江戸時代2

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江戸時代2
2.元禄期
 

1680(延宝8)年、将軍家綱は病死しました。家綱には子がなく、末弟の館林藩主綱吉が5代将軍になりました。大老・老中らの合議制により運営しょうとする大老酒井清忠と、自己の権威を確立しょうとする綱吉は対立し、翌年清忠は隠退し、間もなく亡くなりました。
綱吉は神経質な性格であったといわれています。病的ともいえる潔癖症と、傍系から入った将軍であるため、譜代大名や旗本達に権威を確立しなければならないという点で、4代家綱とは対照的な専制君主の姿が明らかになっていきます。

越後高田藩主松平光長は、越前家嫡流忠直の長男で、親藩中でも名門でした。家老の小栗美作(みまさか)は、光長の妹を妻にし、権勢をふるい、これと対立した荻田主馬・永見大蔵は、美作は自分の子を光長の後継にと企てているとして、家中を二分する越後騒動が起きました。
荻田らは幕府に訴えましたが、小栗が勝訴となり、家中はますます混乱しました。1681(天和元)年、綱吉は再審を命じ、自ら裁断を下します。

その結果は、小栗父子は切腹、荻田・永見は遠島、藩主光長は改易で、高田藩は取り潰しとなりました。この様な綱吉の厳しい裁決に、諸大名は震え上がりました。
除封または減封された大名は、綱吉の方が家綱の治世下の約2倍になっています。しかも、譜代大名に多く、その理由もお家騒動や藩政不良が理由になっています。

 外様大名やその子弟を小姓などに登用し、その中から寺社奉行や若年寄に昇進する者が出てきました。
臣下の者には、気まぐれにしか映らないような賞罰の権限の行使は、綱吉には無条件に服従しなければとの気持ちを人々に持たせました。
堀田正俊は家光に殉死した正盛の三男で、正信の弟でした。若年寄を経て老中になっていましたが、綱吉の信任を受けるようになりました。1681(天和元)年には、下総古河9万石に移封され、大老に昇格されました。翌年には、13万石に加増されました。
正俊が老中であった1680(延宝8)年、天領を主宰する老中に任じられました。これ以降、代官に対する監察が厳しくなり、年貢滞納などで処罰される者が相次ぎました。また、1682(天和2)年には、老中の下に、勘定吟味方を置き、勘定奉行を監察しました。
1684(貞享元)年、正俊は江戸城中で、若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺されました。正休はその場で、他の老中から斬り殺されました。

各方面に監察の目を張り巡らすのが、この時期の方針でした。正俊刺殺の事件は、正俊の厳しい政治に対する反感から、世間では正休に同情が集まりました。
1683(天和3)年、綱吉は新将軍として、武家諸法度を公布しました。その中で、武士の生活態度の基本として、忠孝や礼儀に重点が置かれました。そして、私闘が禁止されました。
この前年、全国各地に高札(こうさつ)を立てて、百姓や町人に対する禁令を掲示しました。その中で、忠孝に励むことが掲げられました。綱吉は道徳を強要し、忠孝という言葉で、君臣・親子などの上下関係の維持を図ったものと思われます。

綱吉は犬公方と呼ばれる、生類憐み(しょうるいあわれみ)の令を出しました。1687(貞享4)年、病人や病気の牛馬を捨てることを禁じ、生きた魚や鳥を食用として売買することを禁じ、飼犬が逃げたら探し出し、迷い犬は養ってやらなければいけないとしました。
この後、綱吉が没するまで23年間、次々と法令が下され、あらゆる生物の愛護が強制され、罰則が強化されました。特に犬は厳重に保護され、犬目付が巡視し、飼犬が死ねば、奉行所に届け、奉行所が死因を調査しました。人々は犬に関わらぬようにし、犬は人を恐れず、我がもの顔で行動しました。

綱吉の母は、お玉という京都の八百屋の娘であったといわれます。公家侍の女中となり、家光の側室お万の方の次女として江戸城大奥に奉公していましたのが、家光の寵愛を受けるようになり、綱吉を生みました。
この妊娠中に僧亮賢(りょうげん)を呼び、祈祷させたところ、男子を生み、天下の主になると予言しました。家光の死後、お玉は尼となり、桂昌院と称しました。綱吉将軍就任により、亮賢に深く帰依し、音羽に護国寺を建立しました。
綱吉は桂昌院に対する孝心は篤く、江戸城三の丸に住まわせました。
亮賢の推薦により、湯島知足院の隆光を、桂昌院並びに綱吉は江戸城の鎮護の祈祷に招きました。
綱吉の男児が夭折したため、嗣子を得るため、隆光に祈祷をさせました。隆光は前世の殺生の報いのため子が生まれないので、殺生を禁じ、綱吉は戌年生まれであるので、特に犬を愛護するように進言したといわれています。
道徳や宗教を法律の力で強制したのが、生類憐みの令でした。このため、武士や庶民の生活は不自由なり、厳罰に処せられる者が続出しました。

 

側用人は大名が任ぜられ、老中と若年寄の中間位の地位でした。1681(天和元)年に牧野成貞が任命されたのが最初でした。これ以前には、側衆という役職がありましたが、これは旗本が任ぜられ、権限は余りありませでした。
側用人は将軍と老中らとの政治上の連絡が主な任務でした。綱吉は自ら裁決し、政治上の実権を行使しましたし、老中の中に有能な人物が少なくなっていました。そんな中、牧野成貞や柳沢吉保など側用人で大きな権力を振るう者が出てきました。
牧野成貞と柳沢吉保は、綱吉が館林藩主の頃、側近として仕えました。牧野成貞の父は、元旗本で、綱吉の神田の屋敷の家老を勤めていました。成貞は次男で分割相続し、自身も家老となりました。
綱吉が将軍となると、側衆として仕え、間もなく大名に取り立てられ、側用人になりましたが、1695(元禄8)年、隠退します。

柳沢吉保の父も神田の屋敷に勤めていますが、牧野家ほど名門ではありませんでした。吉保は幼少より綱吉に仕えました。綱吉が将軍になると、小納戸役に就きました。1688(元禄元)年、大名に取り立てられ、側用人になりました。
加増を度々受け、川越藩7万2千石を与えられ、甲府藩主綱豊(後、6代将軍家宣)が綱吉の継承者として江戸城に移ると、吉保はその後に転封され、15万石を与えられました。
牧野成貞も柳沢吉保も、綱吉の引き立てを受け、異例の昇進をしました。そして、その邸に綱吉や桂昌院を迎えて饗応しました。両者ともひたすらに綱吉の意向に迎合しました。綱吉にとって細心で謹直で忠実な家来でした。

 

綱吉は仏教を信仰するとともに儒学にも傾倒していました。学者の講義を聞くばかりでなく、自らも四書五経を講義していました。
湯島に孔子を祀る聖堂(孔子廟)を建立しました。そして、林家当主3代目鳳岡(ほうこう)に大学頭(だいがくのかみ)の官位を与えました。

 

生類憐みの令と並んで、元禄の悪政に金銀貨の改鋳があります。この改鋳には、3つの理由があったといわれています。1つは、幕府財政の窮乏です。2つは、金銀産出量が激減し、逆に貨幣に対する需要が増大し、その要求に応じきれないことがあります。3つは、金座・銀座の当事者は、金銀の産出量が減り、鋳造量が減り、手数料が減ったのを改鋳により増やしたいと考えていました。
1695(元禄8)年の改鋳と慶長金銀を比較しますと、含まれている金・銀ともに少なく、その差は出目として幕府の収入になりました。そして、新旧の交換もわずかのプレミアムを付けただけの、ほとんど同価値で通用させようとしました。
この改鋳の中心人物は、勘定吟味役の荻原重秀で、1696(元禄9)年には、勘定奉行に昇進しました。綱吉治世末期の宝永年間にも、更に銀貨の品質を悪くする改鋳を行っています。
幕府は元禄以来の改鋳で、莫大な出目を得ました。この間、金・銀座の役人から多額の賄賂を受けました。金銀の改鋳は、幕府の利益を優先し、庶民に不利益を押付けたものでした。

 

1701(元禄14)年3月14日、江戸城内松の廊下で、播磨赤穂藩主浅野匠頭長矩(ながのり)が高家(こうけ)吉良上野介義央(よしなか)に斬りつける刃傷事件がありました。この事件は翌年12月14日の浅野家旧臣の吉良邸討入り事件と合わせて赤穂事件と呼ばれ、忠臣蔵として広く知られるようになりました。
毎年、正月は将軍より朝廷に年賀の使者を送り、3月14日は朝廷からの勅使と院使が将軍と対面する儀式が行われる日でした。浅野長矩は勅使の接待役でした。
事件後、長矩は奥州一関の田村右京太夫建顕(たてあき)に預けられ、即日切腹を命じられました。これに対し、吉良義央はお構いなしでした。

この事件の背景としては、綱吉の時代、儀式を重んじる傾向があり、幕府では朝廷を模範として儀礼を整備していました。先代や綱吉の夫人は京都から迎えられていて、大奥にも公家文化が浸透していました。
こうした中、礼法の知識を持った高家の人々は傲慢になり、大名に対し無礼な行動に出たことは想像できます。長矩は自尊心を傷つけられ、事件の具体的原因は記録されていませんが、遺恨があって刃傷に及んだと思われます。
幕府の裁決は、時期と場所をわきまえずに、殿中で事件を起こし、秩序を乱した点を罪とし、その原因は問題にはしませんでした。しかしながら、喧嘩両成敗は成文化されてはいませんが、暗黙の了解事項でした。また斬りつけられれば、受けて立つのが武士のたしなみでした。
先例を見ても、加害者は切腹に処せられますが、被害者も殺されるか、追放の刑を受けていました。しかし、幕府の方針は変り、特に秩序維持を第一に考える綱吉の姿勢により、幕府は吉良義央に寛大の処分を取ったと思われます。

藩主が切腹し、赤穂5万3千石は取り潰しになりました。赤穂では、首席家老大石内蔵助良雄を中心に議論が重ねられました。初めは籠城が有力でした。城を明け渡して城下の菩提寺で追腹を切ろうという意見もありました。これらは、幕府の処分を片手落ちとして、不満を表明するものでした。
大石は開城を決心しました。これは、長矩の弟で、閉門の処分を申し渡されている浅野大学に迷惑が及ぶことを恐れたためでした。大石は家臣を説得し、浅野大学が相続して、浅野家再興を目指すことに、今後努力するとしました。
しかし、浅野家再興は幕府の処分が間違っていたことを認めることになります。翌年、浅野大学の閉門は解かれましたが、そのまま本家安芸広島藩浅野家へお預けの身となりました。
刃傷事件の処分の再検討を促す行動が全て望みがなくなった時、残された最後の方法は吉良義央を自分達で討つことでした。それが赤穂浪士の武士としての一分(いちぶん)、つまり面目でした。
吉良義央は出羽米沢15万石の上杉家と親戚関係にありました。義央夫人は、上杉家の出でした。義央の子は、上杉家の養子となり、藩主を相続し、上杉綱憲(つなのり)と名乗っていました。
1702(元禄15)年12月14日、大石以下四十七士は本所松坂町の吉良邸に討入り、首尾よく義仲の首を討ち取り、泉岳寺の主君長矩の墓前に供えました。

この事件の処分について、幕府の評定所で審議が行われました。しかし、翌年2月まで裁決は延期されました。2月4日大石以下に切腹が命じられました。
これは、柳沢吉保に仕えていた儒学者荻生徂徠(おぎうそらい)の意見に基づくものでした。主君のために敵討をしたのは義に当たる。しかし、法の見地からは、幕府の処分に対し、許しもなく騒動を起こすのは許されない。武士の礼をもって切腹に処すべしとの意見でした。
赤穂浪士の行動は、幕府に対して不公平な処分の是正を促し、最終的に自分達の手で是正を図った点において、幕府の方針と対立しました。この点は、大石らは自覚したかどうかは分かりませんが、権力に対する抵抗が見られ、忠臣蔵が今日まで人気を博するもとと思われます。

 

元禄という元号の時期を中心にして、元禄文化は生み出されました。元禄文化は、町人文化をいわれます。商業の発達と都市の繁栄に伴い、経済力をもって台頭した町人の階層が、この時代の文化を担いました。
元禄文化の代表者は、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門の3人をあげることができます。これらのジャンルの他、美術面では、日本的な装飾画の様式を完成した尾形光琳、浮世絵の始祖菱川師宣をあげることができます。
学問の分野では、和算を創始した関孝和、日本の古典研究の方法を確立した契沖(けいちゅう)をあげることができます。契沖の後は、国学として発展していき、賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(のとおりのりなが)が出てきました。
国学に対し、中国古典を研究する儒学においても、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らが出て、独自の解釈を加え、現実の道徳や政治のあり方と結びつく学問となりました。洋学の先駆者といわれる合理主義者の新井白石もこの時代の人でした。

 

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