江戸時代4

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江戸時代4
5.長州と薩摩
 

1864(元治元)年8月4日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊17隻が戦闘隊形を整えて関門海峡に入って来ました。
奉勅攘夷を掲げる長州藩は、関門海峡の通行を阻止していました。これに対し、武力による懲罰をイギリス公使オールコックを中心に計画されました。4月末には、外交的約束の履行と将来の安全保障のため断固たる行動を取ると、幕府に通告しました。
イギリスに留学していた井上馨と伊藤博文は、欧州諸国の絶対的実力を知り、あわてて横浜に帰国していました。彼らはオールコックに会見して説得のための時間を要望し、長州に戻りました。しかし、国許は禁門の変直前で、彼らの説得に耳を貸す者はいませんでした。彼らが横浜に戻ると、7月18日、連合艦隊の出撃を幕府に通告しました。

ところがその日、前年末欧州に派遣していた横浜鎖港の談判使節が横浜に帰国しました。使節は談判どころか、下関で被弾したキンシャン号の賠償、関門海峡通航権の保障、輸入関税の軽減を取り決めたパリ約定を持ち帰りました。
使節団はその間の事情を説明し、鎖港は不可能であり、まず富国強兵を図ることが必要であると説得しました。しかし、幕閣は幕命違反として使節を重罰に処しました。
7月24日、幕府からパリ約定破棄の通告がありました。四国艦隊は横浜を出港しました。司令官はイギリス海軍のキューパー提督で、兵力の大部分はイギリス軍でした。
長州藩は家老宍戸備前を赤間関(下関)総奉行に任命し、戦闘回避を願って、イギリス留学の経験がある杉徳輔・井上馨を交渉に当てました。8月5日、下関に布陣している奇兵隊などが興奮しているため、彼らが説得しますが、これに時間を取られ、約束の時間が過ぎてしまいました。

8月5日午後4時10分、艦隊の砲門が火を吹きました。田野浦(北九州市門司区)、串崎(下関市)の砲台が砲撃されました。前田村(下関市)の砲台群には、砲撃後、英・仏の陸戦隊が上陸しました。
翌6日朝、奇兵隊軍監山県有朋の命令で、前田村の砲台が砲撃しました。このため、四国艦隊は陸戦隊を上陸させ、砲を破壊し、一部を戦利品として持ち去りました。山県は反撃を試みますが、失敗しました。
7・8日は、更に彦島(下関市)の砲台や、残りの陣地が掃討されました。8日宍戸備前の養子と偽った高杉晋作が井上・伊藤を伴って四国艦隊旗艦のキューパー提督を訪れました。

8月14日、停戦協定が調印されました。長州藩は外国船の関門海峡通航を認め、下関での石炭・食糧・薪水・その他の供給や難に遭った船員の上陸を認めました。この時、高杉らは攘夷決行の朝命や幕命の写しを外国代表に渡し、長州藩は下関の開港を望み、これまでの外国船の砲撃は幕命によるものと弁明しました。
四国艦隊は大坂沖に一時停泊する示威行動を行った後、横浜に帰着しました。オールコックなどは、攘夷決行の責任は幕府にあるとして、賠償は全て幕府に要求しました。9月22日、合意事項が調印されました。

内容は300万ドルの賠償金を支払うというものでした。幕府は150万ドル支払い、残りは明治政府が支払いました。完済されたのは、1875(明治8)年でした。
この交渉にはもう一つの要求がありました。軍事基地提供の要求でした。幕府はこのため、この年の1864(元治元)年末までに、横浜に基地を建設して提供しました。イギリス基地2万坪、フランス基地3千坪で、その中に官舎・兵舎等が建設されました。
それらの費用・修理費は日本側の負担で、地代・家賃もありませんでした。この基地を引き払ったのは、イギリスが賠償金が完済された1875(明治8)年で、フランスはその翌年でした。

四国艦隊の大部分は、中国での太平天国軍討伐に当たっていました。1862(文久2)年、太平天国軍が上海に迫ると、列強は武力干渉に入りました。
前年末の宮廷クーデターにより、清朝では対外妥協派が台頭していました。また李鴻章らの大地主官僚もこれを支持し、私兵団を結成して、太平天国軍と交戦していました。
列強は天津・北京条約で獲得した権益を守るため、対外妥協派政権や軍閥を育成することを選びました。
イギリスはアロー戦争の英雄ゴルドン少佐を退役させて、常勝軍を指揮させましした。フランスも同様な軍を組織しました。更に英仏は討伐軍を中国に多数送りました。イギリスはセポイなどの土民軍を派遣し、アジア人同志を戦わせました。
太平天国軍は軍閥や列強との戦争により、1864(元治元)年壊滅し、洪秀全も自殺して、南京も陥落しました。

 

長州藩征討の勅命を受けた35藩15万からなる征長軍は周防・長門を包囲し始めました。総督は前尾張藩主徳川慶勝、副総督は越前藩主松平茂昭(もちあき)でした。慶勝は西郷隆盛を参謀として軍議に加えました。
西郷らは長州藩を宿敵と思っていましたので、好機だと考えました。しかし、坂本竜馬の紹介で勝海舟に会ってからは、幕府内で強硬派が主流を占めていることに驚き、潰えた列侯会盟の公共の政による国是の再確立の説得に共鳴しました。
勝海舟は将軍家茂を説得し、一方では坂本を通じて桂小五郎らを説得して朝廷を動かして、兵庫海軍操練所を設立しました。そしてそのために、幕府・諸藩の別を問わない有志を集めた私塾を任されました。その塾頭が坂本で、勝は軍艦奉行になりました。
勝は、公共の政のための参豫会議を潰し、禁門の変以来、幕府の権力強化に狂奔する幕府主流に対しては、不信を抱いていましたし、西郷らが幕府主流に踊らされるようでは絶望的だと考えていました。そのため、西郷を説得することに全力を挙げました。

幕府内では、強硬派が返り咲いていました。小笠原長行(ながみち)が老中格(後老中)、酒井忠毘(ただやす)が若年寄に復職しました。大目付には永井尚志(なおむね)がなり、小栗忠順(ただまさ)も勘定奉行に復帰しました。
彼らは、元来公武合体論者の征長総督徳川慶勝の弱腰を歯がゆく思いました。また彼らは、禁裏守衛総督一橋慶喜が朝廷・幕府の協調を図り、雄藩との連携を図って幕府権力を弱体化していると思っていました。
そのため、松平慶永、その顧問の横井小楠の系譜にある勝海舟を快く思っていませんでした。勝は江戸に戻ることを命じられ、軍艦奉行を解任されました。その後任には小栗忠順が就きました。
簡単に幕府の権力が回復するとは、彼らも思っていませんでした。そのためには軍事力の強化が必要で、外国の支援が不可欠だと考えていました。強硬派はフランスに近づいていきました。

この様に征長軍の内情は複雑で、参加した多くの藩は、出費を考えると消極的な態度でした。他方の長州藩の内情は、藩の存亡の危機に直面して更に深刻でした。藩権力は門閥派に握られました。門閥派による新しい藩庁は、ひたすら謝罪降伏して、藩の存続を図る恭順を主張しました。旧藩庁の指導者周布(すふ)政之助は自刃しました。
志士の残党達は、新藩庁勢力を俗論派とののしりますが、その基盤である諸隊に民心の支持はなく、彼らは孤立しました。1864(元治元)年10月21日、藩庁は諸隊の解散を命じ、武器を没収し始めました。
長州藩は征長軍に降伏しました。そして、益田弾正・国司信濃・福原越後の3家老や4参謀の切腹・斬首を行いました。都落ちの公卿は、西郷隆盛のとりなしで、筑前大宰府に移すことになりました。

12月27日、3家老の首実験を終えた徳川慶勝は、全軍に撤兵を命じ、引き揚げました。長州藩の謝罪と降伏を確かめただけの撤兵は、藩主父子の処分がまだ決まっていないため、慶勝が西郷隆盛にたぶらかされたと、一橋慶喜は疑いました。他方幕閣は、慶喜が慶勝と共謀しているのではないかと疑いました。
長州藩主父子や公卿達を江戸に連行するように、征長軍の包囲を解かないようにとの指令を持って大目付が派遣されますが、帰途の慶勝に出会い、すべて手遅れでした。
幕府権力の復権に意欲を見せる幕閣は、参勤交代制を元に戻して厳守するように命じ、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)を大老に就任させました。そして、2老中が兵3千人を率いて上洛しました。
幕府の命により2老中が行おうとしている禁中及び公家への贈収賄の噂と、フランス式軍服を着た兵士達の風体は朝廷を刺激しました。朝廷は賄賂の受け取りを禁じ、異国人の風体での徘徊の禁止を幕府に迫りました。
2老中はひたすら弁解に努め、更に将軍上洛を督促する朝命をもらって江戸に引き揚げました。幕府権力の復活に執念した結果、冷静な判断に欠ける軽率な行動は、ますます幕府を窮地に追い込みました。

 

新たに長州藩庁の実権を握った門閥派の俗論派に対して、急進派は正義派と呼ばれました。諸隊は新藩庁の解散命令に対抗して、民心を獲得するため、自己改革を行っていました。農民層の支持を受けるように努力しました。そして征長軍に降服する俗論派への農民の反発を利用し、組織化していきました。
高杉晋作は1864(元治元)年11月初め、身の危険を感じ、福岡に逃れていました。福岡藩士月形洗蔵や野村望東尼(もとに)は、高杉をかくまっていました。長州藩の状況を憂えた高杉は下関に戻りました。
1864(元治元)年12月15日夜半、高杉晋作は長府功山寺で挙兵しました。この時力士隊を率いる伊藤博文は同調しました。彼らは長州藩の下関新地会所を襲い、貯蔵米を民衆に分け与えました。
諸隊が高杉の挙兵に呼応しました。小郡の代官詰所を占領した品川弥二郎・山田顕義(あきよし)の一隊が村役人を集めて挙兵の支持を訴えました。挙兵に呼応した下士・村役人層が主導する隊が瀬戸内一帯に続々生まれました。
高杉と諸隊の挙兵に驚いた門閥派の藩庁は、萩を中心に出兵し、討伐に民衆を動員しょうとしました。しかし、応じる者は少数でした。
諸隊では、酒宴や遊興を慎むように厳しく命じられ、農民達の手本になるように隊員達は指導されました。もはや勝敗の結果は明らかでした。1865(慶応元)年2月5日、和議が成立しました。正義派が勝利し、門閥政権は半年足らずで崩壊しました。

3月23日、正義派の勝利により、藩主父子により新たな藩是が明示されました。それは、外には恭順、内には武備充実による富国強兵でした。
但馬出石に潜伏していた桂小五郎も帰藩しました。桂小五郎は木戸孝允(たかよし)と改名しました。長州藩の新藩庁は、木戸孝允・高杉晋作がリーダーであり、井上馨・伊藤博文が補佐しました。
藩機構は、政事堂を中心に、簡素で集中化され、行政・財政・軍政の一元化が図られました。旧来の身分や格式にとらわれずに、有能な人材が登用されました。
軍制改革は、大村益次郎(村田蔵六)の下で行われました。大村は、村医の子で、緒方洪庵やシーボルトの下で蘭学を学びました。一時は幕府の講武所の教授を勤めますが、軍政面で才能を認められ、長州藩に迎えられました。
家臣団隊は上士層の干城隊が中心になり、中間・足軽・陪臣達の隊までが藩の軍政方の直轄となりました。諸隊は10隊1500人に精選され、藩庁からの給与の正規の藩兵組織になりました。
武器は外国から輸入する以外にありません。そのための富国策は他藩や外国との交易によるしかありません。そのため敵側の薩摩藩や、薩摩藩を通じてのイギリスとの関係を強めていきました。

長州藩は、宝暦年間(1751-64)の藩政改革で年貢の増徴に成功しますが、その分は別途に保管と運用に当たらせました。その担当部局を撫育方といいます。
北前船の往来で、下関は繁栄していました。しかし、長州藩にとっては、下関は支藩の長府藩領でした。そこで、長州藩は運用・蓄積された資金をもつ撫育方の手で、下関地先を埋め立てて港をつくりました。ここに村田清風による天保の改革で越荷(こしに)方が設置され、下関で倉庫や金融の業務を行いました。
幕末期、繁栄した下関で活躍したのが、廻船問屋の白石正一郎でした。本州と九州との接点である下関には多くの尊王攘夷の志士達も往来しました。彼らの多くが白石家に宿泊し、援助を受けました。彼らから正一郎も影響を受けました。
僧月照・真木和泉、福岡藩士の平野国臣・月形洗蔵らと親しくしていました。西郷隆盛も白石家に寄っています。長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞の援助も行っています。
坂本竜馬も白石家に寄りました。竜馬は、下関で他に伊藤家の本陣に滞在しました。竜馬が京都で暗殺された時、妻のお竜は伊藤家に身を寄せていました。

将軍上洛の催促の朝命をもらった2老中が江戸に帰ったのは、1865(慶応元)年3月8日でした。この頃には急進派による長州藩の権力奪還があり、この異変の報告が入って来ました。そのため、5月16日を期して将軍が江戸を進発すると宣言しました。これが第二次長州征討の出発点となりました。
幕閣・諸大名を従え、幕府の歩・騎・砲兵を率いた将軍家茂は上洛しました。参内した家茂は天皇に、再度の長州征討のための進発であることを奏上しました。
しかし、降伏した長州藩は、表面上は恭順の態度でした。幕府のメンツに過ぎないとの批判が上がりました。しかし、将軍が出陣した以上、引き返す訳にはいきませんでした。

 

薩摩藩は第二次長州征討には反対でした。第一次の総督であった徳川慶勝も征討反対の進言をしました。諸藩も批判的でした。大義名分がないことや、動員のため諸藩の疲弊が増し、人や物の調達が民衆の反発を買うことを恐れました。
しかし、紀州藩・会津・桑名・彦根藩などの親藩、譜代大名が幕府を支持しました。この背後には、フランス公使ロッシュによる支援の約束がありました。
ロッシュは四国艦隊の下関攻撃の直前に着任しました。それまで植民地アルジェリアの総督をしていました。当時フランスのアルザス・ノルマンデー地方の綿工業資本は輸出市場を求めていました。日本ではイギリスに先を越されていましたが、まだ挽回できるとフランスはロッシュに期待していました。着任早々、ロッシュは幕府の強硬派に取り入りました。その人物は小栗忠順(ただまさ)や栗本瀬兵衛でした。
1865(慶応元)年1月末、横須賀に製鉄所・造船所・修船所などを4年間で建設する。その建設費240万ドルを年間60万ドルづつフランスに借款する。そのためフランスに生糸貿易を独占させ、その利益から支払う。以上の約定を、幕府はフランスとの間に取り決めました。この建設は明治政府に引き継がれ、横須賀海軍工廠となります。

 

勝海舟の軍艦奉行罷免で、坂本竜馬らの兵庫海軍操練所塾生は、その行動の場が無くなりますが、勝の西郷隆盛への依頼により、薩摩藩の世話になりました。彼らは長崎の亀山で、薩摩藩の艦船購入の世話や航海術の修行を行いました。これが亀山社中であり、後、海援隊になっていきます。
土佐藩の中岡慎太郎や坂本竜馬は、薩長の提携が反幕の要であると考え、西郷隆盛と木戸孝允を会見させようとします。
坂本の説得に木戸は、幕府や列国による監視のために長州藩が外国から買えない武器・艦船を薩摩藩名義で購入して、密かに引き渡して欲しい、との難題を持ち出します。
西郷はこれを受諾しました。長崎の小松帯刀・坂本竜馬は、木戸が派遣した井上馨・伊藤博文を保護しました。井上・伊藤は薩摩藩留守居役に成りすまし、グラバー邸などを訪れ、外国商人から大量の兵器を購入しました。
この様に薩長の提携ができ、両藩の交易も進められました。これらの物資輸送やブローカーとしての役割を亀山社中は行いました。しかし、一般の両藩士には敵同士であったため、両藩のこの様な接近は幕府だけでなく、それぞれの藩士や民衆にも秘密とされました。

1865(慶応元)年、イギリス公使オールコックが北京駐在公使に転任し、パークスが新任公使になりました。上海駐在領事であったパークスは長崎に立ち寄り、諸藩代表者と会見しました。そして下関にも寄港して、木戸孝允・井上馨・伊藤博文らに歓待され、その後横浜に到着しました。
長崎・下関の情報及びグラバーをはじめとする貿易商からの情報により、諸藩は幕府の貿易独占に不満、自由な対外貿易を望んでいて、遠からず内戦となると当事者達は考えていることをパークスは知りました。
パークスは長州征討などの内乱が貿易の縮小を招くと、幕閣達に平和的な解決を求めましたが、拒絶されました。そこで、本国からの訓令の1868年1月1日の兵庫開港を2年繰り上げること、安政5ヶ国条約の勅許をとること、輸入税を5%に引き下げることの3点を条件に、下関賠償金の2/3を減額するとの提案をパークスは列国代表に諮りました。
フランスのロッシュは一部条件をつけましたが、アメリカもオランダも異存はありませんでした。英仏米蘭の四国代表は艦隊に守られて大坂城にいる将軍や幕閣を会うため大坂に向かいました。

1865(慶応元)年9月15日、将軍家茂(いえもち)は長州再征討の勅許を取るため上洛していました。一橋慶喜(よしのぶ)・松平容保(かたもり)・松平定敬(さだあき)らが参内して朝彦親王・関白二条斉敬(なりゆき)らに圧力をかけ、勅許の確約を迫りました。
一方、薩摩藩の大久保利通(としみち)は大義名分がない長州征討の勅許を出すべきでないと廷臣を説得していました。しかし、幕府の強硬な要求に負け、9月21日参内した将軍に長州再征討を勅許しました。
四国代表は海上で将軍が大阪に戻るのを待っていました。四国代表は幕府に3要求を行いました。幕府がだめなら直接天皇と交渉すると威嚇しました。反対に朝廷では、幕府は自己の主張を通そうとしているのではないかと思っていました。絶対同意しない朝廷と威嚇的な列強との間で、幕府内は混乱しました。

10月4・5日、幕府・朝廷・在京諸藩代表が集まって朝議が開かれました。ここでも薩摩藩の大久保利通らは、違勅である幕府の条約は公認してはならないと主張しました。
公卿達は本能的に外国嫌いで、対外関係では幕府に頑固に拒否しました。慶喜は条約勅許しなければ列国は戦争を仕掛け、外国と戦えば必ず敗れて国家滅亡となる、その責任は全て朝廷にあると脅迫しました。
しかし、廷臣達は無言で抵抗しました。これに対し慶喜は、自分は責任取って切腹するが、家臣達は黙ってはいまい、その覚悟はあるのかと言って席を立ちました。10月5日遂に勅許が出されました。
10月7日、幕府は四国代表に条約勅許を通告しました。兵庫開港の早期実施は努力し、税率改定交渉に同意し、下関賠償金は全額支払うとしました。そして翌年の1866(慶応2)年5月の江戸協約で、中国との天津条約と同様に、全輸出入品とも5%の従量税を強いられました。

この様な長州再征討及び条約勅許の幕府の行動は、薩摩藩の反幕気運を決定的にし、長州藩への接近を強めました。両藩の間を往復して、両藩の接近を坂本竜馬・中岡慎太郎は強く働きかけました。
1865(慶応元)年、木戸孝允の上洛を求める西郷隆盛の使者黒田清隆が下関にやって来ました。木戸は諸隊の反薩摩の感情がまだ強いため固辞しますが、坂本の説得や高杉晋作の勧めもあり、翌年1866(慶応2)年1月8日、木戸は密かに上洛し、薩摩藩邸に入りました。
小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、木戸を歓待しました。しかし、両藩締結の具体策は出てきませんでした。
1月19日に上洛した坂本は、木戸の立場を察して、薩摩藩に同盟具体化の議論に入るように催促しました。その結果、21日夜、6か条の密約が成立しました。
その内容は、討幕を目指した同盟でなかったが、相互支援の盟約で、種々のケースを想定した対幕府策でした。しかし、それは一般藩士には秘密とされました。
この直後の23日夜、坂本竜馬は伏見の寺田屋で、奉行所の捕手に襲われました。この時、竜馬は負傷しますが、同屋の養女お竜(りょう)とともに逃げ、お竜に介抱されました。この後、2人は薩摩の霧島を訪れます。

1866(慶応3)年3月、グラバーの仲介により、イギリス公使パークスの鹿児島訪問が決まりました。前年の3月にはグラバーの斡旋により、新納刑部(しんのうぎょうぶ)・五代友厚・寺島宗則ら薩摩藩士19人が留学生としてイギリスに派遣されました。
寺島は議員や外相に会って、日本の国情を訴え、外交主体を天皇と列侯会議に移すように助力してほしいと訴えました。一方パークスの通訳アーネスト=サトウによって、同じ内容が横浜居留地の新聞に「英国策論」の題で発表されました。
この後パークスに、内政干渉にならない限り、日本の体制の変化を助長せよとの訓令が届きました。
五代友厚は、株式組織の商社によって巨大資本を集中する方法を研究しました。日本の目標を産業と商業の隆盛に見出していました。
1866(慶応2)年5月、帰国した寺島は藩庁に意見を提案しました。閣老と諸侯からなる議定する会院を設けることやその議決方法まで論じました。かって勝海舟が唱えた共和政治の具体的制度が提案されました。
6月16日、パークスが薩摩を訪問しました。パークスは島津久光・茂久父子をはじめ西郷隆盛・寺島宗則らと会談しました。

 

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