江戸時代2

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2.元禄期

江戸時代2
1.幕藩体制の確立
 

1651(慶安4)年、3代将軍家光が病死しました。後継者の長男家綱は11歳でした。老中の下総佐倉の堀田正盛と武蔵岩槻の阿部重次の他、旗本2・3人が家光に殉死しました。
その中で、堀田正盛の殉死は世間では当然のように見られていました。堀田氏は尾張の出身で、小早川秀秋に仕えていましたが、秀秋に跡継ぎがなく、亡くなったため、小早川家が断絶し、美濃で牢人となりました。正盛の父の正利の妻が春日局の縁者であったため、正利は旗本に取り立てられ、子の正盛は家光の側近になり、遂には、佐倉11万石を領知するまでになりました。

江戸城中で、家綱の将軍宣下の儀式は行われました。この後、新将軍は上洛することなく、江戸城で将軍宣下を受けるのが恒例となりました。
幼い将軍を援けたのは、先代以来の大老井伊直孝・酒井忠勝の2人と、老中の松平信綱・阿部忠秋らでした。彼らは、家光への恩顧よりも、将軍家譜代の家臣として、将軍の地位を守護する考えが強かったと思われます。大老・老中による集団指導の体制は、幕府機構という組織の力による支配でした。
また家綱を保科正之ら将軍の近親の大名がバックアップしました。正之は家綱の後見人として、重要な役割を果たしました。正之は家光の腹違いの弟でした。

家光が亡くなった3ヵ月後、由比正雪ら牢人達が反乱を企てているとの密告が、老中松平信綱の下にありました。中心人物の由比正雪は神田連雀町で兵法の塾を開き、丸橋忠弥は槍の名人で、お茶の水で道場を開いていました。
正雪らは江戸を出立して駿府に向かっていました。忠弥らは幕府の火薬庫に火をつけて爆発させ、登城する老中らを狙撃し、江戸城を乗っ取ろうとしたと伝えられていますが、江戸を混乱させて、駿府の正雪らと合流するとつもりでなかったかと思われます。
幕府は町奉行に命じて、与力・同心の捕手を派遣しました。忠弥の家は包囲され、遂には、捕縛されました。また幕府は番頭を駿府に派遣し、正雪らの逮捕を命じました。
正雪は駿府の町に放火し、その騒ぎの中で武器を奪って、久能山に籠城する計画でした。しかし、正雪は道中で番頭に追い越され、駿府に入って泊った宿が、駿府町奉行配下の者達により包囲されました。正雪はこれに感づき、自殺しました。
この事件を慶安事件といいます。反乱といっても大がかりな計画ではないので、幕府政治の現状を批判し、本来の姿に戻させようとするものではなかったと思われます。
正雪の首はさらされ、忠弥らや正雪・忠弥の一族などの処刑が行われました。密告者には恩賞が与えられ、3人が旗本に取り立てられました。しかし、密告者は世の反感を買い、正雪らは同情されました。

この時代、跡継ぎがなく、取り潰しまたは減封になった大名・旗本が多くいました。そこで、幕府は末期(まつご)養子の規定を緩和するようにしました。
家督を養子に譲ることは実子がない場合認められていましたが、その場合でも、幕府に届けて、承認を得ておくことが必要でした。それを50歳以下の者に限り、死の直前に養子を決めても、筋目の正しい者であれば、養子として家督を譲ることを認めるというものでした。
筋目とは血縁関係の序列からいって無理がないことを言います。この末期養子は更に緩和され、本人の意志の確認も次第に形式化されていきました。

1652(承応元)年には佐渡で一揆が、江戸の芝で牢人による反乱騒動がありました。牢人の事件後、牢人改めの令を下し、江戸居住の牢人は町場であれば町奉行、寺社領であれば寺社奉行、農村部であれば代官に届け出て、名前を登録させました。
牢人の登録は、1657(明暦3)年にも命じられ、家主と五人組と宿主が町奉行に出頭し、帳面に登録し、その牢人の就職した際にも、その旨を登録するように家主らは命じられました。

武家には元来譜代の奉公人が多く、その一生涯を主家で送るのが普通でした。しかし、武士が都市で生活するようになり、譜代の者の必要が少なくなり、奉公人も再就職の機会が多くなり、年季の契約で武家に奉公する者、いわゆる出替わり奉公人が一般化しました。
しかし、出替わりという不安定な身分の奉公人であったため、譜代の奉公人と劣らぬ忠義ぶりを見せる必要がありました。

1652(承応元)年、かぶき者の取締りが行われました。かぶき者とは中小姓(ちゅうこしょう)以下の者で、ビロードの襟の付いた服を着、髪を大撫付(なでつけ)や立髪にして、大髭(おおひげ)をつくり、太刀や大脇差をさして遊び歩く者と通達されました。
出替わり奉公人が多くなっていましたが、これらの奉公人の中にかぶき者が多くいました。

かぶき者のかぶきは、かぶく、つまり傾くから来た言葉で、平常でない、目新しい、更には人を驚かせる様を表していました。この時代、人目を引くような服装をして江戸の町を歩く武家奉公人やそのまねをする者は、かぶき者として取り締まられました。
対象の中小姓以下の者の中小姓は、小姓組と徒(かち)衆の間にある小姓を指します。
主君に近侍して日常生活の世話をする者を奥小姓といいます。普通小姓という場合はこの奥小姓を指します。
小姓組は戦場で主君の身辺を警護する者達です。これは騎馬の小姓です。徒(かち)小姓は徒歩で主君に随行する者です。その中で比較的上位の者を中小姓と呼び、それ以下の者を徒衆と呼びました。
江戸時代の武士階級を大別すると、侍・足軽・中間(ちゅうげん)や小者(こもの)の3階級に分けられました。騎馬の者が侍と一概に言えず、徒歩の者でも侍がいました。いわゆる走り衆あるいは徒衆といわれる者です。

この時期の武家奉公人に特有な気風として奴(やっこ)があります。奴の真似を旗本がすれば旗本奴、町人がすれば町奴と呼ばれました。
奴は男だてとも呼ばれました。男伊達・男立とも書き、信義や体面を守り、そのためには命を掛けて意地を通すことが求められました。しかし、この時代、それを表に現す機会がなく、日常性から逸脱した行動と結びついて異様な服装や行動をする者ばかりが男だてと呼ばれるようになりました。

旗本奴として有名な水野十郎左衛門成之は3千石を領する大身の旗本でした。この水野が1657(明暦3)年、自分の屋敷で町奴の幡随院長兵衛を殺害しました。水野は、無礼なことを言ったので切り捨てたと、幕府に届け出たためお構えなしでした。しかし、悪い行跡は改たまらず、評定所への呼び出しの際にも、異様な姿であったため、無作法の到りで、1664(寛文4)年、切腹を命じられました。
幡随院長兵衛は肥後の牢人の子で、武家の徒(かち)の者となりましたが、喧嘩で人を殺し、死罪になるところ、神田お玉が池の幡随院の和尚に助けられ、その後町人となり、割元(わりもと)を営んでいました。

割元は武家奉公人の口入(くちいれ)業です。旗本御家人で役職に就かない者は無役と呼ばれ、3千石以上は寄合(よりあい)衆に、それ以下は小普請組に入れられました。小普請とは小規模な土木工事で、小普請組は小普請奉行の指示により、江戸城の石垣修理などに人足を出す義務が課せられていました。
最初は譜代奉公人を出していましたが、しだいに出替わり奉公人になっていきました。しかし、お城の普請の人足であるため、通常の保証人の他に家主が保証人に立ち、契約書を書かされるほど面倒な条件が付けられました。
これに町人の間から請負う者が現れ、責任をもって人足を出すようになりました。これが割元でした。
厳しい責任を負う代わりに、無理な要求をする主人に対し、奉公人の立場を擁護するのが割元である町奴でした。
しかし、1675(延宝3)年、幕府は小普請から人足を徴発するのをやめ、石高に応じた代金を出させ、それで直接人足を雇用しました。この結果、割元も必要なくなり、町奴の性格も変わり、遊び人の傾向が強くなりました。

 

家光に殉死した老中堀田正盛の子、正信は下総佐倉12万石のうち、3人の弟に1万8千石を分け、10万余石を領知していました。1660(万治3)年、寛永寺の家光廟に参拝した後、幕府の許可を得ずに佐倉に帰国しました。
正信は保科正之と阿部忠秋に書状を送って、老中達は武勇の道をおろそかにしている、旗本達は武士の勤めを果たすことができないほど困窮しているので、自分の領地を返上するので、旗本達に加増して頂きたいというものでした。

旗本の困窮は容易に解決方法が見出されるような問題ではありませんでした。領地を没収され、正信は近親者の大名に次々に預けられました。しかし、勝手に上京したため、蜂須賀家に預けられ、家綱が没すると自殺を遂げました。
正信が藩主の頃、義民として有名な佐倉惣五郎が出ています。佐倉の領民は、正信が大名の地位を失ったのは、刑死した惣五郎の祟りだと信じられていました。

1746(延享3)年からは、正信の弟の正俊の子孫の堀田正亮(まさすけ)が佐倉に入部しました。正亮は領内の伝承を否定することなく、惣五郎が祀られた社祠を改築しました。
江戸時代後期、惣五郎が江戸上野で将軍に直訴したため、正信に引き渡されて磔になったという、現在に伝わる惣五郎の物語が形成されていきました。しかし、そこには、その頃の農村の実情や農民の考え方が反映されています。義民佐倉惣五郎の伝説は、圧政に苦しむ民衆の願いが、この伝説を作り上げていったと思われます。

 

儒学の歴史の中で、孔子や孟子の時代を中心とする古典的な儒学に対し、宋から明にかけて新しい思想が発展しましたが、その代表が宋代の朱子学と、明代の陽明学でした。日本で陽明学を信奉したのは中江藤樹でした。
備前岡山藩主池田光政は、藤樹の学問に傾倒し、その門人を登用しました。熊沢蕃山もその一人で、牢人であったのを3千石の番頭に取り立てました。
その具体的な職務は組鉄砲を命じられていますが、鉄砲組に属する士卒を統率する役目と思われます。この番役は家老に次ぐ高い格式でした。

1654(承応3)年、備前地方は、大洪水に襲われ、大きな被害を出します。更に翌年にかけて大飢饉となります。このため難民を救済する措置が講じられ、藩政の改革が行われました。
まず第1に、農民に対する徴税権を藩が一手に掌握しました。藩の直轄地である蔵入地も、家臣に支給された知行地である給所も同一の年貢率が年毎に決められるようになりました。これを平均免と言います。
これにより、第2に、城下で勤務していた郡奉行らを農村に派出させました。つまり、在出(ざいで)させて、現地で施政に当たらせました。また、代官も増員して在出させました。
第3に、大庄屋を廃止し、規模の小さい十村肝煎(じっそんきもいり)を置きました。
災害の救済が始まり、農民を一元的に統制しょうとする方針を推進しました。このため、藩と農民の中間の勢力は排除されました。

この翌年、郡中法令を下して、農民の土地売買を制限し、貧農の没落を阻止し、譜代の奉公人は一定の年限の後、開放されるようにしました。
またその翌年、農民の親子や兄弟が別家を立てることを原則として禁止し、田畑が細分化されることを防ぐ処置を取りました。

蕃山は藩主光政の代理として領内の巡察を命じられ、現地で解決できる権限を与えられました。特権的地位に安住する退廃した家中の武士に比べて、農民の苦しみには光政も蕃山も同情していました。
光政は、世襲制を維持しつつ、知行地を与えられた家臣である給人の給所に対する支配権を切り離すことにより、弊害を除こうとしました。この様な方針は、岡山藩のみならず、この頃多くの藩で行われた改革で見られました。
しかし、蕃山は、世襲制の原則を否定するという急進的な考えを持っていました。1657(明暦3)年、蕃山は隠退したい旨を願い出て、許可されました。

江戸時代、武士が主君から受ける給与は、土地と農民に対する支配権を分与される地方(じかた)知行と、藩の倉庫から米を支給される蔵米支給がありました。蔵米支給には、例えば100俵といった禄高が表示される、比較的下級武士に対する切取米(きりとりまい)や、更に下級の何人扶持(1人1日5合、1年1石8斗)といった扶持米(ふちまい)がありました。
中級以上の武士には、何石といった石高で表示されました。地方知行は必ず石高で表示されますが、石高で表示されるのが全て地方知行とは限りません。
その石高に対応した一定額の米を藩庫から支給されるという地方知行と切取米の中間という蔵米知行という形態もありました。この蔵米知行が実際には多かったと思われます。また、地方知行を実施していても、実質的には蔵米知行と変らない場合も多くありました。
村の石高には、検地によって定められた正式な石高があります。これに対し、藩は最近10年間に実際に収納された年貢の率を調べ、平均値を求めた上で、その平均値から村の石高を算出します。実際の年貢の基準は、後者の計算上の石高になります。

知行制度の改革により、武士を農村から離し、農村を統一的に支配しょうとするのは、この時代の諸藩の動向でした。
それとともに、諸藩は、城下町や港町に住む商人に、領内で産出された農産物や手工業品を集荷させ、供給させ、余った分は大坂や江戸などの都市に売り出させ、藩内の経済が潤うようにしました。
人為的につくり出された藩という組織は、この時期、ようやく一つの政治的・経済的まとまりを持ってきました。
地方知行が蔵米知行に移行し、あるいは形式的には地方知行であるが、実質的には蔵米知行であるというのが一般的で、これを普通、知行制から俸禄制への移行といいます。

熊沢蕃山は39歳で岡山藩を退仕して、1691(元禄4)年に73歳で没するまで、後半生は不遇でした。京都に行って公家や文人と親交を深めますが、牢人であるとして京都を追放されました。その後、明石領主の松平信之の尊敬を受け、信之の転封とともに、大和郡山、下総古河(こが)に居住しました。最後は、幕政を論評して、幕府から処罰を受け、古河城内に幽閉され、亡くなりました。

 

1657(明暦3)年、明暦の大火が起こり、江戸市中は灰燼に帰しました。江戸城も焼失しましたが、1659(万治元)年には本丸御殿が完成しました。
将軍家綱の周りには、酒井忠勝や松平信綱はいなくなりましたが、保科正之や阿部忠秋は健在でした。
将軍代替わりの武家諸法度の公布は、1663(寛文3)年に行われました。耶蘇宗門を禁止することと、不孝の者があれば罪に処することを追加しました。
武家諸法度の公布に際して、殉死の禁止が申し渡されました。殉死者を葬る風習が一般化していました。しかし、この風習には弊害が多いことは多くの大名が気付いていました。
この後、宇都宮藩主奥平氏が亡くなった際、殉死者が出たため、跡継ぎを減封して転封し、殉死者の遺子を斬罪に処したため、殉死の風習は消滅しました。

1664(寛文4)年、諸大名に対する領知の宛行(あてがい)状が更新されました。これまでの朱印状を提出させ、10万石以上の大名には版物(はんもつ、将軍が花押を書いた文書)を、それ以下には朱印状を交付しました。
翌年には、諸大名から出させていた証人を廃止しました。この証人とは、人質のことで、将軍に対する忠誠の保証のため、大名の家老やその子弟を江戸に置かせていたものでした。参勤交代の制度が確立して、大名の妻子を江戸屋敷に居住させていましたので、それ以上の人質を取る意味はもうありませんでした。

この頃、幕府の役人に役料が支給されるようになりました。役料とは、ある役職についている期間だけ支給されるもので、役職に応じて支給額は定められました。
知行高は世襲制により固定されているのに対し、役職に適した人材を求めようとすると、特定の知行高の者だけを対象にすることはできず、責任を果たすための困難を軽減してやる必要がありました。

1665(寛文5)年、「諸宗寺院法度」及び「諸社禰宜神主(ねぎかんぬし)法度」が公布されました。従来、寺社には個別の法度を制定していましたが、ここに寺社に関する一般的法規が制定されました。
寺院の境内を不入の地として、権力の干渉や立入りを許さない聖域としていた概念は明確に否定しました。寺院を統制下に置き、宗門改の制度も全国で画一的に実施されました。
1671(寛文11)年には、代官に対し、百姓1軒毎に人別帳に記載し、1村毎に男女別人数を集計し、婚姻や奉公による移動や死亡による減少を記載するようにし、宗門改帳(または宗門人別改帳)が幕府領では年毎に作成されました。

江戸時代、キリシタンと並んで禁制の宗門は日蓮宗の不受不施(ふじゅふせ)派でした。信者でない者からは布施や供養は受けず、逆に信者でない者に供養を施すこともしないという教義は、日蓮宗教団では長い間信奉されてきました。
宗教が政治権力に従属させられると、権力の支配から信仰を独立させようとする主張は、弾圧の対象となりました。このため、信者以外の者から布施や供養を受けても差し支えないという受不施の派が出てきて、甲斐の身延山久遠寺を中心に発展しました。
まだ劣勢だった身延山の受不施派は、武蔵の池上本門寺を中心にした不受不施派を幕府に告発し、幕府は代表する数人の僧侶を流罪にしました。
1665(寛文5)年、寺社領の朱印状の更新の際、不受不施の考えがないことを誓約させ、不受不施派の存立を許さないようにしました。更に、1669(寛文9)年、不受不施派の寺院を宗門改の際には檀那寺としない旨の法令が下されました。

将軍家綱の後見役の保科正之は、1669(寛文9)年隠退しました。正之はその政治理念として子孫に対し、家訓十五条を残しています。これは会津藩祖の遺訓として代々尊重されました。
正之の社会秩序の上下関係を絶対視し、閉ざされた状況の下で、自己を生かす方法を求めようとする考えは、藩主も家臣もともに、幕府に対する忠誠を至上命令とするものでした。そして、それは幕末、最後まで幕府を支える大きな力となりました。
家訓の制定には、正之の信任の篤い儒学者山崎闇斎の協力があったといわれています。

民衆を悪政から救うには、暴虐的な君主を討つこともやむを得ないというのが、儒教の伝統的な革命思想でしたが、その革命思想を闇斎は嫌いました。
闇斎は、儒学の他に、神道にも関心を持ち、儒教と神道を結びつける垂加神道の始祖にもなりました。君臣上下の社会秩序を絶対的なものとし、いかなる時でも、その規範に服従しなければならないとした保科正之の武士道思想には山崎闇斎の考えと共通するものがありました。

寛文期中頃から、幕政に退廃の兆候が現れてきました。この傾向は保科正之が隠退し、更に阿部忠秋が隠退すると、一層強くなりました。
こうした中、権力を握っていったのが、酒井忠清でした。1653(承応2)年、忠清は老中首席となりましたが、これは家格によるもので、まだ実権を握ることはありませんでした。
やがて先輩達が退き、忠清は1666(寛文6)年には大老に昇格しました。この頃、能力よりも家格を優先する人事が上層部では行われていました。
幕府の財政に不安な兆候が出てきたのもこの頃です。生活が向上し、風俗が華美になるにつれて、幕府の支出も増大しました。先代の家光の時代から倹約令は出されていましたが、明暦の大火や寛文8年の江戸大火などを契機に、大名や旗本の衣服などに関して、厳しい倹約令が制定されました。

 

幕府の支配体制が安定してくると、日本の歴史の編修という事業が計画されました。「本朝編年録」の編修は、3代家光の時、林羅山に下命され、神武天皇から平安時代の宇多天皇までがまとめられていました。
しかし、そこで中断されていました。「日本書紀」から六国史が既にありましたので、それ以降の編修は容易ではありませんでした。羅山の子、林家2代目鵞峰に「本朝編年録」を完成するようにとの、将軍家綱の命令が伝えられました。
1664(寛文4)年、編修に着手しました。幕府はこの際、林家邸内に編修所を建て、これに携わる門人達に扶持米を支給しました。鵞峰はこの編修所を「国史館」と命名し、書名を「本朝通鑑」と改めるように願い出、許可されました。
この事業は1670(寛文10)年に完成しました。幕府は寺社や大名・旗本らに記録や図書を提出するように命じていますが、これまで秘蔵された文献がこの機会にかなり世に出ていました。江戸幕府が確立した慶長16(1611)年までが対象になりました。

徳川御三家の一つ水戸藩主光圀は「大日本史」の編修を計画しました。光圀は初代藩主頼房の子で、1661(寛文元)年、2代目を継ぎました。
この計画が具体化したのは、1657(明暦3)年、江戸駒込の水戸藩邸に編修所である史局を設置してからでした。この史局は、1672(寛文12)年、小石川の藩邸に移され、「彰考館」と命名されました。
「本朝通鑑」が編年体であるのに対し、「大日本史」は紀伝体で編修されました。紀伝体とは、皇帝一代毎の本紀と、部門ごとの制度史である志(または書)、各種年表の表、その時代に活躍した人物の伝記の列伝の四部から構成され、中国で書く正史は紀伝体で編修されるのが伝統でした。しかし、日本には紀伝体で編修された史書はありませんでした。

この事業は水戸藩にとって大きな負担となりました。出費の大半は江戸・京都からの学者の招聘と資料の調査でした。招聘された学者の待遇は高い俸禄が支給され、一般の藩士と同様に各種役職に任命されました。
この様に学者の地位が高められた結果、江戸時代後期には、藩内では、学者達が政治上強い発言権を持つこととなり、水戸学と呼ばれる独自の政治思想が発達しました。
資料の調査は何年もかけ、幾度となく行われ、京都・奈良を中心に、全国各地に及びました。この中で大きな役割を果たしたのが、佐々十竹(じっちく)、通称介三郎といい、安積澹泊(あさかたんぱく)の通称覚兵衛と並んで、水戸黄門漫遊記の助さん・格さんはここからきたと言われています。しかし、漫遊記は完全なフィクションでした。
1690(元禄3)年に兄頼重の子で養子の綱條(つなえだ)に藩主の座を譲って、光圀は久慈郡太田西山の山荘に隠居しました。1697(元禄10)年、本紀だけが完成しましたが、1700(元禄13)年、光圀は死去しました。1715(正徳5)年列伝が完成し、「大日本史」の書名が決められました。

紀伝体で編修された史書は、滅びた前代の王朝の歴史を次の王朝の立場から記述するのが原則でしした。天命が革(あらた)まり、王家の姓が易(かわ)るという意味で、王朝が変ることを中国では易姓革命と呼びました。
光圀は南朝を正統と考え、南朝の滅亡とともに一つの王朝の歴史が終わったという歴史観を持っていました。
この様な考えは、儒学者・兵学者として有名な山鹿素行も持っていました。北朝は足利尊氏の意図に基づいて立てられたものとしています。

少し後の1712(正徳2)年、新井白石が6代将軍家宣のために日本の歴史を進講した際の講義案「読史余論(とくしよろん)」では、南朝を正統とするが、後醍醐天皇の不徳のためやがて滅び、北朝は足利氏の傀儡政権だとしました。
江戸時代前期の学者達は、武家によって政治の実権が掌握されたことを中国の革命思想を適用して考えようとしていました。短命な織豊政権を除いて、足利氏から徳川氏への征夷大将軍の地位が移行したと考えました。
徳川氏は新田氏の後裔と言っていました。新田氏は鎌倉時代足利氏とともに源氏の名門の一つでした。南北朝時代にはお互いに南朝と北朝に分かれて戦いました。正統である南朝のために忠誠を尽くした新田氏に対し、天はその子孫の徳川氏に天下支配の運命を与えたと、中国の歴史思想を用いて解釈しました。

光圀は、主君は天皇であり、将軍は本家だとする尊王思想を持っていました。しかし、これは武家政治を否定するものでなく、武家政治の必要によって擁立された北朝なので、武家政権の一翼を担う者として、君主として尊ぶのは当然であると考えていました。
しかしそうすると、革命思想からは矛盾します。正統が南朝にあり、北朝に移る理由が不足していました。そこで、神器による正統論が登場します。
江戸時代前期から後期にかけて国学の発達により、三種神器を持つ天皇の神聖な君主としての性格に、政治上の大きな意義が見出され、尊王攘夷思想の発展を見ることになりました。

 

太閤検地が行われた慶長年間から、17世紀の100年間に、全国の耕作面積は約5割増えています。これは新田開発によるものと思われます。特に17世紀の後半は江戸時代を通じて最も活発に新田開発が進められました。
大都市に成長していた江戸に飲料水を供する目的で、玉川上水は開通しました。元々江戸は自然湧水と井之頭池を水源とする神田上水に頼っていました。しかし、人口が増大した結果、新たな用水建設が計画されました。
1653(承応2)年、清右衛門・庄右衛門の玉川兄弟の建議を入れ、上水の工事を請負わせました。関東郡代を玉川上水奉行に任じて監督に当たらせ、わずか1年余で完成しました。
玉川上水から引水して、松平信綱の川越藩は野火止(のびどめ)の開発が始まりました。これを契機に武蔵野台地は徐々に開発されました。
家康の時代より行われていた、江戸湾に注いでいた利根川を鹿島灘に流れ込むように変える大工事は、1654(正応3)年完成しました。これにより河川交通網が整備され、利根川の氾濫が抑えられました。その後、低湿地の排水処理が行われ、堀を掘って農業用水を供給し、水田の灌漑が行われました。

この関東の利根川の工事に匹敵するものとして、関西では淀川と大和川の工事があります。淀川と大和川は河内北部で合流して大坂湾に注いでいました。この合流地帯は低湿地で、排水が悪く、絶えず洪水に悩まされていました。
1683(天和3)年、幕府は摂津・河内の調査をしましたが、川村瑞賢(ずいけん、瑞軒)に現地調査を任せました。瑞賢は既に奥羽地方の河川舟運工事で名をあげていました。
淀川河口に土砂が堆積して、中流の水位が上がり、堤防を破壊するので、淀川下流から河口にかけて河道を改修し、土砂の流入を防ぐために水源地帯に植樹することを瑞賢は提言しました。幕府はこの意見を入れて、瑞賢の指揮の下に、淀川の治水工事が行われました。この改修が終わると、幕府は淀川の河口を開発しました。
瑞賢の計画は洪水を防ぐだけでなく、淀川を利用した水上運輸路整備にあったものと思われます。瑞賢の淀川整備の最中にも大和川の洪水は起こりました。

1703(元禄16)年、幕府は大和川付替工事を始めました。開削して大和川の流れを堺の海に流すというものでした。上流の工事は幕府が直営しました。しかし、下流の半分は幕府の財政窮乏のため、畿内諸藩に御手伝普請させました。大和川付替工事により、旧河道流域の低湿地や池沼の干拓が可能となりました。1/3は豪農によって開かれましたが、2/3は三井や鴻池などの両替商として資金を持つ町人によって開かれました。中でも、鴻池新田は有名です。

畿内では近郊の野菜の生産があります。これらは牛の背に積んだり、河川で小舟に載せて、大坂天満(てんま)の青物市場に運ばれました。
この野菜の栽培には、多量の肥料が必要でした。大坂市中の糞尿がこれに当てられました。汲取りを専門にする仲間が結成され、仲間に加入する業者を通じて、野菜と反対の経路を通って農村に運ばれました。

広く全国を市場とする作物に木綿があります。木綿生産は畿内、特に摂津・河内・和泉を中心に西国に広がっていて、利潤の上がる作物でした。
これらの商品生産の発達した畿内で、農業生産をリードする担い手は、村内有数の土地を保有し、家族と奉公人の労働によって1〜3町の土地を自作し、残りを小作に出すような百姓でした。この様な形態を地主手作経営といいました。
奉公人には、譜代と年切り下人の2種類がありました。譜代は終生主家に仕えるもので、年切りは年季を決めて仕えるもので、新しいタイプの下人でした。
譜代下人のうち、家族を持った者に、屋敷内の家屋を与えた者を家持下人といいました。当初は家内下人と変りはありませんでしたが、次第に独立していき、隷属性が弱まり、経済的関係がより強くなりました。

百姓の土地の相続は分割相続が慣行でしたが、分割後の本家の持高は、再生産できる最低が維持されることが多かったといえます。従って、下層の百姓は分家を出すことは余りありませんでした。
しかし、この慣行が続くと、所有地が分割され、遂には家が潰れるという危険がありました。1673(延宝元)年、幕府は分地制限法を発布しました。10石以下の一般百姓、20石以下の名主については、分割相続を禁じました。こうして、分割相続はしだいに行われなくなり、長子の単独相続が一般的にになっていきました。

 

大坂を取り巻く攝津・河内・和泉には、街道に沿って点々と町場がありました。商人や職人が住んで集落を形成しているので、在郷町と呼んでいます。この起源は古市や国分のように宿場から発展したもの、柏原のように大和川の船着場、池田・伊丹のように戦国時代の城下町、そして久宝寺・富田林・貝塚・富田など、寺内町が成立した町があります。
この様に交通の要衝にあった在郷町が、周辺の村々の市として発展するとともに全国的商品流通の一端を担っていました。しかし、この役割は徐々に大坂に吸収されていきます。

大坂は1619(元和5)年、幕府直轄となります。大坂の堀川は元和から寛永にかけて多く開削されました。そして、中之島を中心とする堀川の畔には、諸藩の蔵屋敷が建てられました。領国の年貢米やその他特産物を売り捌くために、大名が商業が盛んな所に置いたのが蔵屋敷でした。
大名の支出は、家臣への禄米と領内への支出、それに江戸・京都・大坂への支出が多額でした。江戸への支出は、参勤交代による藩主が江戸居住を義務づけられたことによる支出でした。これらを補うため、豪商から借金を重ね、その利子返済が多額にのぼりました。

この様な時期、河村瑞賢により、東廻り及び西廻り航路が整備されました。東廻り航路は、奥羽地方日本海沿岸から出て、津軽海峡から太平洋岸を南下し、房総半島を経て江戸に到るものです。西廻り航路は、日本海沿岸を出て、西南に下り、北陸・山陰を経て、本州西端の下関から瀬戸内海に入り、大坂に到り、更に紀伊半島を経て、太平洋岸沿いに江戸に到るものです。
従来、大坂は中・四国、九州や江戸の流通が中心でしたが、西廻り航路により、奥羽・北国との流通も盛んになりました。
蔵屋敷は、初め藩の留守居役が守っていましたが、しだいいに町人の蔵元に任せ、蔵米を有利に売り捌こうとしました。この諸国の蔵米と商人の持ち寄った納屋米の取引は、大坂北浜の米商淀屋の店先で行われていました。その後、淀屋が取り潰しの処分を受けると、1696(元禄10)年からは、新開地堂島に移って取引されました。堂島の米市場は、その後幕府公認となり、昭和初年まで全国の米相場の中心となりました。

大名は赤字財政を商人からの借金で穴埋めしました。これを大名貸といいますが、返済が滞ったり、貸主に大幅な利子引き下げを強要されることがありました。
京都の両替商の多くが、大名貸に手を出して、破産したのに対し、大坂では商品取引の増大に応じて、金・銀・銭貨の両替の他、為替や手形なども業務に取り入れ、発展しました。
諸国の台所として大坂は発展していきますが、大坂への移入品は、原料の割合が高く、移出品は半製品や完製品の割合が高くなっていました。大坂は流通とともに加工生産都市でもありました。
更に移入と移出の額を見てみますと、移出は移入の1/3、蔵米の流入を考えると、1/4にしかならないことにもなりました。この差は、大坂の金融力にあったと思われます。
問屋の一部では、仕入産地に前貸金を投じたり、両替商や蔵元は、諸藩の蔵米や特産品を引き当てて、多額の大名貸を行いました。この様な貸付金は急速に増えていきました。また、この貸し金の利息が大坂に入ってきました。つまり、これらの額が移入品の額に見合っていたのです。

 

江戸は武家屋敷を中心に発達した町です。寛永年間には、まだ大坂の半分くらいの人口でした。武家屋敷の整備により、町方の人口も増え、明暦3年には大坂に並びました。
その1657(明暦3)年、本郷の本妙寺から出火した火は北西の風に煽られ、本郷・湯島を焼き、駿河台から神田方面に飛火し、下町一帯を焼き尽くしました。翌日おさまった火は、小石川から燃え上がり、八重洲・京橋まで焼き払いました。また濠の内側にも燃え移り、西の丸を残して江戸城内は燃え尽くしました。
その面積は江戸市街の6割に及び、人的・物的損害は多大なものでした。幕府は都市計画を練り、防火に重点を置きました。大名屋敷は江戸城引火の原因になったため、城郭の外に移しました。寺社も外濠の内にあったものは外に移しました。
江戸復興計画は防災とともに人口の膨張に応じるようにも意図されました。このために、本所・深川が開発されました。大名・旗本の屋敷を造成し、堀川沿いには蔵屋敷が並び、木場・石置場などの物資の貯蔵施設もできました。

急速に人口が増えた江戸は、日常物資を上方に仰がねばなりませんでした。1619(元和5)年に堺の商人が船を借り、大坂から木綿・油・酒・醤油などを江戸に送りました。その後寛永年間には、大坂に江戸向けの荷物を専門に扱う5軒の菱垣(ひがき)廻船問屋が生まれました。この名は、積荷が落ちないように、檜の薄皮や竹で菱形の垣を両舷に作ったことによります。
大火後、市街が拡がり、人口増が進むと、新たに上方の問屋商人が江戸に進出して来ました。白木(しろき)屋は京都から進出して小間物屋を開いていましたが、元禄期には、有力な呉服屋の一つに数えられました。
また、伊勢松坂出身の三井高利は、呉服屋の越後屋を開きますが、京都に仕入の店を置いて、西陣織を直接仕入れています。
仕入問屋になると、輸送中の事故は自己負担となります。1694(元禄7)年、江戸の問屋が難破船の処置を公正に行う問屋仲間を結成しました。この仲間は居住地と取扱品によって十組からなっていましたので、江戸十組問屋仲間と呼ばれ、菱垣廻船の積荷に強い発言力を持つようになりました。

江戸の問屋商人が仕入れた品物の多くは、仲買人の手を経て、肩で担いで売り歩く振(ふり)売りによって、市中で小売りされました。幕府は早くから振売りに鑑札を与えて統制していました。
江戸庶民の中には、日傭(ひよう)取りと呼ばれる日雇いの肉体労働者が大勢いました。一部の棟梁を除いては、大工・木挽(こびき)・左官・屋根職などの労働者は、技術と道具を持っているが、日雇い仕事で働いていました。この種の仕事は、火事の多い江戸では、絶えずどこかで必要とされました。
技術や道具を持たない者は、鳶口(とびぐち)・背負(せおい)・手子(てこ)の者・車力・駕篭かきなどの力仕事で稼いでいました。
このような日傭取りを放置していては、無宿人が増えるので、幕府は元締めや頭の下に日雇い鑑札を与えて、取締りました。
1665(寛文5)年、日傭座を設置し、日傭座に日傭人は札役銭を払って、日傭札をもらい、日傭座賃も座によって決められました。
日傭取りも凶作が続き、景気が悪くなると、無宿人になりました。1709(宝永6)年、幕府は逮捕した無宿人を出身農村に強制帰村させ、帰村する所のない者は、非人の手下に組入れられました。

 

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