江戸時代3

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江戸時代3
5.内憂外患
 

1830(文政13)年には、おかげ参りが起こりそうな期待感があり、村廻りして伊勢神宮の信仰を広げる御師(おんし)達も工作していました。閏3月から6月末までのおかげ参りは400万人に昇ったといわれています。
抜け参りが流行したので、幕府は、主人や親・夫また家主に断って出掛けるように申し付けました。参詣者には、各地で施行(せぎょう)が行われました。各藩の蔵屋敷や豪商達が施行しています。これは民衆運動がこれ以上大きくなって、世の中が転覆することを施行する側は恐れました。
農繁期になるとおかげ参りは減少しました。5・6月頃に河内の農村からおかげ踊りの乱舞が始まりました。そしてその後も、農民は華美な姿で乱舞して廻りました。河内・摂津・大和・山城・近江・丹波におかげ踊りは拡がりました。農民が耕作作業を放棄するというのは、重要な意思表示でした。幕府や各藩は取締りに苦慮しました。

この時期、砂持(すなもち)あるいは豊年踊りも流行しました。砂持は建築や工事などで土砂を運ぶ仕事を応援するものをいいました。これに参加するのに、揃いの襦袢・ぱっちで鉦太鼓ではやしたて、参加する人々は神事や祭礼に参加するのと同じでした。
豊年踊りでは、1839(天保10)年、京都で豊熟都大踊が流行しました。男は女、女は男に仮装し、土足で豪商の邸の座敷に上がりました。
日頃の抑圧に対して、鬱憤晴らしをする、この様な民衆運動には、非暴力で、政治性がなかったため、権力側も沈静化するのを待ちました。
おかげ参りはあらゆる階層の人々が個人や家族で参加しました。おかげ踊や砂持・豊年踊りは下層の人々が集団を組んで行動しました。下層の人々は世直しが必要だと感じていましたが、政治的に結び付くまでには到りませんでした。

 

1829(文政12)年は大豊作でした。しかし、翌年の天保に入ると、気候不順が続きました。1833(天保4)年、天保の飢饉が始まりました。特にひどかったのは東北でした。東北からの米に依存していた江戸の食糧不足は深刻になり、難民が流入し、米をはじめ食料品の価格は高騰しました。
江戸では飢え・病気・行倒れが起こりました。幕府は品川・板橋・千住・内藤新宿の4ヶ所にお救(すく)い小屋をつくり、窮民に食を与えました。
大坂は江戸の廻米量の確保が要請されたため、米価の吊り上げが起こり、難民に対する救済措置が取られました。
化政期には豊作が続いたため、米の余剰により、米作以外の商品作物栽培に転換する者がいました。そのため米穀生産量が減少する傾向に凶作が重なりました。
1836(天保7)年になると飢饉は深刻になり、全国的に広がりました。

同年、甲斐で農民一揆の郡内一揆が起こりました。この地域は山がちで、水田に乏しく、絹織りの副業が普及していました。参加者は貧農や日雇を中心に1万人に達しました。隣接の諸藩から出兵して鎮圧されました。
同じく同年、三河の山間部で騒ぎが起きました。岡崎・尾張挙母(ころも)藩は連絡を取り合い、銃火で鎮圧しました。この三河一揆では、首謀者は私領の農民であるにもかかわらず、江戸に送られて処刑されました。
参加した民衆側には、果たすべき義務を果たさなければ、間違いを正すという世直しの主張が込められていました。

 

水野忠邦の実弟の大坂町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ)らは、江戸廻米のために努力していました。大坂の諸藩邸に、他所に売り払わないで、大坂廻米を促していました。
1837(天保8)年、通常大坂では100万俵以上ある有米高が、23万俵を切る状態になっていました。それにもかかわらず、江戸第一に考え、大坂の対策は適切になされていませんでした。それを大塩平八郎は糾弾しました。

大塩平八郎は大坂東町奉行与力で、陽明学者でした。賄賂の風習が蔓延している中、誘惑の多い役職に就いていながら、清励な勤務ぶりと廉直な態度を貫きました。1830(文政13)年、38歳で退職し、学問に専念しました。
行政から離れた大塩平八郎でしたが、政治の方が彼を放しませんでした。1833(天保4)年、大坂西町奉行に就いた矢部定謙(さだのり)は平八郎に意見をよく聞き、天保の飢饉の対策に当たりました。
しかし、1836(天保7)年、東町奉行に跡部良弼が就き、定謙は勘定奉行に転じました。良弼の新任の際に、定謙は平八郎を推しましたが、良弼は平八郎を一介の与力の隠居程度に考えました。
平八郎は良弼に貧民の窮状を訴え、救済を懇願します。その願いはかないませんでした。養子の格之助を通じて再三要請しますが、聞き届けられませんでした。平八郎には江戸に顔を向け、民衆のことを考えない良弼の態度は許せませんでした。
全国の金銀が集まる大坂で、餓死者が出るのは許されるものでなく、大坂の飢饉は人災であり、その元凶は良弼であると平八郎は考えました。
また平八郎は、豪遊にふける豪商達に借金を申し入れますが、断られました。飢饉の深刻化を見ながら、平八郎は通常の方法では問題は解決しない、乱を起こすことを決意しました。

1837(天保8)年、蔵書を売却した620両を困窮人1軒当たり1朱づつ切手に代えて施行しました。挙兵の直前、檄文が門弟によって摂津・河内・和泉に撒かれました。挙兵の対象としたのは役人と金持ちでした。
門人のうちから密告者が出たため、準備不足のまま挙兵しました。養子格之助と門人達7・80人を率いて、大砲を曳いて所々で打ちこわし、放火をしながら進撃し、大砲を撃ち放ちました。
この大塩平八郎の乱は1日で鎮圧されました。しかし、大坂市街地の2割が焼失しました。大塩父子の行方は不明でした。乱後1月経って、隠れ家が突き止められ、包囲されました。その中で、父子は自殺します。死体は引き廻しの上、磔にされました。

幕府直轄地大坂で起こったこの乱は、大きな影響を残しました。檄文によると、神武天皇や東照大権現の善政の再現を図るとしていますが、その考えとは別に、反幕府の風潮を刺激しました。体制に反逆する乱であり、家を焼かれた民衆までが大塩様、平八郎様と崇めました。
同年、平田篤胤の門で国学を学んだ生田万(よろず)らが越後柏崎の陣屋を襲った柏崎の乱が起きます。奪った金は窮民に撒き、大塩平八郎の門弟と名乗って、蜂起を呼びかけますが、生田万は敗死しました。
大塩平八郎の乱は全国に伝えられ、各地で打ちこわしを引き起こしました。領主層は、いつ自藩で起こるか分からず、不安に思いました。また散発的な打ちこわしや農民一揆が相互に連携を持ち、大きな乱になることを恐れました。

 

1823(文政6)年、長崎出島のオランダ商館に、ドイツ人医師シーボルトは赴任しました。彼は動植物学や人類学・地理学も研究していました。オランダより日本に関する研究の要請を受け、来日しました。
シーボルトは長崎郊外鳴滝で、医学の研究と実験をする鳴滝塾を開きました。その門には、伊東玄朴・青木周蔵・高野長英などが参加しました。
シーボルトは、おたきという長崎丸山の遊女を愛し、娘いねをもうけました。1859(安政6)年に再来日した時、いねは成人して産科医になっていました。

1828(文政11)年、シーボルトが帰国の際、積荷を載せた便船が難破しました。その積荷から禁制品の日本地図が見つかりました。これは彼の教えを受けた幕府天文方高橋景保(かげやす)が贈ったものでした。
1826(文政9)年、シーボルトはオランダ商館長江戸参府に随行して江戸にやって来ました。この時、彼は最上徳内や高橋景保と会っています。景保は伊能忠敬の師である天文方高橋至時(よしとき)の子でした。
幕府はスパイの疑いでシーボルトを調べ、景保を逮捕しました。景保は獄中で死亡しました。幕府はオランダ商館長にシーボルトの国外追放を要求し、再渡航禁止を通告しました。この事件をシーボルト事件といいます。
シーボルトは帰国後、あじさいの学名におたきの名を付けました。また、樺太が半島でなく、島であることを発見した間宮林蔵・松田伝十郎らの業績を世界に発表し、海峡を間宮海峡と記録しました。

 

1837(天保8)年、アメリカ船モリソン号は漂流民7名の送還と通商を求めて江戸湾に入って来ました。濃霧にさえぎられて海岸に近寄れず、浦賀奉行所の砲撃を受けて退去しました。
翌年、幕府は長崎に来たオランダ人より、イギリス船(本当はアメリカ船)に漂流民を直接届けることはできないので、代わりに届けようと言ったところ、こちらで直接届けると断られました、との報告を受けました。これに対し、幕府は砲撃し、退去させたように、今後も異国船打払令に基づき対処するとしました。
このような外圧に対し、江戸の防衛を検討しました。江戸の南の小笠原諸島は、1593(文禄2)年、小笠原貞頼が発見したものでした。1838(天保9)年、老中水野忠邦は伊豆七島を所管する代官羽倉外記(はぐらげき)に異国船渡来に備えて、伊豆諸島・小笠原諸島の調査を命じました。
同年、伊豆・相模・上総・下総・安房の諸国の海岸の巡検を目付鳥居耀蔵(ようぞう)に命じ、その副使を伊豆韮山(にらやま)代官江川英竜(ひでたつ)に命じました。しかし、両者は意見を異にし、その後対立していきます。

鳥居耀蔵忠耀(ただてる)は幕府儒官林大学頭の弟で、2500石取旗本鳥居家の養子となりました。耀蔵は執拗な性格で、蘭学を嫌っていました。
江川太郎左衛門英竜は、代々代官であった家に生まれました。英竜は伝統的学問の他に蘭学者でもありました。西洋流砲術、台場や反射炉の築造、種痘の奨励など西洋の産業技術の普及に功績を残しました。
江川英竜や羽倉外記は尚歯(しょうし)会に所属していました。尚歯会は蘭学に関心を持つ文人の集まりの会でした。民間の蘭学者の他に幕臣や諸藩の藩士が参加していました。この会の盟主は田原藩士渡辺崋山で、蘭学の実質的指導者はシーボルト門下の高野長英でした。
耀蔵と英竜は江戸湾防衛体制の整備方法で意見を異にしていました。耀蔵は西洋砲術の積極的な取り入れは、諸藩が幕府に先んじることを恐れました。火器を充実することよりも、精神面の充実を優先し、幕府優先で、諸藩を牽制するような立場に置こうとしました。
これに対し、英竜は大藩の協力を得て、海防を強化すべきだとしました。西洋の新しい知識を吸収して役立てることを主張しました。幕府は両者に優劣を付けませんでした。天保の改革後も、水野忠邦は両者の性格の相違を承知の上、政策推進に利用しました。

 

蘭学者の渡辺崋山は「慎機論」で、高野長英は「戊戍(ぼじゅう)夢物語」で、アメリカ船モリソン号砲撃の幕府の態度を批判し、異国船打払令を廃止すべきだと主張しました。幕臣の韮山代官江川英竜、後の勘定奉行川路聖謨(としあきら)も同じ意見を上申しました。
1840(天保10)年、鳥居耀蔵は老中水野忠邦に告発状を提出します。耀蔵の狙いは英竜にありました。幕臣の中の蘭学に理解を示すグループと、幕府外からこれらを支援する者たちを封じようとする意図がありました。
告発状を受けた忠邦は別の下役に再調査を命じ、幕臣の嫌疑は晴れたとしました。

鳥居耀蔵らによって渡辺崋山・高野長英らは罪に落とされていきます。これを蛮社の獄といいます。
耀蔵が命じた捜査の過程で、常陸鹿島郡の僧侶順宜・順道父子の無人島渡航計画があることが発見されました。この順宜・順道ら6人と、彼らと関係があるとして崋山は北町奉行に逮捕されました。しかし、吟味の結果、無関係であることが立証されました。
蘭医の門下で、長英と親交があり、以前キリシタン事件で連座した小関三英が自殺しました。「夢々物語」の著者佐藤信淵は江戸から退避しました。
崋山の再吟味が行われ、草稿類が証拠として提出されました。耀蔵から3回目の告発状が提出され、崋山が大塩平八郎と通信していた形跡があることが付け加えられました。
崋山逮捕に対し、友人知人、幕閣要人、役人達が救済運動を行いました。この年末、崋山に田原藩での永蟄居が命じられました。蛮社の獄で連座した長英は、永牢の判決を受けました。渡辺崋山は幽居で自決しました。

入牢していた高野長英は、1844(天保15)年、小伝馬町付近で起きた火事のため、解き放ちを受けましたが、牢には戻りませんでした。長英は逃亡生活を送ります。
宇和藩藩主伊達宗城(むねなり)に招かれたり、薩摩に潜行したり、大坂・京都・名古屋を経て江戸に入りました。潜行の6年間に診療・教授・翻訳の活動で、洋学の普及に努めました。
更に下総に移り、変名し、劇薬で顔を焼いていました。1850(嘉永3)年、江戸で活動中、長英は幕府役人達に包囲され自殺しました。

1825(文政8)年、水戸藩士会沢正志斎は「新論」を著作しました。その主張は、幕府が公布した異国船打払令と同一のものでした。当面する内外の情勢にあわせて発展した政治改革論でした。洋学排斥を唱え、攘夷論を展開しました。ここに後期水戸学が誕生しました。
「新論」は正志斎の師藤田幽谷によって藩主に献じられました。幽谷の子藤田東胡は「弘道館記述義」を著しました。
対外危機と尊王思想が結びついて、「新論」の政治論で水戸藩の改革的機運が高揚され、「弘道館記述義」で武士の生き方の道徳性が説かれました。

富国強兵により幕府に対抗する力を得た諸侯と流民がいました。飢饉が引き金で乱や一揆起こることを水戸藩主徳川斉昭は警戒しました。そして、両者と公家が結びつくと、幕府を打倒できる勢力になると予想しました。
この様な内憂に対し、異国の武力侵略とキリスト教を問題にし、それら外患が内憂と結びつくことを危ぶみました。
貿易については、本来日本は自給自足経済なので交易は必要ないとし、キリスト教が流入することを恐れました。斉昭の考えは徹底した鎖国論でした。
斉昭は幕府に、蝦夷地の開拓と警備に当たることを願い出ました。この様な領主層の対外的な積極性は、対外的関心を高めて外患を処理したり、軍事的対決により、既に発生している内的矛盾、いわゆる内憂から目をそらそうとするものでした。このため、侵略の危機を声高に唱え、外圧に対し対決しょうとしました。

 

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