江戸時代4

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江戸時代4
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慶福の将軍後嗣が発表される前日の1858(安政5)年6月24日、その発表を引き留めるため、松平慶永は登城日でないのに江戸城内に入りました。徳川斉昭・水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)・尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)が同様に押しかけ登城し、一橋慶喜ともども井伊直弼と面談し、慶喜の将軍後嗣を迫りました。
7月5日、井伊は斉昭・慶勝・慶永に謹慎、慶勝・慶永は更に隠居、慶篤と慶喜は登城停止を申し渡しました。この翌日将軍家定が死去しました。慶福が家茂(いえもち)と改名して14代将軍に就きました。7月15日には島津斉彬が死去しました。
薩摩藩の西郷隆盛・水戸藩の鵜飼吉左衛門や志士達、それに攘夷派の公卿達は、井伊大老の免職、徳川斉昭の処分解除、攘夷決行の勅諚を取ろうと運動していました。攘夷主義者の孝明天皇は条約調印の報告を受け、自身の譲位を示しました。
井伊は堀田正睦に代えて、越前鯖江藩主間部詮勝(まなべあきかつ)を老中にし、小浜藩主酒井忠義を京都所司代に再任し、間部・酒井を上洛させました。
前関白鷹司政通(まさみち)・左大臣近衛忠煕(ただひろ)・内大臣三条実万(さねつむ)らは攘夷の国是を確立しょうとしていました。近衛は幕府と水戸藩に勅諚を下して、攘夷の叡慮を貫徹するように建策しました。
孝明天皇は譲位を撤回し、関白九条尚忠(ひさただ)の不同意を退けて、8月7日幕府と水戸藩に勅諚を下しました。朝廷から一藩に勅諚が下されたのは異例なことでした。

関白九条尚忠や長野主膳への攻撃は激しくなってきました。長野は所司代酒井に反井伊派の弾圧を要求しました。朝廷は左大臣近衛忠煕を関白に就任させるように伝達しました。

幕府は大弾圧を始めました。梅田雲浜や志士が捕らえられました。関白更迭の報告を受けた井伊は、水戸藩を抑えれば事態収拾が図られると考えていました。しかし、志士や公卿に水戸派の考えが深く浸透しているのに驚き、徹底的弾圧を命じました。
老中間部も上洛しました。水戸藩の鵜飼吉左衛門・幸吉父子が捕らえられました。西郷隆盛が江戸にいる水戸藩家老や藩士に送った密書が幕府の密偵の手に渡りました。これを口実に逮捕が行われました。越前福井藩の橋本左内も捕らえられました。
京都では、鷹司家家臣が捕らえられました。次々と公家の家臣の逮捕が行われました。天皇や攘夷派公卿への圧力になりました。

僧月照は梅田や頼とも交流のある勤皇僧で、公卿達とも交際がありました。近衛家から西郷隆盛はその保護を依頼されました。2人は京都から薩摩に脱出しました。探索が厳しいため、二人は別行動でした。月照に福岡藩士平野国臣(くにおみ)が同道して薩摩に入りました。
斉彬の死後の薩摩は改革派が影を潜め、2人への風当たりは冷たいものがありました。藩庁は西郷に月照の引渡しを迫りました。西郷・月照・平野は錦江湾に舟を出し、酒を酌み交わしました。示し合わせた西郷・月照は海に身を投じました。
事情を知らない平野は二人を助けますが、西郷だけが蘇生しました。藩庁は二人とも溺死したと幕府の役人に届け、西郷を奄美大島に隠しました。

公卿達は身に累が及ぶことを恐れました。このため、九条尚忠は関白に復職し、天皇も家茂の将軍宣下を行いました。そして、12月事実上の条約了解の勅書を取りました。左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕が辞官、前関白鷹司政通・前内大臣三条実万謹慎、他に朝彦親王・権大納言二条斉敬(なりゆき)・大原重徳ら多数が謹慎処分になりました。
幕臣達の処罰も行われました。外国奉行に任命されていた永井尚志(なおむね)・井上清直・岩瀬忠震(ただなり)・水野忠徳(ただのり)を罷免し、永井・岩瀬らは禄さえ奪われました。西の丸留守居に左遷されていた川路聖謨(としあきら)・大久保忠寛(ただひろ)を免職にし、川路は隠居になっています。
逮捕者の処分は次の通りです。橋本左内・吉田松陰・鵜飼吉左衛門・茅根(ちのね)伊予之介・頼三樹三郎・飯泉友輔が死罪、水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)切腹、鵜飼幸吉獄門、梅田雲浜は獄死しました。

 

吉田松陰は強大な列強に対抗するには、自国への忠誠の自覚がなければならないとしました。松蔭が尊王を掲げ、大和魂を説いたのは、利害を超えた精神的統一が急務と考えたからでした。松蔭は、忠義の国体護持の精神は、鎖国的攘夷が不可能ならば、皇国の国体に従って、海外雄飛・国威発揚で発揮されなければいけない、としました。そのために、朝廷・幕府・諸藩や志士の精神的団結と国家目標の確定を松蔭は目指しました。
吉田松陰は萩の近郊で、松下村塾を主宰しました。藩校明倫館に入学できない下士・足軽層の子弟に教えました。伊藤博文・久坂玄瑞・山県有朋・品川弥二郎達がいました。藩校に反発した上士出身の高杉晋作らも塾生でした。
井伊直弼による通商条約の違勅調印を、吉田松陰は、幕府の打算にかかわるもので、忠義により誅伐しない限り、精神的紐帯は切れ、皇国は崩壊するとし、斬奸・義挙論を立てました。
松蔭は野山獄に再度捕らえられますが、獄中から門下生に決行を迫りました。高杉・久坂は破壊的暴挙を好機到来まで自重するように要請しますが、松蔭は彼らに絶交を申し渡すほどでした。この後松蔭は江戸に召還されます。

水戸藩では、安政の大地震で戸田銀次郎と藤田東湖が亡くなり、武田耕雲斎が執政に就いていました。そこに、徳川斉昭・慶篤の処分、勅諚返納の幕府の命令、そして大獄の処刑者という問題が発生しました。
処分に対する赦免が広範な運動となりました。しかし、勅諚返納では論争が続き、門閥守旧派を排除した主流派内が慎重派と過激派に分裂しました。
慎重派の中心は「新論」の著者会沢正志斎でした。会沢は、勅諚を奉じて諸藩に伝達するのは水戸藩が乱の手始めになると、過激派を非難しました。その上、幕府の圧力で、朝廷からも勅諚返納を命じる勅書が届き、1859(安政6)年12月10日、藩庁は勅諚返納を決めました。

過激派は勅諚返納を実力で阻止しょうと、大衆動員をかけていました。その中で、有志らは薩摩藩の有村治左衛門らと井伊直弼の暗殺計画を進めていました。
襲撃の日を1860(万延元)年3月3日と決めました。関鉄之介以下水戸脱藩藩士17人、薩摩脱藩藩士1人の計18人の浪士隊が桜田門外で、井伊の駕籠を待ち伏せしました。
一発の銃声を合図に浪士隊は駕籠に殺到しました。井伊は貫通銃創を受け、動けない状態でした。護衛の彦根藩士は柄袋の刀や雨合羽のため防戦できず、浪士隊の刀で井伊直弼は突き刺され、首級を奪われました。
1859(安政6)年6月、横浜・長崎・箱館の3港が貿易港として開港し、江戸に各国公使館も開設されました。志士達は斬奸ばかりでなく、夷人斬りによっても攘夷のデモストレーションを行っていました。
多数の外国人襲撃事件が起きました。江戸・横浜は騒然とし、外国人は戦々恐々としていました。しかも、その責任は幕府に降りかかり、賠償問題や外交問題が発生しました。

 

井伊直弼が死去した後、井伊により登用された磐城平(いわきたいら)藩主老中安藤信正が中心となりました。しかし、強硬策を継続する訳にはいかず、井伊に退けられていた下総関宿(せきやど)藩主久世広周(ひろちか)に老中首座を譲りました。
諸大名への妥協策として、徳川慶勝・一橋慶喜・松平慶永・山内豊信らの謹慎を解除しました。この直前に徳川斉昭は病死していました。一方譜代大名をなだめるように、水戸藩への勅諚返納は要求し続けました。

幕府は、沿海の枢密な港には代官支配の通船改所や産物会所を置いて、全国の市場と対外貿易を支配統制しょうと計画していました。
1860(万延元)年、物価安定を口実に主要輸出品の江戸問屋経由を命じた五品(生糸・雑穀・水油・蝋・呉服)江戸回送令を出しました。そして、国益主法掛(後、国益主法方)を設置し、物価引下げ・糸価調節・輸出振興・荒地開発・諸子救済を目的にして、貿易の利益を独占しょうとしました。
「経済要録」の著者の佐藤信淵(のぶひろ)は、強力な中央集権により、生産・流通・分配の機能を国家に集中し、通商・軍拡・領土拡張の帝国を目指すことを提唱しました。しかし、国益会所への集荷の試みは失敗しました。
幕府は、富国強兵の下に軍事掛を置いて、陸海軍の編成と増強を試みました。しかし費用的には、幕府の手に余るものでした。更に五ヶ国条約に引き続き、プロシャ・スイス・ベルギーとの通商条約の締結を幕府は強行しました。
 

幕府がその権力を再度強化し、反対派を抑えるには、朝廷を抱き込むしかありませんでした。その犠牲になったのが、和宮親子(ちかこ)内親王でした。
幕府は朝廷に和宮の将軍への降嫁を奏請しました。和宮は先帝仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の妹で、当時15歳でした。6歳の時、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していました。
天皇は降嫁の前提として、鎖国攘夷をどうするかと幕府に迫りました。これに対し、軍備増強を準備して、公武一和・国内一致なしには夷狄掃攘(いてきそうじょう)も不可能で、降嫁はその手始めであるとしました。ここに攘夷決行という約束が行われました。
孝明天皇は老中連署の奉答書を受けると、和宮降嫁を許可し、関白九条尚忠に和宮の説得を命じました。1862(文京2)年2月11日、和宮と将軍家茂の婚儀が行われました。ともに17歳でした。

その1月近く前、1月15日、坂下門外で、老中安藤信正は水戸脱藩士4人、宇都宮藩大橋訥庵(とつあん)の門下生2人計6人に襲われました。この時安藤は軽傷ですみましたが、坂下門内に逃げ込んだとして4月11日に罷免されました。

 

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