江戸時代2

北九州の歴史

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4.享保改革

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5.小倉・福岡藩の藩政
 

黄檗(おうばく)宗は禅宗の一派として、中国の明の時代に成立しました。明末期、多くの中国人が戦乱を避けて長崎に来ました。渡来した長崎興福寺の逸然(いつねん)は、中国から隠元(いんげん)を招きました。
将軍家綱にも謁見した隠元は、1663(寛文3)年、宇治に万福寺を開きました。隠元の高弟の即非(そくひ)は長崎に渡って来て、隠元を訪ねて宇治に向かう途中に小倉に立ち寄りました。
小笠原忠真とその室は即非の法話を聞き、帰途、小倉に再び訪ねるように約束しました。この時、寺を建立することになりました。1665(寛文5)年、小倉足立山の麓に、広寿山福聚寺(こうじゅざんふくじゅじ)は建立され、即非が住持となりました。

広寿山福聚寺

長崎と福聚寺との間の往来は頻繁で、肖像画の多い黄檗宗の影響で成立した長崎派の絵画には、西洋画の技法が加味されています。この絵画の他、僧による書や仏像・彫刻などが残されています。

1667(寛文7)年、小笠原忠真は亡くなり、福聚寺に葬られました。亡くなる前の1664(寛文4)年、忠真は隠居し、忠雄(ただたか)が跡を継ぎます。
1671(寛文11)年、忠雄は弟の真方(さねかた)に、築城郡内で1万石を分封して支藩を設けました。この領地は1685(貞享2)年、上毛郡内と交換され、後、新田藩、千束(ちづか)藩と呼ばれました。家老は小倉藩から派遣され、執務も小倉藩が行いました。

 

長崎警備役は福岡藩の財政を大きく圧迫していました。財政状態が苦しく、福岡藩は1658(万治元)年、倹約令を発して年貢徴収を確保しょうとしました。
1663(寛文3)年、小竹村(若松区)では、年貢減額の嘆願が行われました。藩はその首謀者を死罪にしました。寛文年間、遠賀川では洪水が起こり、その流域の被害はひどく、飢饉となりました。
延宝期(1672〜81)も天災は続き、1681(天和元)年には、福岡藩は救援米を放出しました。藩士の生活も苦しく、藩から借りた金も返済できないため、福岡藩は貸金を破棄せざるを得ませんでした。

小倉藩2代目藩主小笠原忠雄の下、勝手方引受家老渋田見盛治(もりはる)は、藩財政の基礎確立のため、政策を推進しました。1677(延宝5)年、大里(門司区)では銅山が開発され、大里は大変賑わいました。その翌年、企救郡では新田畑の検地が行われ、この結果により、領内各郡の新田畑の税率が引き上げられ、年貢の増収が図られました。
1678(延宝6)年、小倉藩は家臣の知行を地方知行から蔵米支給にし、食糧以外は、指定価格で買い上げました。これらにより、相当量の米を大坂で販売しました。また、藩内の酒造業についても、藩と藩士の競合を防ぐことができました。またこの年、藩札を発行し、買上米への支払いに当てました。

藩体制の整備は、農村支配と年貢徴収の強化になりました。小倉藩でも延宝期には災害が重なり、1681(延宝9)年、粥を施し、餓死者の救済に当たりました。
農村が疲弊し、商品経済が浸透し、藩主以下の江戸生活の消費のため藩財政は困窮しました。そのため、福岡藩では1689(元禄2)年から支給された米の一部を藩に献上する差し上げ米を行い、1691(元禄4)年には、再度の倹約令を発しました。
小倉藩でも、1695(元禄8)年から差し上げ米を実施し、倹約令を発して、領内での絹物の着用を禁止しました。
商品経済が浸透し、生活費が増える中での収入減は、藩士の生活を困窮させました。福岡藩では、1694(元禄7)年に差し上げ米を中止し、1700(元禄13)年には塩を専売にし、収入増を図りました。1703(元禄16)年には藩札を発行しました。
小倉藩では1700(元禄13)年、下し銀をして藩士の生活を補助し、1702(元禄15)年には差し上げ米を半分に減らしました。そして、翌年には中止しました。しかし、この年、江戸の藩邸が焼失したため、1704(宝永元)年には、再び差し上げ米が行われました。
小倉藩は年貢徴収の強化に努め、1706(宝永3)年、領内の土地を整理し、新開地、隠し田を摘発し、領内の石高を19万4,194石に高めることができました。

 

幕府は、長崎での中国貿易の金額や船数を制限しました。輸入品の利益が大きいため、密貿易船が現れました。北九州の沖合いは西廻り・内海・長崎航路の交差点であり、大小の島が多く、小倉・福岡藩の境界に当たりました。沖合いの島々は密貿易船の隠れ場となりました。漂流する中国密貿易船に日本の密貿易船が近づき、海上で取引が行われました。
小倉藩は1715(正徳5)年、葛葉(門司区)海岸に遠見番所を設け、翌年1716(正徳6)年、藍島・馬島(小倉北区)遠見番所を建設し、監視を強めました。
福岡藩は1640年頃には岩屋・脇ノ浦(若松区)には遠見番所を置いていました。1717(享保2)年には、中国密貿易船が増えたため、これを追い払うため家老が若松に常駐し、中原から若松に到る海岸に2千数百人が配置されました。

同じ年、幕府は長州・小倉・福岡藩に共同で警備に当たるように命じました。小倉藩が指揮を執ることになりました。これにより共同で軍船を出し、度々密貿易船を追い払いました。
密貿易船は減ることはなく、増える一方でした。福岡藩では1720(享保5)年、宗像郡大島沖に停泊していた南京の船を焼き討ちにして沈め、皆殺しにしました。
1721(享保6)年、藍島に、紺地に三階菱の小笠原家紋を染めた大旗を掲げる旗柱を建てられました。これは長州・小倉・福岡三藩に密貿易船を知らせるものでした。
1723(享保8)年まで密貿易船の追い払いは続きました。これらの出費のため、藩財政は一層圧迫されました。

藍島遠見番所旗柱台

 

藩札を発行する藩が増え、経済が混乱したため、1707(宝永4)年、幕府は藩札を禁止しました。小倉藩では、この年富士山爆発の被害救援の運上金が課せられ、翌年相模川の河川工事を命じられ、1712(正徳2)年には、江戸紅葉山の仏殿普請が命じられ、これらの出費は領内の村々に割り当てられました。
享保期に入ると、毎年のように暴風雨や洪水に見舞われました。1720(享保5)年の洪水で、小倉城下東西曲輪を結ぶ常盤橋と豊後橋が壊れ、往来できなくなりました。
1726(享保11)年、小倉藩勝手方引受家老犬甘知澄(いぬかいともきよ)は、倹約令と禄米の一部を借り上げの掛米を通達しました。1728(享保13)年には、村の石高の5分が御用銀米として臨時に徴収され、印代と称する新しい税が設けられました。
洪水により、遠賀川はその都度決壊し、1724(享保9)年には帆柱・皿倉山では山崩れがあり、1727(享保12)年には若松で大火がありました。福岡藩は1729(享保14)年の大雨、翌年の日照りで不作となりました。
永年の天変地異で各藩の財政は困窮していました。幕府は年限を決めて、藩札発行を許可しました。しかし、いよいよ享保の大飢饉に突入する事態となりました。

1732(享保17)年夏、西国は大飢饉に見舞われました。イナゴともウンカともいわれていますが、6月頃から稲の害虫が異常発生し、7月下旬には大部分の稲が腐りました。食糧難となり、餓死者が出ました。
幕府は資金貸し出しや大坂城の蔵米を放出します。小倉・福岡藩とも幕府より資金を借りました。
福岡藩では、大坂にある米の残りを国許に送り返して、領民に販売しました。博多商人は大坂で買付しますが、それでも手当てができず、翌年用の種籾を放出しました。博多の浜に、粥を施す小屋を建て、12月から翌5月まで粥を施しました。
小倉藩では、粉糠や干鰯(ほしか)・荒布(あらめ)・米・大豆・塩などを配給しました。福聚寺・開善寺・宗玄寺・峯高寺・成就寺・永照寺などの寺では粥を施しました。
この様なことでは追いつかず、餓死者が大量に出ました。小倉藩に命じられた開善寺住職の調べによると、小倉城下2,245人、企救郡5,906人、藩全体で4万人を超える餓死者が出ました。農村人口が一挙に減少しました。

 

年貢の増徴の大きな方策は新田開作でした。1662(寛文2)年、福岡藩では若松の菖蒲谷の新開に土手を築き、井樋の設備を設けました。これに続き、修多羅(すたら、若松区)で小規模な開作が行われました。福岡藩内では、洞海湾は内海で工事がしやすいため、新田開作が盛んに行われました。本城(八幡西区)では、1673(延宝元)年、松ヶ鼻と船ヶ浦で新田が開作され、翌年には楠橋(八幡西区)の洗越(あらいこし)で九郎右衛門が開作しています。
蜑住(あまずみ)から竹並に到る一帯(若松区)を、1685(貞享2)から1688(元禄元)年にかけて干拓して、払川という新村が誕生しました。
1688(元禄元)から1704(宝永元)年にかけて、本城の郡開(ぐんびらき)が開作されました。1696(元禄9)年穴生潟が開発され、翌年穴生村から陣原村が独立しました。
1698(元禄11)年、黒崎熊手(八幡西区)の干潟に土手を築き、新田を開作しています。1699(元禄12)年には藤田でも海岸の埋立てが進みました。また、1738(元文3)年、黒崎の城石の開作がありました。
1745(延享2)年から5年間、洞海湾で最大の本城の御開(おひらき)の開発工事がありました。

 

新田開発と並んで、農業生産の発達を支えたのは、農業技術の発展と改良がありました。筑後御井郡の笠(りゅう)九郎兵衛はカニの爪に似たガンヅメを発明しましたが、固い土の掘り起こしや除草に利用されました。
1670(寛文10)年遠賀郡立屋敷庄屋蔵富吉右衛門は、鯨油を害虫駆除に使いましたが、一般的に使われたのは、後の天明・寛政期(1781〜1801)でした。
この他、足踏み水車・千歯こき(脱穀具)・千石どおしなどの農具の発明・改良は農業生産を大きく向上させました。

 

貝原益軒は長崎で医学を学び、福岡藩の藩医になりますが、やがて藩儒になります。朱子学に基盤をおきますが、陽明学も学びました。益軒の業績は儒学に留まらず、博物学・医学・歴史学・地理学など多方面に及びました。
1709(宝永6)年の「大和本草」は、博物学としての本草学を樹立した書物として有名で、この他、益軒は「筑前国続風土記」を編纂したり、「養生訓」などの多くの著作があります。
宮崎安貞は福岡藩に召抱えられますが、一旦辞職して畿内・山陽各地の農業事情を視察し、福岡に戻ってからは、益軒について中国の農書を学びました。
1696(元禄9)年「農業全書」が完成しました。ここには、最新の農業技術が整理・体系化されています。

 

福岡藩には、長崎街道と唐津街道が通っていました。唐津街道は、小倉から赤間の間は、黒崎から木屋瀬を通って赤間、若松から芦屋を通って赤間の2つのコースがありました。
長崎街道の原田(はるだ)・山家(やまえ)・内野・飯塚・木屋瀬・黒崎を筑前六宿(むしゅく)として福岡藩は整備しました。
元禄期には、黒崎に芦屋の蔵元が移り、秋月藩の蔵屋敷が建ち、港も整備されました。
若松には、1630(寛永7)年から始まる幕府の巡見使が上陸していて、宿駅として整備されていきました。
1704(宝永元)年、毎月6回の定日、六斎市が黒崎で開かれることが認められました。
1709(宝永6)年、黒崎と若松の代官も出席して穀物は若松、一般荷物と旅人は黒崎で扱うように決めました。このため、黒崎に旅人改所が設けられました。若松の修多羅に芦屋の米蔵を移しました。
しかし、積出品の区分が必ずしも守られず、争いが起き、浦奉行・代官が調停し、穀物はすべて若松、それ以外は若松・黒崎双方から積み出すようにしました。
若松には洲口番所が設けられ、黒崎・芦屋の出入船は点検を受けました。1745(延享2)年からは若松で関銭を徴収しました。但し、木屋瀬・直方・飯塚の旅人を運ぶのは黒崎船の特権でした。
木屋瀬宿の歴史は古く、唐津街道赤間宿への追分宿でもありました。ここには、遠賀川沿いであるため、年貢米輸送の川舟の基地が置かれ、鞍手郡の米が集められました。

城下町小倉は九州の喉元に当たりました。城下から外へは、5つの門から出て行く道がありました。門司口門から大里や門司に行く門司往還、中津口門から中津や宇佐に行く中津街道、香春口門から香春・秋月・久留米に行く秋月街道、到津口門から佐賀・長崎に行く長崎街道、鋳物師町から若松・芦屋を経由して博多・唐津に行く唐津街道がありました。
小倉は城下町とともに長崎街道の宿場でもありました。常盤橋の近くには、九州の諸大名の定宿がありました。常盤橋は1634(寛永11)年頃に架けられ、当初大橋と呼ばれ、1690(元禄3)年に改修された以降、常盤橋と呼ばれました。
関門海峡を渡るには、小倉や大里(門司区)から出発しました。小倉藩にとって大里は小倉とともに重要な宿駅でした。大里には在番所があり、渡航手形が発行され、通行人改めも行われました。1643(寛永20)年からは、久留米藩の船屋敷が置かれました。

小倉は4つの街道の基点でした。そののうち、長崎街道の西隣の宿駅は黒崎、若松経由の唐津街道は若松で、筑前国福岡藩になりました。
中津街道は下曽根・苅田・行事・大橋が小倉藩内になります。
秋月街道は徳力・呼野・採銅所・香春が藩内です。当初石原町が宿駅でしたが、享保年間大火で駅家が焼失し、徳力が宿駅となり、石原町は小倉藩の用達のみを行う半宿となりました。
企救郡内には城下町小倉を除いて、大里・下曽根・徳力・呼野の4宿がありました。

 

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