江戸時代4

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江戸時代4
3.通商貿易
 

ハリスは初代日本駐在公使に昇格し、1859(安政6)年にイギリスのオールコックやフランスのベルクールなども来日し、初代日本駐在公使になりました。
東海道の要路神奈川は、土地が狭く、遠浅だったので、近くの漁村だった横浜村を開港場にしました。条約によって外人の居留者は、永代借地権や建物の建設、日本人の雇用も認められました。そこに建てられた外国人商館は、一番・二番と番号が付けられました。
一番館はイギリスのジャーディン=マジソン商会で、二番館はアメリカのウォルシュ=ホール商会で、開港後3・4年も経たないうちに110番を数えました。外国商人達の多くは、極東で一攫千金を狙う山師的な者も多く、居留地は無秩序な無頼の町の様子でした。
しかし、数は少ないが、巨大組織の商社・銀行・海運会社も進出しました。一・二番館の商社の他、イギリスのギルマン商会・バターフィールド=スワィアー商会などで、既に中国貿易に従事する貿易商社でした。長崎のグラバー商会はジャーディン=マジソン商会の長崎代理店のようなものでした。
イギリス系の大銀行も横浜に支店を開設しました。オリエンタル=バンク(東洋銀行)やチャータード=マーカンタイル銀行、香港上海銀行などでした。海運はイギリスのP&O汽船会社、アメリカの太平洋郵船会社、フランスの帝国郵船会社などが日本に進出しました。
居留地の外国商人は領事裁判権で保護されていました。居留地行政のため、1860(万延元)年、米英蘭三国領事は神奈川地所規則をつくり、居留民に守らせました。

横浜港の中央は運上所(幕府事務所=税関)、西北側は日本人街、東南側は外人居留地でした。幕府は日本人街の整備に努めました。御用商人の三井家に貿易商人の元締めとして金融業を営ませ、支店を開設させました。他に、江戸・神奈川・駿河・下田などの商人達に支店を出店させました。
1862(文久2)年には、貿易商は290軒に増え、外国商館を含めて横浜は急速に国際商業都市に発展しました。貿易量もイギリス公使オールコックも予想以上と本国に報告しています。しかし、貿易形態は外国資本に掌握された居留地貿易でした。日本人貿易商は日本商品の売込み商あるいは外国商人が持ってくる商品の受取商に過ぎませんでした。買い叩かれあるいは高く売り付けられました。

外貨についてみると、当時の国際通貨であるメキシコドル(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と公定しました。国内は1両=4分=16朱で、保字(ほうじ)小判(1両)を本位とし、銀は補助貨幣でした。外国商人は洋銀4ドルで1分銀12枚が交換でき、それで3両を得ることができました。
この当時国内では金1両=銀4分の金銀比価は1対5弱でしたが、国際的比価は1対15でした。そこで、外国人は洋銀を横浜に持ち込み、1分銀に換え、更に小判に交換し、国外に持ち出して売れば、何もしないで洋銀が3倍になりました。
外国人による洋銀の両替要求が運上所に殺到しました。この様な投機により海外に流出した金は莫大な額に上りました。幕府はオールコックらの助言により、取り急ぎ貨幣を改鋳し、金の量目を1/3に減らした小判を出しました。しかし、このため貨幣の価値は減少し、物価急騰の要因をつくりました。

輸出商品は国内で軒並み急騰しました。貿易額が増加するほど、その傾向に拍車がかかりました。1867(慶応3)年までの8年間で輸出額は2.6倍、輸入額13倍を超え、出超が入超に逆転しました。
上野・武蔵・甲斐・信濃などの生糸産地や駿河などの茶の産地を後背地に持つ横浜が、輸出の8・9割、輸入の6〜8割を占めていました。その額は中国上海に次ぐ広東に相当し、その8・9割はイギリスが占めていました。
輸出の7・8割は生糸で、茶が1割前後でした。生糸も茶も零細な手工業が行われていたため、海外の需要に追いつきませんでした。しかし、生糸相場はヨーロッパの半分程度で、買い叩かれました。また西陣や桐生などの絹織物生産地へに原料糸は品不足になり、価格は高騰し、職人達の生活は困窮しました。
輸入品は綿織物や綿糸で、これらが半分を占め、毛織物が3割、他に砂糖や武器・艦船でした。これらの輸入品価格はほぼ安定していました。その輸入数量は数倍に増加し、国内市場を荒らしました。これらは近代的工業製品であり、日本には関税自主権がなく、保護関税で対抗する方策がありませんでした。

西陣の国産生糸の入荷は半減し、価格も倍になって、織機は半減しました。職人達は失業し、米価高騰が追い討ちをかけました。桐生でも同じことが行われました。副業で賃機を織っていた農民達は追い詰められました。
開港に伴う負担増で、一揆や打ちこわしは増加しました。1860・1(万延元・文久元)年、一揆や打ちこわしは激しくなり、米屋・質屋、不正をしている村役人が襲われました。
通商条約調印の前年の1857(安政4)年から大政奉還の1867(慶応3)年の間に米価は9倍、生糸価格は6倍に騰貴しました。貿易の影響に加えて貨幣を改鋳し、諸藩は不換券である藩札を流通させ、狂乱物価に拍車をかけました。
海外からの安価な綿製品の大量流入で、綿作農家だけでなく、副業としての綿繰り・綿打ち・篠巻き・手紡ぎ・賃機などの綿業各工程で賃収入を得ていた農民達は大打撃を受けました。
農民達の半数以上は、自給自足の自作農でなく、問屋の内職や賃仕事でしのいだり、小作に頼らなければならない農民達でした。
貿易品の流通は3つのルートに大別されました。1つ目は特権商人による旧来のルート、2つ目は諸藩の専売制の出先として機能する藩と外国商人との直結ルート、3つ目は村役人・地主・商人・高利貸などの商業資本の横浜進出組で、各地方の在方荷主層と連携して売り込みました。

 

1859(安政6)年12月、横浜に米艦ポウハタン号が入港しました。日米修好通商条約の批准使節をアメリカに送るためでした。正使に外国奉行兼神奈川奉行の新見正興(にいみまさたか)、副使に勘定奉行・外国奉行の村垣範正(のりまさ)、監察に目付の小栗忠順(ただまさ)など総勢77人が決まりました。
使節の護衛と積荷輸送を兼ね、海軍の実地運用のための船、380トンの咸臨(かんりん)丸もアメリカに航行することが決定しました。責任者は軍艦奉行の木村喜毅(よしたけ)、運航指揮者は軍艦操練所教授方頭取勝海舟でした。
1860(万延元)年1月19日、咸臨丸はポウハタン号に先立ち、浦賀を出港しました。咸臨丸には、前年日本近海で難破した測量艦艦長ブルック大尉他10人のアメリカ人が乗っていました。ブルック大尉の日記によりますと、日本人士官・船員は航海に役立たなかったことが記されています。帰国に際しても、大尉の部下5人が同乗しました。ポウハタン号はハワイに寄り、サンフランシスコでは咸臨丸に迎えられました。この後、パナマに南下し、ここでポウハタン号から降りた使節一行は大西洋に出て、北上しワシントンに着きました。
5月17日大統領ブキャナンを訪問しました。3人の使節は烏帽子・狩衣の衣装でした。ワシントン・フィラデルフィア・ニューヨークで使節一行は歓迎を受けました。この後、大西洋・喜望峰・インド洋・香港を経て横浜に9月26日帰還しました。

1861(文久元)年2月3日、ロシア艦ポサドニック号が破損した船体修理を理由に対馬に停泊しました。対馬に海軍基地をつくるのが目的で、中央部の芋崎に上陸しました。
対馬藩に艦長ビリレフは、芋崎周辺の土地の租借の他、対馬をロシアの保護領にするように要求を出しました。対馬藩主宗義和は幕府に報告していましたが、3ヶ月経って外国奉行小栗忠順(ただまさ)が対馬に到着しました。
その間に島民とロシア兵が衝突し、犠牲者が出ていました。到着した小栗は、ビリレフが要求する藩主との会見を許し、会見したビリレフは藩主への要求を繰り返しました。
対馬藩は幕命を待つとして返答を留保し、幕府に対しては、転封を願い出ました。島民達が対馬を守ろうとしているのに対し、藩主は対馬を見限っていました。
しかし、オールコックが呼び寄せたイギリス軍艦2隻の抗議の中、ロシア外相の命令があり、ロシア艦は8月25日対馬を退去しました。

安政5(1858)年の条約による江戸・大坂の開市、兵庫・新潟の開港の期限が近づいていましたが、1860(万延元)年6月、安藤信正はしばらく延期してほしいと申し入れていました。
これに対し、オールコックは英仏蘭露各国へ使節を派遣し、対馬を延期期間中開港するなどの譲歩を提案しました。このような交渉中にロシア艦による対馬事件が起こりました。
1861(文久元)年12月22日、遣欧使節団がイギリス艦で品川沖を出航し、長崎を経由してヨーロッパに向かいました。帰国は翌年12月で1年後になりました。随員には福沢諭吉、薩摩藩の寺島宗則、長州藩の杉徳輔などがいました。
この使節団により調印されたロンドン覚書では、条約の履行を誓約し、帰国した使節団が対馬の開港や一部輸入税の軽減を幕府に勧告することを約束しました。

 

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