江戸時代4

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2.安政の大獄

江戸時代4
1.通商条約
 

1853(嘉永6)年6月3日、江戸湾をアメリカ東インド艦隊の蒸気艦サスクェハナ号とミシシッピ号が帆船プリンス=サラトガ号を従えて、浦賀に向かって来ました。浦賀警備の川越・忍(おし)・会津・彦根藩が掛川・小田原の軍勢も加えて艦隊を取り巻きました。
浦賀奉行与力は、長崎に回航するように要求しました。しかし、司令官ペリー提督は、将軍に宛てたアメリカ大統領フィルモアの親書を当地で受理するように要求しました。
訓令を待つので猶予を求めたため、ペリーは測量艦隊を江戸近くまで航行させました。このデモストレーションの効果は高く、国書は受理するが、返書は長崎で伝達するとの使いを幕府は出しました。
久里浜(横須賀市)で国書受理式が行われ、陸戦隊・水兵・軍楽隊が上陸しました。ペリーは来春返書を受け取りに来ると宣言しました。
会見が終わると、艦隊を品川・川崎付近に航行させました。江戸市中は混乱し、流言蜚語が飛び、避難者で往来はあふれました。
大統領親書は、両国の親睦と交易、アメリカ商船・捕鯨船の石炭・薪水・食糧補給のため一港の開港、難破船の生命・財産保護を求めました。

1848年、アメリカはメキシコとの戦争でカリフォルニア州を獲得しましたが、金鉱が発見され、ゴールドラッシュに沸いていました。1852年にはパナマ地峡横断鉄道が開通し、そこからサンフランシスコへの航路が開かれました。
1844年、アメリカも米清修好条約によって中国貿易に参加し、中国向け綿製品輸出で、イギリスと競争していました。パナマ地峡鉄道を利用すれば、中国貿易でイギリスに勝利できます。太平洋横断航路の開設要求は大きな関心を持たれていました。
当時の汽船のエンジンは低圧の単気筒式で、多量の石炭を消費しました。そのため、重量のある石炭ばかりを積むわけにいかず、蒸気艦でさえ三本マストの両側外輪船でした。このため、太平洋上の安定した石炭補給寄港地が必要でした。
アメリカ捕鯨業はオホーツク海・北氷洋にまで進出し、全盛時代でした。綿工業が機械化され、機械の24時間フル操業が始まっていました。工場の夜間照明に灯油の需要が増し、質の良い鯨油の需要が増えていました。石油は1859年にペンシルバニアで世界第1号の油井が掘り当てられるのが始まりで、電灯はこれから20年も後、エジソンの発明を待たねばなりません。

ペリーは浦賀に来る前、4月30日、琉球王国の拒否にもかかわらず、陸戦隊・軍楽隊を率いて那覇に上陸し、首里の王宮訪問を強行しました。
一部艦隊を残して、小笠原諸島の父島に向かいました。日本人が小笠原諸島の発見者でしたが、当時父島に入植している欧米人やハワイ原住民から土地を買収して、アメリカ海軍貯炭用地としました。
琉球に戻ったペリーは、貯炭所をつくる権利や艦船に必要な物資を提供することを認めさせました。那覇にサプライ号を残して浦賀に向かいました。

 

1853(嘉永6)年7月18日、長崎に司令長官プチャーチン中将率いるロシア艦隊が入って来ました。日露両国の国境画定と通商を求めた、首相兼外相ネッセルローデの老中宛の書簡を受け取るように、長崎奉行と交渉しました。
長崎から江戸への報告そしてそれに対する訓令を受けて、8月19日国書受領式が行われました。また大目付格西の丸留守居筒井政憲・勘定奉行川路聖謨(としあきら)らをロシア応接掛に任命して、長崎での対露交渉に踏み切りました。
ロシアの探検船は、シベリアの開発とともに、18世紀半ばには樺太・千島を経て蝦夷地や日本近海に出没していました。
英中貿易の発展により、内陸部のキャフタでのロシアと中国との貿易が衰退し、1850年にはアムール川(黒竜江)河口にニコライエフスク港を建設し、海上での中国と日本との通商の要求が高まっていました。
日露交渉において、筒井・川路らは、国境画定や通商について即答は避けましたが、日本と他国が交易する際は、ロシアとも同一条件で行うと確約しました。

プチャーチンが去って3ヶ月も経過しない1854(安政元)年1月16日ペリーが江戸湾に再来しました。ボウハタン号を旗艦に、蒸気艦サスクェハナ・ミシシッピ号の3隻、帆船マセドニアン・パンダリア・サザンプトン・レキシントンの4隻でした。
交渉地は横浜になり、2月10日第1回交渉があり、艦隊から礼砲・祝砲が撃たれました。この威圧は大きいものがありました。2月6日にはサラトガが合流し、更に17日にもサプライ号も加わって9隻になりました。
日本側からは町奉行・浦賀奉行・目付それに大学頭の4人が交渉に当たり、2月30日まで4回行われました。祖法により交易はできないが、石炭・薪水・食糧の供給や難破船と乗組員の救助は承認する、5年間の準備期間中は長崎寄港を認めるとしました。
ペリーは補給寄港地として浦賀・松前・那覇を要求しました。那覇は日本の統制外とし、浦賀の代わりに下田を提案し、箱館の開港を承認しました。3月3日日米和親(神奈川)条約が締結されました。

この前年の7月3日、島津斉彬(なりあきら)や越前福井藩主松平慶永(よしなが、春嶽)に推薦され、老中阿部正弘に懇願されて徳川斉昭(なりあき)は幕府の海防事務参与に就任していました。しかし、この条約締結に反対して辞職しました。
この条約でアメリカ船に石炭・薪水・食糧及び必要品を供給するため、下田・箱館が開港されました。外交官の下田駐在を認め、アメリカに最恵国待遇を与えました。条約調印後、ペリーは下田・箱館を視察し、5月25日に下田で実務的な日米和親条約付録(下田条約)を締結しました。
この年3月、吉田松陰の密航未遂事件がありました。下田でペリーの艦隊に乗って密航し、国防のための異国の事情を探索しょうとするものでした。松陰は幕府から長州藩に引き渡され、翌年まで萩の野山獄につながれました。

この年、英・仏はロシアに宣戦布告し、ロシア・トルコの戦火はクルミア戦争(1853〜56)に拡大しました。極東でもイギリス艦隊がロシア艦隊を追跡しました。
ロシア艦隊が去った後、イギリス中国方面艦隊司令長官スターリング少将が旗艦ウィンチェスター号他3隻を従えて、長崎に入港しました。8月23日、日英和親条約が調印され、長崎・箱館の開港、最恵国待遇、寄港者の犯罪の指揮官処罰などが取り決められました。

スターリングが帰航した20日後の9月18日、プチャーチンがディアナ号で大坂湾に再来しました。御所に近い大坂湾だったため、幕府は下田での交渉を約束しました。11月3日会談は始まりましたが、その翌朝、東南海地震とそれによる大津波が一行を襲い、難破しました。
ディアナ号は伊豆西岸の戸田(へだ)村に回航されましたが、その直前に沈没し、ここで100トンのスクーナー型帆船戸田号が日本人船大工の協力で建造されました。
プチャーチンは災難にもめげず、条約交渉を行い、12月21日日露和親条約が調印されました。その内容は、箱館・下田・長崎の開港、最恵国待遇、双務的な日露両国民の領事裁判権の規定、国境は千島の択捉とウルップ島の間に定め、樺太は次の協定まで両国民雑居のままとしました。
翌年1855(安政2)年春、ロシア使節や兵達は戸田号やチャーターしたアメリカ商船に分乗してアムール川河口に帰還しました。しかし、チャーター船1隻がイギリス軍艦に捕獲され、200余人が捕虜となりました。

ペリーにより開国を強制されて、200年来付合いがあるオランダへの依存を深めていました。軍艦・鉄砲・兵書の購入や伝習をオランダに依頼しました。1855(安政2)年12月23日日蘭和親条約が締結されました。

 

この頃、イギリスは「世界の工場」として圧倒的な工業生産力を土台にして、世界の貿易・金融・海運に君臨していました。そして植民地の領有を積極的に行っていました。ヨーロッパでは列国の勢力均衡の相互牽制を図り、ロシアの南下を抑えていました。アジアではインドを植民地化し、中国を従属化し、日本に開国を迫っていました。
クリミア戦争の勝利の後、インドに大量の軍隊を投入しました。1857(安政4)年5月、イギリスに雇用されていたインド土民兵(セポイ)が反乱を起こすと、全土で民族独立を求めて蜂起しました。以来100年間、イギリスは各地を制圧し、インド全土を直接・間接に統治しました。
1840(天保11)年、イギリスが清朝と戦端を開いたアヘン戦争では、広東・上海が陥落し、1842年の南京条約で終結しました。この結果、イギリスは中国から香港を割譲させ、多額の賠償金を受け取りました。更に、従来の広東に加え、アモイ・福州・寧波・上海を開港させ、最恵国待遇、治外法権、居留地無償提供を認めさせました。
この結果、1843年窮乏を深めていた広東省花県で上帝会という宗教結社がつくられました。その中心は移住民で差別されていた客家(ハッカ)と呼ばれていた農民達の子である洪秀全でした。
天地万物は唯一の神である上帝(エホバ)の創造によるもので、彼は、自分こそ上帝の遺した救世主であると主張しました。平和で平等な共同体を作るという教えは、各地の貧農達の心を捉えました。1851(嘉永4)年1月、新天地を太平天国と称して、革命の旗を掲げました。
租税・小作料減免を求める農民や秘密結社の蜂起とも呼応して、太平天国軍はたちまち華中・華南を席巻しました。1853(嘉永6)年3月、太平天国軍は南京を占領し、南京を首都天京(てんけい)をしました。

1856(安政3)年10月、広東に停泊中のイギリス船籍帆船アロー号を、中国官憲は中国船とみなして臨検し、中国人乗組員を海賊容疑で逮捕しました。広東駐在イギリス領事パークスは、乗組員の引渡しと謝罪を要求しました。
中国側は引渡しには応じましたが、謝罪を拒否しました。イギリス側は交渉を打ち切り、直ちに攻撃命令を出しました。アロー戦争が勃発しました。イギリスは急遽兵を出しました。
フランスは広西省で宣教師が虐殺されました。イギリスは全権大使にエルギン伯爵を任命し、フランスはグロー男爵を全権大使に任命して、イギリスと共同行動を取りました。
1857(安政4)年暮れ、両国軍は広東を占領しました。ロシア・アメリカの使節も便乗しました。4国代表は条約の改正を要求しました。更に、英仏軍は華北の白河(パイホウ)に進軍し、河口の大沽(タークー)砲台を占領しました。
1858(安政5)年6月、4国は中国と天津条約を締結しました。中国は更に10港近くを開港し、揚子江の通商航行権を与え、公使の北京駐在を受け容れ、外国人の内地旅行権も承認しました。
更に、各国公使の北京入りと、批准書交換を巡って、再び戦火は大沽砲台から北京に広がり、1860(万延元)年、北京条約が結ばれました。イギリスは九竜を割譲させ、ロシアはウスリー江右岸を得ました。
英仏軍は太平天国軍を攻撃し、1864(万治元)年までに壊滅しました。ロシアは1861年以降、農奴解放を中心とする改革を行っていました。アメリカは1861〜65年二南北戦争がありました。

 

鎖国下の幕府は、徳川家安泰が最大目的で、そのため諸大名や民衆を統制する体制をつくっていました。対外的に日本を代表するという理念を持っていませんでした。
ペリー来航は天下の一大事でした。そのため、幕府はアメリカ国書の訳文を添えて、朝廷に奏聞し、広く諸大名・旗本に諮問しました。
多くの大名達には定見や主張はありませんでした。しかし、少数の雄藩からは軍艦・大砲を用意し、防備の体制を固めるようにとの答申がありました。彼らは、越前福井藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・肥前佐賀藩主鍋島直正(なおまさ、閑叟かんそう)・長州藩主毛利敬親(たかちか、慶親よしちか)・尾張藩主徳川慶勝(よしかつ、慶恕よしくみ)・土佐藩主山内豊信(とよしげ、容堂)・伊予宇和島藩主伊達宗城(むねなり)達でした。
彼らは攘夷の決意で、外には国体を守り、うちには幕府の威信を強めることが必要としました。しかし、幕臣で小禄の勝海舟は積極的な開国論を述べ、莫大な軍備・海防の費用を交易の利益によってどこの国も賄っていると主張しました。
老中阿部正弘は水戸藩主徳川斉昭を幕府の海防事務参与に任じました。阿部はこれで幕府と雄藩の協調を、斉昭を推薦した雄藩は幕府に対する発言力を強めようとしました。

参与になると、斉昭は旧来のブレーンであった戸田銀次郎を執政、藤田東湖を側用人に再登用しました。そして斉昭は攘夷を幕府に迫りました。この言動は少壮武士の攘夷熱を刺激しましたが、具体策があるわけでなく、その主張に正弘は辟易しました。
斉昭は、海防のため梵鐘を大砲に改鋳することを寺院に求める宣下を要請するように迫りました。寺院の反対を恐れていた正弘は朝廷の権威を利用することに同意しました。1854(安政元)年、その旨の太政官符が下されました。しかし、朝廷の伝統的権威の利用は、幕府権力を揺るがす端緒になりかねませんでした。

内外情勢の急変に対応するため、幕府の改革が必要でした。そのため、阿部正弘は思い切った人材の登用を行いました。川路聖謨(としあきら)を勘定奉行、永井尚志(なおむね)・岩瀬忠震(ただなり)・大久保忠寛(ただひろ、一翁)らを目付に抜擢し、筒井政憲を大目付、水野忠徳を勘定奉行兼長崎奉行、井上清直(きよなお)を下田奉行に登用しました。
川路・井上は豊後日田の奉行所役人でしたし、永井・岩瀬は部屋住み、大久保は小納戸役の小禄の出身でした。
海防・軍事面では、江川太郎左衛門英竜を勘定吟味役格にして、韮山反射炉及び品川砲台の築造を任せました。長崎の町家出身で、江川英竜に近代砲術を教えた高島秋帆は、その当時獄中にありましたが、放免の上、韮山代官手付にして江川英竜に協力させました。
勝海舟は蘭書翻訳に当たる要員として下田取締掛手付となり、長崎海軍伝習所伝習生として派遣されました。漁師で漂流の末アメリカで教育を受けて帰国した、ジョン万次郎も江川の推挙で韮山代官手付になりました。

1853(嘉永6)年9月、徳川斉昭の意見を容れて、大船建造を解禁し、長崎に海軍伝習所を設置しました。1855(安政2)年、オランダ海軍士官以下22人を雇い入れ、オランダから寄贈されたスンビン号(観光丸)を伝習に使いました。
伝習生には幕府から勝海舟らが派遣され、その中には戸田号を造った船大工棟梁上田寅吉(後、横須賀造船所初代所長)らが含まれています。他に、佐賀・福岡・薩摩・長州藩から派遣されました。薩摩藩五代友厚・佐賀藩佐野常民などが含まれています。翌年には海軍奉行となる榎本武揚(たけあき)が派遣されました。
1857(安政4)年、幕府がオランダに発注していた軍艦ヤパン号(後、咸臨丸)が新教官によって長崎に回送され、更に伝習は続けられました。

阿部正弘は築地に講武所を設けて軍制改革の土台を作ろうとしました。また沿岸防備の方策も進められました。財政問題のため、計画は中断されますが、品川沖台場は第六台場まで造られました。大坂湾に望む安治川・木津川河口砲台、箱館の弁天岬砲台も築造されました。洋式城郭の箱館の五稜郭も築造されました。
川路聖謨らは、幕府の海防掛で西洋各国の軍事・砲術書などを翻訳して役立てたいと進言し、1855(安政2)年、江戸九段下に洋学所が設立されました。これが2年後に、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称されて、神田小川町に開校し、後洋書調所、更に開成所と改称されました。

阿部正弘は雄藩と協調するために、1855(安政2)年8月、徳川斉昭を幕政改正参与に就任させ、保守的な譜代との摩擦を避けるため、同年10月、下総佐倉藩主堀田正睦(まさよし)に老中首座を譲りました。
江戸城溜(たまり)間は、幕閣を狙う譜代・家門の大名の控の間ですが、当時溜間詰筆頭の井伊直弼を中心に、外様雄藩には敵意を抱いていました。
この溜間出身の堀田は、蘭学に熱心な開明派であったため、開国通商の路線を保守派の譜代達の中にも推進できると阿部は期待し、1856(安政3)年10月には、将軍の命として外国事扱に堀田を就任させました。その翌年、阿部は39歳で病死してしまいます。

 

1856(安政3)年7月21日、ハリスはアメリカの日本駐在総領事として、オランダ人の通訳ヒュースケンを伴って下田に到着しました。ハリスは51歳でした。下田の町はずれの玉泉寺が当分の間のアメリカ総領事館になりました。
翌年5月、日米約定(下田条約)が締結されました。その中で、下田・箱館へのアメリカ人の居留と領事裁判権が規定されました。更に、同年8・9月に日蘭追加条約と日露追加条約が調印されました。この条約により、長崎・箱館での交易量の制限のない貿易が認められ、居留外人の信教の自由が認められました。しかし、その貿易は会所を通じてのものでした。
この年の8月、幕府はハリスの江戸出府を認めました。10月7日下田を出発し、10月18日ハリスは堀田正睦と会見し、21日に13代将軍家定と会見しました。
ハリスは重大な情報を伝えたいと堀田との会見を要求し、26日に堀田邸を訪れました。そこでハリスは、イギリスのアヘン戦争・アロー戦争を話し、その脅威を伝えることによりアメリカを売り込みました。インドや中国の悲劇を伝えることにより、アメリカとの条約締結を説きました。この内容は既に幕閣の知っていることでした。堀田はハリスとの会見の内容を幕臣や諸大名に示し、広く意見を求めました。

井伊直弼を含む溜間詰大名の連署の意見は、消極的賛成でした。かって攘夷論者であった越前福井藩主松平慶永は積極的開国通商論に変わっていました。そこには藩士で洋学者であった橋本左内の影響があったと思われます。徳川斉昭は頑迷な交易拒否論でした。
阿部正弘が登用した人材を中心に幕臣の中は、開国通商論が支配的になっていましたが、堀田正睦は中々結論を出しませんでした。12月2日ハリスは堀田と再会談し、条約交渉に同意させました。
1858(安政5)年、堀田はハリスに条約調印を2ヶ月延期することを要請し、1月21日に上洛しました。ハリスはこの日下田に帰りました。下田に帰ったハリスは病気になり、一時危険な状態になりました。
この病気を口実に看護婦が日本側に要求されました。ここに唐人お吉の話が発生します。しかし、現実にはきち(お吉)は3日で暇を出されています。条約調印後5ヶ月ほどはさよがハリスに仕えています。通訳のヒュースケンにはふく・きよ・まつらが仕えています。彼女らは当時17歳ほどでした。

 

条約勅許は、開国派も攘夷派も朝廷を説得し、利用して開国通商または鎖国攘夷の主張を通す問題でした。しかし、その前に、第13代家定の世継ぎ問題がありました。家定は正座できないほど病弱で、子もできず、長生きも難しい状況でした。

家慶が没し、家定が将軍に就く前から2人の名前が挙がっていました。1人は家慶の甥で、家定とは従兄弟の紀州藩主徳川慶福(よしとみ)でした。もう1人は徳川斉昭の第7子の一橋慶喜(よしのぶ)でした。前者を推す南紀派と後者を推す一橋派が形成されていました。
井伊直弼を中心とする溜間詰の譜代大名達は、慶福を推す南紀派でした。井伊直弼の国学の師で、腹心であった長野主膳は京都で九条尚忠(ひさただ)に働きかけました。関白九条家家臣島田左近がこれに協力しました。
彼らは家康以来の血脈こそ天下治平の土台と考え、朝廷は将軍後嗣に介入しないように、条約勅許は協力するように働きかけました。
一橋派には松平慶永・島津斉彬・伊達宗城・山内豊信らがいました。開国論に転じていた彼ら雄藩諸侯は、慶喜の実父で、攘夷論の徳川斉昭とは一線を画していました。斉昭は大奥の粛清を言って将軍の側近達らにも嫌われていました。

島津斉彬は一族から敬子(すみこ)を養女にして、将軍家定の3番目の妻にしていましたが、それは2人の子のことよりも、御台所として慶喜を押すことに狙いがあったと思われます。
斉彬は西郷隆盛を江戸に呼び、藩邸と御台所の老女を通じて敬子に働きかけました。また、堀田正睦の上洛に合わせて西郷を上洛させ、左大臣近衛忠煕(ただひろ、斉彬の姉の夫)や内大臣三条実万(さねつむ、山内豊信の妻の父)に働きかけました。
洋学者の橋本左内は越前藩奥外科医の子で、大坂の緒方洪庵の塾で学びました。橋本は、対外的危機の前に全ての支配層は私を捨てて大同につかなければいけない、挙国体制で総結集し、積極的に富国強兵を実践しなければならないと主張しました。
そのためには、英明な慶喜は不可欠な存在であると、橋本は公卿達を説得しました。しかし、政治に疎い公卿達は理解できず、橋本は慶喜を推すことのみに集中せざるを得ませんでした。
公卿達が政治に無知であること、外国嫌いであることは、南紀派と攘夷派に有利でした。公卿達に梅田雲浜や頼三樹三郎達が攘夷論を吹き込みました。

1858(安政5)年2月9日、堀田正睦は日米修好通商条約の草案を提出し、勅許を求めました。ところが、事実上不許可の勅諚(ちょくじょう)が出されました。孝明天皇自身が国粋思想の攘夷の立場に立っていたため、公卿達も同意見でした。
あわてた堀田正睦や長野主膳らは関白九条尚忠に働きかけ、再び勅許を奏請しました。天皇はしぶしぶ全権委任の勅答案を裁可しました。しかし、大原重徳(しげとみ)や岩倉具視(ともみ)らが勅答案に反対しました。有栖川宮や多くの廷臣達が条約拒否の意見を提出しました。
こうして3月20日再び不許可の勅諚が出されました。条約勅許問題では幕閣も南紀・一橋両派とも敗れ、攘夷派の志士だけが勝利しました。徒労の末、堀田正睦は江戸に帰還しました。

 

1858(安政5)年江戸に戻った直後の4月22日、堀田正睦は国内の政治体制を再編強化する以外に難局を乗り切れないとして、将軍家定に松平慶永を大老に任ずるように進言しました。ところが翌年、家定はその進言を拒否し、井伊直弼の大老就任を命じました。
元来大老は老中の具申に許否の裁可を与えるものでしたが、井伊は政務の一線に立ちました。徳川慶福を世継ぎに定めると、家定に申し渡させました。しかし、当分はこの件は極秘にしました。そして、阿部正弘や堀田正睦に登用された幕臣達を左遷や追放しました。
井伊は通商条約問題があったため、外交関係の幕閣や幕臣には手を付けませんでした。堀田正睦はハリスに調印の再度の延期を頼みました。勅許に固執する堀田にハリスは強く抗議しますが、遂に再延期に同意しました。
ところが、アメリカ軍艦ミシシッピ号・ボウハタン号が相次いで下田に入港し、英仏が大艦隊で日本に来航するとの情報を伝え、ハリスは岩瀬忠震(ただなり)と会見し、条約調印を迫りました。
江戸城内で評議が行われ、海防掛はほとんど即時調印の意見でしたが、大老井伊や若年寄は時間をかけたいとの立場で、老中堀田は黙っていました。岩瀬は井伊に迫り、万一止むを得ない場合は調印を、と言わせました。

6月19日、井上清直・岩瀬忠震は神奈川沖のボウハタン号上で調印しました。6月22日、幕府は在府諸侯に条約調印の顛末を報告し、翌日老中堀田正睦・松平忠優(ただます)を罷免しました。6月25日、徳川慶福の将軍後嗣を発表しました。
この後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間の修好通商条約が順次調印されました。いわゆる安政五ヶ国条約が締結されました。
これらの条約に内容は次の通りです。首都に公使を、開港場に領事を駐在させ、外交代表の国内旅行を認める。神奈川・長崎・箱館のほか、後には新潟・兵庫を開港場とする。江戸・大坂も開市場として自由貿易を認める。開港場の居留や開市場の逗留を許す。居留地の設置に同意する。輸出入税を決め、外国貨幣の自由流通・内外貨幣の交換・鋳貨・地金銀の無税輸出入が規定されました。更に、領事裁判権・協定関税率・片務的最恵国待遇の不平等な規定も成文化されました。

 

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