江戸時代4

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江戸時代4
4.尊王攘夷
 

開港を機に、安政の大獄で鳴りを潜めていた雄藩や尊王攘夷の志士達の活動も活発になりました。志士達は斬奸や夷人斬りを行い、雄藩は朝廷と幕府の間で影響力を保ち、それぞれ国事に奔走し始めました。長州藩直目付長井雅歌(うた)は、藩主毛利敬親(たかちか)に「航海遠略策」を建白しました。朝廷・幕府・諸藩が積極的な国是の確立を目指す長井の主張に、藩庁の指導者であった周布(すふ)政之助も賛成しました。
長井は正親町三条実愛(おうぎまちさんじょうさねなる)に謁見し、朝廷に建白書を提出しました。孝明天皇はその壮大さに喜び、長井に公武周旋を内命しました。幕府でもその説に感心し、長州藩主に公武周旋を依頼しました。
1862(文久2)年1月15日、安藤信正が坂下門外で襲われました。志士達の攘夷論が高まり、開国和親の幕府に長井はへつらっているという非難が、長州藩内外で高まりました。
 

そんな中、薩摩藩の島津久光の上洛の話が伝わると、公卿や志士達は久光に期待を寄せました。久光は前藩主斉彬の異母弟で、久光の長男忠義(茂久、もちひさ)が斉彬の跡を継いでいました。久光は後見役として薩摩藩の実権を握っていました。
久光は藩内の志士達が結集する精忠組に好意的な小松帯刀(たてわき)を側役に、精忠組の大久保利通を小納戸役に抜擢しました。更に、1862(文久2)年2月、西郷隆盛を徒目付に復職させました。
久光は攘夷派に人気はありましたが、封建秩序を乱す志士達の過激な行動を嫌い、幕政改革を公武合体による秩序ある国是確立を考えていました。

しかし、西国の志士達は久光を擁立して挙兵を画策していました。西郷はこの計画を知り、阻止するため伏見に上ってきました。これを知った久光は西郷が志士達に同調したと思い込み、その弁明も聞かず徳之島に流罪させました。

4月16日藩主の名代として、1000人の兵を率いて久光は上洛しました。権大納言中山忠能(ただやす)の知遇を得て、その家臣の養子になっていた田中河内介、出羽の郷士出身の清河八郎らは、天皇を擁立して京都所司代を襲う計画を西国一帯の志士達に説いていました。
彼らと連絡していた筑前福岡藩士平野国臣(くにおみ)、久留米水天宮神官真木和泉(まきいずみ)は薩摩に潜行して、有馬新七や田中謙助らを糾合していました。
久光上洛直前、江戸詰めを命じられた薩摩藩尊王攘夷派の柴山愛次郎らは、京都で志士を結集させ、伏見で挙兵して所司代を襲い、久光を擁立して王政復古を実現しょうとしました。このため西国の志士達は続々と大坂の薩摩藩邸に集まりました。
大久保や西郷は彼ら尊王攘夷派と一線を画す公武合体路線の久光の側近でした。失脚した西郷に代わり、大久保は彼らを藩邸に軟禁してしまいました。
有馬・柴山・田中謙助らは真木らと図って決起するため、藩邸を集団脱走し、伏見の船宿寺田屋に集合しました。これを知った小松帯刀は、9人の剣の使い手を寺田屋に派遣しました。
1862(文京2)年4月23日、寺田屋で主命を伝えますが、志士達はこれを拒否します。上意討ちされ、柴山・有馬ら6人が斬殺され、他は拘束されました。

この寺田屋事件を孝明天皇は賞賛され、久光の人気は高まりました。関白九条尚忠(ひさただ)が辞任し、近衛忠煕(ただひろ)の関白就任が決まりました。久光の朝廷改革の意見が通りました。
もう一つ久光が考えている一橋慶喜や松平慶永らが幕府権力を掌握する幕政改革の問題では、勅使を派遣することを主張しました。
勅使に三位大原重徳(しげとみ)がなり、久光が随行しました。6月10日、大原は将軍家茂(いえもち)に謁見し、公武合体・夷狄掃攘を伝え、慶喜を将軍後見役に、慶永に大老または政事総裁職に就けて、徳川家を中興するように要請しました。
この時、安藤信正は失脚し、久世広周も直前に辞職していました。幕閣・幕臣達は、朝廷や無位無冠の久光から幕府人事に介入することや不可能な攘夷を迫られることに抵抗しましたが、慶喜・慶永の登用を承知しました。

久光が江戸で公武周旋をしている頃、京都では、尊王攘夷派が勢力を盛り返していました。その中心は長州藩の久坂玄瑞や桂小五郎でした。長井雅歌の弾劾と攘夷の藩論確立の運動を行いました。
1862(文久2)年7月、藩主毛利敬親、周布政之助らの藩の首脳、更に桂小五郎らが集まった京都で、藩論は奉勅攘夷論に転回しました。孤立した長井は帰国謹慎し、遂には切腹させられました。

土佐藩の尊王攘夷派の活動も活発でした。その中心は武市瑞山(たけちずいざん、半平太)でした。彼を中心にする土佐勤皇党は190人ほどいました。その中に坂本竜馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎がいました。
土佐藩の実権は前藩主山内豊信(とよしげ)に重用された開国路線の吉田東洋が握っていました。武市は吉田を刺客に暗殺させ、福岡孝弟(たかちか)・後藤象二郎を追放させました。
1862(文久2)年6月、藩主山内豊範(とよのり)の参勤途上に上洛し、中山忠能を通して国事を周旋するように要請させました。その一行に同志が多数同行しました。8月武市は他藩応接掛に就き、諸藩の志士や公卿と交わりました。

 

長州や土佐の尊王攘夷派の活動の盛んな京都では、和宮降嫁に奔走した公卿や女官が攻撃目標になりました。
そんな運動の中、1862(文久2)年7月20日九条家家臣で長野主膳と共謀していた島田左近が斬殺されました。下手人は薩摩藩の田中新兵衛らでした。田中は人斬り新兵衛と恐れられました。この後、天誅が増えていきます。
尊王攘夷派に睨まれた公卿達は、身の危険を感じ洛外に退去しました。岩倉具視は、この時岩倉村に閑居しました。
尊王攘夷派内での内ゲバも発生しました。四条河原に晒された志士の本間精一郎の下手人は、土佐藩の岡田以蔵で、後に人斬り以蔵の異名を取りました。狂気ともいえるテロが横行しました。

この時代、危機感や現状打破に目覚めた一部の村役人・地主・豪農・豪商の草莽達が国事に莽走しました。しかし、一般民衆は非合法の一揆や打ちこわし以外自らの意志を示すことができず、テロに共感さえ覚えました。
これらのテロとともに、米屋・質屋・両替商や貿易商への貼り紙や投げ文などの脅迫も多くなりました。
真木和泉・平野国臣・久坂玄瑞・武市瑞山など尊王攘夷派のリーダー達は、この様な風潮の中で、攘夷と天皇を頂点とする王政復古の目標を固めていきます。久坂・武市は藩主を通じて朝廷へ攘夷貫徹の建白を行いました。
彼らは薩摩の志士とも謀り、勝手に薩長土の藩主名を使って、勅使を江戸に派遣するように要請しました。1862(文久2)年10月、三条実美(さねとみ)以下の勅使が攘夷督促と朝廷に親兵設置容認を求めて東下しました。

 

1862(文久2)年7月、島津久光の周旋で、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職に就任しました。慶永によって信任されていた横井小楠(しょうなん)は、公共の政(まつりごと)を主張しました。軍事・内政・外交・交易全ての面で徳川家の私益を捨て、朝廷・幕府・諸藩が合体して推進するのが公共の政の理念としました。
それを具体化する政治形態として、譜代・外様及び直臣・陪臣の区別なく、上下院を設け、上院に大名・旗本、下院に藩士を選抜し、公共の論を議するという構想を明らかにしました。それは雄藩連合を欧米議会制度に当てはめたものでした。
この様な理念構想は、幕府内では異端でしたが、幕政改革を将軍側役の大久保忠寛は一橋慶喜に働き掛けて推進しました。その第一は参勤交代の緩和でした。隔年だった参勤交代を3年に1度とし、在府期間を削減し、大名妻子の帰国も許しました。
幕府への進献が廃止され、礼服なども簡素化されました。更に、幕府役人を削減し、朝廷からの関白・大臣・伝奏の任命の事前同意制を撤廃しました。
陸海軍制の改革と拡充が進められました。陸軍は陸軍奉行を新設し、その下に歩兵・騎兵・砲兵の奉行を置き、幕臣の他農民も兵卒に編制しょうとしました。
海軍は、大久保忠寛の推挙で、勝海舟が軍艦奉行並に登用されました。勝は会議の席で、従来の幕府による膨大な海軍構想を否定し、10隻程度の艦船購入と榎本武揚(たけあき)や西周(にしあまね)らのオランダへの留学を答申しました。
多くの幕臣達は慶永・横井・大久保達に反対しました。その攻撃は、まず幕臣の大久保に向かいました。慶喜も慶永に大久保の左遷を迫りました。大久保は   講武所奉行に追いやられました。幕政改革の中で、慶喜と慶永に勢力は二分されました。

こうした中で、島津久光が帰国途上、生麦事件を起こして対外関係が極度に緊張したことと、夷狄掃攘の空気が強くなり勅使が派遣されたことが、幕府に大きな圧力となりました。
1862(文久2)年8月21日、島津久光一行が神奈川の近くの生麦村に差し掛かった時、馬に乗った上海在住のリチャードソン以下4人のイギリス人が、久光の駕篭に近づいて来ました。供頭がリチャードソンに斬りつけ、彼は落馬し、そこを前駆が止めを刺しました。供の者が他の3人も斬りつけましたが、負傷ですみました。
久光は幕府に事件を報告しますが、幕府の事件解決までの滞在の要請を無視し、出発しました。大名行列を犯す者を討つのは日本の国風で、幕府から言われる筋合いはなく、イギリスとは鹿児島で対応するというものでした。
京都に戻った久光は、情勢が急変しているのに驚きます。公武合体を説得しますが、勤王攘夷派に京都も朝廷内も占められ、久光は失意のうちに帰国しました。

10月27日、攘夷督促の勅使が江戸に着きました。幕府は回答を迫られました。
幕府は京都所司代の上に京都守護職を置き、禁裏の警備・治安維持・朝廷・幕府間の庶政決裁に当たらせることを決め、その職に会津藩主松平容保(かたもり)を任命していました。容保は攘夷を標榜しない限り守護職の責任が果たせず、上洛できないと主張しました。
慶永も横井小楠も攘夷論に同調し始めます。違勅調印の条約は破棄し、必戦の覚悟で諸侯を集め、その上で一致して開国するならば真の開国であるとしました。
この変節に幕閣・幕臣は驚き、朝廷や大名の口出しによる政策変更はもってのほか、という意見が出ました。また、条約破棄は、対外的に信義にもとり、戦争になって勝っても不名誉なことだ、と慶喜は反対しました。
横井小楠はこの議論を聞き、開国論に回り、慶永を説得しました。慶永は開国論に一旦はなりますが、勅使の待遇などで慶喜と対立し、攘夷論に戻りました。
両者対立の中、勅使に随行した山内豊信は、勅使に開国論を説けば、攘夷が討幕にさえなりかねないとして、両者を歩み寄らせました。幕府の論議は攘夷論に決定しました。
しかし、慶喜は朝廷を欺く一時の方策であるとして辞表を出しますが、説得され留まることになります。勅使は攘夷の期限や方法を諸藩と協議して、朝廷に報告するように要求しました。幕府は困難な外交問題を抱え、攘夷を約束して、既に決まっていた翌年の将軍上洛の準備をしなければいけませんでした。

勅使が江戸を離れた12月12日深夜、長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文らが品川に新築中のイギリス公使館を焼討ちしました。
更に、12月19日、横井小楠が肥後勤皇党に襲われました。横井は逃げて無事でしたが、肥後藩は、藩士である横井に士道に背くとして、切腹を命じました。招聘していた越前藩の交渉により、横井は切腹を免れ、帰藩と士籍剥奪の処分を受けました。

 

1863(文久3)年3月4日、江戸を発った将軍家茂(いえもち)は、二条城に入りました。
この頃朝廷内には、国事に関する機関として国事御用掛が置かれ、朝彦親王・関白・左右大臣・内大臣・議奏や少壮急進派も任命されました。三条実美(さねとみ)・姉小路公知(きんとも)・三条西季知(すえとも)ら少壮急進派が長州・土佐の勢力を背景にして決定権を握っていました。
このため議奏の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(おうぎまちさんじょうさねなる)をはじめ宮や左右大臣・内大臣は辞職し、関白近衛忠煕(ただひろ)も辞表を出しました。しかし、急進派はますます力を得ました。将軍に対する攘夷決行日の明示が、彼らの当面の目標でした。
テロもますますエスカレートしていました。犯人として逮捕されても、死罪にすべしとする松平容保の意見にもかかわらず、朝廷や志士の援けにより他藩預けの微罪で済まされました。
上洛した一橋慶喜・松平慶永・松平容保・山内豊信それに宇和島藩主伊達宗城(むねなり)らは、朝彦親王・前関白近衛忠煕らと対策を練っていました。
3月5日、将軍名代として参内した慶喜に天皇は、征夷大将軍の件はこれまで通り委任するという勅書を与えました。
その2日後の3月7日、将軍家茂は参内し、天皇と会見しました。この時の勅書に、将軍職の委任の他、事柄によっては朝廷が諸藩に命令すると解釈される事項が付け加えられました。急進派の巻き返し工作によるものでした。
親兵設置や攘夷期限でも幕府は押しまくられました。親兵の名目は撤退させましたが、諸大名の万石につき1人の朝廷守衛兵を上京させるように公示せざるを得ませんでした。
攘夷期限については、幕府は言い逃れようとしましたが、朝廷側は期限明示を迫り、慶喜は4月中旬と上申せざるを得ませんでした。

雄藩も朝廷や尊王攘夷派の強引さに辟易していました。事態に絶望した慶永は、政事総裁職の辞表を出して、帰国しました。長州藩の意気だけが盛んでした。
将軍は江戸に帰ることを要請しましたが、天皇は将軍が京都を離れることを認めず、天皇が攘夷祈願の行幸に随行するように求めました。将軍の補佐として慶喜・容保と3人の老中が残っていました。
天皇は賀茂神社・石清水八幡宮に行幸しました。これらの行幸の後の4月20日、幕府は5月10日を攘夷期限とすると奏聞させられ、その後布告されました。
幕閣も諸藩も夷狄掃攘を真剣に考えてはいませんでした。生麦事件の処理に関して賠償要求されている時に、港を封鎖する交渉など、現実性はありませんでした。
1861(文久元)年5月、東禅寺のイギリス公使館が襲撃された東禅寺事件と生麦事件の賠償金として、幕府はイギリスから11万ポンドを要求されました。将軍上洛を理由に回答が延期されていました。上洛から戻った老中格小笠原長行(ながみち)は、攘夷期限の前日の5月9日賠償金を支払いを通告し、多額の賠償金が支払われました。

 

将軍上洛の列外警備として、浪士隊が上洛しました。壬生(みぶ)の新徳寺に本営を構えました。この浪士隊は、江戸の浪士を取締るため、慶永が幕府の統制下に一隊を編制するように命じたものでした。
講武所剣術教授方松平忠敏や剣術世話心得の山岡鉄舟らが責任者に任命され、浪士が集められました。しかし、真の中心人物は尊王攘夷派の志士、清河八郎でした。
テロ取締りを口実に浪士隊を編制し、将軍とともに上洛させ、本当は攘夷の義挙に利用しょうと、清河は、山岡や松平を使って慶永に上申させました。
上洛すると、真の目的は攘夷にあると演説し、勝手な行動は許さないと、一同を恫喝しました。そして、朝廷に攘夷遂行・京都守護の建白書を出しました。これに驚いた幕府は、対外情勢の緊迫を理由に、浪士隊が江戸に戻ることを命じました。
江戸に戻ると、清河八郎は、直ちに暗殺されました。浪士隊は新徴組として庄内藩支配下に入れられ、江戸の治安維持に当たりました。

京都に清河と意見が対立した20余人が残りました。京都守護職に嘆願書を出し、会津藩支配下の新選組となりました。
壬生屯所を本営とし、近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨が中心人物でした。近藤・土方は武蔵多摩地方の百姓の子でした。近藤は江戸小石川試衛館道場主近藤周助に認められ、その養子になりました。土方は近藤を支えました。沖田は白河藩を脱藩し、試衛館の塾頭で、師範代を勤めていました。永倉新八は松前藩を脱藩、山南(やまなみ)敬助は仙台藩脱藩で、道場の常連でした。
以上の近藤達と水戸藩脱藩の芹沢鴨を長とする一派は対立していました。しかし、新選組には多くの者が集まり、守護職・所司代の兵とともに京都の治安維持の任につきました。

 

1863(文久3)年5月10日深夜、風雨と関門海峡の潮流を避けて、アメリカ商船ペムブローグ号が門司田野浦に投錨していました。攘夷期限のこの夜、長州藩の庚神(こうしん)丸と癸亥(きがい)丸が砲撃を始めました。船足の速いペムブローグ号は豊後水道方面に逃げました。
砲撃したのは、久坂玄瑞を長とする光明寺党の一派でした。光明寺(下関市)を本営とする一隊は、藩の軽輩の者達で編成されていました。
砲撃を躊躇する海防総奉行に対して、独断で砲撃しました。
関門海峡の外国船砲撃は、更に続きます。5月23日、フランス艦キンシャン号に向けて各砲台・艦船の砲が火を吹きました。同艦は応戦しながら玄界灘に脱出します。
5月26日オランダ艦メデューサ号が長崎から横浜へ向かって関門海峡通過中、砲撃での損害を受け、横浜に着きました。
こうした中、列強は報復に出ました。6月1日、アメリカ艦ワイオミング号が下関に接近し、亀山砲台(下関市)を壊滅させ、庚神丸・壬戍(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させました。
更に、6月5日、フランス艦セラミス号・タンクレード号が攻撃し、陸戦隊が前田海岸に上陸しました。

藩内が混乱している6月7日、高杉晋作の進言が通り、奇兵隊の結成に取り掛かりました。奇とは正規に対するもので、正規軍に所属できない足軽・小者や村役人・豪商・豪農の子弟が参加しました。
藩庁は列強の更なる報復を恐れ、郷土防衛を訴え、士以外の農工商にも兵になることや献金を奨励しました。
自主的な郷土防衛組織が各地に結成されました。これらの雑隊のうち、指揮統制がはっきりし、藩庁に公認されたものが奇兵隊とともに10隊余りあり、いわゆる諸隊といわれました。
列強の報復の恐れが薄らぐと、長州藩の尊王派はまたもや勢力を盛り返しました。天皇の奨励もその力を助長しました。

長州藩には攘夷急進派の一面と、現実を見る一面の両面があります。1862(文久2)年、幕府の上海視察使節に長州藩の高杉晋作は随行しています。この船には薩摩藩の五代友厚も同行しています。また、1863(文久3)年5月12日に、藩庁はジャーディン=マジソン商会の斡旋で、密かに井上馨・伊藤博文ら5人をイギリスに留学させています。

襲来もしないのに掃攘するのは国辱ものであると、幕府は長州藩を非難しました。これに対し、長州藩は、幕府こそ違勅だと反論しました。そして、朝廷が長州藩に協力を命じているのに、攘夷決行を傍観したとして、小倉藩の田野浦を長州藩は占領し、勝手に砲台を築きました。幕府と長州との対立は決定的でした。
将軍上洛で留守を預かる幕閣達は、朝廷を操る尊王攘夷派に対して、強い反感を持っていました。彼らは江戸に戻った老中格小笠原長行を担いで、京都から尊王攘夷派を一掃するクーデターを計画しました。
5月25日、小笠原長行以下1600人がチャーターしたイギリス船などに乗り、東上しました。大坂から淀まで進軍すると、京都の尊王攘夷派の公卿や志士達は動揺しました。大騒動の中、天皇は小笠原の処罰を要求しました。将軍と在京幕閣は小笠原を免職し、軍を江戸に帰しました。そして将軍や幕閣達も急ぎ江戸に帰りました。

 

生麦事件の賠償金は幕府が支払いましたが、薩摩藩からは何の対応もありませんでした。1863(文久3)年6月27日、キューバー提督が率いるイギリス艦7隻が錦江湾に停泊しました。イギリスは薩摩藩に、犯人の処刑と被害者・遺族への2万5千ポンドの補償を要求しました。
6月29日、事実上拒否の回答がありました。老幼婦女の避難命令が出され、交渉は決裂しました。
7月2日、停泊中の天祐丸・白鳳丸・青鷹丸が拿捕され、乗艦していた五代友厚・寺島宗則が捕虜となりました。その日の正午、台風の強風の中、薩摩藩の10の砲台から砲撃が始まりました。拿捕していた艦を焼き、イギリス艦は応戦しました。
イギリス艦も被害を受けましたが、薩摩藩の砲とイギリス艦の砲とは、はるかに性能が違い、砲台は次々と破壊されました。かって島津斉彬が建設した、溶鉱炉や火薬・機械・ガラス・紡績の洋式工場がある集成館も破壊されました。そして、城下町の一部も焼失しました。
この後、イギリス艦隊は横浜に帰着しました。代理公使ニールは、反省の色がなければ再度攻撃すると表明しました。被害を受けた薩摩藩は要求を呑むことにしました。
11月1日、2万5千ポンドが支払われ、犯人逮捕・処刑を確約しました。しかし、賠償金は幕府から借金し、遂には踏み倒しています。犯人逮捕は、ニール自体があきらめていました。そして、この薩英戦争の後、薩摩藩とイギリスは接近していきます。

 

薩英戦争前の5月29日、薩摩は京都の禁裏護衛を解任され、御所への出入も禁じられました。これ以前に、尊王攘夷派公卿姉小路公知(きんとも)が暗殺され、その場に薩摩藩の人斬り新兵衛の刀が残されていました。田中新兵衛は捕らえられますが、自殺したため、下手人不明でしたが、薩摩藩は追求されました。
上洛していた真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎は、天皇の大和への攘夷親征を計画し、詔を出させました。しかし、孝明天皇は幕府への攘夷策委任を破棄することに躊躇していました。また、攘夷開戦は時期尚早であると悩んでいました。
攘夷親征の詔を喜んだ長州藩や尊王攘夷の急進派の公卿や志士に対して、会津藩や薩摩藩は反撃の機会をうかがっていました。急進派に対する門閥の公卿達も同じ思いを抱いていました。
薩摩藩士高崎左太郎と会津藩士秋月悌次郎が、クーデター計画を松平容保に話して、決断を迫りました。承認した容保は、朝彦親王に協力を求めました。親王の意により、高崎・秋月は前関白近衛忠煕・忠房父子や右大臣二条斉敬(なりゆき)からも同意を取り付けました。

8月16日、朝彦親王が参内し、天皇に打ち明けて説得しました。しかし、即座の許しは出ませんでした。その夕刻、勅許の密使が遣わされました。
8月18日午前1時、朝彦親王が参内すると、守護職松平容保・所司代稲葉正邦が指揮する会津・淀藩兵が入門し、御所の門を閉ざしました。次いで、近衛父子・二条らが召され、薩摩藩兵に護衛されて参内しました。そして同藩に禁門警備が再令されました。
更に土佐・米沢・備前・安房・因幡藩主に兵を率いての参内が命じられました。朝議で、急進派公卿の参内禁止、長州藩の堺町門警備の免職と退京令、天皇の大和行幸の延期が決められました。
急を聞いた急進派公卿や真木和泉・久坂玄瑞らは参内できず、堺町門隣の関白鷹司輔煕(すけひろ)の邸に集結しました。長州藩兵や諸藩の兵も動員されました。
一触即発の危機の中、時間だけが過ぎていきました。対峙した中、薩長両軍がひとまず退去することになりました。退いた急進派側の敗色は濃いものがありました。ひとまず長州に下って再起を図ろうとする長州藩の説得が功を奏しました。
真木・久坂他長州藩兵に護られて、三条実美・三条西季知ら七卿は、8月19日朝、雨の中を都落ちしました。集結した諸藩の兵は解散させられ、長州藩主毛利敬親には京都藩邸から退去が命じられました。クーデターは成功し、尊王攘夷派は京都から一掃されました。この事件を八・一八の政変といいます。

 

クーデターの前日の8月17日、大和五条の代官所が襲われ、代官が殺害されます。天皇の攘夷親征の先鋒をつとめるという天誅組の義挙が起きました。
天誅組は元土佐の庄屋吉村寅太郎・元備前藩士藤本鉄石・元刈谷藩士松本奎堂らが謀り、急進派公卿中山忠光を首領に仰いでいました。
この暴挙を三条実美は中止させようと平野国臣を派遣しましたが、間に合いませんでした。そして、クーデターが起きました。このため本陣を天ノ川辻に移し、十津川郷士1200人を結集しました。
しかし、高取城の攻防が始まると、攘夷親征の先鋒の勅命が虚偽であることが分かり、十津川郷士達は総崩れとなり、敗退しました。更に天誅組の追討令が出されました。十津川郷士達は逆に包囲して攻撃しました。吉村ら首謀者は討死し、中山忠光らは大坂の長州藩邸に逃げ込み、長州に逃れました。この事件を大和五条の変といいます。

大和五条の義挙中止の説得に失敗した平野国臣は京都から但馬に逃れていました。今となっては天誅組に呼応しかないと地元の志士に働きかけました。
しかし首領には公卿が必要として、長州から都落ち七卿の一人沢宣嘉(さわのぶよし)を連れて来ることにし、長州藩奇兵隊総督河上弥一郎も同行しました。
但馬への途中、天誅組の壊滅を知り、平野は義挙中止を主張しますが、河上らの弔い合戦の強硬論に推されました。
10月12日、但馬生野の代官所を襲い、農兵徴募の布告を出しました。翌日には、村役人に引連れられた農民が2千人集まりました。
ところが、但馬出石藩・姫路藩が鎮圧出兵し、沢宣嘉が脱走しました。農兵達は偽浪士とののしり、包囲して攻撃しました。河上や長州藩奇兵隊士は射殺されました。平野は逃亡中、豊岡藩兵に捕まり、京都に送られました。沢はやっとの思いで長州に逃れました。
この様に但馬生野の変では、その義挙は更に厳しい農民層の反撃を受け、粉砕されました。農民層は世直しを願っているのであって、別の目的を求める尊王攘夷派の欺瞞には、欺かれることはありませんでした。

尊王攘夷派は長州に押し込まれ、公武合体と幕府の権威が回復しました。天皇は国事を議するため、幕閣と雄藩諸侯の上洛を促しました。島津久光・松平慶永・伊達宗城・山内豊信が上洛しました。
山内豊信は国許を発つ前に、武市瑞山ら土佐勤皇党の幹部を投獄しました。中岡慎太郎らは難を逃れ、長州に逃れました。
将軍後見職一橋慶喜は朝命により上洛し、翌年1864(元治元)年1月天皇の要請で将軍家茂は二条城に入りました。クーデター後も天皇は原則的には公武合体であり、攘夷の立場でもありました。
島津久光の主張で、朝廷は一橋慶喜・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・松平容保を朝議参豫に命じました。そして1864(元治元)年1月13日には大名でない島津久光にも官位が与えられ、参豫に任じられました。

しかし、幕府と雄藩を集めた参豫会議は2ヶ月足らずで空中分解しました。この時、重要課題として長州藩処分と横浜鎖港がありました。長州藩処分は長州藩の代表を召還し、七卿や暴徒の差出を命じ、それに背けば追討することはほぼ一致していました。
横浜鎖港は情勢も違うので、国是を転換すべきが大勢であるのに対し、一橋慶喜だけが鎖港攘夷論に終始しました。前年には幕府は、横浜鎖港談判の使節をヨーロッパに派遣していました。会議では、沿岸防衛を充実させているので、攘夷を成功させたいと述べました。
天皇は喜びましたが、会議はまとまるはずはありませんでした。成果を上げることなく、全員が辞職し、参豫会議は瓦解しました。
1年前は、慶永や久光が奉勅攘夷で、慶喜は開国を主張しました。それが逆転してしまいました。外様が朝議に参加し、元来幕府が当たる国政に介入することを幕閣・幕臣は快く思っていませんでした。このような感情が慶喜を突き動かしたと思われます。この後、慶喜は、将軍後見職を辞任し、禁裏守護総督・摂海(大坂湾のこと)防御指揮に就任していました。

 

尊王攘夷の志士達を完全には抑えられず、不穏な動きがありました。1863(文久3)年11月、房総の九十九里浜で真忠(しんちゅう)組が挙兵しました。元尾張藩士楠音次郎ら浪人達に、この地の農民達が加わりました。
開港こそ物価高と飢餓の原因だとして、鎖港攘夷のため義挙したと宣言しました。調達された金や米は多額にのぼりましたが、翌年、佐倉藩兵により鎮圧され、幹部は討死もしくは逮捕されました。
真忠組は他の挙兵に比べ、具体的な困窮者への施与の措置を取ったため、農民達の信望を得ました。

1864(元治元)年3月27日、藤田東胡の子小四郎を首領とする天狗党は筑波山で挙兵しました。
水戸藩は尊王攘夷の本家でした。しかし、長州藩に立場を譲るような状況になっているのは遺憾として、保守派の執政武田耕雲斎らの説得に反発していました。前年より豪農・豪商より攘夷の軍資金を強奪していました。挙兵しても来るはずのない勅命を待ち、周辺で強奪を繰り返していました。
保守派の藩庁と挙兵した急進派の分裂を見て、これまで藩政から遠ざけられていた門閥層は、幕府や諸藩の連合軍と一緒に急進派と戦い、保守派執政武田耕雲斎を罷免しました。
ここに幕府・門閥と保守・急進派の組み合わせで対立・衝突しました。しかし、民心は急進派から離れていたため、保守派からも離れました。彼らは農民の自衛軍に包囲され、攻撃され、討死しました。
残る主力2千余人が那珂湊に集結しました。ここで包囲され、10月23日千余人が降伏しました。武田耕雲斎・藤田小四郎ら千余人は一橋慶喜を頼って西上の途につきました。

最も保守的な門閥層が勝利しますが、農民達は門閥層を支援した訳ではありませんでした。彼らを抑圧・収奪する村役人・地主・高利貸に対する打ちこわしが始まりました。世直しが本来の要求でした。門閥層はあわててその取締りに当たりました。
敗走した武田らは、下野・上野から中山道を西に上り、越前新保駅で加賀藩兵に投降しました。その間、尾張・加賀藩や一橋慶喜に陳情書を送り、幕府に敵対する考えはないことを訴えました。彼らは、敦賀に護送され、数百人が斬罪に処されました。

 

長州では、京都を再制覇しょうとする七卿や真木和泉、それに長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛達は、それは時期尚早と抑えようとする高杉晋作らと対立していました。
藩庁は説得は無駄で、脱藩進発することを恐れ、家老国司信濃(くにししなの)を長州藩の弁明のため上洛させました。国司には諸隊の随行を許し、それを統制する軍用掛に来島を充てました。
1864(元治元)年5月、大坂で彼らを迎えた桂小五郎は、上洛を自重するように来島や久坂玄瑞を説得しました。しかし、彼らは、世嗣毛利定広が上洛し、朝廷・幕府に至誠赤心を披瀝し、藩の名誉を回復すべきだと強硬でした。逆に6月4日、藩庁は定広の上洛、更に江戸には福原越後を遣わすことを決めました。

京都では長州軍の東上の噂で、志士達の動きが活発になり、公武合体や佐幕の人達へのテロが起きました。これに対し、新選組は二条河原町の長州藩邸や志士達のアジトの探索をしていました。京都の薩摩軍を指揮していた西郷隆盛は、幕府・会津軍と長州藩が衝突し、消耗するのを望んでいました。
6月5日朝、三条小橋側の池田屋に出入している武具・古道具商で、志士である枡屋喜右衛門を逮捕し、壬生屯所での土方歳三らによる拷問により、同志達が御所近くに放火し、駆けつける朝彦親王や松平容保を襲い、天皇を長州に移す計画を吐かせました。
同日夜、枡屋即ち古高(こだか)俊太郎逮捕を聞いた同志達が池田屋に集まって来ました。新選組は既に30人位で密かに池田屋を包囲していました。集まったのは、長州・肥後・土佐藩の志士約20人でした。
守護職・所司代に新選組は応援を頼んでいましたが、遅れたため、新選組だけで池田屋に討入りました。志士側7人は討死に、残りはほとんど逮捕されました。新選組も多数の者が負傷しました。桂小五郎も集まる予定でしたが、他所の所用で遅れたため難を逃れました。
この頃の新選組は粗暴で異常な行動があった芹沢鴨を土方や沖田が暗殺していて、近藤勇の統制が確立していました。

この池田屋事件を聞いた長州藩は、家老益田弾正に上洛を命じ、真木和泉や久坂玄瑞が率いる諸隊千数百人が出発しました。6月末から7月初め頃、長州軍は伏見・山崎・嵯峨に布陣しました。
天皇は一橋慶喜に対して、長州軍上洛を阻止する権限を与えました。慶喜は幕府・会津藩軍及び諸藩軍で防備を固めました。西郷らの薩摩軍は傍観する訳にはいかず、御所を守るという大義名分に立って長州軍に対峙しました。
7月11日、三条木屋町で、慶喜に招かれていた佐久間象山が暗殺されました。彼は長州藩の無謀攘夷を排撃して、公武合体を説いていました。志士達にとって佐久間は天誅の標的で、長州軍進軍のきっかけになりました。
7月18日早朝、長州軍は洛中に向かって進軍を始めました。福原越後の一隊は伏見街道で大垣藩軍に迎撃され、伏見に退却しました。改めて竹田街道を北進しますが、彦根・会津軍に打ち破られ、山崎に退却します。
嵯峨の天竜寺を本陣とする国司信濃・来島又兵衛の一隊は会津藩が守る蛤門に殺到しました。一時は御所内に入りますが、応援の薩摩・桑名軍により撃退され、来島は戦死しました。禁裏内にも銃弾が飛ぶ激戦で、これによりこの戦い全体を禁門の変と呼びます。

山崎に布陣していた真木和泉・久坂玄瑞らの一隊は、かって守衛していた堺町御門を攻撃しました。桑名・彦根・越前軍と砲撃戦を行いました。真木和泉・久坂玄瑞は負傷して山崎に退却しました。益田弾正の一隊は敗戦の報に浮き足立ち、天王寺から西に逃れました。
各隊とも総崩れになりました。敗走の中、追討されました。新選組や会津・桑名軍に包囲された天王寺の真木和泉は自害しました。追討軍は大坂の長州藩邸を破壊しました。桂小五郎は脱出して、但馬出石で商人に変装して潜伏しました。
京都の町では、砲火に見舞われ、多くの家が焼失しました。この大火の中、六角の獄のでは、逃亡を恐れて、獄中の国事犯を次々と斬首しました。その中に、生野の変で捕らえられた平野国臣がいました。
7月21日、孝明天皇より、長州藩征討の勅命が下されました。これを受けた幕府は、西南の藩に出撃準備を命じました。こうして禁門の変では、尊王攘夷の急進派は指導者を失いました。そして長州藩は朝敵になりました。

 

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