江戸時代4

北九州の歴史

ホーム

5.長州と薩摩←|→7.幕末の北九州

江戸時代4
6.大政奉還
 

将軍家茂は大坂城を長州征討の本営としました。諸大名・旗本の軍勢10万人が大坂に入りました。このため、大坂やその周辺の物価は騰貴し、人夫徴発などの負担を民衆に強制しました。
1865(慶応元)年以降、諸物価高騰は狂乱状態でした。経済的要因だけでなく、内戦状態にあることが拍車をかけました。諸藩が戦争状態のために兵糧米を備蓄したこと、関門海峡封鎖により西廻りの米が入らなくなったこと、それと投機のために米価は天井知らずに高騰しました。
数か月で米価は2倍になるのに対し、日雇や手間賃の実質賃金は数年前の半額になるなど、特に下層の庶民の打撃は決定的でした。世直しの大一揆や打ちこわしは不可避でした。

幕府は第二次長州征討の体制を強めていき、1865(慶応元)年11月には、各藩の部署も決めました。そして大目付永井尚志(なおむね)を近藤勇らを随行させて広島に派遣します。しかし、長州軍が少しも侵入させまいとの覚悟に対し、征長軍は早く帰国したいとの気持ちであることを知り、一行は寛大な処分で幕府の威信を保つように、平和的解決が望ましいと判断しました。ところが、一橋慶喜は強硬な意見を主張しました。
1866(慶応2)年1月22日、幕府は長州藩から10万石を取り上げ、藩主父子永蟄居の処分案を奏聞して、勅許を得ました。老中小笠原長行(ながみち)や永井尚志を広島に派遣しますが、長州藩は言を左右にして従おうとしませんでした。
長州藩の回答延期の戦術に対し、5月9日、幕府は6月5日を期して進撃すると最後通告をしました。

 

1866(慶応2)年5月1日、摂津西宮で主婦達が米の安売りを始めました。3日には西宮中で、大勢が米屋に押しかけ、安売りを強要しました。拒否すれば、居宅を打ちこわしました。4日河内富田林、8日伊丹・湊川で騒動がありました。10日には池田に波及しました。
幕府は大坂に飛火するのを恐れ、徒党の禁令が出されますが、5月13日から14日にかけて大坂中に打ちこわしが広がりました。幕府の征討のための上納金賦課を非難し、米屋や高利貸を軒並み襲いました。
この前後から5月下旬にかけ、摂津・河内・和泉・大和で庶民が蜂起しました。直接的には米価高騰・人夫徴発でしたが、軍資金賦課は豪商のみならず、町村の一般庶民まで強制され、その限度を超えたための蜂起でした。

5月23日武蔵川崎宿で商家の打ちこわしがありました。28日にはその波は江戸品川宿にも及びました。これ以降江戸全体が騒動に巻き込まれました。米屋とともに貿易商が襲われました。6月に入って江戸の打ちこわしは収まりました。
6月13日武蔵秩父で一揆が発生しました。瞬く間に武蔵西北一帯での世直し大一揆に発展しました。この武州一揆には10万人が参加しました。開港以来の物価騰貴と生糸の買占めで、養蚕・製糸地帯の農民や職人達は生活を破壊されつつありました。生糸の買占めは、幕府が特定の商人に鑑札を与え、その商人が冥加金を上納することにより生糸の買占め権が与えられていました。
この様は世直し一揆で、陸奥国信夫(しのぶ)・伊達郡の信達一揆も6月15日に発生しました。

1866(慶応2)年は一揆や打ちこわし件数が最高の年でした。特に打ちこわしなどの都市での暴動の件数が群を抜いています。
百姓一揆106・都市騒動35・村方騒動44計185件が発生しています。村方騒動は村役人の不正や地主高利貸のあこぎな小作料徴収を契機に、村政の民主化や平等化の騒動で、これらが他に波及して非合法な行動になって一揆になってしまう例が多くありました。

 

幕末期に新しい宗教の動きがありました。民衆の利益や願望の反映した民衆宗教が生まれてきました。その代表が天理教や金光教でした。これらは民衆の世直しの願望を反映し、その系譜は民俗信仰的な神道にありました。
天理教を開いた中山みきは、大和国山辺郡庄屋敷村(天理市)の地主の妻で、神がかりを体験し、使命達成のため施しに出精しました。彼女のシャーマン的呪術は、お産や病気直しの神様と周囲から信じられました。
施しにより夫の死後、中山家は破産状態でした。窮乏の中から天理王命を唯一神とする教えを固め、中山家の屋敷こそ、この世の聖地とし、天理王命を信じれば民衆は救われ、この世の極楽が到来すると説きました。
権力者や有力者には反感を隠さず、唯一神の前での万人の平等を主張しました。当時の世直しの雰囲気を反映してあるべき救済として世直しを謳い、来るべき新しい世を豊作などの農民の願望が実現されるとしました。

備中国浅口郡大谷村の貧農の養子、川手文治郎が金光教を始めたのは1859(安政6)年のことでした。信心深く、勤勉な文治郎は、金乃神からお告げを受けました。民衆救済を命じられ、それ以来布教に専念しました。
苦労と勤勉が報われないはずが無いとの確信を持ちました。金乃神こそ最高神で、全ての者が金乃神の氏子で、他人はいないと教えました。平等感・連帯感を持って、人々の病気や悩み事、農作業について相談相手になりました。
陰陽道の日柄・方角の俗説や修験者の呪術に対し反対しました。目覚めて自己を取り戻すことを繰り返し人々に説きました。
天理教・金光教に遅れて伊藤六郎兵衛の丸山教、出口ナオの大本教が出現します。これら民衆宗教は、世直しの状況が到来したことと、その深化の中で誕生しました。

 

幕末のこの時期、横浜の居留地の中で、新しい文化が誕生しつつありました。アメリカの宣教師で、眼科医のヘボンは1859(安政6)年に来日しました。日本人への医療と伝道に従事しました。1864(元治元)年、最初の和英辞典を完成しました。1867(慶応3)年刊行されました。彼はヘボン式といわれるローマ字による日本語表記法を作り、その辞典で使っています。

1850(嘉永3)年、遠州灘で漂流し、アメリカ船に助けられたアメリカ彦蔵は、サンフランシスコやボルチモアで成長し、アメリカに帰化しました。
アメリカ公使館通訳に登用され、里帰りしてハリスを助けました。
一旦アメリカに帰国しますが、日本に舞い戻りました。1865(慶応元)年、横浜で日本語の木版新聞を発刊しました。

 

1866(慶応2)年6月7日、幕府の軍艦が防予諸島上関(かみのせき)・大島郡一帯を砲撃しました。翌8日、伊予松山藩兵・幕府兵が大島に上陸し、制圧します。第二次長州征討戦が始まりました。
6月12日、高杉晋作指揮下、長州の丙寅(へいいん)丸が幕府艦隊を夜襲し、第二奇兵隊・浩武隊他が上陸し、征長軍は総崩れとなり、大島は奪還されました。

芸州口では、6月14日未明、安芸・周防国境の小瀬川で戦いが始まりました。征長軍は幕府兵のほか、紀州・彦根・大垣・高田・宮津藩兵で、長州軍は遊撃隊・御楯隊他の諸隊と岩国藩兵でした。
ここでも征長軍は敗れ、長州軍は進軍し、芸州大野で戦闘と対峙が続きました。

石州口では、6月16日に紀州・福山・浜田・津和野藩兵の征長軍と大村益次郎を参謀とする長州軍の間で戦闘が始まりました。
長州軍が一気に津和野領を攻略し、浜田領西端の益田を占領しました。そして、7月5日には浜田城にも迫りました。援軍の指揮を命じられた鳥取・備前藩主は、これを断り講和を提唱しました。
浜田藩も講和を提議し、その交渉中、突然城を焼いて藩主以下は松江に脱出しました。こうして長州軍により石州口一帯は占領されました。

小倉口では、征長軍は老中小笠原長行(ながみち)指揮下幕府兵、小倉・肥後・久留米などの九州諸藩兵が固めていました。6月17日未明、参謀高杉晋作、山県有朋指揮下の奇兵隊などが門司・田野浦(門司区)を攻略しました。
7月27日、門司から大里(門司区)を攻撃します。肥後藩家老長岡監物は小笠原長行と衝突し、7月末日肥後藩兵は撤退します。諸藩も次々と撤退します。諸藩の撤退と、将軍家茂の死去の報を受け、小笠原長行自身が撤退します。
残された小倉藩は孤立します。8月1日小倉城を自焼し、藩主以下は豊前田川郡香春(香春町)に撤退します。長州軍は小倉を占領します。小倉口の戦いについては「7.幕末の北九州」でもっと詳しく述べます。

第二次長州征討戦での幕府側の敗戦と各地での蜂起の報告の中、将軍家茂は7月20日死去します。
一橋慶喜は7月27日徳川宗家の相続を承諾し、8月4日慶喜自ら出陣の勅許を得て、8月12日に出陣しょうとしたところに、小笠原長行の撤退と小倉城落城が知らされました。8月20日幕府は将軍の死去と慶喜の宗家相続を公表しました。
幕府は長州藩に第二次長州征討戦で敗れました。洋式装備された幕府兵を除けば、諸藩兵はまだ甲冑を着て、槍を持ち、馬にまたがる状態した。それに大義名分のない戦いに藩財政は疲弊し、領内では民衆の蜂起の恐れさえある状況でした。幕府側の実態は、戦意のない烏合の衆でした。
戦線では、この様な幕府側に対し、長州側に民意は傾き、進軍する長州軍に協力するほどでした。長州藩は領内では郷土を守ろうとする民衆の意識を組織し、戦線に於いては、敵を掃討するだけで侵略の意図はないと宣伝しました。

幕府は大名に対する威信や統率力を失っていました。こうした状況で、公卿達にも反幕の気運が高まってきました。岩倉村に幽居していた岩倉具視は行動を始めました。
1866(慶応2)年8月末日岩倉に説得された大原重徳(しげとみ)・中御門経之以下22人が参内し、孝明天皇に建議しました。朝彦親王や関白二条斉敬(なりゆき)らを弾劾し、天皇が列侯を召集し、国是を立てることを進言しました。
本意でなかった条約勅許の時に、何故言上しなかったのかと天皇は怒りました。これに乗じて参内した公卿を幕府は処罰しましたが、既に朝廷内には反幕の空気は広がっていました。
1866(慶応2)年12月12日、孝明天皇は病に倒れます。一時回復しますが、24日夜から急変し、翌25日夜紫斑が現れ、血を吐いて重態となり、遂に死去しました。

 

1866(慶応2)年12月5日、慶喜は第15代将軍に就きます。翌1867(慶応3)年1月9日には明治天皇が即位しました。
宗家を相続した後の9月2日、慶喜は施政方針を示しています。その中心は、陸海軍を強化することで、頼みの綱はフランスでした。
しかし、兵士を徴発することは中々うまくいきませんでした。その負担が世直し一揆の一因となっていました。そこで村高に応じての兵士をだす代わりに、納められた資金により兵を雇うことに力を入れました。この様な傭兵が幕府の歩兵の中心になりました。

軍制改革ばかりでなく、行財政改革もフランス公使ロッシュの指導と助言を受けました。外交面では、ロッシュはイギリスと薩長の接近を誇大に話して、幕府の正当性を印象付けるには兵庫開港を列国に確約することを助言しました。行政面では近代的な内閣制度を推奨しました。
慶喜は将軍職に就くと、月番制と合議制であった老中制度を責任分担制度に変えました。そして人材の登用に門地により選ぶなと言うロッシュの忠告で、大名でなくても若年寄に登用しました。
また租税制度の改革もロッシュは提案しました。しかし、それは重い年貢を廃止するものでなく、その上に諸税を加重しょうとするものでした。

幕政改革の財政的基礎はフランスからの借款に依存していました。そして軍の武器や服装はフランス製で、訓練もフランス人将校に任せられ、貿易はフランスの貿易会社に独占されようとしていて、行財政制度はロッシュの指導の下に行われようとしていました。
慶喜は1867(慶応3)年5月、パリ万国博覧会に参列する使節団にナポレオン3世への親書を託しました。ナポレオン3世への感謝とロッシュの力を頼りにしていることを書き添えました。
1866(慶応2)年5月に勝海舟は軍艦奉行に復職していました。勝海舟らごく少数の者が幕府内で、フランスへの依存やひも付きの多額の借款に反対していました。その反対は余りに力がなく、勝は辞表を出すしか方法はありませんでした。

 

1867(慶応3)年3月末、将軍慶喜は大坂城内で、英仏米蘭の公使達と会見しました。ここでロッシュの助言に従い、期日通りの兵庫開港を確約し、列国を味方につけようとしました。
この前後に幕府は朝廷に兵庫開港の勅許を要請しました。しかし、朝廷は諸藩の意見を聞くべきだと事実上拒否しました。在京の薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、前年の条約勅許の際、兵庫開港は保留されていると、幕府に反対しました。そして、列侯会盟の糸口を探りました。
薩摩・越前・宇和島・土佐の四藩は上洛の上、上申すると返答しました。そして、島津久光・松平慶永・伊達宗城・山内豊信が相次いで上洛しました。
西郷・大久保らは、将軍は大政を奉還して一諸侯になり、天下の公議による朝廷の政治を補佐するように慶喜を説得するように久光らに進言しました。
しかし、慶喜に招かれた四侯は、慶喜からの兵庫開港や長州処分への諮問に答えるのがやっとで、大政奉還の要求は全く出すことができませんでした。四侯会議は何の成果もなく、皆帰国しました。

この結果に力を得た慶喜は、5月23日参内し、兵庫開港を強硬に迫りました。大原重徳らの反対に対し、条約勅許の時のような威嚇が行われ、翌24日勅許されました。5月25日幕府は江戸・大坂の開市と兵庫の開港が公表されました。
兵庫開港問題は、薩摩藩の西郷らにとって、幕府を追い詰め、列侯会盟を実現する最後の切り札でした。そこで、5月29日小松・西郷・大久保らは武力によって倒幕することに踏み切りました。
長州藩の高杉晋作は4月14日、肺病で下関で亡くなっていましたが、生前に敷いた倒幕の路線は不変でした。9月半ば、大久保利通は長州に赴き、木戸孝允・広沢真臣(さねおみ)らと会談し、藩主毛利敬親・定広父子とも会見しました。薩摩と長州の間で倒幕計画が進められました。

この様な薩長の動きの頃、土佐藩でも動きがありました。この頃の土佐藩の主流は、武市瑞山らの尊王攘夷派は一掃され、後藤象二郎・福岡孝弟(たかちか)らの公武合体派が握っていました。
上士出身の後藤は長崎土佐商会の岩崎弥太郎の活動にも飽き足らず、長崎に出張して来ました。このため亀山社中の連中の反感を買いました。しかし、坂本竜馬は後藤に接近しました。坂本は土佐藩を幕府から引き離し、反幕側に引き込もうと考えました。
1867(慶応3)年3月頃、坂本・後藤・中岡慎太郎・福岡孝弟の四者会合が行われました。ここで坂本・中岡の脱藩が許され、彼らを指導者とする一団が藩の公認組織となりました。こうして坂本を隊長とし、運輸・開拓・投機などを任務とする海援隊が、中岡を隊長とし、京都藩邸に属する陸援隊が誕生しました。

この年の6月、坂本は後藤とともに上洛する船中で、新しい国家体制の綱領を示しました。これが「船中八策」です。その構想は、大政奉還によって朝廷中心に政治を行い、無窮の大典(憲法)を定め、上下二院の議政局、御親兵を置き、有材の公卿・諸侯や人材を顧問にして、議員を置いて全て公議によって決定し、外交や貿易においては外国と対等な関係を持つというものでした。
後藤が上洛すると、既に四侯会議は潰れ、薩長の倒幕の計画は進んでいました。後藤は幕府と薩長の間の妥協のためには大政奉還論が有効であるとして、在京の有力者と図って、これを藩是に決めました。
1867(慶応3)年6月22日、土佐の後藤・福岡・坂本・中岡らと薩摩の小松・西郷・大久保らの間に薩土盟約七ヶ条が締結されました。7月後藤は藩主山内豊信の説得のために帰藩しました。
藩の軍事総裁の板垣退助らは大政奉還に反対し、薩長とともに倒幕を進言しますが、豊信は板垣を罷免しました。豊信は大政奉還の決意を固め、土佐藩の路線は決定しました。

薩土盟約では土佐藩も兵を上洛させることを約束していましたが、公平に周旋するに兵の後ろ盾は不要として豊信はこれを拒否しました。このため、後藤は上洛しますが、西郷らはこれを疑惑と不信で迎えました。
武力による倒幕を決断した薩長は、そのための大義名分や新たな政治形態や確固とした政治理念を持っていませんでした。ここが最終的には武力による倒幕としながら、大政奉還の路線と絶縁することが出来ない点でした。
薩摩藩の軍勢は続々大坂に到着し始めました。長州征討で長州のために斡旋役をした芸州藩も協力を約束しました。ここに薩長芸の倒幕同盟が成立しました。小松・西郷は後藤に対し、挙兵倒幕を進めるので、大政奉還の建白をしたいなら勝手にしなさいと告げました。

朝廷でも岩倉具視を中心に、王政復古が画策されました。10月6日薩摩の大久保利通や長州の品川弥太郎らは岩倉と王政復古の具体策が協議されました。
10月8日、薩長芸三藩代表は、中山忠能(ただやす)・中御門経之(つねゆき)に対し、倒幕の密勅を奏請しました。9日には岩倉も中山に対し、王政復古の大命を奏請しました。10月13日付で島津父子に14日付で毛利父子に倒幕の密勅が下されました。そして将軍慶喜、京都守護職会津藩主松平容保、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)を討てとの勅命も下りました。

薩長が挙兵倒幕へ急に傾いたことに、土佐藩の後藤らは驚きました。薩長芸の倒幕同盟が成立した9月20日、若年寄の永井尚志(なおむね)は後藤を招き、大政奉還の建白を早急に出してほしいと催促しました。10月3日山内豊信は老中板倉勝静(かつきよ)に大政奉還建白書を提出しました。
幕府にとって、事態は急迫し、躊躇する余裕すらない状況でした。名を捨てても、実質的に徳川家が全権を掌握しうる方策を模索していました。後藤や山内豊信が進めてきた大政奉還論は絶好の誘い水でした。
10月9日、幕府は大政奉還を決めました。10月14日将軍慶喜から奏上され、翌15日に許されました。きわどいタイミングでした。倒幕の密勅が下された日、大政奉還されました。

 

5.長州と薩摩←|↑6.大政奉還|→7.幕末の北九州

江戸時代4

北九州の歴史

ホーム