの職能別に分類されています。しかし、忠興の隠居蔵入地は、手をつけることができませんでした。
検地帳においては、土地を所有し、耕作している者全てが含まれ、そこには名子(半隷属農民)も含まれていたと思われます。しかし、20年の間に、人畜改帳の本百姓(年貢を負担する名請人)に整理されていったことが推測されます。
名子の存在は、藩主と土豪的性格を持つ土着の大庄屋や庄屋層との妥協の産物でありました。
 
忠興は村々には庄屋を置き、その下に、2・3人の肝煎(きもいり、後の方頭、ほうがしら)を置き、20村位で、手永(てなが)という行政区域をつくりました。手永には惣庄屋(後の大庄屋)を置きました。企救郡には7人の惣庄屋がいました。

黒田長政も1601(慶長6)年から検地を始めました。これには6年を要し、1615年からの元和年間にも検地が行われました。
福岡藩は各郡を担当する家老がおりました。これを郡預りといいました。実務は各郡に置かれた郡代役所に郡奉行がいて、その下に大庄屋・庄屋がいました。15〜30位の村の行政単位を触(ふれ)といい、これを大庄屋が管轄しました。大庄屋-庄屋-組頭-組頭取という系列で農村は支配されました。

細川忠利は、金山開発を盛んに行いました。寛永期には呼野と採銅所で採掘されました。呼野では、砂金採取が主でしたが、坑道も掘られました。
金採掘の運上は莫大なもので、米に換算すると、3年分の年貢に匹敵しました。また金山には多くの人が集まり、米の消費量も増えましたが、米は城下の1.5倍の値段で取引され、藩にとっては格好の米市場でした。
金山からは、銀・銅も産出しました。銀は1624(寛永元)年から、平田屋・右田屋の極印を打たせて、丁銀・豆板銀・灰吹銀を通用させました。これらは評判が良く、上方でも幕府のものとともに通用しました。
忠利は銅銭も鋳造しましたが、これは評判が悪く、混乱したため、流通をあきらめ、輸出用に転用されました。

黒田長政も遠賀郡畑・上津役(八幡西区)で金山を開発しました。金山川は上津役の金山に因んだもので、この上流に金山はありました。

細川氏は海外貿易には熱心でした。長崎・下関に入港する外国船から輸入商品を購入しています。1620(元和元)・1625(寛永2)年には、小倉にも唐船が入港しています。
1624(寛永元)年、小倉の商人問(とい)太郎兵衛がコーチ(ベトナム北部)に渡航し、忠興は伽羅の購入を依頼しています。1627(寛永4)年には問紹甫がコーチに渡航しています。

細川幽斎(藤孝)は、千利休の弟子の一人でした。その子忠興は小倉菜園場(さえんば)で、窯を設け、朝鮮陶工尊楷(そんかい)に陶器を焼かせました。この後、田川郡上野(あがの)に、尊楷は移りました。尊楷は上野喜蔵と名乗り、遠州七窯の一つの上野焼を完成させました。

福岡藩の高取焼は、朝鮮出兵の時、陶工八山を連れ帰り、鞍手郡鷹取山山麓永満寺宅間窯で焼かせたのが始まりでした。後、同郡内ヶ磯(うちがそ)に移り、1630(寛永7)年には、穂波郡幸袋白旗山に移りました。
白旗山の時代八山は高取八蔵と名を改め、彼とその子八右衛門が小堀遠州の下で茶陶高取の様式をつくりあげました。その後、上座郡鼓村に移り、隣の小石原村にも窯が開かれました。
1708(宝永8)年、鼓村の御用窯は福岡城下近くの麁原(そはら)に移されました。小石原のは廃窯になりますが、民窯が起こり、日用雑器を生産するようになりました。これが小石原焼です。

細川忠興の妻、ガラシャ夫人は自刃しますが、忠興はその命日には小倉で盛大なミサを行い、キリスト教を保護しました。
しかし、1611(慶長16)年には、幕府の政策に従い、宣教師の入国を禁じました。1613(慶長18)年には信者の弾圧が始まりました。1615(元和元)年には最初の殉教者が出ました。1618(元和4)年には27人が処刑されました。
1619(元和5)年、忠興の再三の勧告を拒否して、1万石の重臣加賀山隼人が処刑されました。1624(寛永元)年が小倉での殉教者の最後でした。1633(寛永10)年、ローマ少年使節の一人ジュリアン中浦は小倉の郊外で捕らえられ、長崎で処刑されました。

 

1632(寛永9)年、肥後の加藤忠広が改易されたあとに、細川忠利が転封されました。細川氏のあとの豊前国の企救・田川・京都・仲津・築城の5郡と上毛郡の一部15万石に播磨明石10万石の小笠原忠真(ただざね)が入部しました。

小笠原氏は、源義家の弟新羅三郎義光が祖であると伝えられ、代々信濃深志の城主でした。小笠原7代目貞宗は弓馬の法と礼法を制定し、後醍醐天皇・足利尊氏の師となり、小笠原流の武家の弓馬礼法を確立しました。
戦国時代、小笠原氏は浪々の身となりますが、後、深志を回復し、家康より安堵されました。この時、深志を松本と改めます。
忠真の父、秀政は家康の孫娘を室に迎えます。しかし、父と兄は大坂夏の陣で戦死し、忠真が跡を継ぎました。
 

忠真の小倉入国と同時に、兄の子長次が豊前中津で8万石、弟忠知は豊後杵築4万石、弟で養子に行った松平重直(しげなお)が豊前龍王3万7千石で、小笠原一族で、旧細川領の大部分を領知しました。
忠真の妹は、前任の細川忠利の正室でした。

小笠原忠真は入国に際し、検地は行わず、細川氏の支配機構を引き継ぎました。表高は15万石でしたが、実高は19万8870石でした。これは細川氏の新地開発や田畑の精査の結果でした。

各郡には筋奉行・代官・山奉行が置かれました。郡の中の手永には大庄屋、その下に子供役や手代が置かれました。各村には、庄屋・方頭・組頭を置きました。企救郡には細川時代より一つ少ない6手永、城野・富野・小森・今村・片野・津田手永が置かれました。大庄屋は郡代が任命し、子供役とともに苗字帯刀が許され、俸禄が支給されました。

 

遠賀川流域で、土地が低いため、雨が降るとすぐに洪水を起こし、その損害が大きいことを憂慮した黒田長政は、堀川を開削し、遠賀川を分流して洞海湾に流すことを計画しました。
これにより、水害が防げ、流域の灌漑が良くなり、舟運にも便利になることが考えられました。1621(元和7)年、長政は重臣栗田大膳を総奉行に任じ、工事を開始しました。
しかし、1623(元和9)年、長政が病没したため、工事は中止となりました。

黒田忠之が長政の跡を継ぎました。同年、忠之は弟長興に夜須・嘉麻・下座3郡の内5万石で秋月藩を、隆政に鞍手・嘉麻・御牧3郡の内4万石で東蓮寺藩の2つの支藩を設けました。
東蓮寺藩には、現在の八幡西区内の野面(のぶ)・木屋瀬・笹田・金剛・楠橋村が含まれています。後、直方藩と改称され、1677(延宝5)年にはいったん廃止されます。しかし、後復活されます。
 
藩主となった忠之は栗山大膳と対立します。世にいう黒田騒動に発展していきました。
黒田孝高は、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に行きますが、捕らえられ幽閉されます。幽閉された城が落城の際、孝高は黒田大膳の父、備後守利安に援け出されます。
信長は行方の分からない孝高も裏切ったと思い、羽柴秀吉の長浜城にいた孝高の子松寿丸(長政)を殺すように竹中半兵衛に命じますが、半兵衛は密かにかくまいます。
後、大名になった黒田長政は、徳川家康の養女を室に迎えます。朝鮮出兵の頃から石田三成を嫌っていた、長浜城時代からの旧知の豊臣恩顧の大名、福島正則や加藤清正を家康陣営に取り込みました。
家康はこの長政の功績に対し、黒田家の子孫まで粗略にしない旨の感状を与えました。この感状のことは、長政の死の間際に、嗣子忠之には隠して、栗田大膳はじめごく少数の重臣にしか明かされませんでした。
長政は忠之を後継者としての資質をあやうんでいました。死後の支藩の設立もそのためだといわれています。大膳は日頃より忠之を守りました。このため、長政は大膳らに後事を託しました。
長政が案じた通り、長政の死後も忠之の奇行が続きました。そして、諌言する大膳を遠ざけ、寵愛する倉八(くらはち)十太夫を重用します。忠之と大膳の確執は深くなり、遂には忠之は大膳に切腹を命じます。しかし、重臣達により押し留められ、閉門蟄居されます。
1632(寛永9)年、大膳は豊後の幕府総目付で竹中半兵衛の甥、竹中采女(うねめ)に訴状を届けます。その内容は、忠之が陰謀を企てて、切腹させられた駿府大納言忠長に密かに加担していたこと、禁制の大船を建造したことなどでした。
翌年、忠之は江戸に召し出され、幕閣の前で弁明しました。また大膳は黒田家重臣らと幕閣の前で対決しました。重臣達は明確に反論しました。幕閣達が大膳に密かに訴えの真意を尋ねますと、主君の性格からすると、黒田家は滅びる恐れがある、自分が悪者になることにより、その所領の幾分かは安堵されるのではないか、と答えました。
幕府の裁決は、嫌疑は晴れたが、騒動の責任で領地は召し上げる、しかし、先代長政の功により旧地を与える、というものでした。そして、大膳は主君を訴えた罪により、奥州盛岡に配流、倉八十太夫は追放になりました。
お家騒動は双方に言分があることで、黒田騒動も詳しい史料は残されていませんが、以上が後世言われている様なことです。この後、忠之は藩政に励み、現在では、全国的に有名な祇園山笠も保護奨励したといわれています。

博多織は天正年間(1573〜92)に竹若伊右衛門が独特の織り方を編み出したもので、黒田長政は献上品として保護しました。はじめ博多織は中国産の生糸を使いましたが、後には国内産の生糸を使うようになりました。
献上品であるため、宝暦年間(1751〜64)には12戸が織元に指定されました。天文・延享年間(1736〜48)頃には庶民を対象とする木綿博多織が出ますが、これは株が6戸に制限されました。天保年間(1830〜44)になって、株を持たない織屋が現れるようになりました。

 

1615(元和元)年、一国一城令により、黒崎城は廃城となります。堀は埋められ、構口が造られます。之房は陣原の下屋敷に移り、ここで、1634(寛永11)年に没します。
廃城の後、黒崎は宿駅として整備されます。田が埋められ、田町がつくられ、構口が設けられます。そして、本陣(御茶屋)が田町に移されます。1635(寛永12)年には参勤交代が制度化され、長崎街道筑前六宿東端の口留番所を有する宿駅となります。
若松は参勤交代の際の上船地となり、年貢米の積出港となりました。

1637(寛永14)年の島原の乱には、小倉・福岡藩とも出陣しました。小笠原忠真が入国間もない小倉藩には国内体制が定まらない中での財政に影響する大事件でした。
乱後、鎖国体制は確立しますが、1640(寛永17)年、長崎に南蛮船が出現したため、沿岸諸藩の海防の強化が必要となりました。
福岡藩は岩屋(若松区)に遠見番所を設けて、藩士を常駐させました。これまで若松に置いていた水軍を引き揚げました。更に、脇ノ浦(若松区)にも遠見番所を置きました。
1641(寛永18)年、福岡藩は、幕府より長崎の警備を命じられました。後、佐賀藩と1年交代で、この長崎御番を行うようになります。

 

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