江戸時代3

北九州の歴史

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6.天保の改革

江戸時代3
7.小倉・福岡藩の改革
 

洞海湾周辺の開発を、福岡藩はこの時代も継続しました。1762(宝暦12)年城石(八幡西区)、貞元(八幡西区)の新田が開かれ、1764年からの明和期には、修多羅(若松区)に塩浜が開かれました。1786(天明6)年、林清次郎によって汐井崎(戸畑区)の海岸に新田が開かれました。

遠賀川の水害は、福岡藩にとって大きな問題でした。1623(元和9)年以来中断されていた堀川開削の工事が、1751(宝暦元)年再開されました。車返し(くるまがえし、現在水巻町)の切り抜きの難工事を突破して、1762(宝暦12)年堀川は完成しました。

堀川の完成により、遠賀川の水害は緩和され、流域には灌漑用水が供給されました。それと同時に、年貢や荷物輸送の舟運が便利になりました。

堀川は中間村(中間市)からでしたが、取水のため遠賀川に井堰を築いたため、遠賀川の流水が滞り、上流の村々が洪水の被害を受けたため、1804(文化元)年、上流の楠橋村寿命(じめ、八幡西区)に延長して唐戸(水門)を設ける工事を始め、1809(文化6)年完成しました。

筑前六宿から黒崎に集まっていた荷物は川舟(川ひらた、五平太船とも呼ぶ)で若松に、また芦屋から積み出していた荷物も若松に集められました。黒崎湊の荷物取扱量は減少していきました。しかし、宿場である黒崎は、往来が増え、繁盛していきました。

寿命唐戸

 

1777(安永6)年、小倉藩では、犬甘(いぬかい)兵庫知寛(ともひろ)が家老に就任し、翌年勝手方に就きました。この頃、農民の負担が増え、藩士の掛米が続いていました。
犬甘は家格・禄高に関係なく、1人1日米5合の面扶持制を実施しました。掛米は一部返済し、、中流以上の面扶持反対の不満を和らげました。
酒・醤油醸造販売、呉服・質・米穀・薪炭商人、宿や船から運上金を徴収しました。

年貢米の増収を図って、犬甘は新田開発を計画しました。日明新地、紫川西岸新地や紫川の中島新地が1781年からの天明期に完成しました。
犬甘は曽根浜の干拓を大里村庄屋石原宗祐に命じました。これまで石原は、大里村や猿喰(さるはみ)村で干拓による新田開発を行っていました。8年の歳月を要して曽根新田は開発されました。この費用の半分を石原は負担しました。

曽根新田綿都美神社境内の犬甘兵庫之塔

年貢は村高に賦課されました。本百姓が減少すると、残りの者の負担が重くなりました。開作への出夫が増え、農民の生活は苦しくなり、村から逃げ出す者が出て、村の人口が減って疲弊していきました。
1794(完成6)年、御建替仕法を発しました。奉公人を呼び戻し、出夫などは本百姓の高割りを軒割りにして、百姓以外商人・職人などを含む、村に居住する全戸に対象を広げました。
本百姓の保護を図り、小作人の増作を奨励し、商人・職人など村に居住する者にも、耕作を義務付けました。そして、倹約令を何度も出し、櫨(はぜ)の栽培など殖産興業を進めました。
1793(寛政5)年からは掛米は止めることができました。犬甘兵庫は、藩の財政再建に成功しましたが、農民からの年貢増徴と、上級武士との間の妥協によるもので、藩が商品作物を専売制で握る段階までには到りませんでした。
この時代、農村人口は減少し、農民の不満は充満し、1803(享和3)年、小倉城下に2千人の農民が集まり、騒擾寸前でした。藩の守旧派は犬甘を糾弾しました。このため、犬甘は頂吉(かぐめよし、小倉南区)の石牢に幽閉され、ここで死去しました。

 

化政期には、大名・旗本は猟官運動を盛んに行いました。小倉藩もその例に漏れませんでした。朝鮮通信使来朝の折、藩主小笠原忠固(ただかた)は正使として、対馬で応対しました。
この功により、家老小笠原出雲は出府して、忠固の猟官運動を行い、多額の資金を費消しました。これにより再び藩財政は窮乏し、再び掛米が始まりました。
藩士の不満は高くなり、犬甘兵庫より取り立てられていた広寿山儒者上原与一は小笠原出雲に反対するように、他の家老を説得しました。長崎奉行に投書したり、小笠原出雲に近い者を暗殺したりしました。そして遂には、小笠原出雲を暗殺しょうとしましたが、露見し、これに組していた者達は解職されました。
1814(文化元)年、上原や家老4人を含む約360人が筑前黒崎に脱出しました。驚いた小倉藩は帰国を説得し、脱国者は復職と小笠原出雲の解職を要求しました。要求は容れられ、脱国者は小倉に帰りました。黒崎に脱国した者を黒組、小倉に残った者を白組といい、この事件を白黒騒動(文化の変)といいます。
幕府がこれを知ったため、翌年、脱国者は解職・逼塞を命じられ、1820(文政3)年、上原ら9名が処刑されました。

 

上原与一らが処刑された1820(文政3)年、杉生(すぎお)貞則は家老に次ぐ重職の郡代に就きました。この年、山国川を挟んだ小倉領小祝浦の漁民と中津藩の領民の争いが起きました。
宇島に築港し、小祝の住民を移住させることを杉生は建議しました。翌年より工事を始め、4年後に完成しました。
曽根新田開発で傾いた石原家を救援するため、企救郡の油座に指定しました。京都郡に菜種子座を設け、玉江彦右衛門を指定しました。
京都郡行事(現在行橋市)の玉江家は、当初飴商を始めたので、屋号を飴屋と称しました。1725(享保10)年に綿実(わたざね、これを絞り油を採る)を買い集めました。その後、葛・蝋・卵・米などを集荷して上方に運び、雑貨・日用品を積んで帰りました。質屋・酒造業・船問屋・醤油醸造業を商いました。農民に金を貸し、質物として田畑を取り、土地を集積しました。
杉生は運上銀を新設したり、企救郡新導寺村で金山を試掘したり、田川郡香春で銅山を開発しました。藩が農村の商品作物を握るために、1827(文政10)年、田川郡赤池村に国産会所を設け、集荷しました。
1828(文政11)年、杉生は郡代を退きました。この年は不作で、小倉城下に嘆願に来る村々が多くありました。しかし、財政が逼迫した藩は、御用銀を領内村々に割当てました。

 

倹約令は農民の生活を切り詰めさせ、無駄を省き、年貢を確保・増徴しょうとするものでした。1791(寛永3)年の小倉藩の触書では、大庄屋や庄屋以下と身分に応じて、衣類を定め、帯や襟・袖口などでも絹の使用を禁じ、農民は木綿地だけとしました。
女の髪飾りは金・銀・鼈甲は禁止、櫛も木櫛だけで、履物は草履で、雨が降っても蓑が普通でした。
この時代、被差別部落が形成されていきました。それは貧しい生活を農民に強制する反面、その下に身分を作ることにより、耐えさせようとする意図があったため、一見して被差別部落民と分かるようにしました。
着る物は青染めの粗末な物に限定し、髪の元結も藁か引き裂き紙に規制されました。人別帳も別帳にされ、一般農民との自由な交際はありませんでした。

 

1830年からの天保期に入ると、全国的に天災が続き、飢饉となりました。小倉藩でも救援米を放出し、年貢減免をせざるを得ませんでした。藩では郷村帳の村高吟味を始め、水帳の改正を行いました。農民は年貢の増徴を恐れました。
小笠原忠固の猟官が実り、帝鑑間詰から溜間詰になり、献金5千両が豪農・豪商から徴収されました。このような献金は藩財政を支えました。
1836(天保7)年、小倉藩は幕府より信濃・美濃の堀川工事を命じられ、行事村飴屋、宇島の万屋、残りは村々に費用を割当てました。
翌年、小倉城の天守閣初め建物が焼失しました。村々からは人足を、豪商からの献金や秋収穫米の担保や銀札発行で費用を調達しました。1840(天保11)年、小倉城は再建されました。
しかし、天守閣は再建されませんでした。他にも天保期には献金が求められました。

仲津郡では、耕地を開作して錦原(後の豊津)の新地を作り、周防灘沿岸の企救郡沼新開の工事を行いました。田川郡赤池町に石炭会所を作り、石炭の採掘、販売を統制下に置くなど殖産興業を図りました。
しかし、天災や飢饉の発生、年貢や御用金の増徴で、農民の生活は窮乏していました。逃散があり、騒動が起き、騒然とした状態でした。大坂では大塩平八郎の乱がありました。長州や薩摩などの雄藩では改革が成功していました。

 

福岡藩でも、財政は困窮していました。そのため、国産を奨励しました。藩は櫨(はぜ)の生産を奨励しました。街道・土手などにも植えられました。櫨の実は板場と呼ばれる業者によって絞られ、生蝋にされました。生蝋は蝋燭や鬢(びん)付の原料でした。
1796(寛政8)年、福岡藩は生蝋の専売制を実施しました。博多・植木・甘木・黒崎・芦屋などに生蝋会所を設置し、会所に生蝋を集め、大坂に送って売り捌きました。

遠賀川領域の嘉穂・鞍手・田川郡では古くから薪の代用として、石炭が使われていました。石炭はそのままでは臭気が強いため、粗製コークスであるガラが1730年代には福岡の城下町でも燃料として使われました。
若松の庄屋和田左兵衛により塩焼釜のロストルが開発され、塩田の製塩燃料としての需要が増えました。このため福岡城下では石炭が不足する事態となり、1788(天明8)年、石炭を統制下に置きました。
堀川が完成すると、石炭の輸送は一層便利になりました。1815(文化12)年、芦屋・山鹿・若松に焚石(たきいし)会所を設け、全ての石炭を会所に納めさせ、会所から問屋に渡しました。会所では買取と販売価格を決め、その差額は藩の財政に入れました。抜荷がないように遠賀川を下る川ひらた(五平太船)には庄屋から証明書が発行されました。
1837(天保8)年、制度を強化した新たな焚石会所を芦屋・若松に設け、採掘を厳重な許可制にし、山元では役人が監督に当たり、全量を会所に納めさせました。

小倉藩では主に田川郡で石炭が掘られました。石炭需要が増えるにつれ、やはり採掘を許可制としました。小倉藩の石炭を遠賀川の福岡領を経て、福岡領の芦屋・若松で積み出さねばなりませんでした。
1839(天保10)年、小倉藩は福岡藩の大庄屋香月氏を石炭掘方御用掛に任命し、藩内の石炭採掘、販売の管理者としました。
小倉領田川郡で採掘した石炭は国境で福岡領の大庄屋に渡され、福岡領の川ひらたに積み替えられ、若松焚石会所に送られました。そして、小倉藩の委託を受けた若松焚石会所が販売しました。
1844(天保15)年、小倉藩は田川郡赤池村の石炭会所を設け、郡代が炭鉱を直接管理することになりますが、1847(弘化4)年には郡奉行に管轄を移し、炭鉱の直営は止めることになりました。

 

小倉藩は京都から儒学者石川正恒(麟州)を招きました。1758(宝暦8)年、麟州は自宅に「思永斎」を開き、儒学を講じました。1788(天明8)年、藩主小笠原忠総(ただふさ)は、小倉城三の丸に藩校「思永館」を創設しました。初代学頭に麟州の子の彦岳(げんがく)が就きました。
思永館は武術教場・兵学教場と文学教場からなっていました。彦岳の弟子矢島伊浜が学頭になると、学則が定められ、整備発展していきました。
 

思永館の儒学とともに、小倉藩では国学も発展しました。小倉藩士秋山光彪(こうひょう)は、賀茂真淵の弟子村田春海に学び、国学・歌道に通じていました。光彪は足立山麓妙見宮境内に、村田春海を祭る歌塚「織錦翁之碑」を建立し、毎年弟子とともに碑前で歌会を催しました。
光彪の門下から西田直養(なおかい)・佐久間種(たね)・丹羽氏曄(うじてる)・長田美年(よしとし)らが出ました。西田直養や佐久間種のもとには多くの門下生が集まりました。 

妙見宮境内の織錦翁之碑

京都郡上稗田(ひえだ)村(行橋市)の村上仏山の「水哉(すいさい)園」や上毛郡薬師寺村(豊前市)の恒遠醒窓(つねとうせいそう)の「蔵春(ぞうしゅん)園」などの藩内の私塾にも多くの門人が集まりました。

 

福岡藩では、1784(天明4)年、修猷館と甘棠(かんとう)館の二つの藩校が設立されました。修猷館には貝原益軒の学統をひく武田定良が、甘棠館には徂徠学派の亀井南冥が教授に任命されました。
二校の設立は、両者を競争させることにより学問の発展が図られましたが、結果として、両者は反目することになり、1792(寛政4)年に南冥は罷免され、その後建物が焼失したため、甘棠館は廃校となりました。
修猷館は武田定良の子孫や門弟が代々維持経営に当たり、朱子学を中心にした講義が行われました。朱子学の他に、国学の典籍や文献、藩内地誌、黒田家系譜などが教授されました。
侍分の子弟は11歳に達すると入学が義務付けられました。医師や神官の子弟も入学が許可されました。1798(寛政10)年には武道場が設けられ、学問と同時に武芸も奨励されました。

福岡藩の国学者は、青柳種信(たねのぶ)と伊藤常足(つねたり)が有名です。青柳種信は伊勢松阪の本居宣長に入門しました。戻ってからは、「筑前続風土記附録」の記録者助手になり、この完成のための再吟味方を命じられ、藩内各郡に出張して調査しました。
伊藤常足は鞍手郡古門神社(鞍手町)の神官の家に生まれ、亀井南冥に儒学を学び、青柳種信に国学を学びました。1805(文化2)年、九州管内の地誌の「太宰管内志(だざいかんだいし)」の編纂を始め、1841(天保12)年に完成しています。他に日本書紀の講義や歌会を催しています。

古門神社側の伊藤常足旧宅

 

化政期から天保期には多くの人々が旅をしました。間宮林蔵や伊能忠敬の探検や調査の他に私的な楽しみまで、旅の記録や文学が流行してきました。
底井野村(中間市)と芦屋の50歳を超えた2人を中心にした女性の、144日間の善光寺・日光までの旅日記が残されています。
底井野村小松屋の小田宅子(いえこ)と芦屋米伝(こめでん)の桑原久子は、2人とも両替・質屋の商家を、女主人として経営していました。そして、2人は鞍手郡古門村(鞍手町)の儒学・国学者であり、教育者であった伊藤常足から和歌の指導を受けていました。
歌仲間の2人と2人の女友達に従者3人の計7人で、1841(天保12)年正月に出発します。当初は一般的だった伊勢参りが目的でしたが、善光寺や日光へも足を伸ばしました。伊勢から先は通行手形を持たないため、番所や関所をまともに通ることができず、その裏を抜ける苦労をします。そして、江戸・京都・大坂を見物して、6月に戻ってきました。久子は3年後「二荒詣(ふたらもうで)」を、宅子は10年後に「東路(あずまじ)日記」を書きました。いずれにもこの旅の和歌が数多く収められています。その内容は、古典文学に造詣が深く、その明るさとユーモアには、彼女達のバイタリティを感じます。ちなみに、小田宅子は俳優高倉健の父方の先祖に当たります。
福岡女学院短期大学前田淑名誉教授は、彼女らの日記を研究されました。そして、彼女らの日記と種々の資料を駆使して、小説家田辺聖子は「姥ざかり花の旅笠-小田宅子の『東路日記』」を著しました。

 

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