江戸時代3

北九州の歴史

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2.宝暦〜寛政期

江戸時代3
1.村と社会
 

江戸時代は、士農工商という身分制度で区分され、居住地も町方(まちかた)と在方(ざいかた)という都市と農村で区分されていました。在方は一次産業地域で、農業・林業・漁業を営む人々の集合体の村で構成されていました。
村は農民達の生産、生活のための集合体であり、行政のために設定された区画とも一致していました。一つの村は国によって大小の差はありました。地域や立地条件によって差はありましたが、江戸時代の村は、原則的には経済力も社会的地位もほぼ等しい、上下関係のない社会としてつくられました。
農民達は寄合を構成し、水の分配、入会(いりあい)の利用方法、農作業の手順、村の祭りや休みなどの村政全体を相談し、お互いを入札(いりふだ)で、村役人に選出するなど、自主的に共同生活を運営しました。
村の制約を離れての行為は制限されました。これに逆らう者は、村八分の制裁が取られ、領主からの農民に対する刑罰も、共同体からの追放という手段が取られました。
領主からの年貢や諸役は、村単位に割り当てられ、その割り振りは、村の構成員に任されました。

村政は、名主(なぬし)・組頭・百姓代という村方三役と呼ばれる村役人によって行われました。
名主は、村の代表者として年貢諸役を負けてくれるように領主と交渉したり、入会や用水などで関係村々と交渉しました。村に割り当てられた年貢諸役を個々の農民に割り振りし、下された法令を農民に説明し、それが遵守されているか、農民を監督しました。名主の選出は、入札が原則でしたが、村の有力者が世襲したり、有力者が交代で、その職に就くこともありました。
組頭は、名主の補佐役です。五人組の組頭から名主補佐役が当てられる場合と、村の有力者が任用された場合がありました。
名主・組頭と一般の百姓の間に対立が生じる可能性がありました。平等的で、平均的な村内部に、富による上下関係が生じた段階で、百姓代が生まれてきました。
名主・組頭は村政担当者であり、百姓代はその監視役でした。百姓代は、村方三役で一番遅れて成立しました。

従来、年貢を納めた後、生活を支える米や穀物が残ればいいという自給自足的農業でしたが、元禄〜享保期になると、売るための農業になっていきました。そのため、農民層に分解が生じ、その中で、上昇する農民は寄生地主や豪農に、下降する農民は小作人になったり、都市に流出したりしました。
手放した耕地を買い集め、自分では耕作せず、耕地の足りない貧農に耕作を請負わせ、小作料を取り立てる土地所有者を寄生地主といいました。寄生地主の土地取得資金は、農業からのものに限らず、農業以外の商業などで得たものも当てられました。
豪農は蓄積した資金で耕地を買い入れ、人を雇って農業経営をしたり、農村加工業や雑貨品・肥料・その土地の特産品などを扱う有力農民をいいました。そして、寄生地主と豪農の混合体の場合が多く見られました。

 

農民が領主に、暴力または非合法な手段で抵抗するものを百姓一揆といいます。世の中の矛盾が激しくなるに従い、一揆は多くなりますが、寛永・享保・天明・天保といった大飢饉の時、一段と発生件数は多くなりました。
村役人などが農民を代表し、年貢の減免や政治の改善を、領主を差し置いて幕府筋に訴えるのを、代表越訴型一揆といいます。
この型から元禄〜享保期には、強訴・暴動型一揆に変わっていきます。それは、幕府と大名との関係の変化、もう一つは、農民内部の変化によって変っていきました。
幕府は一揆が起こった大名の取り潰しに利用したため、農民にとって効果ある手段でした。しかし、享保期、天領で大一揆が起こり、幕府の農民支配の弱点が暴露され、政策は対大名から対農民に重点が移されました。
また、農民の階層分解により、村役人などの上層と、一般の百姓の利害が対立するようになり、村役人に代弁してもらうのでなく、村民全体が立ち上がるようになりました。

都市の騒擾も百姓一揆と同じく、数も少なく、逃散や越訴の形を取っていました。しかし、正徳〜享保期、集団暴力を伴うようになってきました。1733(享保18)年、江戸日本橋の米問屋街で打ちこわしが初めて起きました。前年、西日本は大凶作に見舞われました。西国の救援のため、江戸から上方に米を送ったので、江戸の米価は急上昇しました。米価が高いのは米問屋高間伝兵衛が買占めを行ったためだとの噂が広まり、2千人の市民が伝兵衛宅を襲いました。幕府が手を打ったため、騒ぎはこれ以上広がりませんでした。

郡代と代官は勘定奉行の下での地方統治の役職でした。両者は同じ性格のもので、武力はほとんど持っていませんでした。
天領は幕府全体の権力を背景にして、その支配が可能で、代官が支配する代官領は、独立して治安を維持することはできない権力構造を持っていました。
天領での一揆発生により、1734(享保19)年、幕府領に騒動があり、幕府に許可を受ける時間がない時は、それまで禁止されていた諸大名の自由意志による出兵を許すとの法令を出しました。
 
宝暦〜明和期は、一揆が起こると、隣接村に広がり、たちまち一藩全域を巻き込んだ、大規模な一揆が各地で起きました。1754(宝暦4)年の久留米藩大一揆、1761(宝暦11)年の上田藩大一揆、1768(明和5)年の福井藩大一揆がその代表的なものです。
1769(明和6)年と翌年、天領及び大名領ともに、一揆が起きたらその一番近くの者が兵を出して鎮圧する、今まで一揆鎮圧に鉄砲の使用は禁止されていましたが、今後必要であれば使用してよい、そんな内容の法令が出されました。
1770(明和7)年、「ととう・ごうそ・てうさんの訴人に関する高札」が立てられました。農民が徒党・強訴・逃散の行為をしょうとしていることを訴え出た者は、仲間内であってもその罪を許し、賞金を与えるという裏切と密告を幕府は奨励しました。

 

国学は仏教や儒教などの思想が伝来し、我国固有の道(古道)が衰退してしまったので、古典を研究することにより、回復しょうというものでした。
国学の始祖は、僧契沖(けいちゅう)で、その跡を継いだのが、荷田春満(かだのあずままろ)でした。
春満の育てた多くの弟子の中で代表する者は、賀茂真淵でした。真淵は42歳の時、江戸に出て学塾を開き、村田春海(はるみ)・加藤千蔭(ちかげ)らの弟子を育てました。
本居宣長は伊勢松坂の人で、契沖の書物から影響を受けて国学に入り、賀茂真淵の影響を強く受けました。宣長は、「源氏物語」などの平安文学の研究で、もののあわれ論を提唱し、実証的手法で、「古事記」を研究しました。復古思想を説いて、国学の大成者としての地位を築きました。

 

浮世絵は大量生産ができ、大衆相手の芸術でした。菱川師宣が浮世絵の画風を作り上げました。師宣に続いて鳥居晴信・清倍(きよます)などが芝居絵を、懐月堂安度(かいげつどうあんど)・宮川長春(みやがわちょうしゅん)・奥村政信などが美人画を描きました。
初めは、絵画の複製技術だったのが、浮世絵はそれ自体、芸術の域まで高められました。そのことに力があったのが、鈴木春信です。1765(明和2)年、春信が錦のように美しい多色刷りの版画を作ったのが、錦絵の始まりです。
鈴木春信の後、天明〜寛政期には、勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽などが出て、浮世絵は黄金時代を迎えます。
喜多川歌麿は美人画の頂点に立ちます。しかし、松平定信の政策による弾圧を受け、美人画は衰えます。以後、葛飾北斎・安藤広重などによる風景画に移行します。この接点に立っていたのが、東洲斎写楽で、特徴を捉えて誇張する手法の役者絵を残しました。

 

江戸中期から明治初めにかけて、西廻り航路に北陸・山陰の廻船が就航しました。これが北前船で、加賀藩が米を大坂に船で運んだのが始まりだといわれています。北前船は北国の海産物・木材・米を積んで、日本海から関門海峡・瀬戸内海を通って大坂に運びました。そして、大坂・兵庫で繊維製品・薬種・塩などを仕入れて下関・山陰・北陸・東北・松前に運びました。北前船は荷主の依頼によるものでなく、船主が寄港地で商売をしながら、日本海側と瀬戸内海側を往復するのが主体でした。
関門海峡は日本海と瀬戸内海の中間に位置し、下関は北前船による中継交易港の最大のもので、物資の集散地として大いに賑わいました。また下関は長崎と大阪間の長崎航路の中間地でもあり、九州・四国にも廻船が発着しました。その積荷には、薩摩の黒糖、長崎に輸入された舶来品、長崎から中国に輸出された北国の海産物の俵物がありました。
物資だけでなく、北前航路は人の移動にも利用されました。朝鮮通信使は8回下関に立ち寄っています。オランダ商館長は江戸参府の際、長崎から陸路を小倉に着き、下関に渡って北前船を利用しています。

元禄〜宝永期、江戸時代第一期の旅行ブームが訪れます。この時期、俳人松尾芭蕉の旅がありました。「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「更科紀行」「奥の細道」など俳諧を軸とする紀行文を生みました。俳諧を親しむ豪農・豪商が芭蕉の旅を支えました。
もう一つこの時期の旅に、おかげ参りがありました。江戸時代、全国の村々に、伊勢参りのための組織の伊勢講がありましたが、おかげ参りは特異現象でした。ある日、伊勢神宮のお札が降ったとの噂で、突発的に大群衆が伊勢に向かって、歌い踊りながら押しかけたのを、おかげ参りといいました。
抑圧された庶民の自由への欲求が、いかに強かったのかを物語ります。江戸時代を通じて、7度おかげ参りはありますが、1705(宝永2)年・1771(明和8)年・1830(文政13)年のものが、特に大きかったといわれています。

伊勢参りの旅は、各地の農業の見学と、宿で一緒になる違う地方の人々が意見交換し合う機会にもなりました。このため、旅は農業の発達と本草学(ほんぞうがく)の発展にも関わりを持ちました。
本草は薬になる草を指しましたが、後、広く医薬や食品の研究も本草学と呼ぶようになりました。1709(宝永6)年、貝原益軒が刊行した「大和本草」は薬草中心から博物学に本草学を高めた労作です。

平賀源内は高松藩の米蔵番人の子として生まれました。士分でしたが、農業を本業としていました。源内は本草学に興味を持って勉強し、後長崎遊学をし、1756(宝暦6)年、江戸に出て、本草学者に弟子入りして勉強しました。後自ら主催して、何度か物産会を開きました。物産会に出品された品から選んで、分類解説し、物産や博物の学問まで深化させました。
辞職を願い出ていた源内に、1761(宝暦11)年、辞職は認めるが、他家に仕官することは禁止するという高松藩の処置が取られました。このことにより、源内の生活は世に入れられることなく、しだいに荒れていきました。1779(宝永8)年、源内は誤って人を殺し、同年、獄中で病死します。
源内は分類・解説した中で、鉱物が一番を占めていました。長崎遊学中、源内は鉱山の採掘や精錬のことを勉強していました。依頼されていた秋田藩内の鉱山調査に出かけています。
この旅行中、角館で源内は小野田直武と会っています。直武は源内から洋画の技法を学び、絵に興味を持っていた藩主佐竹義敦(曙山)にも伝えました。ここに秋田蘭画という一派が生まれました。

江戸時代の洋学は、杉田玄白・前野良沢らがオランダの解剖書「ターヘル=アナトミア」を「解体新書」として翻訳・出版した頃から開花します。
我国で許可されて人体解剖したのは山脇東洋でした。1771(明和8)年、若狭小浜藩医杉田玄白と豊前中津藩医前野良沢は、江戸小塚原で「ターヘル=アナトミア」を持って、刑死体の腑分に立会いました。
実物とその差がないことに驚き、その翻訳に取り掛かりました。杉田玄白が平賀源内と親しかったことから、訳書の挿絵は小野田直武に任されました。
苦心の末、「解体新書」の刊行にこぎつけました。この間の事情は杉田玄白の「蘭学事始(らんがくことはじめ)」に詳しく書かれています。

 

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