江戸時代3

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江戸時代3
6.天保の改革
 

1841(天保12)年、徳川家斉が死去しました。将軍及び大御所時代合わせて約50年間最高権力者でした。家斉の死去後、初めて親裁できるようになった将軍家慶は、老中水野忠邦に改革政治を推進させました。
将軍家慶の了承の下、老中以下合議制で天保の改革は行われました。しかし、指導的立場にあったのは水野忠邦でした。忠邦は20万石の肥前唐津藩から5万石の遠州浜松の城主に自ら望んで移封されました。唐津藩は長崎警固役があったため、幕閣にはなれませんでした。
この時代、猟官運動は激しく、賄賂や請託が横行していました。忠邦は奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代・西の丸老中・勝手掛老中・老中首座になっています。

家斉の愛妾お美代の方の父日啓は祈祷に長けた僧でした。加持祈祷が流行していた大奥の女中達に取り入り、多くの人達が信者になりました。そして、家斉夫妻の信心も得ました。しかし、大奥女中達の代参などの機会が増え、風紀の乱れも取り沙汰されました。
忠邦の命で調べていた寺社奉行阿部政弘は、日啓を逮捕しました。取調べが進むにつれ、将軍家斉まで関係が進むことが分かり、大奥関係は全て不問に付されました。日啓とその子日尚のみが処罰されました。そして、日啓とお美代の方の勧めで家斉によって建立された雑司ヶ谷感応寺は破却されました。

1840(天保11)年に、川越・庄内・長岡三藩の封地を入れ替える三方領知替令が発せられましたが、翌年中止となりました。国替を阻んだのは庄内藩の領民の反対運動でした。この騒動の中心は、酒田の富豪本間家、文隣和尚や伝馬町の豪商白崎五左衛門らで、最上川を挟む地域の民衆を率いて幕府や隣藩に訴えました。当時の江戸町奉行矢部定謙(さだのり)は、以前大坂町奉行時代、大塩平八郎を起用して名奉行と言われていました。定謙は庄内領民の嘆願に動かされ、幕閣の再評議を求めました。
将軍家慶は国替の取り消しを申し付けましたが、忠邦は改革政治の遂行には国替は必要と主張しました。そこで幕閣は、領知替令は家慶が実権を持つ以前のことであり、天保の改革とは違うことであると表明しました。しかしながら、この国替の中止は幕府の権威を失墜させました。

改革の最初は倹約令の発布でした。この時代以前は身分相応にということで、身分をわきまえない出費を倹約させることに意味がありました。
しかし、この時代には、幕府・各藩とも、財政は危機的状況にありました。むしろ支配者層にこそ倹約を行う必要がありました。武士達には文武の奨励によって士風の振興を強調しました。武士の生活態度を変えることにより、支配階級としての自覚を再認識させようとしました。
大御所時代には支配者も民衆も生活は華美になっていました。町方に対しても、古来の質素な生活に戻るように触れが出されました。全階層に質素倹約が進められ、総需要は抑制されました。

江戸での改革を実施するため、町奉行の機構改革が行われました。遠山景元(かげもと)が奉行であった北町奉行では、市中取締役が新設され、与力3名、同心6名が配置されました。市中取締掛名主が任命され、町触れの徹底と人別改が励行されました。
鳥居耀蔵が奉行になった南町奉行所では、諸色調掛(しょしきしらべがかり)が設けられ、与力・同心に直轄された諸色調掛が任命され、諸物価を調査し、値下げを商人に指導しました。水野忠邦の指示により市中物価調査は北町奉行にも分担させました。
倹約令・奢侈禁止令の実施に当たり、同心や目明しが監視し、隠密を放って摘発しました。厳しい取締で恨みの声が上がりました。特に忠邦が重用した耀蔵の苛酷な取締りに民衆は恐怖を感じました。高価な品を販売した疑いで耀蔵配下の同心によって商品は封印され、主人は手鎖の上、町内預りになった商家は多数に上りました。
1841(天保12)年、芝居小屋の中村座から出た火は市村座・操(あやつり)座を焼失しました。町年寄からの再建の願いに対し、猿若町への移転が命じられました。その移転には役者と一般市民の住居を分け、交際を制限し、風俗への影響を制限しょうとしました。
市中に多数あった寄席を制限し、その内容も制限しました。吉原以外の岡場所は撤去し、商売替えさせました。贅沢な菓子や料理は禁止され、初物を求めるのを禁止しました。

 

水野忠邦ら幕閣には、幕政関係者以外に政治批判を認めない姿勢がありました。改革を進めるには、国民の思想統一を図る必要があると感じていました。そこで、官学を奨励しました。
忠邦は朱子学を積極的に奨励しました。在方村々には「童蒙教訓(どうもうきょうくん)」「質素倹約いろは歌」が教化策として公刊されました。江戸では「修身孝義鑑」が刊行されました。これは仮名がふられ、改革令の内容を民衆に徹底させようというものでした。
書物の影響は大きいため、幕府は出版統制を行いました。その中で、この時代を代表する読本、つまり小説の代表は滝沢馬琴でした。その作品には「椿説弓張月(ちんせいゆみはりづき)」があります。内容は超現実的伝奇物語で、広い知識を駆使した文章や雄大な構想は、目を見張るののがあります。勧善懲悪を説くところは、時の為政者の思想善導の意図に合致したものでした。

天保の改革では、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)と為永春水(ためながしゅんすい)の筆禍事件がありました。柳亭種彦の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は、足利時代になっていますが、家斉の大奥を描いたものでした。種彦は執筆禁止を申し渡され、その直後に死亡しました。
春水の「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」は、主人公が情婦の稼ぎに頼っていて、江戸下町の情緒を描いたものでした。春水は手鎖50日の刑に処せられました。
この時代の浮世絵は耽美的である以上に、改革政治への批判が加味されることが当たる条件になっていました。これに対し、取締る側は、批判や反対を行動に移すことがないように抵抗の意思を奪い去ろうとしました。
歌川国芳は反骨精神を持っていました。「源頼光公館土蜘作妖怪図」を出版しましたが、そこに描かれてた妖怪に民衆は為政者を模していました。人々は色々解釈し、評判を取りました。このため、板元は処罰を恐れ、錦絵を回収し、板木も削除しました。

 

大御所時代の通貨膨張と消費刺激政策のため、物価は高くなり、更に飢饉により物価は高騰しました。幕府は江戸の物価引下げを第一に考え、十組仲間などの流通機構を経由することを強制し、商品の集中化により、物価の引き下げを狙いましたが、実効は上がりませんでした。
そこで、幕府は株仲間による市場の独占から一転して、株仲間の解散を実施しました。これにより、商品の移動が自由になり、江戸を中心に都市への商品の移入が増え、米価と諸物価の釣り合いが取れ、物価は安定すると考えました。改革にとって倹約令と物価引下げが大きな柱でした。
1841(天保12)年、幕府は仲間株は勿論、問屋・仲間・組合と唱えることも停止しました。十組問屋が上納していた冥加金1万200両を免除しました。これにより特権はなくなり、株札は廃止されました。個人であれ、諸藩であれ、統制されていた江戸市場で、自由に取引することが認められました。
しかし、事態は変わらず、2度目の解散令が出されました。営業は自由勝手であり、問屋という名称も組合を作ることも認められないとしました。取引では前金を出して買い溜めや現地での囲い込みは、独占になるので禁止されました。この法令は江戸は勿論、公領にも私領にも出されました。

幕府は流通機構を解体すれば、中間マージンが排除され、競争原理が働き、安い商品が大量に江戸に流入すると考えていました。しかし、期待通りにはいきませんでした。株仲間を解散することにより流通が混乱してしまいました。
諸藩では、幕府に従って改革を行った藩や、その条件にならなかった藩もありました。在郷商人層の強い藩では、改革を行う状況にはなりませんでした。
このため、諸藩と天領の間で、対立関係が生じる状態にもなりました。幕府は、諸藩が藩の統制機関を経ずに他領に売り払うことを禁じたり、他領の産物まで買い集めて専売品として勝手に売り払うことを批判しました。株仲間が解散しても、物価騰貴した原因が諸藩の専売による買占めと大坂市場を経由しないための回送量の減少であるとしました。

天保の改革では、何度も物価引下げ令が出されました。1842(天保13)年、幕府は江戸の職人の手間賃・人足費などを公定にしました。また、借家や店借(たながり)の地代や店賃の引下げが命じられました。
しかし、その効果が上がらないため、取締りを強化し、買占めや値上がり待ちなどを禁止し、価格の店頭表示が奨励されました。その後、商人間では数字はほとんど符号を使っていましたが、商品一品ごとに正札を付けさせ、帳簿に仕入と売値を記入することを命じました。

銭相場が下落すると、物価にも影響があります。銭相場の下落を防ぎ、金銀銭三貨の交換率を一定にするため、同年、銭相場下落の取締令が出されました。幕府は銭相場が引き上げられ、物価も引き上げられるのを恐れ、諸色取締掛名主に命じて物価を報告させました。
在方でも、価格は協定してはいけない、加工品は実用品を多量に安値で、誰にでも売り出すように幕府は申し渡しています。また、幕府は諸藩にも元値の引下げを申し渡しています。
農村での手工業の発展は、農業労働力の不足を引き起こし、労賃を押し上げることになり、農村での余業を抑制する必要が生じました。余業が発達すると、農村での購買力が増し、物価上昇を招きます。都市での物価引下げを実行しょうとする幕府は、こういった事態に陥らないことが必要でした。
そのため、在郷商人の占売(しめうり)・競買(せりがい)、他国商人が生産地に入り込むことを禁止しました。しかし、在郷商人の統制と株仲間解散とは矛盾する政策でした。

 

江戸へは、関東・東北の荒廃した農村から多くの難民が流入しました。無宿や非人たちが市中を横行し、ゆすり・たかりをは働いて社会問題になっていました。
江戸町奉行は浮浪人狩りを行って、江戸から追い払いましたが、余り効果はありませんでした。佐渡金山の人足や荒廃地の労働力として就労させましたが、問題解決にはなりませんでした。
1842(天保13)年、北町奉行遠山景元の建策により、非人寄場が設立されました。また同年、幕府は北町奉行遠山景元、南町奉行鳥居耀蔵に人別改(にんべつあらため)の実施を命じました。
人別改は江戸への人口流入を制限し、諸国からの離村者を農村に戻し、更に離村がし難いことを知らせるものでした。江戸の他、大坂・兵庫・西宮など離村者の多い地域にも同じ法令が出されました。
幕府は更に無宿・野非人の旧里帰郷令を出しました。天領・大名領の別なく、寄場を設置し、無宿・野非人を収容するように奨励しました。

 

この時代、民間から農村問題に取り組む実務家が現れ始めました。二宮尊徳は、相模足柄上郡の貧農の長男として生まれ、没落した一家のため、必死に働きました。そして営農資金の貸付の利子を得ることで、家を再興させ、富豪となりました。
評判を聞いた小田原藩家老家の家政建て直しを依頼され、実力に応じた生活の限度を決めるという分度(ぶんど)の法則を立てて成功しました。
その手腕に、藩主大久保家は分家の知行地の建て直しを依頼しました。10年間でその地の収穫を3倍にしました。尊徳は豊富な農業知識と経験で、関東各地で農村の自力更生による農村の復興を行いました。
尊徳は、家業を守ることは分に従うことであり、他の職業を望むことは分限を超えることになるとしました。そして、農民生活に分度を設け、復興を依頼した領主にも分度を要求して、搾取を制限しました。
農民が自らの欲望を抑制し、積極的に農業経営を行うことを、尊徳は期待しました。尊徳は貯蓄を農民に勧めています。その目的は、経営資金だけでなく、農村共同体を再建することにありました。「善種金(ぜんしゅきん)」として資金を貸付ける制度を実施しました。
尊徳の分度の思想は、実直で勤勉で忍耐強い人間として自己改革できる人々には有効でも、貧農層や職を点々としている人々には解決にはなりません。農業の専業化によって荒廃から脱しようとしても、商品生産や流通の発達が図られている地域には、その指導も限界がありました。

大原幽学は各地を流浪し、検分した学問を実学として体験的に伝えようとしました。1838(天保9)年、下総香取郡長部(ながべ)村に名主の願いにより定住します。
幽学は、農業経営としては集約農業を勧め、集団作業により合理化を図り、年初に会合して作業手順を決め、各自には日記を持たせ、予定を書き、目的をはっきりさせ、毎夜家族が翌日の仕事の相談をして計画を遂行することをはかりました。
この年、幽学の指導で四村で先祖株組合を作りました。これは世界で最初の産業協同組合でした。各人が持地のうち、5両分を纏株(まとまりかぶ、祖先株)として除外しておき、年末にその収益を持ち寄って潰(つぶれ)百姓の復興に当てました。これにより農村復興を図ろうとしました。
3年後、長部村の農地の整理に着手しました。幽学は、村落共同体を更に拡大し、村ぐるみの参加を求め、分相応の参加で良いとしました。農作業の計画化、労働の分担と分配、什器の共同購入、共同位牌などの新生活運動を行いました。
村請制で支えられている農村で、農家や田畑の共同財産制を説く幽学の考え方は、領主の政治に関わる部分でした。このため、幕府から批判され、門人達への災いを考えたのか、1858(安政5)年、大原幽学は責任を取って自殺しました。

国学の本居宣長の死後、国学は分化して歌学は養子の本居大平(おおひら)、考証学は伴信友、復古神道は平田篤胤(あつたね)に受け継がれました。
篤胤は、死後霊魂は大国主神が支配する冥府に入るが、そこに入る基準は、社会的規範を守ったかどうかにあるとし、現実的神学を成立させました。
篤胤は、皇国は世界万国の祖国とし、日の神は天照大神であり、その本国が日本であるとしました。そのため、日本と諸外国の間に尊卑善悪の差があるとしました。神道は政治理念であり、祭政一致を唱えました。
儒学者太宰春台(だざいしゅんだい)が道を尭舜の道に置いたのに対し、篤胤は皇国の道は主人で、儒学は寄宿人としました。
篤胤には多くの門人がいて、農村にまでその根を下ろしました。宗教的側面から生活秩序に必要な倫理として組み立てられました。平田篤胤派の国学を通じてナショナリズムのイデオロギーは農村まで普及し、幕末の政治運動が起こってきました。

大蔵永常は豊後日田郡に生まれました。九州各地を巡り、見聞を広めました。永常は個々の農家の経営の向上に関心がありました。労働の省力化、商品作物の生産を説きました。そして浮いた時間を農民自身に使うことを勧めました。
各藩の国産品の増産には生産者の農民の民富を形成することが必要であるとしました。三河田原藩をはじめ、浜松・藤堂・水戸・盛岡・駿河田中藩が永常の指導を受けました。
本百姓体制の復興が可能と考えられた藩では、二宮尊徳・大原幽学の方が理解されやすく、国産奨励を行い、専売制を実施しょうとする藩では大蔵永常の方が理解されました。

 

1840年、イギリスと清国との間のアヘン戦争が起こりました。清国皇帝は林則除を総督として派遣し、広東でイギリス人がアヘンを密売しているのを禁じ、貯蔵するアヘンを差し出させ、アヘンを吸飲する者は罰するように命じました。このため、アヘンを蓄えていたイギリス人が困ったのが、この戦争の発端でした。
この戦争の結果は一方的でした。1842年の南京条約で、清は香港を割譲し、広東・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の5港を開港し、領事裁判権も承諾しました。続いてアメリカ・フランスも清と同様な条約を結びました。

日本を取り巻く国際環境は厳しくなっていました。軍事力によって外国勢力の侵略を防ぎ、一揆や打ちこわしなどの国内の問題が起こるのを防ぎ、ともに解決しょうとしました。
水野忠邦を中心とする政権は、内憂では鳥居耀蔵らに、外患では江川英竜らに、天保の改革での重要な役割を持たせました。対処する方策として、富国強兵策が取られました。そのためには、軍事力の近代化が必要でした。
新式の大砲や小銃を鋳造することと、武士に対して洋式の調練が必要で、そのための欧米の近代工業技術が必要でした。

長崎の町年寄高島秋帆(しゅうはん)は、長崎奉行にアヘン戦争の報に接して、意見書を提出しました。ナポレオン戦争の経験で、欧州の軍事事情は一変しました。これに対し、日本では旧態依然であり、新式の武器の用意と砲術修練が必要であるということが内容でした。
秋帆の意見書は江戸に届けられ、幕閣の間で論議されました。鳥居耀蔵は反対でしたが、水野忠邦は賛成している江川英竜の意見を取りました。そして、英竜は秋帆に弟子入りしています。
1841(天保12)年、高島秋帆は幕府に召抱えられ、江戸の西北の武州徳丸ヶ原で、秋帆による西洋銃陣の訓練がありました。
幕府要人や諸藩家中の者多数が見学しました。見学した鳥居耀蔵や幕府鉄砲方は、西洋砲術反対の意見書を出しました。しかし、幕府は高島秋帆の新式砲術を評価しました。
秋帆は英竜に高島流砲術を授け、帰途に就きました。その途中、韮山に立ち寄りました。英竜は秋帆から大砲鋳造の技術も学びました。

アヘン戦争後、イギリスが日本に艦隊を派遣して、開港を迫る計画があることを幕府はオランダ商館長より伝えられていました。
幕府は外国勢力の圧力が、体制内の矛盾と結びつくことを恐れ、1842(天保13)年、文政の異国船打払令の緩和を図り、異国船の最低限の要求を満たし、摩擦を回避するため、異国船薪水給与令を出しました。
軍事的に対抗しょうにも、日本の力だけでは太刀打ちできないことが判明しだし、対決だけを主張する攘夷論者に対し、国際政治の上で力の均衡を図ろうとする方向に幕閣達は傾いていきました。
外国からの政治的介入のきっかけを与えないために、幕府は各藩に協力を求めました。実情は列強の力には及びはつかないが、富国強兵策の成果が上がり、国力がつけば、再度鎖国体制に戻れば良いという考えが、幕府の中にはありました。

この年より、江戸湾の防備体制が強化されました。川越・忍(おし)藩に相模・房総の沿岸防備が命じられ、台場が新設されました。浦賀奉行の他、下田奉行を復活させ、羽田にも奉行所を設けました。
幕府は軍事力を強化するため、独占していた高島流砲術を諸藩に伝授してもよいと方針を変更しました。
このため、幕臣や藩士が秋帆や英竜の門に入門しました。
諸藩にも威力ある兵器を保有させ、ともに国防に当たろうというものでした。このため、英竜は諸藩から大砲鋳造の依頼を受けました。これにより、江戸に火砲の持ち込みが行われ、入り鉄砲禁止の政策は破棄されました。

 

天保の改革に近い政治理論を展開したのは、佐藤信淵(のぶひろ)でした。交易権を商人にゆだね、物価の上下を自在にさせているが、高物価で困窮している人々を救う途は、物価を上下する権を幕府が取り上げる必要がある、と信淵は主張しました。
信淵は、スペイン・ポルトガル・オランダを破ってイギリスが強大になっていることを知っていました。その上で、国際間では力が支配するので、自国の安全のために、国外の近接する地域に積極的に進出しておく必要があるとしました。
佐藤信淵は、渡辺崋山・高野長英とも交際して、蛮社の獄に連座しますが、罪を免れました。アヘン戦争の情報により、開国の必要性を見通し、その際には列強に侵略されないために、それに先んじる富国強兵が必要だとしました。
幕府の産業統制策の諮問に対する信淵の考えは、問屋制的独占機構を設け、全ての商品をこの機構を通すことにより、国家統制を加えるのでした。この点では自由な商品流通の下での流通機構ではありませんでした。

 

1843(天保14)年、上知令が発布されました。その発令は、江戸城の最寄地・新潟・大坂城の最寄地の順番でした。
これは、江戸・大坂の周辺地域の貢租の確保を目的にしたといわれています。大坂の場合、そこには豊かな土地が多く、裕福な町人が居住して、諸大名や旗本の所領が多かったため、そこを上知させて、他の土地を代知しょうとしたといわれています。
しかし、江戸の周辺はそれほど豊かな土地ではありませんでした。警備を固めるという面があったと思われます。
新潟の上知は長岡藩より新潟湊600石を上知させ、新潟奉行を置きました。日本海沿岸で抜荷や密貿易事件が起こっていたことと、湊から多額の運上が徴収できることがありました。事件は鎖国体制に支障になりますし、国土防衛上、幕府は新潟湊を直轄することが必要と考えました。
幕府は三地の上知の後、全国的に各藩の飛地を整理することを考えていました。この整理により、大坂・江戸、特に江戸市場の役割強化に役立つと考えていました。そして、この飛地解消には譜代藩が快く応ずると幕府は期待しました。
上知令は幕府の財政改革のためのみでなく、外国勢力に対する海防策という側面も考えられました。このように上知令は政治的・経済的・軍事的側面を果たすことが期待される政策でした。

江戸・大坂で上知令の対象になった領地を持つ大名・旗本は収入減となりますが、立場上反対はできませんでした。大坂周辺では、町人や農民から反対運動が起こりました。これは年貢の先納金や調達銀が納められていたため、それが踏み倒される恐れがありました。
民衆に突き上げられて、領主達も反対の姿勢を取りました。伊勢松坂に飛地があり、十組仲間や菱垣廻船と密接な関係にあった紀州藩は、株仲間を解散した水野忠邦に反感を持っていました。
発布された同じ年、上知令は将軍の名で撤回されました。封土の転換は行われず、幕府は弱体化していました。
上知令撤回で忠邦への不満が爆発しました。この頃、忠邦は風邪で休んでいました。月番の土井利休から老中罷免が申し渡されました。
水野忠邦退陣で中止になったのは、江戸・大坂最寄地の上知令だけでした。後継幕閣の首班になったのは土井利休でした。しかし、実務官僚の大部分は幕府内に留まっていました。天保の改革路線は継承されました。

天保・弘化期の幕府の財政収入は、年貢の増徴が難しくなり、貨幣の悪鋳による益金の比重が増え、旗本・農民への貸付金の返済の焦付き額が増えました。
貨幣改鋳中止の意見が出て、幕府は金銀貨の発行を停止しました。これによる収入減を補い、改革を進める財源として、1843(天保14)年、大阪を中心にした商人や富農から直接徴収する御用金令が出されました。
この御用金は、従来の買米政策のためでなく、切迫する国際情勢の中、軍事力を強化するためのものでした。幕府は軍事力の中心になる旗本御家人の困窮を見逃す訳にはいけませんでした。
借金で困っていたのは、旗本御家人だけではありませんでした。諸藩も一般民衆も高金利に困っていました。1842(天保13)年、幕府は金銀貸借の利息を引き下げる法令を出しました。

困窮する旗本御家人に対する公金貸付を1年に限って半高を破棄して、半高を無利息の年割で上納するなどの救済を行いましたが、1年限りでは解決できないほど幕府の公金貸付は旗本御家人の財政を圧迫していました。そのため貸付の基準を決めました。
旗本御家人の困窮は、彼らが頼りにする金融業者である札差(ふださし)の活力を失わせていました。支給された蔵米を引き当てて借金して暮らしていた旗本にとって、自由に借金できないことは不便でした。
1843(天保14)年、幕府は札差の旗本御家人への貸付金の半高破棄、半高を無利息年賦償還としました。これで半数の札差は閉店となりました。幕府は新規開業を促し、同業者間の資金の融通を勧めました。

天保の改革で、幕府財政を圧迫したものに下総の印旛沼の開削工事があります。佐藤信淵は、江戸湾が外国船により封鎖された場合、江戸への商品流通ルート確保のため、印旛沼開削工事は必要だと説きました。
その工事内容は、利根川の分水路と、印旛沼古堀の修復工事でした。1843(天保14)年、工事を開始し、5藩に工事手伝いを命じました。この工事の手伝いは大名の大きな負担となり、その後幕府直轄事業をなりました。この工事は幕府や大名は勿論、民衆にも大きな負担となり、翌年中止されました。

 

天保の改革前後、大藩の中で、藩政改革に成功し、幕末維新期の政局に主導的役割を果たした藩を雄藩といいます。その中で一大勢力が、薩摩・長州・土佐・肥前藩の薩長土肥です。これとは違うが親藩の水戸藩も登場します。これら諸藩のうち幾つかの藩政改革を見てみます。

文政期、肥前(佐賀)藩の財政は、ご多分に漏れず、借金まみれでした。佐賀藩の国内産業は米以外陶器ぐらいしか見るものはありませんでした。藩政改革は、1830(天保元)年、鍋島直正(閑叟、かんそう)が藩主に就いた時に始まります。そして、改革派が、主流派の上士の保守派を圧倒することから始まりました。
1837(天保8)年の大塩平八郎の乱や翌年の隣の唐津藩の大一揆で、佐賀藩では、中小層農民の困窮化が著しいため、危機の深刻さを認識しました。多くの貧農を本百姓に戻すことが必要でした。そのため、地主小作関係にある貧農救済に小作米である加地子(かじし)米を軽減したり、未納小作料の停止、利払いの中止、更には貸付銀の返済を無期限としました。
1852(嘉永5)年には、西松浦郡に分給令が出されました。30町以上の地主は6町まで、それ以下は1/4まで所持することを認める、村居住地主の商業は禁止する、都市商人地主が所有する小作地は没収する、という内容の均田(きんでん)制でした。この後、均田制は藩全体に適用されました。
このような本百姓体制強化策が成功したのは、佐賀藩に米以外陶器しか特産品がなく、比較的自給経済を維持しやすかったことがあります。
佐賀藩は支配強化と秩序維持のため、富国強兵を進めました。隔年毎の長崎警備の役目があり、島々を含む所領のため、異国船渡来対策という状況が、その政策を推進させました。

 

水戸藩の藩政改革を推進したのは、徳川斉昭(なりあき)でした。富の増大を図るよりも、富の一定量の確保を前提に、その分配面で土地相応に民を治めると考えました。この点から商人や村方地主層に土地を奪われるのを、如何に防ぐかが重要問題でした。
水戸藩では、1839(天保10)年より4年にわたって検地が行われ、地主豪農層の田地や隠田を摘発して増高し、貧農層は減高し、ある程度の本百姓の均質化を図りました。
改革派は、検地を年貢徴収より、負担の平均化を図り、民衆の生活安定を目指しました。後期水戸学は、「愛民」主義を掲げ、善政こそ民心を得るとしましたが、水戸藩は愛民主義で農民暴動に対処して、本百姓制の強化を図りました。
幕府から批判があり、徳川斉昭は致仕謹慎となりますが、1844(弘化元)年、検地を完了して、100石以上の知行の割替を行い、体制危機に対処しました。
土地問題の成功を背景に、外患に対応する軍事体制の強化に成功した水戸藩は、幕末の政局に尊攘派として活躍します。

 

長州藩は、商品経済の発展が著しい瀬戸内に面した雄藩です。紙・蝋・藍など専売制を採用しています。しかし、他藩と同様、化政期には借金に苦しんでいました。
そのため、長州藩は専売制を徹底させ、農民の商品生産や流通を抑制しょうとしました。これに対し、1831(天保2)年、農民は防長大一揆を起こしました。
このため、長州藩は村田清風を登用し、1837(天保8)年より改革を始め、1840(天保11)年には軌道に乗りました。この年清風は藩主に建策しています。
改革の方向として、綱紀の粛正、人材の登用、教育及び兵制の改革、文武刷新、産業の振興をあげています。財政面での具体策として注目されるのは、下関の倉庫や金融の業務を行う越荷方(こしにかた)の改革でした。
これ以前では藩内物産を扱っていたのに対し、藩外の貨物や資本を利用して、それから利潤を得ようとしました。他藩や他地域の物産を中心に、交易の利益で、藩政改革を成功させていきました。藩政改革は安政期になって成功しています。

 

1805(文化2)年、薩摩藩主島津斉宣(なりのぶ)は、藩財政が苦しく、藩政改革を決意し、翌年より実施しました。改革で主導的役割を担う勝手方と琉球方を樺山久言が担当しました。
これに対する一派は隠居の島津重豪(しげひで)を動かし、三女茂姫は将軍家斉の御台所であることから、幕府の意向ということで斉宣に圧力をかけたため、改革派は崩壊しました。

しかし、文政期には借金は膨張しました。そのため、薩摩藩は下級武士の調所(ずしょ)笑左衛門広郷を大番頭・大目付に登用し、財政改革に当たらせました。
1830(天保元)年、広郷は特産品である砂糖を藩で買占め、大坂・江戸で売却しました。更に奄美大島・徳之島・鬼界ヶ島の三島方を設け、宮之原源之丞を奄美大島に派遣し、砂糖の総買入を断行しました。
藩以外への売却を禁止し、それを破る者は死罪としました。貢租として収納する黒砂糖以外のものはすべて藩が買い入れ、島民の必要な日用品と交換するなどして多額の利益を上げました。また、大坂商人からの借財は踏み倒したのと同然で整理し、国許の借金は貸主を士分に取り立てることで決済して、調所笑左衛門広郷は藩財政を立て直しました。

薩摩藩は封建体制を強化して、藩が専売することで改革に成功しました。薩摩藩では農村に郷士がいて、農民を抑え、経済的・社会的に遅れていたことも封建支配強化に反抗することが少なかったものと思われます。1848(嘉永元)年、密貿易が幕府に探知され、広郷はその責任を取って自殺したといわれています。
薩摩藩が外国船との密貿易、即ち抜荷を財源としていることは周知のことでした。日本の西南端に薩摩藩が位置し、琉球国をその支配に含んでいることが、抜荷を可能にしました。琉球国は中国の冊封を受け、中国との進貢貿易は幕府から認められていました。
幕府は琉球貿易を抑制しょうとしたり、抜荷を取締ったりしました。しかし、薩摩藩の抜荷は止むことはありませんでした。遂には以前禁じた薩摩藩が輸入した唐物を琉球産物として長崎で売ることを公認せざるを得なくなりました。
これに対し、幕府は、中国向けの主輸出品の俵物(昆布・いりこ・干しあわび・ふかひれ)の買占めで、長崎貿易に支障がないように命じました。この処置にもかかわらず、俵物の不足から、長崎貿易は衰退していきました。1837(天保8)年、幕府は2年後を期して、長崎における琉球産物の売り捌きを禁止しました。しかし、その後も薩摩藩の抜荷は続きました。

 

1844(天保15)年、イギリスに続いて清国と通商条約を結んだアメリカは、清国との通商航海や太平洋における捕鯨船の活動上、日本に開港を求めてきました。清国と条約を結んだフランス軍艦が琉球に来航し、琉球開国を要求してきました。
この様な国際問題を対処するには、1842(天保13)年の異国船打払緩和令の方針を発展させる方向で国際関係を考慮して、幕府の改革政治を推進する人物として、将軍家慶は、水野忠邦の再登場を求めました。
水野忠邦が再登場するに当たり、前年の1843(天保14)年の上知令を撤回する際、反水野派に走った土井利位や鳥居耀蔵は失脚しました。

この年、長崎に到着したオランダ船は国王ウィリアム2世の国書をもたらし、イギリスが日本に迫ろうとしていて、鎖国を続ければ、清国の二の舞になることを警告し、開国の必要性を忠告しました。
この忠告を受け、受け容れるかの評議は中々決まりませんでした。水野忠邦は老中再任半年余りの1845(弘化2)年、辞職しました。跡を継いだ阿部政弘を中心とする幕閣は、路線変更しないで批判をかわすため、水野忠邦には減封・蟄居、鳥居耀蔵は禁固、そして金改方の後藤光亨(みつのり)を処刑しました。

この年、オランダ国王への返書で、対外方針は鎖国策を堅持するとし、開国の勧告を退けました。
1846(弘化3)年、イギリス船が那覇に入港し、イギリス医師ヘッテルハイムが家族とともに上陸し、キリスト教布教のための琉球滞在を求めました。続いて司令官セシューユが率いたフランス艦隊が琉球に来航し、通商を求めました。
幕府が鎖国堅持を言っても、国際情勢はそれを許さない状況でした。薩摩藩は現状のままでは鎖国を堅持しがたいと判断し、琉球を国家秩序の外に出して、琉球国に限られた貿易を行い、開港の影響をそこだけに留めようと、幕府に具申しました。幕府は琉球国の特殊な地位を考慮して、これを容認しました。薩摩藩は貿易は認めましたが、布教は拒否するように琉球に伝えました。
幕府の琉球国開港の方針は薩摩藩への密命でしたが、その情報は全国に広がりました。水戸藩の徳川斉昭は、鎖国体制は当然であるのに、これを堅持できない幕府の態度に業を煮やし、しだいに徳川幕府を絶対視する心境が薄らいでいきました。
この年頃から、後期水戸学は尊王佐幕論から尊王討幕論へ変化していきました。外交問題は幕府の任務を超えるものであるという認識が出てきました。これに対し、幕府は公議制を採用し、天皇や諸侯と協議し、その結果を幕府が尊重する姿勢を示しました。

1846(弘化3)年即位した孝明天皇は、海岸防御を堅固にし、侵入を受けることがないように努力するように幕府に沙汰書を下しました。これに対し、琉球・浦賀・長崎に来航した外国船の事情を奏聞しました。これ以降外交問題に朝廷との連絡が必要となっていきました。
朝廷の外交の基本方針は攘夷論でした。阿部政弘達は攘夷論を取りつつ、現実的には止むを得ず開国への途を進みました。政弘は徳川斉昭を幕政に参加させ、島津斉彬(なりあきら)・徳川慶永(よしなが)などの改革を推進する諸大名を結集しょうとしました。

 

低物価政策として実施されたはずの株仲間解散令が、幕府が期待する効果を上げませんでした。そこで、1851(嘉永4)年、問屋再興令を出しました。冥加金などの上納は命じないので、物価を下げて営業をするように求めました。
各種の営業に対し、原則として問屋・組合・仲間に参加できるとし、定数はないとしました。そして、新規の加入金や一切の費用を取ることを禁止しました。都市のほか農村に到るまで、営業の組織化を図りました。
しかし、再興令が出されますと、商品流通を巡って新しい対立が発生しました。この政策は、農村に成立した社会的分業の成果を、都市の商工業の利害として取り込もうとしたものでした。
諸藩においては、株仲間解散令も再興令も、領内市場の統制を強化していくものとして作用しました。他国産品の禁止や他国人の販売禁止の統制は効果を上げました。天保の改革は、幕府が狙った統制を強化することよりも、弱体化の途を進みました。そして、幕府に対する諸藩の自立性は一層強化されました。

 

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江戸時代3

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