江戸時代2

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江戸時代2
4.享保改革
 

8代将軍徳川吉宗は、1684(貞享元)年、御三家の一つの紀州藩主徳川光貞の四男として生まれました。頼方と名乗っていました。
普通は、御三家の庶流の一小大名(3万石)で一生を終わる身でした。1705(宝永2)年、紀州家3代藩主の長兄綱教が亡くなり、その跡を継いだ次兄も急死し、頼方が紀州藩主に就きました。この時、綱吉より吉を一字をもらい、吉宗と改めました。
吉宗の就任した当時の藩の財政はひどいものでしたが、緊縮政策を採り、倹約を実行しました。在位12年間の藩政はすばらしいものでした。
1712(正徳2)年、6代将軍家宣の亡くなり、その子家継が4歳で跡を継ぎますが、1718(正徳8)年、8歳で家継は亡くなりました。
尾州徳川家は御三家筆頭で、藩主吉通(よしみち)は名君の誉れが高かったのですが、1713(正徳3)年に死亡し、その子もその年亡くなりました。そこで、御三家第2位の紀州家の吉宗に将軍職がまわってきました。

この様に、吉宗の将軍職就任は、非常に幸運なものでした。このため吉宗が将軍に就くと、これにあやかろうとする者が出てきました。1729(享保14)年、天一坊事件の原型といわれる源氏坊改行事件が起こっています。
品川に住む源氏坊改行という修験者が、自分は将軍家ゆかりの者で、近日中に召し出されて大名になると言いふらし、浪人を集め、庶民から金品を騙し取りました。
品川は関東郡代の支配地でしたので、改行は勘定奉行稲生(いのう)正武掛の裁判で、死罪・獄門となりました。しかし、江戸町奉行大岡忠相担当に作り変え、天一坊事件として「大岡政談」に記されました。

 

庶民は生産物のうちから、命を支えていくのに必要な分を除いて、あとは年貢として取立てられていました。しかし、しだいに農民の手元に、少量ですが、剰余分が残っていきました。
この剰余の分は交換されていきました。その分は農民の生活を豊かにしました。そのため、より多く交換に出そうと意欲が湧いてきました。
自給農業では、収穫量が問題でしたが、売るために米を作るようになると、量の他に、収穫時期と品質が問題になりました。
他人より1日でも早く収穫して市場に出せば有利でした。そこで、早稲(わせ)・中稲(なかと)と呼ばれる早生品種に力が入れられました。

生活の必要から自家消費用として作られていた作物も、適した土地に集中的に作られるようになりました。こうして、それを全国に売り出す特産物農業が始まりました。
こうした新しい産業は元禄〜享保期に定着しました。木綿・菜種・蝋・煙草などの栽培があげられます。
木綿が我国にもたらされたのは、室町から戦国時代にかけてといわれています。近畿・中国地方は木綿の特産地として栄え、麻を庶民の衣料の代表から追い出しました。
特産物農業が進み、農民は豊かになりましたが、一律になった訳ではありませんでした。
富を蓄え豊かになっていく農民、現状維持の農民、しだいに貧乏になり田畑屋敷を手離す農民と、農民層は分解していきました。この時期、産業が多様化するとともに、村落内では貧富の差が激しくなっていきました。

農村以上に大きな変化が現れたのは、商業の世界でした。豊臣から徳川の初めの時代は、領主に結びついた御用商人が主流でした。
領主達の財政が困窮し始めると、御用商人の力は弱り、この時代には没落しました。新しい型の商人が登場しました。
最初1人の農民の剰余分は極少量で、同じ地域の農民達は全く同じ経営形態でしたので、お互いが剰余品を交換することは不可能でした。その上、農商分離を基調とする町と在との分離により、生産者と消費者は離れていました。
このことから、商人の仲介が必要でした。商人は生産者から物を安く買い、それを消費者に高く売りつけました。商人達は瞬く間に莫大な利潤を得て、巨大商人に成長していきました。

そんな新興商人の代表が三井家でした。三井家始祖高利(たかとし)の父高俊(たかとし)は、伊勢松坂で、江戸時代初め、商売を始めました。
高利は一度江戸に出てきますが、松坂に帰り、家業に励みました。松坂での活動の中心は高利貸でした。
1673(延宝元)年52歳の時、高利は江戸に進出します。江戸に呉服店を開き、京都に仕入店を設けて、屋号を越後屋としました。
当時の呉服店は、得意先を回って注文を取る方法と、商品を得意先に持って行き、奥方達に説明する屋敷売りという方法でした。屋敷売りは利潤は多かったのですが、後払いで、手数も多く、資金の回転率が悪い商法でした。
この商法の対象の御大家(ごたいけ)は大店(おおだな)が押さえていたため、高利のような新規の商人は入り込めませんでした。
高利は新しい商業分野を狙っていました。一つは諸国商人(あきんど)売りでした。地方商人に商品を卸す問屋のような仕事でした。利潤は薄いが取扱量が多いため、大きな利益になりました。
もう一つは店前(たなさき)売りでした。店頭に商品を並べて、買いに来た客のみ現金売りする方法でした。顧客を訪ねて歩く必要がなく、掛売りでないため、資金の回転がよく、貸倒れの心配がありませんでした。一人一人の購買力は弱かったのですが、全体として庶民は期待できる客筋でした。
駿河町越後屋には、「現銀かけねなし」の看板を掲げました。また、金銀御為替御用達になって、幕府とも結びつきました。1694(元禄7)年、高利が73歳で亡くなった時、莫大な遺産を子供に残しました。

元禄〜享保期、領主の財政は完全に行き詰まっていました。幕府の財政も例外ではありませんでした。
1616(元和2)年、徳川家康が亡くなりますが、その遺産は莫大なものでした。1632(寛永9)年、秀忠がなくなった時も、3代家光が受け取った遺産は多額なものでした。家光は大変な浪費家でした。その一代で膨大な金銀を使っています。
しかし、4代家綱が家光から引き継いだ幕府財政は、秀忠から家光が引き継いだ時よりも上回っていました。その最大の財源は鉱山収入でした。
この鉱山の金銀産出量も、家光の時代の終わり頃から減少し、家綱の時代、幕府財政は変調を示し始めました。
家綱治世の初め、1657(明暦3)年、明暦の大火が起きて、江戸城はじめ江戸の町はほとんど焼失しました。この大火の復興に多額の金銀が使われました。大名・旗本の財政も急激に悪化し、借金を返さなくなるのもこの頃です。幕府の備蓄金はほぼ使い果たしました。
1680(延宝8)年、綱吉が5代将軍に就いた時、幕府財政は天領400万石の年貢収入に頼るしかありませんでした。綱吉は財政・民生を専管する勝手掛老中を設け、財政問題の専門家である勘定所の役人が勘定所の長官である勘定奉行になる道を拓きました。
この様に綱吉は財政の建て直しに努力しますが、治世の後半には寺院の建築など多大な出費を行い、その次の新井白石も改善の手段を持たず、財政は悪化し、吉宗が8代将軍に就いた時は、幕府財政は最悪の状態でした。

 

徳川幕府の行政機構は、寛永期に出来あがっていました。これは、幕府草創期に形成された家格身分制に基づいていました。石高(家禄)が高い者ほど、上の地位に就くというものでした。
上級の役職は、小数の家禄の高い者から選ばれるため、能力の低い者が選らばれる可能性がありました。そのため、社会の変化に政治がすばやく対応できないという点がありました。
行政機構の最高位の老中は、譜代門閥層の家格身分が最上位に属する者から選ばれ、定員は4・5名で、月に1人の当番を決める月番制で、政務を主宰し、職務運営は合議で行われました。
老中の指揮下、各種職務を担当する部門の長を奉行といいます。その中で、寺社奉行、(江戸)町奉行、勘定奉行を三奉行といいます。他に比べて重要な職務の上、評定所の主要構成員で、幕政全般を見るという役目がありました。

 

寺社奉行は、5〜10万石の譜代大名が就く役職で、ここから大坂城代・京都所司代を経て、老中に昇進することもありました。その職分は、全国の寺社及び神官・僧侶を支配し、寺社領の民を支配することでした。この他、連歌師・楽人・陰陽師・碁将棋の者を支配しました。
江戸時代、町奉行という時、江戸町奉行を指しました。町奉行は本来町政を担当する奉行という意味で、京都・大坂・奈良・山田・長崎・駿府に置かれました。これらは、町奉行の上に地名を置いて、江戸町奉行と区別しました。
町奉行は武家地と寺社奉行支配地を除いた江戸府内を支配し、行政・司法・警察の職務を行いました。定員は2名で、3千石相当の旗本の役職で、南北町奉行に分かれて月番で担当しました。
南北は担当区域でなく、1km程離れた奉行所の位置関係から、こう呼ばれました。奉行は、与力25名、同心120名を指揮しました。
勘定奉行は、天領400万石を郡代・代官を指揮して支配しました。その職務は、年貢の収納や幕府の財政を担当して、その収支業務を行いました。また、江戸・大坂の御金蔵、御米蔵を支配し、金・銀座などの貨幣関係の業務を監視しました。定員は4名で、3千石相当の旗本の役職でした。

5代将軍綱吉は、幕府の備蓄金を失い、天領からの年貢収入に頼らざるを得ない状況の変化に対応すべく、老中の職務が合議制であったものを、財政と天領の民の支配の担当を切り離して、勝手掛老中を設けて、堀田正俊に任せました。
その下で、実務を行う勘定奉行も家禄にとらわれず、勘定所の専門家がなれる道を開きました。綱吉治世の後半を担当した勘定奉行荻原重秀も、この様にして抜擢されました。
吉宗は、その後任命されていなかった勝手掛老中に水野忠之を任命しました。幕府財政の建て直しがその任務で、享保改革の年貢増徴と新田開発が立案されました。
この過程で、勘定所の中が二つに分けられ、公事方と勝手方に分けられました。勝手方老中の指揮下に、民生・財政に専念できる部局勝手方が独立しました。勘定奉行も2名を公事方、2名を勝手方に配属しました。

江戸幕府の役職は、行政と司法を兼務していました。勘定奉行も天領関係訴訟の裁判を行っていました。この司法関係の職務を公事方といいます。その中で、金公事が急激に増加していました。
売掛金の回収や金銭の貸付けによって引き起こされる紛争には介入しないというのが幕府の方針でした。しかし、経済活動の範囲が広まり、全国相手の問屋・卸商が出てくると、信用のみの取引には限度があり、商行為のルールを公権力によって支えてもらう必要が生じてきました。
この様な状況で、1704(元禄15)年、金銭訴訟に関する法令が出されました。その中で、昨年までのものは相対済(あいたいすまし)、つまり当事者が話し合って合意を成立させるように処理し、一切受付けず、今年からは幕府が受理して裁判するとしました。
このため、幕府は新たな仕事を背負い込み、経済の一層の発展によって忙殺される状況になりました。1719(享保4)年、今後は金銭貸借・商品の売掛などに関わる訴訟は受付けないので、当事者が話し合って解決するように、との享保の相対済令を出しました。
老中と寺社・町・勘定奉行によって構成された幕府の最高機関を評定所といいます。訴訟に関しては、二つ以上の奉行が関与するものを評定所が取り扱いましたが、金公事に時間を取られて、幕府本来の仕事がおろそかになるというのが法令発布の理由でした。

天領は、一部を大名や遠国(おんごく)奉行に預け、残りを郡代・代官に支配させました。郡代を含む代官は1人で5〜10万石の天領を支配しました。彼らは、郡代役所または代官所陣屋を設けて、業務を行いました。手代などの事務官僚を指揮するだけで、大名領と違って代官領には、武力はほとんどありませんでした。
代官は用水施設の管理補修権や年貢査定権などの絶対権限を持っていました。そして、収納した米や銭を一手に扱ったため、不正に陥りやすい状態にありました。
5代将軍綱吉の初め、大量の不正代官を摘発しました。その後の新井白石も不正防止の方針を取りました。
吉宗が将軍に就いた1716(享保元)年、代官は任地に長く滞在して、職務に勤めるように命じました。代官は江戸に役宅を持ち、検見(けみ)の時など、必要のあるときのみ任地に出向き、通常は手代以下が主に職務を行っていました。
吉宗は、代官の綱紀粛正に思い切った手を打ち、1719(享保4)年には、収賄や使い込みのあった代官を大量処分しました。
1722(享保7)年、幕府はこれまで検見取法をやめて、あらかじめ豊凶作にかかわらず決められた定免(じょうめん)法による年貢の取り方に代えました。
年貢の取り方としては検見取法が優れていますが、代官の不正を正すためには次善の方法の定免法を取りました。

社会が複雑になると、上級の役職に家禄の低い層から人材を抜擢する必要が強まってきました。このため、役職と家禄の差を補うことが必要になってきました。これは、役職に応じて、在職中は別途役料を支給するというものでした。その後、一時これは廃止されますが、その後復活しました。そして、1692(元禄5)年には、役職ごとに基準の家禄を決め、それ以下の者が役職に就いた時に、規定の役料を支給するとしました。
しかし、支給役料で埋め合わせができる範囲の者はいいですが、それ以下の場合は問題が残りました。これを修正したのが、足高(あしだか)制でした。これは、1723(享保8)年、吉宗によって制定されました。役職相当家禄と就任者の家禄の差は、全額支給されるようになりました。
幕府の役職は軍人のポストの番方(ばんかた)と行政官のポストの役方(やくかた)に大別することができます。旗本が就く役職の前者の最高位は大番役で、後者は大目付・町奉行・勘定奉行でした。
大番役に足高制実施以降も、その就任者の家禄には変化はありませんが、大目付・町奉行・勘定奉行には少禄の者が就任しています。特に勘定奉行にはそれが目立ちます。勘定奉行には計数に明るく、民の事情に詳しい実務的役職であったことが分かります。

徳川幕府の裁判制度は法に基づいて画一的に裁くのではなく、裁判官である奉行が自分の倫理道徳観により裁くべきだとしていました。
そのため、裁く奉行によって判決が違うということがあり、不公平であったり、遂には幕府の権威を落とすことになりました。4代家綱の時に、判例を残して裁判の指針にしょうということになりました。
5代綱吉の時代になると、経済の発展により訴訟件数が増え、その内容も複雑になり、中には情実に左右される裁判もありました。新井白石もこの様な状態を改善しょうとしましたが、効果はありませんでした。
将軍吉宗は、荻生徂徠の明律(明の法律)の書物に関心を持ったり、諮問したりしました。
吉宗は、幕府の法令・触書を十分知らないことが、罪を犯したり、多くの訴えをするので、周知徹底することが必要だと考えていました。
そのため法の整備と編纂に力を入れました。そして、江戸時代の基本法典といわれる「御定書(おさだめがき)百箇条」を完成させました。

 

1722(享保7)年、吉宗は江戸城中で、居並ぶ大名達に幕府財政の窮状を訴え、参勤交代の在府期間を半年免除するので、石高1万石につき米100石を幕府に献米してくれるように頼みました。これを上米(あげまい)令といいました。
幕府が抱えている旗本は、年とともに増えていく傾向にありました。このままいけば、そのうちの数百名を整理する以外に方法はありませんでした。
幕府も勝手掛老中水野忠之を中心に、抜本的な財政建て直しを研究していましたが、それには時間を要するため、諸大名からの献米に期待しました。
その財政建て直し策は、年貢の増徴と新田開発でした。
幕府の年貢徴収率の低下は、代官所の役人(地方じかた役人)の不正にあると考えていました。そのため、代官所の会計検査を徹底し、不正者を処罰しました。

しかし、吉宗はこれで十分だとは考えていませんでいた。そのため、これまでの検見取法を定免法に代えて年貢を徴収しました。この方法の移行は、不正防止の狙いの他に、年貢引き上げに利用しょうという考えがありました。
定免法にすると、秋に検見するため来村する役人の送迎・接待する費用が必要でなくなります。また役人が来るまで手を付けられないのが、都合が良い時農作業ができます。豊作の時にその分年貢が多くなることはなく、精を出すことにより、その成果を自分のものにできました。
定免法は、最初実施期間を1〜3年と短くしておき、その切り替えの時、年貢引き上げ交渉をし、その村相応の年貢になると、5・10年といった長い期間にしました。
定免法の他に、三分一銀法も取りました。この方法は、上方・西国で行われた税法でした。米作を行わない畑地を全耕地の1/3とみなし、その部分を一応石高に見積もって米で納めるように計算するが、実際には、銀に換算して納める方法でした。
本当は、米で納めることなどできないことでしたが、三分一銀法をやめて、米納にすることを触れに出し、百姓が米納は困ると願い出たら、換算率をせり上げるようにしました。
定免法は大百姓には有利ですが、小百姓には不利な方法でした。取り過ぎた年貢の調整方法として夫食拝借(ふじきはいしゃく)という方法がありました。定免法で年貢増徴が増えると、農民が領主から食糧を拝借するという夫食拝借が増えました。
これが増えると、せっかくの年貢増徴が尻抜けになるので、これを補うため、破免(はめん)が併用されました。凶作があり、規定の年貢が納められない場合、臨時にその年だけ検見取にするいう方法でした。
破免を許可するには、最初厳しい条件が付けられました。しかし、次第に緩やかになっていきました。1734(享保19)年には、3割以上の損毛があった場合は破免にするとしました。その代わり、一切夫食貸しはしないとしました。この条件は、以降は変りありませんでした。
三分一銀法にも問題がありました。全ての畑地に収益性が高い作物が作られた訳ではありません。そのため、同じ年百姓との交渉により換算率をせり上げるのではなく、地域別所相場(ところそうば)に一定の増銀(ましぎん)を加えることにしました。

我国の耕地は、平安時代以来室町時代中期頃まで増加はありません。しかし、一円支配の戦国大名が出ることにより、耕地開発が進みました。1660年頃には100年前に比べ3倍になっていました。
しかし、行き過ぎた開発は、国土の荒廃をもたらしました。山野や河川の保全を忘れて諸藩が新田開発をしたため、少しの風雨で大きな被害が出ました。このため、1666(寛文6)年、山川掟という触書を出して開発を停止しました。荒廃した山野に植樹し、自然の回復を図りました。
幕府は、既に開発した耕地を丁寧に耕し、従来ある田畑からの最大限の収穫を得る本田畑中心主義を採りました。
吉宗はこの政策を転換し、1722(享保7)年、新田になりそうなところは申し出るように触れを出しました。
幕府は財力のある町人の力に期待しました。その代わり、開発資金の1割5分の限度内で、町人が小作料を取ることを認めました。
また、新田開発させた代官には、一代の間、その新田からの年貢の1割を支給する方法も取りました。このような新田は代官見立(みたて)新田と呼ばれました。

 

都市の急速な発展で、米価が高騰したり、天災のため建築材や日常必需品が暴騰するなど、物価は幕府にとって大きな問題でした。
江戸時代、全ての生産力を米の石高で表現し、この石高を基にして領主は年貢を取り立てました。そしてそれを売った金で、必要な物資を購入しました。この仕組みを石高制といいます。
この様な仕組みの下では、米価が諸物価の中心となり、他の諸物価の上下は問題にならず、米価と他の諸物価の比率を一定にしておけば、問題はありませんでした。
物価は、米価とそれ以外の諸物価をひっくるめて諸色値段と呼び、この二つに分けることができました。元禄期、米価安の諸色高という状況が発生しました。
農民の手元に残る剰余が生活水準を引き上げました。主食は一定量あれば足ります。それ以外の商品の需要が高まりました。しかし、これらの生産体制は貧弱でしたし、労賃の上昇もあって、諸色値段は上昇しました。
農民の手元に剰余が残ることは、いざという時には、田畑は抵当価値を持つことになりました。そのため困窮した時、身売り同然に労働力を提供することが少なくなり、奉公人不足と労賃の上昇を招きました。

吉宗は、1723(享保8)年、江戸・大坂・京都町奉行に、物価引下げ策を諮問しました。江戸町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)と同役諏訪美濃守頼篤(よりあつ)は、物価引下げの意見書を提出しました。
それは次のようなものでした。高値の原因は、商人達の不当な価格操作にあるので、同業者の仲間組合を流通段階ごとに作り、責任を持たせ、監視させる。需要が多いため、商人達が仕入値を吊り上げるので、仲間組合を利用して、決められた値段で仕入れる。商品流通に大きな役割を果たす大坂で、積み出す商品を問屋で改めさせ、その流通先と量を大坂町奉行に届けさせ、江戸に送った物は、大坂より江戸町奉行に報告させ、江戸に入ってくる商品と数量を監視させる。
以上の考えは、すぐには幕閣には納得されませんでしたが、翌年、物価引下令として発布されました。江戸・京都・大坂・奈良・堺などの各町奉行に、物価引下げを命じ、代官・領主にも諸国で製造している商品の元値を安くするように命じました。幕府は諸色値段は米価に追随して変動すべきであるという強い態度で臨みました。
仲間組合は、種々の商品で結成されました。そして、株仲間に発展していきます。流通の問屋・仲買・小売という我国特有の流通組織は、大岡忠相らの考えから出発しました。

江戸時代の米価は、元禄〜享保を境に前半は上昇、後半は下降傾向でした。前半の上昇は需要の増大で、それは人口の増加、特に都市人口の急増にありました。後半は永年の米の増産運動による供給の増加により、米価は反落しました。
江戸時代前半の米価政策は、供給より需要が多かったので、需要を減らす政策でした。需要には実需と仮需があります。米の実需は、飯米と酒造米の需要がありました。飯米を減らすことはできませんでしたので、酒造を制限しました。
前述のように江戸時代前半は、米価は上昇傾向にありました。米を扱う掛屋や蔵元の商人達はこのことを経験的に知っていて、米を買う仮需は、更に米価を引き上げる原因となりました。このような取引を延米(のべまい)取引、空米(からまい)取引といいました。幕府はこの様な取引を繰り返し取締りました。
しかし、米価はしだいに下がってきました。吉宗は反対の政策を取りました。1724(享保9)年、仮需を抑える政策を緩め、1728(享保13)年には延米取引を公認するようにさえなりました。1730(享保15)年、大坂堂島に米市場を設立し、延米取引を行いました。また、酒造制限もやめ、酒の公定価格も無くしました。
しかし、大坂・江戸に入ってくる米が多すぎて、政策の効果がないとして、生産地に米を蓄えるという置米(おきまい)令を出し、消費地に米を送るのを制限する廻米(かいまい)制限令を出しました。更に1735(享保20)年には米の公定価格を設けて、その線まで米価を引き上げようとしました。このため、世間では吉宗のことを米将軍と呼びました。

江戸時代の通貨は、金・銀・銭の3つの通貨からなっていました。銭は小額通貨で、全国で共通に使われていました。金は江戸中心、関東・東国で、銀は京・大坂中心、上方・西国で使われました。
幕府は金・銀の好ましい交換比率として金1両に対し、銀50匁(もんめ、3.75g)を設定し、江戸時代前半は、この線を基準として、その上下で交換されました。
上方から江戸への物資の流入を増やすには、金の銀に対する比率を強くすればできます。元禄期、荻原重秀は銀を60匁にしょうとしました。しかし、荻原重秀は追放され、新井白石の正徳の改鋳により元の状態に戻りました。
更に金銀相場で銀は強くなり、金1両で40匁までなりました。江戸の消費者物価は高騰しました。この様な状況で、町奉行大岡忠相は、両替商を限定し、1718(享保3)年には金1両で銀60匁になるように命じました。両替商はこの命令に対し、休店で対抗しました。
これにより混乱が生じたため、大岡忠相は妥協的な相場を提出しましたが、両替商の抵抗が続き、相対相場になりました。

その後、幕府の希望する60匁に落ち着いていましたが、1722(享保7)年、51.2〜51.3匁に銀が暴騰しました。大岡忠相は両替商に銀相場を引き下げるように申し付けました。
少しは安くなりましたが、全面解決にはなりませんでした。大岡忠相は吉宗に米価引き上げのため貨幣改鋳を申し出ました。吉宗は改鋳に賛成ではありませんでしたが、大岡忠相らの執拗な主張により、1736(元文元)年、新しく元文金銀を出すことになりました。
慶長金銀を100とした場合、元禄改鋳は金67、銀80、元文改鋳では金60、銀58になっています。元文では銀の質の下げ方が大きくなりました。このため、通貨金の銀に対する比率は高くなりました。
ところが、改鋳直後、金1両に銀48匁という銀高相場になりました。大岡忠相は、両替商による操作と見て、強硬な対抗策に出ました。しかし、大岡忠相が寺社奉行に転出したため、事態は沈静化し、相場も金1両に銀60匁に落ち着いていきました。

この時期、余裕の出てきた庶民はより豊かな生活を求めました。麻が主な衣料だったのが、より暖かく丈夫な綿に代わり、更に絹織物も庶民の中に入ってきました。
食物では初物食いという風習が広がりました。幕府はこれを好ましくないとして、初物禁止令を出して制限しました。また、1日2食の食習慣が3食に定着したのもこの頃でした。
庶民の間にも灯油が普及し、寝るだけだった夜も、生活の大きな時間帯となりました。
幕府は繰り返し倹約令を出しています。元禄前期まで、身分相応を過ぎた贅沢を戒めるのがその内容でした。元禄後期になると、過剰な消費一般を抑制する内容に変りました。
新井白石は身分相応に戻そうとしました。その後、不況であるのに諸色値段は高止まりであるため、1720(享保5)年、使い捨ての行為を戒め、商人には目先の新しい贅沢品を出すことを戒める触れを出しました。
その実効のため、大岡忠相・中山時春の町奉行は、主食・医薬品など生活に必要な品以外の96業種を選び、組合を作らせ、幕府の指示を守らせようとしました。

 

城下町は武家地・町人地・社寺地に分けることができます。武家地は城を取り巻くように作られ、町人地は武家地の外側に配置され、武士の消費生活を支え、領内物産の集散と農民の自給できない物の補給をしました。更にその外側に社寺地が設けられ、信仰の場とともに敵との最初の防衛線とされ、平和な江戸時代は、庶民の憩いの土地として利用されました。
明暦の大火で、江戸城を含めた江戸の町は焼失しました。その後の復興事業で、江戸は大発展します。しかし、江戸城天守閣はその後再建されることはありませんでした。
江戸の曲輪内にあった大名屋敷をその外に移動しました。寺院を深川・浅草・駒込・目黒などの江戸郊外に移動しました。焼跡の焼土で木挽町・赤坂・牛込・小石川などにあった沼地を埋立て、新地を開きました。防火堤を設け、避難地を設けました。道路幅を6間(けん、約1.8m)から10間に広げました。大川(隅田川)に両国橋を架け、その東に新市街をつくりました。
江戸の町は、寛永期300町、この復興後、綱吉が将軍になった頃に800余町、正徳期は930余町、享保期には1000余町になっていました。
人口は享保期町奉行支配下は50〜55万人の間を移動しています。寺社奉行支配下、約5万人、吉原が8千人でした。これに武家人口が加わり、7・80万から100万人の巨大都市でした。町方50余万人が江戸の約20%の町地に住んでしました。

火事と喧嘩は江戸の華といわれました。狭い地域に木造の家が密集し、冬場は雨が少なく、空気が乾燥し、風が強いため、江戸は火事が多く発生しました。
明暦大火以降防災体制は進められますが、享保期になると、更に強められました。1720(享保5)年、大岡忠相は町名主に町屋を全部瓦葺にしたらと諮問しました。しかし、そのためには、柱・棟を太くする必要があり、建替えしなければならず、反対されました。大岡忠相は地区を設けて、不燃化を強制的に推進しました。
火事を根本的に防ぐことはできませんでした。しかし、火事により大量な死者を出すことは防がなければいけませんでした。そのため、火災時に逃げ込む避難地、いわゆる火除(ひよけ)地を整備する必要がありました。このような火除地は享保期の江戸には90ヶ所ありました。
明暦大火後、江戸の火消制度は整備されました。その組織は、定(じょう)火消・方角火消・所々(しょしょ)火消からなっていました。定火消は江戸幕府直属の消防隊で、10ケ所に役屋敷を設け、頭は4千石以上の旗本で、その下に与力6人、同心30人、消防夫300人が常駐し、火見櫓を設け、消火用具を備えていました。
方角火消は大名を数家づつ方角に分けて消防に当たらせました。所々火消は寛永寺・増上寺・湯島聖堂・米蔵・木蔵その他重要施設に大名1・2家を配し、火事の際、消火に当たらせました。

1718(享保3)年、町奉行大岡忠相は、火消に町人を使うことにしました。この町火消には消火に際し、家などを破壊する権限を与えました。消火用具を常備し、火消を出した町の目印に、幟・提灯を用意しました。
幕府は、町地の消火は町火消に任せました。消火活動が円滑にいかないため、1720(享保5)年、町火消をいろは組に編成替えしました。へ・ら・ひ組は百・千・万組に名称を代えていろは47組にしました。
1730(享保15)年には、10組に組織替えしました。最初は商家の店員などで組織されましたが、町で雇った鳶職などの専業の火消になりました。
この当時の消火は破壊消防で、火が燃え広がるのを防ぐというのが主な消火手段でした。竜吐水(りゅうとすい)という消火ポンプが使われるのはまだ後のことです。

1722(享保7)年の最初の人口調査によると、町方人口は48万余人で、女子の比率は約35%でした。江戸詰めの武士は妻子を故郷に置いてきている人が多かったので、女子の比率は更に下がることが予想されます。
江戸の公娼場の吉原の遊女の数は1743(寛保3)年の人別改(にんべつあらため)によると、3,905人でした。この吉原の遊女の格式は高く、庶民にとって費用は高かったようで、もっと手軽に遊べる所が求められました。
そのために生まれたのが、非公認の遊女の私娼で、寺社門前などに集まっていることが多く、そのような場所を岡場と呼びました。
町奉行は私娼を取締りました。しかし、寺社門前町は寺社奉行の支配下で、取締りは行き届きませんでした。大岡忠相は門前町の支配を町奉行に移すように進言しますが、実現するのは大岡忠相が寺社奉行に転出した後でした。
なお、江戸の出口の品川・新宿・板橋・千住の四宿には飯盛女(めしもりおんな)と呼ぶ公認の遊女がいました。

江戸では家族を持たない人が多く、病気になると、看病をしてくれる人もいない人が多く、不景気で物価高の元禄〜享保期には、多くの困窮者がたくさんいました。
江戸小石川の町医者小川笙船(しょうせん)は、困窮者や孤独者のために施薬院をつくるように、庶民の意見を聞くために設けられた目安箱に意見書を入れました。
1722(享保7)年、小川笙船・丹治(たんじ)父子はじめ7名の医師で小石川御薬園に小石川養生所は開業しました。
最初悪い噂が広まったため、入所する病人は少なかったのですが、町名主を招待して見学させ、その業務を説明したため、患者はしだいに増え、また医師も増員され、当時日本の唯一の総合病院となりました。

 

吉宗の将軍在位期間の老中は、19名います。吉宗が将軍になる前からの老中を、吉宗が将軍に就くことに尽力した援立の臣と呼びます。彼らには、5〜7代将軍綱吉・家宣・家継の3代の側近政治に対する徳川譜代門閥層の奪権の悲願がありました。
吉宗は将軍のなると、譜代門閥層の者を優遇し、側用人を廃止しました。そして、援立の臣は罷免せず、老中に留め置きました。しかし、彼らの1人として政治に力を持ち、吉宗の改革を援けた者はいませんでした。
吉宗は14名の老中を取り立てていますが、水野和泉守忠之と松平左近将監乗邑(のりさと)の2人が有名です。水野忠之は1722(享保7)年、清廉で計数に明るいため、勝手掛老中に任命され、幕府財政建て直しの最高責任者に任命されました。
松平乗邑は、役職の経験がなく、いきなり1723(享保8)年、老中に任命され、1737(元文2)年、勝手掛老中に任ぜられています。

重要政策の決定過程は、3奉行で構成する評定所一座が原案を作り、御用取次を通して吉宗が加わって意見調整がなされ、評定所一座が案を相談する形で老中に持ちかけ、老中から将軍に上程され、将軍が裁断し、老中に下されました。
こうした形は、水野忠之・松平乗邑を形式上の責任者としました。1730(享保15)年、水野忠之は突然罷免されました。世評の悪かった水野忠之の首を切ったと思われ、吉宗の政治上の責めを、彼が負わされたと思われます。
1745(延享2)年、吉宗が隠退し、家重が9代将軍に就くと、松平乗邑は老中を罷免され、隠居・蟄居を命じられます。大御所政治で改革を続けようと考えていた吉宗は、余りの自信家の松平乗邑を許さず、人心一新したと思われます。
吉宗の下で力を持ち、政策運営を援けたのは、御用取次の有馬兵庫頭氏倫(うじのり)と加納遠江守久通(ひさみち)でした。両人は吉宗が紀州侯時代からの側近で、紀州藩改革の推進者でした。将軍になると、1万石を与え、御用取次としました。
御用取次は、老中が執務する御用部屋と将軍の中間にあって、両者の連絡役をしました。両人は紀州生まれで、京・大坂とも関係にある紀州藩で改革に携わった政策通でもあったので、積極的に享保改革にも関与したと思われます。

 

4代家綱から5代綱吉の頃、幕府の政策は対大名から財政、民生にその重点は代わってきました。それにつれ、老中から実務担当の3奉行に比重が移ってきました。
寺社奉行は譜代大名のポストで、将来大坂城代・京都所司代・若年寄・老中と幕閣を昇進する出発点のため、他の2つの奉行より若く、その実力は一番低く見られていました。
幕政の実務権限は、町奉行と勘定奉行が握っていました。その分担は、町奉行が江戸の町政、勘定奉行が幕府財政と天領支配と違っていましたが、幕政一般についての発言権は区別ありませんでした。
享保期、幕府首脳の勘定所に対する信頼は低く、油断すると汚職ばかりする役所と見られ、勘定奉行にも目立った人材が現れませんでした。そのため、町奉行大岡忠相は享保改革でも大きな役割を果たしました。
町奉行大岡越前守忠相を扱った「大岡政談」は、実録風の小説で、名裁判が描かれています。町奉行は定員2名で、その職務には民政と警察・裁判の二つがあります。一人は前者、もう一人は後者に詳しい者を任じることが多かったといわれています。
大岡忠相とコンビを組んでのは、稲生(いのう)次郎左衛門正武で、彼は検察のベテランでした。当時名奉行といわれた人達の事件が「大岡政談」に集められましたが、天一坊事件はじめほとんどが大岡忠相と関係ありませんでした。

大岡忠相は、旗本大岡美濃守忠高の四男として生まれ、10歳の時、大岡忠真の養子となり、その娘を妻としました。1712(正徳2)年、伊勢山田町奉行になりました。
1716(享保元)年、江戸に呼び戻され、御普請奉行となりました。将軍吉宗の下での最初の仕事は、前将軍側近者の役屋敷を没収し、新しい替地を支給することでした。
1717(享保2)年、大岡忠相は町奉行になり、能登守から越前守と改めました。町奉行在職20余年の長期にわたり、江戸町政に数々の業績を上げました。
1736(元文元)年、寺社奉行に転出し、町奉行時代に加増された3,920石は2,000石加増され、5,920石になりました。4,080石足高をくわえて、万石格となりました。60歳になっていました。
元来、寺社奉行は幕閣の出発点であるため、相役はずっと若く、更に譜代大名の名家に対し、3千石の旗本出身という家格の差のため、気苦労と忍耐の晩年だったと思われます。

吉宗は広く人材を登用しました。その中に地方巧者(じかたこうしゃ)という農政に詳しい人材を登用しました。下総国飯沼新田を開発指導した治水技術の井沢弥惣兵衛為永、甘藷先生と呼ばれた青木文蔵(昆陽)がいます。
1732(享保17)年に西国で大飢饉が起こりました。大岡忠相は小石川養生所内の空地で、青木文蔵に芋の試作をさせ、成功しました。以降、関東各地に甘藷は広がりました。

1732(享保17)年、吉宗は御三家筆頭の尾州藩主徳川宗春を譴責し、1739(元文4)年には隠居謹慎を命じました。8代将軍の座を巡って筆頭の尾州と二位の紀州で争いがあったといわれています。
吉宗と将軍の座を争ったといわれる尾州藩主嗣友は急死し、宗春が藩主となりましたが、吉宗に対抗するような政策を取りました。
享保改革の幕政とも、それまでの藩政とも違う豪放闊達・華麗放縦な政治を行いました。江戸屋敷では、遊芸・音曲鳴物自由で、門の出入も昼夜の別なく自由で、にぎやかでした。
尾張入国の行列も華麗で、領内での風采も異様でした。倹約質素の吉宗の政策とは反対に、先代の出した倹約令は廃止し、禁止されていた武士の芝居見物も解禁されました。遊興についても寛大で、遊女町の願出も許可しました。禁止されていた歌舞伎も尾張では許可されました。

宗春の開放政策で、名古屋城下は繁栄しました。しかし、この様な宗春の行為は吉宗を怒らせました。吉宗は側近の者を派遣して、宗春に詰問しています。これに対し、宗春は将軍家と尾州・紀州の三家は本来同格であると主張しました。
更に、人間は精出して働くには、遊ぶ必要がある。好色は人間にとって基本的本性である。人間は多様性のある存在で、好みも千差万別である。上に立つ者は自分の好みで律してはいけない。法はできるだけ簡略で、人を縛るようなことはしてはいけない。あまり細かく干渉してはいけない。倹約は大切だが、本旨を忘れてはいけない。領主が華美に振舞うことは、下々の援けになるという関係にある。このように、宗春は自分の考えを主張しました。
詰問使の来訪以降、宗春の政治は急速に修正されていきます。しかし、遂には、隠居に追い込まれました。宗春に対する幕府の態度は厳しく、宗春が亡くなるまで、行動は制限されました。
宗春は先代から引き継いだ時は、藩財政は黒字でしたが、隠退時には、莫大な赤字を残しました。吉宗は財政難の幕府を引き継ぎましたが、伸縮財政を続け、遂には黒字財政に転換させました。

 

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