江戸時代3

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江戸時代3
3.化政期
 

1793(寛政5)年、松平定信は老中を罷免になりました。しかし、寛政の改革は定信と一党を結んだグループにより続けられました。その主だった人達は、老中松平信明(のぶあきら)・本多忠籌(ただかず)や戸田氏教(うじのり)らで、その中心は松平信明でした。
信明は1804(文化元)年、病気のため解職になります。この頃から政治上の節度が失われていきます。全国が商品経済に巻き込まれ、農村にも商人資本は進出していきました。文化・文政(略して化政)期には、農民層の分解を止めることができない状況になっていました。
松平信明は1806(文化3)年、老中に返り咲き、寛政の改革を継続しょうとしますが、困難になっていました。信明は1817(文化14)年、在職中に死去しました。

松平信明が死去する直前に水野忠成(ただあきら)が老中格になりました。水野忠成は旗本の二男で、田沼意次の協力者水野忠友の婿養子になりました。
水野忠成は家督を継ぎ、出羽守になります。奏者番・寺社奉行・若年寄・側用人となり、将軍家斉の嗣子家慶付と栄進しました。
1817(文化14)年、西の丸側用人から老中格、勝手掛になりました。この役職は奥兼帯でした。1834(天保5)年、家斉が死亡するまで権勢を誇りました。
忠成は将軍やその父の一橋治斉(はるなり)に取り入り、大奥とも結び付きました。将軍家斉の生活はしだいに華美そして淫乱になりました。
そのため、家斉は子沢山でした。当時の幕府の財政状況から、男子を大名に取り立てるほど財力はなく、諸大名に養子で押し付けました。

大奥が栄えてくると、閨門が栄え、閨縁につながる人々が将軍に接近しました。将軍家斉の政局に影響を与えた者の一人が愛妾の一人の美代の方です。
彼女は祈祷僧日啓の娘でした。その美貌と才気に目をつけた中野播磨守清茂が養女として大奥に入れました。家斉の手がついて、お美代は3人の子を生みました。
お美代の方の縁で、隠然たる権力を持ったのが、中野清茂と日啓でした。清茂は城中に自由に出入することが認められました。清茂は後剃髪し、石翁と号しました。
家斉の正夫人茂子の父島津重豪(しげひで)も、江戸城にしばしば出入しています。重豪はヨーロッパ文明の輸入にも熱心でした。また藩政面では、積極的な財政政策を採り、殖産興業を進め、農政学者佐藤信淵(のぶひろ)を招いています。しかし、家督を譲る頃には、江戸での豪奢な生活がもとで、先代からのものに加えて、大きく藩財政の債務は増大しました。

水野忠成(ただあきら)は人材を登用するのに、大名・旗本の猟官運動を奨励しました。これにより、賄賂が横行しました。
1837(天保8)年、家斉は隠居して、12代将軍には家慶(いえよし)が就きました。しかし、実質的には西の丸に隠居した家斉が健在で、その下でのブレーンが実権を握っていました。家斉は大御所と呼ばれ、この様な状態は、1841(天保12)年まで続きました。

 

1792(寛政4)年、ロシア皇帝エカテリーナ2世の使節アダム=ラクスマンを乗せた1隻のロシア船が蝦夷地の根室に来航しました。当時ロシアは工業の発展を図り、その市場を国外に求めていました。
その船には大黒屋光太夫(こうだゆう)達が乗っていました。光太夫は伊勢の船頭で、1782(天明2)年、江戸への航海中、遠州灘で暴風に遭い、漂流しました。翌年8ヶ月ぶりアリューシャン列島の小島に漂着しました。その後、イルクーツクに着き、ラクスマンの父の世話を受け、エカテリーナ女帝に謁見しています。そして、使節ラクスマンとともに帰国しました。
ロシア側は光太夫たちを引き渡し、国書と献上品を渡して、通商を開くきっかけにしたいと考えていました。鎖国体制を否定するものであるため、幕府は困惑していました。
しかし、松平定信はロシア側が日本の回答を受諾しないのであれば、蝦夷地の一港か長崎かを開港するも止むを得ないと考えました。幕閣の中で、定信は海外事情に明るい方でした。
鎖国政策の一部を変えて、部分的な開国をしても、戦争は回避すべきだと定信は考えました。そこで、国書や献上品は受け取らない、江戸来航は認めない、漂流民は受け取り、感謝する、通商の窓口は長崎であるので、そちらに行くようにラクスマンと交渉させました。
この来航で、松平定信は海防の重要性を悟りました。特に江戸湾と蝦夷地の防衛が重要でした。更に、長崎を中心に九州諸藩に防衛体制を取らせました。
幕府は、大黒屋光太夫らを審問の上、世間に外国事情を知らせないため軟禁しました。しかし、洋学者達との接触は認めていました。

松平定信の退陣後、幕府は蝦夷地の直接支配の方針を決めました。1794(寛政6)年、ロシアはウルップ島を植民地にしました。幕府は1798(寛政10)年、大調査団を派遣しました。調査団の近藤重蔵は最上徳内とともに国後・択捉島に渡り、択捉島に標柱を立てて帰りました。
高田屋嘉兵衛は船持船頭として蝦夷地で交易をしていました。幕府の蝦夷地の直接支配のため、嘉兵衛は酒田港で幕府の仕入品の輸送を命じられました。
択捉航路を開拓すると、嘉兵衛は近藤重蔵を案内しました。この時、択捉島に会所が置かれ、漁場が開かれました。
1801(享和元)年、幕府は嘉兵衛に蝦夷地御用定雇(じょうやとい)船頭を命じ、1806(文化3)年には、大坂町奉行より蝦夷地産物売捌方(うりさばきかた)を命じられています。
1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷地の直接支配を始めました。7年間松前藩に代わって治めるもので、松前藩が得ていた収納分は幕府から直接渡すことにしました。
幕府は蝦夷地御用掛を置き、派遣された4人の幕吏に東蝦夷地での施政を任せました。
山道を切り開き、宿舎を建て、宿場に牛馬を備えました。農耕や養蚕を試行しました。社会や産業構造の急変は避け、従来からの風俗や生活は尊重するように幕府は指導しました。
場所請負制は廃止し、直接交易による直捌(じきさばき)制を採用しました。幕府は各場所でアイヌや和人に米・味噌などを売り、彼らからは特産品を買い入れました。これらの特産品は全国の主要な都市に、それらを取り扱う商人を決めて、その販売に当たらせました。
直捌制は初年度から赤字でした。幕府勘定方からは、批判の声が上がりました。また、旧場所請負人達からも旧制への復帰が要望されました。1810(文化7)年、択捉島の場所請負人に高田屋嘉兵衛が命じられ、1812(文化9)年には、東蝦夷地の直捌制は廃止となり、場所請負制に復帰しました。

1802(享和2)年、2名の蝦夷地奉行を任命しました。同じ年、これは箱根奉行と改名されました。
北方国境地域を直接支配し、ロシアの南下政策に対処しょうとしました。そのため、同年、東蝦夷地の永久上知を決め、松前氏には西蝦夷地の経営に専念するように命じました。その代わりに年3500両を与えました。
1804(文化元)年、ロシアの全権大使としてレザノフがロシア軍艦で長崎に入港しました。松平定信がラクスマンに与えた約束の履行を要求するものでした。この時も漂流民が同乗していました。
幕府は使節を半年も長崎に留め置きました。その間に漂流民を受け取りましたが、鎖国の祖法により、通商は国禁であるとして、通商拒否を幕府を申し渡しました。そして、即刻の退去を通告しました。
1806(文化3)年、幕府は、ロシア船来航の際は諭して帰らせる、難破漂着の際は薪水を与えて帰国させ、上陸させないように通達しました。
ロシアは依然と対日通商を希望していました。兵力で威嚇して、通商開始を要求しょうとしました。1806(文化3)年、樺太クシュコタン攻撃があり、翌年には択捉島の襲撃事件がありました。
択捉島会所には箱館奉行役人と警備の南部・津軽両藩の藩士がいましたが、退却を余儀なくされました。箱館奉行は報せを聞くと、南部・津軽藩に警備兵の増派を要請しました。
ロシアとの衝突事件で、幕府は蝦夷地全体の直接支配を痛感しました。1807(文化4)年、松前藩の西蝦夷地を永久上知しました。そして松前藩を移封しました。これで松前藩は重要財源を奪われ、大幅な収入ダウンになりました。
松前藩旧領地を箱館奉行の管轄に入れました。そして、奉行所は松前に移り、松前奉行と改称しました。

1808(文化5)年、樺太探検が行われました。この探検には、松田伝十郎と間宮林蔵が起用されました。間宮林蔵は、1799(寛政11)年、幕府に仕えて蝦夷地に渡っています。その翌年、測量で蝦夷地に来ていた伊能忠敬に会い、測量術を学んでいます。そして、1801(享和元)年には西蝦夷地の地形を明らかにしています。
樺太探検が行われ、翌年の1809(文化6)年、従来半島であると思われた樺太の海峡部分を間宮林蔵は突破し、島であることが確認されました。この間宮海峡の発見は、後、間宮林蔵により告発され、国外追放されたシーボルトの報告により、ヨーロッパに紹介されました。

伊能忠敬は下総佐原村の伊能家の養子となり、50歳で新田地主で醸造や米穀取引をしていた伊能家の家督を長男に譲り、江戸に出て、天文方高橋至時(よしとき)に入門し、西洋暦学・測量術を学びました。
忠敬は至時を通じて日本全土の測量を幕府に願い出ています。北方の情勢が緊迫しているので、幕府は蝦夷地に限って許可しました。
その後、諸国の船が相次いで日本に姿を現したため、幕府は全国の測量を認め、忠敬を幕府御用としました。14年間忠敬は測量を続け、地図の完成の見通しがついた1818(文政元)年、74歳で亡くなりました。門人達の手で、1821(文政4)年、225枚の「大日本沿岸與地全図」は完成しました。

1811(文化8)年、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴロヴニン等を、南部藩の警備兵が国後島で捕らえる事件が起きました。ゴロヴニンの救出を企てるディアナ号の副長が、翌年その消息を聞くため、択捉から箱館に向かう高田屋嘉兵衛の船を捕らえました。
連れて行かれた嘉兵衛からゴロヴニンの無事を聞き出し、ゴロヴニンと嘉兵衛の交換で、事件は解決しました。
そして、この時、ロシア側は文化3・4年の衝突事件の非を認め、日本側に謝罪しました。
ゴロヴニンは捕らえられていた間の生活を手記にまとめ、1816(文化13)年、「日本幽囚記」を出版しました。この事件を通じて日本とヨーロッパの様子がお互いに知らされました。この事件の解決により、幕府が蝦夷地を直接支配し、防衛に専念するという積極的事情は解消しました。
松前藩はこの機会を捉え、将軍家斉の父一橋治斉(はるなり)を通じて旧領還付の運動を行い、幕府もこれに応じ、直営方式を止め、蝦夷地を松前藩に還付しました。

1808(文化5)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入して来ました。この頃、イギリスはナポレオン占領下のオランダと敵対関係にあり、オランダ船を捕らえる目的で、フェートン号はオランダ国旗を掲げて、長崎港に入って来ました。
オランダ商館員2名がイギリス兵に拉致されました。長崎奉行は長崎警備の佐賀・福岡藩にイギリス艦焼討ちの準備を命令し、大村藩にも出兵を促しました。
人質の釈放と引換えにフェートン号は薪水・食糧を要求しました。受諾しなければ、港内の船を焼き払うと脅迫しました。オランダ商館長は、日本の軍事力では不十分であると忠告し、兵力の不足もあったため、長崎奉行は要求通りにしました。フェートン号の退去後、長崎奉行は責任を感じ、遺書を残し、切腹しました。
外圧に対し、幕府は海防の必要を強く感じました。そして、世間では攘夷論が展開されていました。海防強化の一つにイギリスやアメリカの捕鯨船が日本の近海に出没するようになったこともありました。イギリス船が浦賀に来て、貿易を要求したり、各地にイギリス船が現れ、上陸する事件も起こりました。
このため、江戸湾及び長崎の警備に幕府は力を入れました。化政期には、日本周辺に出没する異国船はイギリス船が中心でした。こうして、幕府は外国勢力の侵略に危険を強く感じるようになりました。
1825(文政8)年、異国船打払令が出されました。イギリス船のみでなく、オランダを除く全ての欧米の船が対象となりました。文政から天保期にかけて幕府も各藩もともに防衛のために種々の軍事訓練が行われました。

 

各地で商品貨幣経済が拡がりました。その例としては、都市周辺の野菜栽培があげられます。特に、大坂周辺で最も発達しました。
これらの野菜は、大坂天満の青物市場に出荷することが義務付けられていました。しかし、南部の村では、村内で立売が行われ、市場と争いが起きましたが、後には制限付で立売は認められました。
この頃の商品作物の代表は、実綿(みわた)と菜種でした。綿は労力と金肥(購入する肥料)がかかる集約農法で行われ、しかも裏作ができる利点がありました。このため、小規模な一般の農民にとっても有利な作物でした。
しかも、綿繰りや綿打ちも副業として農村に普及していました。しかし、多くの金肥を必要としたため、肥料代の高騰はその有利性を低下させました。
菜種は稲作の裏作で栽培されました。この菜種も種実が絞られて油が作られました。菜種の油が水油、綿実の油が白油で、調合されて灯油が生産されました。
この照明油はそれまでの荏胡麻(えごま)油を圧倒しました。都市は勿論、農村でも夜なべ仕事に灯油は必要性が高くなっていました。
この他、養蚕・煙草・紅花などの商品作物が普及しました。この様な商品生産や流通が農村で拡がってきますと、社会的分業が行われ、生産と流通が分離し、農業と工業の分業がはっきりしてきました。

綿業では、綿繰り・綿打ち・糸繰り・機(はた)織りの段階があり、これらは綿作農家で行われていました。しかし、しだいに生産と加工が分離していきました。
絹業もこの時期発展します。蚕種・養蚕・製糸・絹織の工程に分化されていました。化政期には、中国から輸入していた白糸を国産品が駆逐してしまいました。
奥州・上野・相模・信濃で副業として養蚕が行われ、それを生糸とにして、市で糸商人に売り渡しました。手挽(てびき)から座繰(ざぐる)に製糸法が発達すると、在郷商人や富裕農民による問屋制的生産が行われました。自宅で製糸していた一般農民に賃挽させたり、自宅に婦女子を集めて、糸取りさせるような経営も現れました。
富裕農民といわれるのは、3町前後の自作地経営で、他人を雇用して耕作させていました。そして、余業に従事するものも多く、それは綿商人・米商人でした。

一方では地主層や商人層からの収奪が激しく、このため没落して小作人や日雇に転落するか、離村または出稼ぎ人として都市に出掛ける者も少なくありませんでした。
農村での工業や流通の発達により、労賃は上昇し、農業での奉公人や日雇の賃銭を吊り上げました。より有利な条件が他の村にあれば、村にいながら、他の村で働きました。こうして村の共同体としての規制を超えようとする動きがありました。
村方騒動には、本百姓同士、地主・小作関係での対立、小作人だけの小作騒動の3つの形態がありました。この頃は、前の2つによる村落共同体の動揺や弛緩による分裂と指導権争いによる騒動が多く発生しました。
新興の地主層が現れると、旧来の村役人層を排撃するようになりました。この様な村方騒動による村民の批判行動により、旧来の村落支配者はその特権を失っていきました。しかし、支配層は幕藩権力に頼ってその保持を図ろうとしたため、一度の騒動では解決しませんでした。
騒動の結果、旧庄屋層の特権を制限する方向に向かいました。少数の支配層が帳簿を独占したり、村入用を勝手に処分することは許されない時代になっていました。

 

幕府は江戸の経済的地位を引き上げることを企てていました。そのため、全国市場を編成し、統制しょうとしました。その中心は江戸十組(とくみ)問屋に結びつく大坂二十四組問屋でした。
これは、江戸向けに荷物を積み出す問屋でした。それらは色々な業種の問屋からなっていました。1784(天明4)年、株主が認められ、冥加金を幕府に納め、市場での独占権を獲得しました。綿・油・紙・毛綿・菜種・砂糖・鉄・蝋・鰹節の9品が重要な江戸積み商品とみなされました。
幕府が二十四組問屋のうちで、市場統制上最も重視したのは、油と綿でした。化政期に各地から大坂への廻着量が減ったことで、江戸での需要確保上、幕府の督促もあり、三所問屋が独占支配を強化しました。
元来、三所問屋は天満の青物問屋、京橋の川魚問屋、天満又九郎町の実綿(みわた)問屋のことでした。田沼時代実綿問屋に限って、三所綿問屋または三所問屋と呼びました。
大坂の問屋は遠隔地の市場を支配しました。一つは買手から売手への前貸による方法で、問屋から地方の商人さらに生産者に前貸が行われました。
もう一つは、延払(のべばらい)でした。大坂の問屋から仲買が商品を受け取り、信用を元に、仲買から地方商人、更に買手への信用を提供しました。

1828(文政6)年、三所問屋や油問屋に対して、摂津・河内・和泉の3国の1000村以上から訴願が行われました。これを国訴(こくそ)といいます。国訴は文政・安政・慶応期のものがあります。
農民が利益と市場選択の自由を獲得したいというのが目的でした。自分達が生産した物を支配しょうとする幕府と大坂の問屋に対する抵抗運動でした。広範な地域が連合した農民闘争で、しかも訴訟という合法的闘争でした。
綿の生産農家は国訴に特に熱心で、幕府の統制が強いため、特権的市場は崩れました。灯油の市場で強力な統制をしていた幕府は願い下げるように指示しました。しかし、訴願運動は繰り返されました。そのため、1832(天保3)年、日用灯油の在方での小売と菜種・種実の販売の拡大の要求が容れられました。

 

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