江戸時代2

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江戸時代2
3.正徳の治
 

1704(宝永元)年、綱吉の兄綱重の子で、甲府藩主徳川綱豊は、綱吉の養子として江戸城西の丸に入り、名を家宣と改めました。この時、家宣は43歳でした。
この頃、貨幣改鋳により品質の悪い金銀貨が出回り、物価は高騰し、金・銀座人や両替商と、彼らと結託した役人が私腹を肥やしていました。これに反し、武士や庶民の生活は困窮し、生類憐みの令により、獄中には罪人があふれかえりました。
1707(宝永4)年には、富士山中腹が噴火し、宝永山ができました。この噴火で火山灰が空を覆い、昼間でも暗く、広く降灰しました。この灰の除去のための資金を、幕府は幕府・大名領に賦課しました。しかし、勘定奉行荻原重秀は、その一部を除去に使いましたが、残りの大半は不明金となりました。
1708(宝永5)年には、品質の悪い銅貨を鋳造し、従来通りの価値で流通させ、庶民の生活は混乱しました。
1709(宝永6)年、綱吉は病死し、家宣が6代目将軍に就きました。葬儀の前には生類憐れみの令の廃止が公示されました。間もなく新たな銅貨の流通は停止されました。
老中・若年寄が集められ、柳沢吉保に相談するようになっていましたが、今後直接家宣に言上するように命じました。将軍宣下の儀式が行われますと、柳沢吉保は隠退しました。また綱吉側近の者達も元の所属に戻されました。

この後、側近政治の中心になったのが、側用人として老中格を与えられた間部詮房(まなべあきふさ)と、詮房の相談役になった学者の新井白石でした。
間部詮房は元喜多流の能楽者の子で、綱豊(家宣)に仕え、甲府藩邸の用人となりました。家宣が将軍の世嗣となると、側衆となり、大名となりました。1710(宝永7)年には、高崎5万石城主になっています。
新井白石は早くから独学で儒学を修めていましたが、30歳頃、朱子学者木下順庵を師としました。その後、学者として甲府藩邸に出仕し、綱豊へ進講しました。家宣が西の丸に移ると、幕臣に登用され、進講を続け、将軍になると、意見を述べたり、意見を求められました。
詮房に比べ、白石は500石、後に1000石知行で、寄合(よりあい)衆の一員でした。これは、無役の旗本が所属する所でした。学者として登用されたことが影響したものと思われます。学者が政治上の役職に就いたことは、岡山藩の熊沢蕃山以外ありませんでした。
家宣・詮房・白石の3人とも、温厚実直でありながら、芯の強い性格でありました。3人は協力して、正徳の治という清新な政治を実現しました。

 

家宣の武家諸法度は白石が執筆しました。儒学の政治理念である仁政の実行を大きく掲げました。また、役人の心得を規定し、公権を利用して私利を図ったり、賄賂で私益を図ったり、奢侈や非礼を諌め、綱紀の粛正を図っています。
綱吉の時代は、道徳を民に強制したのに対し、家宣の時代は、為政者が道徳に則り、姿勢を正そうとする政治理念になりました。
裁判に関しても、しばしば白石は家宣より諮問を受けました。その場合も、上に立つ者がまず責任を自覚し、道徳的行為の規範を示すべきだとの立場より、公正を図り、幕府は民を保護する責任があると主張しました。
幕府の儀礼上の制度の整備に努力したため、白石の政治方針の一つとして、礼文政治と呼ばれました。社会秩序に適合する礼法の体系を整備することにより、人々に社会的職分の自覚を促そうとしました。
上位者に責任の自覚を持たせることにより、道徳政治を実現しょうとしました。つまり、支配体制にふさわしい官位や礼式の制定が必要と考えました。
武家の官位は、朝廷のものとは枠外と定められていましたが、形式上では、朝廷のものでした。そこで、白石は、官職や位階の名称を実態に合うように改めるとともに、それにふさわしい衣服や儀式の制度の制定に取り組みました。

1711(正徳元)年、家宣の将軍就位の慶賀に朝鮮から使節が来日しましたが、これを迎える礼法について、白石は諮問を受けました。
白石は改革の要点を2つ挙げました。1つは、将軍の称号でした。従来は、朝鮮からの国書は、日本国大君(たいくん)殿下で、返書は日本国源家宣と書くことになっていたのを、日本国王と改めました。
第2は、使節の待遇が丁重過ぎたのを、順当なものに改めることでした。これに対し、使節側は不満でしたが、白石は説得し、承服させました。
第1の国王の称号について、対馬藩の儒学者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は批判しました。大君は朝鮮では王子の嫡子を指す言葉であり、低い身分になる、中国では天子の意味になり、天皇に対し失礼に当たる、と白石は主張しました。白石は朝鮮に対し、対等な立場を保持しなければならないとして、その主張を押し通しました。

 

白石は元禄期以来の経済政策の改革に着手しました。その第1歩として、財政の実権を握っている勘定奉行荻原重秀を罷免することでした。
家宣の将軍就任直後、御座所新築経費のため、重秀は金銀改鋳を願い出ました。白石の意見により、家宣は御座所新築を延期し、改鋳を中止しました。しかし、重秀は年貢収入が予想外に多かったとして、1709(宝永6)年、御座所を建築しました。その経費は莫大なものでした。建築入札には、商人達が奉行所役人に巨額の賄賂を贈るのが当り前となっていました。
この後、重秀は内密に銀貨の改鋳を行いました。このため、貨幣価値が下がり、非難の声が幕府に集まりました。
家宣は、重秀の財政運営能力を買っていましたが、重秀は商人と結託し、重秀を通じなければ、必要な物資が購入できない状況になっていました。
再三再四の白石の意見で、重秀は免職となりました。それは1712(正徳2)年、家宣が病死する直前でした。免職された重秀も、翌年病死しました。
重秀が勘定奉行時代、勘定吟味役は自然消滅していましたが、白石の建議により、復活されました。

1712(正徳2)年、家宣の跡を、その子家継が4歳で継ぎました。宣下の儀式は翌年行われました。政治の実権は間部詮房が握り、白石と協力して将軍を補佐する体制は継続されました。
家宣は金銀貨を慶長期の状態に戻すことを言い残していました。1714(正徳4)年、正徳金銀が鋳造されました。
元禄以来の改鋳は、幕府の利益を目的にしたため、民の反感を買い、金銀銅の含有成分比を公表しなかったため、民は疑いました。このため、白石は改鋳に際し、民がお上を信頼するようでなければならないと説きました。

 

鎖国の後も、貿易額の制限は行われませんでした。そのため、金銀銅の激しい海外流出は続いていました。このため、国内で流通する貨幣の量が不足してきました。
初め銀が輸出の大部分を占めていました。1646(正保3)年、銅が輸出されるようになり、18世紀には銀に取って代わるようになりました。
1668(寛文8)年、銀の輸出は禁止され、金の輸出が解禁されました。しかし、中国の商人は金を喜ばなかったため、銀の流出は続きました。
1685(貞享じょうきょう2)年、幕府は初めて貿易額の制限を定めました。中国船の輸入額を銀として6千貫目、オランダ船の輸入額を3千貫目に制限しました。これを定高(さだめだか)と呼びました。
取引高の制限だけでは困難であったため、1688(元禄元)年には中国船1年に70隻と船数を制限しました。また、この年、長崎市内に唐人屋敷を建設し、翌年、中国人をここに移しました。
1694(元禄7)年からは、売れ残った商品を商人に請負わせて交易させ、運上金を納めさせました。1698(元禄11)年からは、請負制により、俵物(たわらもの、乾しあわび・いりこ・ふかのひれの俵詰め)や諸色(しょしき、昆布など)と呼ばれる海産物の中国への輸出が始まりました。

新井白石は長崎奉行大岡清相(きよすけ)らの意見により、貿易に関する規制を整備し、1715(正徳5)年、長崎奉行らに示しました。これは、正徳長崎新例などと呼ばれ、ほぼこの規定に従って、幕末まで長崎貿易は運営されました。
その内容は、中国船は年30隻、銀高6千貫目、オランダ船は2隻で3千貫目の定高でした。
白石は、貴重な資源を奢侈品の輸入のために失ってはならないと考えていました。輸入の代表の白糸(生糸)については、京都の西陣に対し、和糸(国産生糸)を使用した織物の製造を命じました。また、砂糖や朝鮮人参も国内で栽培させたいと考えていました。
新井白石は幕府の学者として、例外的に政治活動に参加しました。努力の割には、報われることが少なく、理想とする武士の生き方と、現実社会との違いも大きかったと思われます。そんな思いは、白石の自叙伝である「折たく柴の記」に記されています。

 

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