江戸時代3

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江戸時代3
4.化政期の社会と文化
 

享和から文化期の幕府の臨時の出金は、幕府直轄の川普請国役費用と蝦夷地入用が目立ちます。その上、綱紀の緩みや奢侈化のため、寛政の改革で健全になっていた幕府財政は再び窮乏化しました。
幕府保有の金銀は減少し、年貢の増徴の諸策にも限界がありました。米の数量が増えれば、米価が下がり、増徴の効果が上がりませんでした。家斉の大御所時代にも倹約令は出されましたが、浪費が続く当時の風潮では何も役に立ちませんでした。
1806(文化3)年、江戸町人及び天領の農民に対する御用金令が出されました。御用金は将来返すもので、返さない上金(あげきん)とは区別されました。この御用金は、買米(かいまい)資金に当てられました。
御用金調達は、従来の特権的流通市場を立て直そうとする問屋商人と、江戸商品市場の統制を強めようとする幕府の要求が一致して実現しました。この年の御用金の半分以上は米価調節に使われ、残りは貸付に使われました。
この後、大坂周辺の村や大坂の商人に御用金を度々課しました。御用金政策は、蓄積のある富裕な町人や百姓から貨幣を吸い上げたため、金融事情が悪くなっていきました。
御用金のもう一つの用途は、貸付資金でした。商人たちに貸付けた利息を幕府の財源の一つにしょうとしました。この公金貸付は、町奉行、勘定奉行、江戸廻り代官、遠国奉行・代官などを窓口にして行われました。

化政期、武士に比べて江戸の町人達の消費生活水準は向上しました。必需品のうち、加工品は大坂市場に依存する度合が高く、大坂からの下(くだ)り品を主に十組(とくみ)問屋仲間が取扱いました。
十組問屋は、同業者が統合してそれぞれの利益を拡大するというだけでなく、その結合の下で市場を支配して、お互いに勝手な真似をさせないという制度でした。
この様な統制は強化されましたが、一方では対抗する動きもありました。19世紀になると、十組の組数は増えたにもかかわらず、人数は減少しました。この十組の他にも新たな商品流通ルートに、新興の商人が現れました。
これに対し、十組仲間は、新しい中小の問屋や仲買を十組問屋の下に系列化し、専業の問屋別に編成しょうとしました。このため十組仲間に属する問屋と、仲間外の商人との抗争が続きました。
江戸市場を強化することは、大坂との間の流通機構の緊密化を図ることが重要となり、菱垣廻船に期待がかけられました。
この頃、菱垣廻船の建造は粗末になっていて、荷物の積み過ぎと乗組員不足から、難船が多く、海難を避けて菱垣廻船以外にも荷物を積むようになっていました。

寛政の改革の成果により新田が増え、豊作が続き、化政期には米価は下がりました。幕府は1803(享和3)年、酒造制限令を撤廃し、1804(文化元)年、米問屋に貯米を命じ、囲米を勧め、諸大名に江戸廻米を2割減らすことを命じ、大坂で2万7千石の米の買い上げを行いましたが、効果はありませんでした。
次いで幕府は米価掛を置き、積極的に買米を実行しました。しかし、効果が上がりませんでした。その後も大坂・江戸の富裕な商人に買米を命じました。商人を指定したり、強制的に割当てたりしました。これに対し、商人は中々承知しませんでした。幕府は買米令、御用買付、廻米制限、囲米などの対策が出されますが、米価は回復しませんでした。
各藩は大坂米市場で、蔵米を売却して藩財政に当てていました。多くの場合、富裕な商人から借金し、秋冬に蔵米を売り、返済していました。米価下落は、藩財政を圧迫し、借財の返済も滞りがちになり、貸した商人達も逼迫するようになりました。
そこで、蔵米切手で貸借を行うようになりました。大名は銀50貫を借りると、商人に1千石の切手を渡し、期限までに元利を返済しない場合、切手をその藩に届けるか、堂島米市場で売り払うか、のどちらかを選ぶというものでした。
ところが、切手を出している藩は、財政が逼迫すると、切手に相当する米を半分売り払い、当座に使いました。このため囲米のうち半分しか効果がないようなことになりました。また、現物の裏付けのない空切手が市場で流通して、信用制度に大きな打撃を与えました。このことと、1826(文化9)年の大豊作が重なり、翌年、堂島の米市場は立会を中止する事態になりました。

 

幕府は十組仲間の組織強化のため、弱体化した菱垣廻船問屋に力を入れていましたが、仲間の中で、樽廻船を利用する者が続出しました。この樽廻船は、大坂から江戸に酒樽を積送する船足の早い廻船でした。
菱垣廻船と樽廻船の間の協定で、酒は樽廻船一方積み、西宮付近の産物、米・糠・藍玉・素麺・酢・醤油・蝋燭は両方積み、その他は菱垣廻船の一方積みになっていました。
しかし、1807(文化4)年、毎年1千両の冥加金の上納と引換えに砂糖問屋の株の許可と樽廻船一方積みを幕府に申請してきました。これに対し、他の十組仲間は異議を申し立てました。この争いの仲介に立ったのが定飛脚問屋の大坂屋茂兵衛で、これにより十組問屋と深い関係となり、杉本茂十郎と改名しました。
砂糖は菜種問屋が扱っていました。株立を請願した砂糖問屋と砂糖を扱う菜種問屋を組合仲間とし、他の菜種問屋は砂糖の取り扱いを止め、砂糖は樽廻船の一方積めとし、砂糖問屋のほかの商品は、菱垣廻船で運ぶことで和解させました。
茂十郎は1809(文化6)年、町年寄を後ろ盾に、十組仲間を結集して、三橋(さんきょう)会所を設立し、頭取に就きました。設立目的は、菱垣廻船積仲間として、月々掛け金を積み立てて、江戸大川筋(隅田川)の永代橋・新大橋・大川橋の三橋の架け替え・修復に当てようとするものでした。

江戸の経済活動の基本は、公儀請負であり、大坂のは相場にありました。公儀の買米政策に加わることで、江戸市場を強化しょうとして、三橋会所や十組仲間からの多額の資金で大坂の米市場に手を出しました。
十組問屋がまず成り立ち、それぞれの家名相続と繁栄を図るべきだとして、買米には反対の声が仲間内にはありました。これを無視して、茂十郎は買米を行い、堂島米市場始まって以来の高値が続きました。
しかし、しだいに資金が続かなくなり、1826(文政9)年の豊作が追い討ちをかけ、米価は下落しました。米相場に手を出したため、三橋会所も十組問屋も大きな損害を受けました。
十組問屋で杉本茂十郎が主導している限り、米市場との関係は続きました。1826(文政9)年、茂十郎は江戸伊勢町に米会所を置こうとしました。翌年幕府はこれを許可しました。茂十郎は三橋会所頭取・米会所頭取を兼ねました。十組仲間内の反応は、米会所とその運営に好意的ではありませんでした。

米価の調整に協力したため、十組仲間に対し、1813(文化10)年、幕府は特権を与えました。菱垣廻船積仲間株として株式が公認されました。
茂十郎は幕府への冥加金の上納を計画し、仲間を説得していました。幕府は年間1万200両の冥加金の上納と引換えに十組の株を公認し、新規の加入を禁止しました。
十組仲間株の札元は町年寄樽与左衛門で、茂十郎は頭取に就きました。そして、茂十郎は町年寄次席になり、樽与左衛門と連携して町奉行扱いの公金貸付も行いました。
1818(文政元)年、十組仲間の資金難ということで、茂十郎は冥加金上納延期を願い出ます。これは認められますが、仲間に戻さず、米会所の米取引に流用しました。茂十郎は30万両の大穴を開け、仲間商人から恨みを買いました。

この年、幕閣が交代し、町奉行も交代しました。茂十郎は町奉行御用達十組頭取を免ぜられ、十組は町奉行所属となりました。
前年、勝手掛老中となり、老中首座に就いた水野忠成(ただあきら)は、三橋会所・米会所を廃止しました。寛政期以来の新興商人を中心とする経済政策は改められ、上方に本店のある門閥商人を再び御用商人としました。
幕府は大坂の問屋仲間を通じて全国の市場支配を強化しょうとしましたが、損弱退化を押し留めることは困難でした。物価高騰を煽る行為が続発し、幕府は江戸・大坂市場の独占機能回復のための対策を講じました。
1833(天保4)年、十組問屋やこれと関係の深い紀州藩の応援を得て、菱垣廻船積みの強化を図りました。樽廻船に積まれていた一部品目を菱垣廻船に積むことを認めさせました。

買米などで米価引き上げを図りましたが、効果は上がりませんでした。その反面、他の物価が高騰して庶民の生活を苦しめました。1819(文政2)年、物価引下げ令を出しました。
米の値段を基準に諸品の価格を決めるべきで、米価が下値の時は、他の物も下値にすべきだとしました。特に私領内の元値引き下げを要求し、元値を引き下げないか、不正があった場合には、領主の責任を追及するとしました。
文化期の買米政策、そしてこの諸物価引下げ令、更に貨幣改鋳による物価政策が幕府によって採られました。貨幣改鋳の必要性を建策したのが、後藤三右衛門光亨(みつのり)でした。

光亨は徳川幕府創業以来、金改役(かねあらためやく)を世襲し、文化年間に不正のため絶家した後藤庄三郎家の名跡を継いだ分家孝之の養子でした。
水野忠成が老中首座になると、光亨の建策が採用されました。1818(文政元)年の真文二分判(しんぶんにぶばん)に始まる貨幣改鋳は、改鋳による利益を求めて鋳造されました。
1832(天保3)年までの忠成の執政中、8回改鋳が行われました。金貨6種、銀貨4種が改鋳され、新鋳されました。従来の通貨より品位は劣悪でした。忠成の死後の1837(天保8)年まで改鋳は行われました。
この結果、東日本の金建て経済圏より、西日本の銀建て経済圏の方が大きいため、銀貨の高騰を引き起こしました。貨幣量は増えたため、資金供給量は増加し、その結果、借金は容易にできるようになりましたが、返却できない借財が増えていきました。
インフレの進行により、物価の高騰は進み、財政補填を目的にしたものが、財政悪化を進めました。少額の悪貨を多量に流通させたため、一般庶民は貨幣経済に巻き込まれ、そんな波は農村にまで浸透してきました。

 

化政期の文化の担い手として、農村から都市に流入した小商人・職人・日雇・奉公人がいます。当時江戸町方の人口の3割は他所で生まれた者達でした。
この様に江戸は寄合所帯のような都市でしたが、長く江戸の住んでいる人達の間で、自分達を江戸っ子といいました。「宵越しの金は持たぬ」とか「火事と喧嘩は江戸の華」というような刹那的な生活を自慢する風潮がありました。
それは、貨幣改鋳による通貨の膨張で景気は刺激され、そのため仕事に恵まれ、労賃が上がりましたが、実質的には目減りすることに対する言葉でした。そして火事が多発して財産を失くしかねないことへの言葉でした。
江戸は多くの大名や武士が集まり、国許と違い一々気にする必要もありませんでしたし、幕府のお膝元として、江戸以外のものを田舎者として見下していました。しかし、京・大坂の上方に対しては、伝統文化、そして技術や経済力に追いついていないため、露骨な反抗心を持っていました。
これまでの武士や豪商達の美的感覚である「通」に対し、江戸っ子達は「粋」をもてはやしました。そして、虚栄や意気地の美意識が大きくなっていきました。これは抑圧に対する歪みということができます。
江戸前といわれる料理や菓子には、目立たないところに贅沢を尽くし、技巧を凝らしました。江戸前料理は、江戸湾で獲れた魚を主材料にしました。また季節の初物を賞味することを誇りとしました。初鰹などは無理して大金を払ってでも、他人に先んじて食することを喜びました。
江戸には料理店があり、その他にも、辻売り・屋台店・寿司屋・居酒屋・飲み屋・蕎麦屋・おでん屋などの飲食店が現れました。また煎茶が流行しました。
江戸前料理には濃口醤油が要求され、それまでの薄口の大坂からの下り醤油に代わって銚子や野田から江戸地廻りの醤油が入ってきました。この頃には舶来であった砂糖は、7・8割が日本製の砂糖を使って金平糖・練羊羹・カステラ・蒸し菓子などが作られました。

この頃まで寺子屋で、読み・書き・算盤及び行儀作法が教えられていましたが、化政期には、町家では男子も長唄・三味線などの遊芸を習わせるようになっていました。
信仰と物見遊山を兼ねて、寺社への参詣も盛んに行われました。また遠国や近郊から江戸に出張する出開帳が行われました。寺社の参詣のほかに四季折々に名所を訪ねました。
江戸の性風俗は今日より開放的であったといえるかもしれません。岡場所は、吉原のような公認の遊郭でなく、悪所といわれる私娼窟がたくさんありました。深川はその中でも有名でした。
射幸心を煽るののとして、富くじがありました。目黒不動・湯島天神・谷中感応寺の富くじが江戸三富といわれました。
賭博は禁止しても盛んに行われました。そして、賭博を職業とする渡世人が現れました。このような者が増えると縄張り争いが生まれました。

 

この頃、農村では、荒廃が進む村と商品生産が盛んな村が現れました。村全体が窮乏化した所では、多くの下層民が外に出て人口が減少し、農民の上層と下層に二極化しました。
農村では、社会的・地域的分業が進み、農村相互の間および都市との間を、農業から離れた貧農層が、より有利な条件を求めて流動化し始めました。
農業以外で吸収する余業のない農村では、彼らを村内に留めることができなく、農業から離れていきました。農業人口は過剰でしたが、農家軒数は減り、耕地の荒廃が進みました。
苦しい農村の状態から脱出するには、必要な農具・種子・当座の生活資金を与えたり、余業収入や賃仕事を与えるなどの方策が必要でした。

これまで下り商品に依存していた江戸の市場で地廻り商品の供給が活発になってきました。江戸地廻り経済圏が形成されるのは、田沼期後半でした。化政期に日本近海にイギリス船が出没し、海上交通路の途絶が考えられ、食糧や日用加工品の自給が説かれました。
19世紀になると、木綿・醤油・酒などの江戸地廻り商品の数量が増えてきました。そして、その経済圏内で、各地の特産品が現れてきました。関東の中で地域的な分業があり、南部・西部は畑作地域、北関東は機業地帯ということができました。

十組問屋仲間を無視する商人達が現れ、江戸地廻りの在方商人と結びました。在方市を中心にして、在方商人を江戸の株立をした十組問屋との間の対立が激しくなりました。
在方商人が次々と出てきますと、在方商人と江戸商人の対立だけでなく、在郷町の在方市を中心に新市の対立も起こってきました。幕府は、江戸地廻り経済圏と遠隔地間の取引は江戸を経由して行うべきであると考えていました。江戸問屋を経由しなければ、期待するように江戸問屋が存在しなくなると考え、幕府は統制することを執拗に考えていました。

寛政の改革まで、関東の天領は関東郡代の伊奈氏が支配していました。1792(寛政4)年、伊奈氏は廃絶させられ、関東郡代は勘定奉行の兼務となりました。
百姓を法的に共同体に束縛するものは宗旨人別帳で、それからはずされのは百姓の身分と地位を失うことでした。そして、はずされた者は無宿人となり、博徒などの渡世人の生活を送る者も多くなりました。
街道筋の宿場・港町・在町など市が立つような場所に渡世人は流れ込み、賭場が開かれました。この様な渡世人は侠客・博徒といい、護身用に長脇差をさし、縞の合羽に三度笠という服装でした。
賭場には貸元がいて、在方の通り人や旅人が参加しました。貸元は身内に子分を抱えていました。賭場は彼らの収入源で、縄張を持ち、それを拡大するために起こる争いを出入りといいました。

彼らのような者を取締る必要から、幕府は、1805(文化2)年、関東取締出役を置きました。これは勘定奉行の下に、品川・板橋・大宮・藤沢の代官を取締に任命し、その配下に手付(てつき)・手代を2人づつ出して、計8人を出役としました。
8人のうち2人が1組となり、4組で八州を廻りました。その範囲は関東一円、天領・私領・寺社領の区別なく廻り、犯人逮捕に当たらせました。これがいわゆる八州廻りです。この翌年、関東郡代を廃止しました。
1814(文化11)年、関八州の博徒120人を逮捕しています。出役2人に小者・足軽各2人計6人で逮捕できたのは、博徒・親分の中でも十手と捕縄を預けられた二束の草鞋の目明しがいて、彼らが協力したからでした。
地域の広さに対し、あまりに人数が少ないため、1816(文化13)年には出役を各代官ごとに1人増員し、計12人としました。しかし、成果を上げることはできませんでした。

1827(文政10)年、幕府は取締りの改革の触書を公布しました。村役人が取締出役に呼び出され、内容が示されました。渡世人を中心にした無宿者を取締るだけでなく、華美になった神事・祭礼・仏事を簡素化し、娯楽に人々が集まることを止めさせるというものでした。
関東は天領・私領・寺社領が複雑に入組んでいるため、無宿人や無頼の徒が横行しても取締りが十分に行われにくかったといえます。そこで、取締出役の機能を高めるため、寄場が置かれ、組合村が編成されました。
江戸府内と宿場及び城下や陣屋元を除いて、関東全域の村を、近隣3〜6村で小組合村とし、その10小組合村で大組合村を組織しました。小組合村には小惣代を選び、大組合村には小惣代より大惣代を選んで運営に当たらせました。組合村のうち、有力な大きな村を組合村寄場として、その名主を寄場役人としました。出役は寄場役人に指示し、村々に伝達させました。
この頃、関東一円の治安は、一私領主の力では処理できない状況になっていました。幕府は直接支配することにより、悪人どもの横行を抑え、治安維持し、領主達の年貢徴収機能を維持しょうとしました。

化政期、農業以外の職業や出稼ぎである農間余業が注目されました。農業をもっぱら行わせるのが当然で、農間余業はそれを妨げるものであると考え、調査を行いました。そして、取締出役は指示して、職人の手間賃や商品価格の自発的な規制を行いました。
集団による意思表示やその連帯意識に、幕府や諸藩は警戒心を持っていました。そこで、民心を掌握し、反体制行動が起こるのを防ぎ、日々の生活を規制する方法として教諭政策を取りました。
村単位に教化を担当する教諭方を置き、期待する人間像を民に示すことにより、あるべき姿を自覚させようとしました。教諭所などでは、石田梅岩らによって唱えられた心学が多くの場合説かれました。心学は、老荘思想の影響を受け、自然科学的認識で、勤労を旨としました。
民衆教育では、寺子屋がこの頃には都市はもとより、農漁村にも広がっていました。

 

化政期の文化のうち、文学では、戯作に特色が現れています。戯作には、読本・滑稽本・人情本などがあります。読本は因果応報・勧善懲悪思想が盛り込まれ、読物としては高級なものとされました。滑稽本・人情本は通俗本で、滑稽本は落語を文学化し、人情本は遊里文学の洒落本を恋愛小説化したものでした。
寛政期から化政期にかけて活躍する戯作者に、山東京伝がいます。十辺舎一九は弥次郎兵衛・喜多八が主人公の「東海道中膝栗毛」を、式亭三馬は「浮世風呂」「浮世床」を著しています。
勧善懲悪思想を取り除いた小説、合巻が出てきました。「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は、源氏物語を元に、時代は室町時代、実際は将軍家斉の大奥をモデルに、柳亭種彦は主人公を描きました。歌川国貞の挿絵とあいまって婦女子の心を捉えました。
人情本では為永春水の「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」があり、江戸情緒にあふれた町人の恋愛が描かれています。この頃には、貸本屋があり、町人達は貸本を楽しんでいました。

歌舞伎は流行の源泉でした。観客層は拡がり、町人社会も世話物として上演されました。下座音楽としての義太夫・長唄・浄瑠璃が、その舞台効果を高めました。三味線の普及がその背景にはありました。
「歌舞伎十八番」の七代目市川団十郎、世話物の五代目松本幸四郎、怪談狂言の三代目尾上菊五郎などの名優が、この時期には出ました。
役者の衣装は華美になっていきました。江戸町奉行は警告していますが、取締りの効果は長続きしませんでした。この頃には、早替り・宙乗り・仕掛物・本水物と種々の趣向が取り入れられました。
歌舞伎作者であり、舞台の技巧にも優れた四代目鶴屋南北は怪談狂言や世話物に作品を残しました。彼は大南北と呼ばれ、その代表作には「東海道四谷怪談」があります。
文政期には滑稽や落咄(おとしばなし)に有名な芸人が多数出ました。馬生や可楽などが人気を集め、色々なところで座を開きました。

この頃の浮世絵は、退廃が目立ち、絵師もその作品も質が下がったといわれています。しかし、出版数は増え、江戸の土産品として地方にも普及しました。題材は美人と役者でした。
この時代の代表作家としては、時代の狂態や愚行を批判し、それを狂気の絵で表現した歌川国芳がいます。人体の集合で顔面を描いたり、蛸と熊が相撲を取るなど大胆な試みを行いました。
この時代を正面から、風景版画を最高の芸術水準に高めた絵師が2人います。富士山をあらゆる角度から、遠近法や明暗微妙な陰影で描いた「冨嶽三十六景」で有名な葛飾北斎です。彼は生涯多くの画号と転居の数で有名ですが、その都度作風は変化していきました。
もう1人は安藤広重です。東海道を旅し、この時のスケッチや宿場の印象をもとに「東海道五拾三次」を発表しました。自然風物に同化して旅情を織り込む、叙情豊かな作風です。独特の藍の色を生かした独特の風景画で、その後、江戸はじめ各地の名所を描きました。
この時代、趣味の生活に浸る文人層が各地に現れました。京都の浦上玉堂、豊後の田能村竹田などが有名で、詩文を作り、煎茶をたしなみ、書画にすぐれていました。
都市文化に対して、反逆するような地方の民衆の生活の言葉で自由自在に句作した俳人小林一茶がいます。一茶は北信濃に生まれ、江戸に出て各地を漂泊します。江戸に戻りますが、50歳で故郷に戻り、俳諧の宗匠として庶民の生活の中の作品をつくりました。

 

1827(文政10)年、頼山陽は松平定信に「日本外史」を奏呈しました。その中で、南朝への挽歌を謳い、楠氏の怨念を掘り起こしました。山陽は、歴史家としては封建制の矛盾は批判しますが、封建倫理は詩人としてして美しく謳いあげるような矛盾を内包していましたが、彼はこの時代、変革への志向を示そうとしました。行動を起こした大塩平八郎とは交渉を持っていました。
渡辺崋山は、谷文晁(ぶんちょう)のもとで、文人画の伝統を受けています。崋山の肖像画は、性格描写に優れていました。崋山は更に関心を蘭学に向けていきました。

化政期、蘭学が日本の学問や文化に根付き始めました。1811(文化8)年、幕府は天文方に蕃書和解(ばんしょわげ)御用方を新設し、蘭書の翻訳を行わせました。しかし、それが一般に伝わり、在野で洋学として展開しました。
洋学の輸入は、社会の批判へ目を向けさせました。司馬江漢は地道説を普及させるなど、天文や地理に対する態度は近代文明をもとに発想するものがありました。しかし、なお封建的制約を抜け出すものではありませんでした。
山片蟠桃の著書「夢の代」は、天文・地理・制度・経済など多方面にわたる書で、一切の神秘主義を排し、広範な西洋の知識を紹介しています。
山片蟠桃以外にも、民間の洋学者達により新知識が紹介されました。適塾の緒方洪庵がその代表です。大阪に開かれた適塾では、自発的学習と自由な討論が行われました。自由な教育研究組織は、統制の厳しい江戸では難しい面がありました。洋学が町人の学問として定着するに従い、近代的思想への足がかりが生じてきました。この適塾から福沢諭吉らが出ています。

世の中矛盾が表面化するに従い、色々な経世済民論が現れました。商業を抑制しょうとする建前を捨て、商業肯定論が現れました。
本多利明は、民の生活の維持のためには国産を開発して、渡海や交易を行うことが必要で、その主体は幕府や藩であるとしました。その著書「西域物語」で、蝦夷地開発の中で、これまでとは違う統一国家構想を著しました。
海保青陵は、社会の根本原理を、売買による商業取引に求めました。士農工商の身分社会も売買の関係に立っているとしました。そして、富国の中心は、貨幣の獲得として、富の源泉を商業であるとしました。
この頃、多くの藩で国産品の増産と販売に関心が高まっていました。利益を合理的に獲得することが、藩と民との利益に合致すると青陵は説きました。藩の自立には、藩外からの貨幣獲得の商業を開発し、藩外との取引には、藩を後ろ盾にして領内が一致して当たるべきとしました。
彼の商業肯定の思想は、幕府の天保の改革や各藩の商業統制を重視する改革の理論的裏付けとなりました。

 

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