江戸時代3

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江戸時代3
2.宝暦〜寛政期
 

将軍吉宗には4人の男子がいました。第1子は家重、第2子は宗武、第3子は早世し、第4子は宗尹(むねただ)でした。家重は1745(延享2)年、9代将軍に就き、宗武は田安家、宗尹は一橋家を立てました。
田安家・一橋家は、家重の子の重好(しげよし)が立てた清水家とともに御三卿といわれ、御三家と並んで万一の時の徳川宗家を継ぐ立場になりました。
吉宗が1751(寛延4)年に亡くなるまで、西の丸に大御所として実権は握っていました。吉宗が質素倹約を旨としていたのに対し、家重は華美で、文武を好まず、酒色遊芸にふけるところは父とは正反対でした。
家重の時代になると、勝手掛老中の他に、勝手掛若年寄を設けてその業務を分散させました。また、勘定所勝手方の仕事は相役と相談するように命じました。

このことは、吉宗時代の後期に、絶大な権限を振るっていた勝手掛老中松平左近将監乗邑(のりさと)と勘定奉行神尾若狭守春央(はるひで)の権限を分散することにありました。

 江戸時代初めの後水尾天皇から家重時代の桃園天皇までの9代の天皇の即位は20歳以下で、死去による二天皇を除いては、いずれも30歳半ばで譲位しています。天皇はできるだけ政治的発言はしないように幕府は望んだと思われます。
竹内式部は公卿徳大寺家に仕え、勉学に勤めていました。彼の学問は垂加神道を軸にして、儒学・国学などを折衷したものでした。門人は中下級の公卿以下全国7・8百人に及びました。
竹内式部の教えは、神話を通じて我国の成立を説き、万世一系の皇室の歴史を述べ、皇政の復活にも連なる政治論に及んだと思われます。このため、彼は少壮中下級公卿達の心情を捉えました。
この様な動きを危険と見て、上級公卿は少壮中下級公卿達の蟄居を申し付けました。また、竹内式部は京都町奉行より追放の刑に処せられます。

大岡忠光は、大岡越前守忠相とは近い血筋にありました。300石の旗本の家に生まれ、家重の小姓、そして側衆となりました。その後、1万石を領し、若年寄となり、2万石を領す岩槻城主で、側用人になりました。
その権力は老中をはるかに凌ぐといわれました。この様な異例に出世したのは、家重が病弱で、言語不明瞭であり、それを聞き分けられるのは、大岡忠光ただ一人であったといわれています。
この時以降、側用人は若年寄と老中の間に位置する正規のポストとなりました。また、若年寄も譜代大名だけでなく、小姓・側衆上がりの者にも開かれたポストとなりました。

 

1760(宝暦10)年、家治が家重の跡を継いで10代将軍になりました。これにより、1786(天明6)年まで治世は続きますが、この時代をその中心人物田沼意次(おきつぐ)に因んで、田沼時代と呼びます。
田沼意次の父は、紀州藩の足軽でしたが、吉宗が8代将軍になると、吉宗に従って幕臣となり、小姓を勤め、晩年は600石の知行を与えられています。
意次は、吉宗の子の家重付きの小姓となり、家重が将軍となると、2千石となり、この後加増が重ねられ、1785(天明5)年には、5万7千石までなっています。
家重時代は、側用人の大岡忠光の陰で余り目立っていませんが、万石となり、大名になっています。家治が将軍になると、1767(明和4)年には側用人になり、1772(明和9)年には老中になっています。
田沼意次は、幕府役職の最高位に就くと同時に、将軍の側近者としての地位を兼ね備えていました。しかし、他の譜代門閥に比べて、人脈が劣っていました。
そのため、縁戚により、閨閥を形成していきました。また、妻が一橋家家老の娘という関係から、御三卿の中で、特に力のあった一橋家と深い関係を結んでいきました。
この様に意次の権力は万全と思われていましたが、天明末期には、その力も急速に弱まり、1786(天明6)年、老中を罷免され、2万7千石の領地を取り上げられ、蟄居謹慎に処せられました。
その罷免の原因になったのは、打ち続く天災地変による社会不安でした。その代表が1772(明和9)年の江戸大火、1783(天明3)年の浅間山の大噴火とそれに続く大飢饉でした。

江戸の大火では、諸藩藩邸1500軒、旗本邸1705軒、625町が焼失し、負傷者6161人、死者・行方不明1万8700人であったといわれています。このため、同年、年号を安永と改めました。
翌年には、江戸で疫病が大流行し、19万人が死亡しました。1780(安永7)年、伊豆大島での三原山が大噴火し、翌年には鹿児島の桜島が大爆発し、1万6千人と2千頭の牛馬が死んでいます。
1783(天明3)年、浅間山は10回大爆発を起こしました。中山道の交通は途絶しました。流失した溶岩は北側の村々を襲いました。鬼の押出しはこの時流れ出た溶岩の跡です。
噴火による火山灰は、関東一円に降り注ぎました。この後の冷害による天明の大飢饉は、浅間山噴火の火山灰による日射不足によるものとの説さえあります。
天明の飢饉は享保及び後の天保の飢饉と並んで、江戸時代の三大飢饉と呼ばれます。主として奥州・北陸一円が襲われました。

1784(天明4)年、意次の子で、若年寄の田沼意知(おきとも)が同僚の若年寄達と殿中を出ようとしていたところ、新御番の佐野善左衛門政言(まさこと)が斬りつけました。
肩先、更に股に深手を負いました。手当てを受けて退出しますが、傷は治らず、意知は死亡しました。佐野善左衛門は取調べを受け、切腹を命じられました。
原因は判明していませんが、佐野善左衛門の私怨だったと言われています。意次・意知父子の出世に世間では反発があり、善左衛門に同情が集まり、葬られた浅草徳本寺は多くの人が参詣しました。
将軍家治が亡くなると、譜代門閥は松平定信を押し立てて反撃に出ました。こうして田沼意次は老中を罷免されました。
今日でも、田沼意次の評判は芳しくありません。田沼意次が老中になっていたとしても、1779(安永8)年まで、松平武元(たけちか)が筆頭老中でしたので、田沼意次の独断専行で政策が行われたとは言い難い状況でした。ただ1772(安永元)年には老中になっていますので、罷免される1786(天明6)年までの15年間は、政策の責任者とはいえると思われます。

江戸時代は、金・銀・銭の3つの通貨からなっていました。金は1・2両と数えて使う鋳造貨幣で、関東や東国で使われました。銀は秤(はかり)で使う秤量貨幣で、上方や西国で使われました。この様に基本通貨が二本建てでは不都合が多く、統一の必要がありました。
1767(明和4)年の五匁銀は秤量貨幣の銀に一定の形の鋳造貨幣にしたことに意味がありました。1772(安永元)年の南鐐二朱銀は、この銀貨8枚で小判1両と引き換えると表示された鋳造貨幣でした。
歴史的意義を持つ政策でしたが、庶民には理解されず、通貨混乱の元と受け取られました。
庶民は一般には小額通貨の銭を使いました。1636(寛永14)年に寛永通宝が鋳造され、使われました。これら三貨は独立した通貨であったため、絶えず相場が立ち、変動しました。
金1両、銀50匁、銭4貫の公定相場を幕府は立てました。1696(元禄9)年、慶長金銀に比べ品位の低い元禄金銀を出したため、銭相場は高くなりました。吉宗の治世まで改鋳は続きました。
これに対し、宝暦期、銭の大増鋳を始めたため、銭相場は急速に下がり始めました。銀相場の下落による物価上昇で、庶民は困窮しました。幕府は1772・3(安永元・2)年、鋳造を一部減らしたりしましたが、相場下落は止まりませんでした。この原因は田沼意次のせいではありませんでした。
米穀生産以外の産業が盛んになってきました。田沼意次はこれらに運上金という新税を課しました。この田沼の新税は、世間の悪評を買いましたが、田畑を中心にした農業への課税を打破しょうというものでした。
この他に印旛沼・手賀沼の干拓があります。1780(安永9)年、田沼意次は江戸・大坂の商人に資金を出させ、工事を始めました。完成間近になった1786(天明6)年、大洪水があり、その後、意次が失脚したため、工事は中止になりました。

 

家治の跡、11代将軍になったのは一橋家の家斉(いえなり)でした。その治世の初めは、老中松平定信に実権を握られました。
松平定信は、松平一党を幕府中枢に置き、改革を進めました。これを寛政の改革と呼びます。特に農政に力を入れました。
松平定信は、天明の飢饉で人口の減った陸奥・常陸・下野などから奉公に出てくることを禁じました。その後、1790(寛政2)年から何度か都市に出稼ぎに出てくる人達に、帰って農業をするように旧里帰農奨励令を出しています。
また、農村の下層の人達に、農具代や食糧などを与えて、独り立ちできる農民にしょうと努力しました。
しかし、農民生活の向上や、売るための農業が発達したり、農村内の新しい産業が起きても、農村の発展と取らず、堕落したと捉え、抑制しょうとしたため、松平定信の農政は成果を上げることはできませんでした。
農政中心の政策は商業資本を圧迫することになりました。仲間・組合・座という商工人の組織が物価高騰の原因になるとして、定信はこれを廃止しました。
生活必需品は混乱を考慮して、田沼時代に新設された座や集荷機関である問屋や株などを廃止しました。特権を与えられていた御用商人達にも手を付けました。 

寛政の改革では、武家の生活の安定を目指しましたが、その効果はなく、非常手段に出ました。従来、債務返済不履行の際の訴え出る権利は認めないが、債権は認めるという相対済(あいたいすまし)令が出されました。しかし、今回はその両方とも認めないという棄捐(きえん)令が出されました。
旗本に対する札差の債権は、1784(天明4)年以前のものは破棄、それ以降についても利子を下げたり、年賦償還にするというものでした。このため、旗本の債務は軽減されましたが、札差の損害増大のため、金融は逼迫しました。この結果、幕府は札差に融通するなどの緩和策を取らざるを得なくなりました。

江戸・京都・大坂などの都市に人口が集中し、これに対する補給体制の遅れは、消費物資の価格を不安定にしました。庶民の中で貧民層が拡大するにつれ、階層構成を複雑にし、これに物価問題が絡み、都市騒擾にまで発展する状況になっていました。
定信の政策である人返し令にしても、天明の飢饉で荒廃した農村の復興の狙いがありました。これに加えて、江戸の人口過大による需給を安定させ、打ちこわしの主役の貧民を農村に送り返そうという考えもありました。
治安対策として、石川島人足寄場を設置しました。これは江戸市中の無宿人を強制労働に就かせ、改悛すれば正業に就かせるというものでした。
1790・1(寛政2・3)年には物価は一応安定しました。しかし、それも翌年頃には再び上がり始め、1793(寛政5)年には、松平定信は政権から去って行きました。

 

儒教は政治論と道徳論から成っているといえますが、道徳論をはずし、経済論を加えた学問が出てきました。4代将軍家綱の時代の山崎闇斎や熊沢蕃山の学問であり、元禄〜享保の荻生徂徠や太宰春台でした。これらは経世学と呼ぶものであり、新井白石の場合は、その考えを実際の政治に応用した珍しい例でした。
田沼時代には、この経世学が再び盛んになってきました。工藤平助の「赤蝦夷風説考」、林子平の「三国通覧図説」「海国兵談」、本多利明の「経世秘策」などが有名です。
工藤平助は、田沼意次により、その蝦夷地開発計画が取り上げられましたが、意次の失脚により中止となりました。この例は稀で、多くは彼らに対し権力側は冷遇し、林子平は人心を惑わせたとして、松平定信により処罰されました。

江戸時代、生糸・薬種・砂糖などの高級消費財を輸入し、我国からの輸出はなく、多額の金銀が国外に流失していました。そのため、国産生糸生産の増強、薬種や砂糖の国産化が進められました。
田沼時代、貿易収支は大幅な黒字になっていました。輸出品がこの時代にはありました。それは、俵物と呼ばれる海産物でした。これは中国貿易には重要な輸出品でした。
煎海鼠(いりこと読む、なまこの干物)・干し鮑(あわび)・ふかのひれが代表的なものです。その産地は、南部・津軽・松前で、松前は重要でした。このため、田沼意次は松前を含む蝦夷地に強い関心を持っていました。

蝦夷地では、アイヌの反乱が多く起こっていますが、大きな反乱としては、1669(寛文9)年のシャクシャインの乱があります。
和人の進出に、アイヌの不満が爆発して、乱が大きくなりました。乱の総指揮者がシャクシャインでした。奥地にいた和人が殺され、松前藩は幕府に報告し、指示を仰ぎました。
アイヌの毒矢に対し、松前藩は鉄砲で攻撃しました。アイヌ軍は後退を続けました。アイヌに対し和議を申し入れ、その祝いの席で、シャクシャイン以下主な者達は殺害されました。
これ以降田沼時代まで大きな反乱はありませんでした。しかし、東進して太平洋岸に進出したロシアは、北辺に出没しました。

工藤平助は「赤蝦夷風説考」の中で、ロシアの南下に対し、ロシアと蝦夷地との地理関係を明らかにして、蝦夷地の開発とロシアとの貿易を勧めています。
ロシア人のことを当時赤蝦夷と呼んでいました。田沼意次は工藤平助の意見を入れて、1785(天明5)年、蝦夷地調査隊を派遣しました。
調査の結果、佐藤玄六郎は蝦夷本島を一周し、山口鉄五郎・青島俊蔵は国後(くなしり)探検を、庵原(いはら)弥六は樺太(からふと)探検を行っています。
調査隊は1年延期を願い出、翌年、最上徳内は陸地地形と道程を測量して厚岸(あっけし)に到着しました。山口鉄五郎と青島俊蔵は択捉(えとろふ)島を調査しています。大石逸平は前年の庵原の時より更に北の樺太を調査しています。
しかし、同年、田沼意次は失脚します。このため、蝦夷地調査も中止になってしまいました。そして、調査隊員らは用はないということで、召し放ちになりました。

松前藩は家臣に米が取れないため、知行地や蔵米を支給できません。代わりに、アイヌとの交易権が与えられました。藩士達はしだいに割当場所の交易を商人に任せ、その請負料を取るようになりました。この様な制度を場所請制度といい、そこを請負った商人は場所請負人といいました。場所請負人はアイヌに漁法を教え、漁獲物を買占め、それを水産加工して売り出しました。
場所請負人は利益を上げるために、アイヌに強制したり、中には横暴な者もいました。1789(寛政元)年、国後島で反乱が起きました。アイヌ達は根室に渡り、松前軍と戦う準備をしました。
報せを聞いた松前藩は軍を派遣しますが、厚岸と国後の酋長が中に立ち、アイヌ反乱軍は降伏しました。そして、主だった者は処刑されました。

 

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