江戸時代4

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7.幕末の北九州
 

小倉藩5代藩主忠苗(ただみつ)、6代藩主忠固(ただかた)は播州安志(あんじ)小笠原家からの養子で、ここからの技術が加わって小倉織ができました。嘉永年間には小倉織は盛んで、主として藩士の子女が内職として織りました。
小倉藩では1852(嘉永5)年、島村志津摩(しづま)が家老になり、翌年には小宮民部が家老になりました。1854(嘉永7)年、島村が勝手方家老になると、郡代河野四郎の補佐を得て、本格的な藩政改革が行われました。

過去5年間の大庄屋・庄屋の帳簿が調査点検され、無駄が省かれ、効率的な運用に改められました。
殖産興業には特に力を入れ、国産方を制産方と改め、藩による直営方式が取られました。石炭・薬・茶・米・櫨・葛・玉子・楮(こうぞ)などの国産品を全て藩の会所に集めること、直接販売は会所の許可と益銀を納めることが定められました。
田川郡の石炭採掘に力を入れました。薬は小熊野(小倉北区熊谷)に薬園を設けました。

生産物の自由売買を規制し、制産方の許可と低い価格での買い上げは豪商の反発を買いました。この問題では島村と小宮は対立しました。また藩内で、島村が小倉藩になってからの家臣、小宮がそれ以前の譜代の家臣という出身家柄の派閥抗争の面もありました。1858(安政5)年、小宮は家老を退き、翌年、島村も家老を退きました。

福岡藩でも1854(安政元)年、財政整備に着手しました。
翌年には殖産興業の一環として楠橋村真名子(まなこ)に砂鉄の製鉄場を設けました。

 

1858(安政5)年、安政の5ヶ国条約が締結されました。この後安政の大獄があり、1860(万延元)年には、反対に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されています。
この年、小倉藩8代藩主小笠原忠嘉(ただひろ)が亡くなり、嗣子がいないため、分家の播州安志藩から忠幹(ただよし)が養子として第9代藩主に迎えられました。

1861(文久元)年2月ロシア艦ポサドニック号が対馬に来島し、5ヶ月間停泊しました。これに抗議のイギリス艦2隻が来島する中、ロシア艦は対馬を退去します。
この前年には、イギリス人が楠原(くすばる、門司区)に上陸して大騒ぎになりました。またこの年にはイギリス船4隻が門司沖に停泊、関門海峡を調査測量しました。

1861(文久元)年11月、江戸詰めの島村志津摩は勝手方家老に復帰しました。藩主忠幹(ただよし)は、緊迫した政情に対処するため、1862(文久2)年8月、弟の小笠原敬次郎を相談役として政事世話方に就任させました。
しかし、島村と敬次郎は対立します。そのため、1862(文久2)年8月島村は免職となります。この年11月小宮民部が家老に復職します。

1863(文久3)年3月の将軍家茂上洛に際し、藩主忠幹(ただよし)は護衛のため上洛しました。この当時の京都は尊王攘夷派の公卿や志士達で牛耳られていました。その勢いは増すばかりで、上洛していた雄藩の藩主達も辟易して帰国しました。忠幹も帰国しました。長州藩だけが意気軒昂でした。
この頃、大里・葛葉・門司・速戸などに砲台を築き、紫川河口の東西に台場を設け、領内の寺社の鐘を徴発して、木町の鋳造場で大砲や弾丸を製造して、警備体制を固めていました。
家老小宮民部は庄屋以上の農民から農兵を集め、苗字帯刀を許しました。企救郡で267人、藩内で1457人に達しました。金辺峠・道原・田代・荒生田・中原・狸山・大里・門司・田野浦の関所・番所に配置しました。

 

福岡藩主黒田長溥(ながひろ)は島津家からの養子でした。洋式の軍備を採用するなどの開明的藩主でした。1858(安政5)年には西洋式軍事調練を行っています。1860(万延元)年には軍制改革を行い、外国から艦船を購入し、軍事力を充実させました。
この頃藩内では、月形洗蔵・加藤司書らの勤王派が保守派と対立していました。公武合体論の長溥は1861(文久元)年、月形らを流罪にして藩論をまとめようとしますが、保守派重臣とも対立しました。

1861(文久元)年、関門海峡の調査測量していた英国船から若松や戸畑に上陸するなど騒然としました。
1863(文久3)年、藩内各所に砲台を建設しますが、筑前遠賀郡では柏原・芦屋・洞海湾の中ノ島に砲台を築きました。

延ばしに延ばしていましたが、1863(文久3)年5月10日を攘夷期限とする、と将軍家茂は尊王攘夷派の圧力に負けて上奏しました。5月10日深夜、田野浦に投錨していたアメリカ商船ペムプローグ号が、長州藩船から砲撃されました。
5月23日には、関門海峡を通過していたフランス艦が長州藩から砲撃されました。5月26日同じく海峡通過中のオランダ艦が砲撃されました。
小倉藩は砲撃しませんでした。このため、小倉藩を勅諚違反と、長州藩は責めました。小倉藩は、襲って来た者を掃攘するのが幕命であり、幕府は庶政を委任されていると反論しました。
5月26日オランダ艦、6月1日アメリカ艦、1月5日にはフランス艦が報復にやって来て、下関を砲撃しました。長州藩は大きな被害を受けました。
朝廷は小倉藩に対し、攘夷実行を申し渡しました。小倉藩は幕府と相談して攘夷を実行すると回答して、命令を回避しました。

長州藩は小倉藩が攘夷実行しないため、海峡の両側から砲撃できないとして、小倉領内に砲台用地の借用を求めました。小倉藩はこれを拒否しますが、長州藩は小倉領田野浦に砲台を築き始めました。
この様な状況を幕府に抑えてもらうしかなく、郡代河野四郎と勘定奉行大八木三郎右衛門を使者として派遣しました。
田野浦の漁民の家は長州藩兵の宿舎となり、大砲の試射のため漁ができませんでした。藩兵が狼藉を働いたり、下関の渡船場では小倉領の者は留置されるなどの無法が行われました。
京都では、攘夷実行しない小倉藩は大問題となり、小倉藩の減封・転封の話さえ出ました。攘夷視察の勅使として正親町公薫(おおぎまちきみしげ)が西下することが決まりました。7月上旬、勅使は山口に着き、攘夷実行の回答を求めました。
小倉藩は攘夷実行を決めました。勅使は長州藩主父子とともに小倉領に上陸し、大砲試射を視察しました。
河野・大八木の使者は、幕府の役人とともに7月23日、白野江(門司区)沖に幕府軍艦で着きました。長州藩兵は、小倉藩の者が乗り込んでいるとして引渡しを求めました。河野・大八木は幕府に迷惑がかかるとして、艦内で自刃しました。

幕府は田野浦を占領している長州藩兵を武力で追い払うように指示しますが、小倉藩は長州藩との衝突を避けました。このため、幕命を守るのを第一に考えていた小倉藩は窮地に立たされました。
しかし、1863(文久3)年8月18日のいわゆる八・一八政変により、長州藩は京都を追われました。田野浦の長州藩兵も撤退しました。
小笠原敬次郎は、政事世話方を解かれ、江戸の赴く予定でした。しかし、弓の稽古中に腕に傷を負い、出血多量で急死しました。
5月頃から英彦山では、長州藩士らと図って、小倉城を占拠する謀がありました。しかし、発覚して11月に座主以下、僧が小倉の獄に投獄されました。
京都を追放された長州藩は、京都を再制覇しょうとする強硬派が主導権を握りました。長州軍は上洛し、1864(元治元)年7月、蛤門で会津・薩摩・桑名藩兵と激戦になります。この禁門の変で長州軍は敗れました。そして、長州藩征討の勅命が下されました。

外国船を攻撃し、関門海峡の通航を阻止している長州藩に対し、1864(元治元)年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が下関を砲撃しました。長州藩は大きな被害を受けました。
長州藩は諸藩からなる征長軍に包囲されました。長州藩は門閥派により藩権力を握られました。小倉にも九州諸藩からの兵が集結しました。1864(元治元)年11月、禁門の変の責任者として3家老が自刃し、長州藩は降伏しました。この様にして第一次長州征討は戦闘なく終わりました。

 

1863(文久3)年の八・一八政変を知った福岡藩は、若松・黒崎に兵を出して国境を固めました。9月5日、攘夷視察で西下した正親町公薫が黒崎に着くと、勅使と認めず、長崎奉行と同格に扱いました。このため一行は山口に引き返しました。
1864(文久4)年、外国艦隊の長州攻撃の話が広まると、福岡藩は若松に兵を出しました。そして、禁門の変の報せで、黒田長溥は加藤司書と月成元勲(つきなりもといさ)が率いる一隊を伴って上洛予定でした。しかし、長州征討の命が下ったため、二隊をこれに備えて黒崎に配備しました。
長州征討を命じられた福岡藩は、征長軍総督の徳川慶勝の元に加藤司書を遣わし、長州藩にも人を遣わして、戦争回避の周旋活動を行いました。
再度登用された勤王派は長溥の意を受け、1864(元治元)年12月長州藩高杉晋作、薩摩藩西郷隆盛を招いて秘密会議を行い、征討軍解兵後の五卿の遷移が決定されました。
第一次長州征討が終わり、長州に西下していた三条実美ら五卿は福岡藩預りとなりました。1865(元治2)年1月5日、黒崎宿の桜屋に着き、歓待を受けました。

福岡藩の勤王派は、長州藩周旋成功で藩内の発言力を増し、加藤司書は家老に就任しました。しかし、藩内は保守派との対立で混乱し、藩主黒田長溥は、藩主の専制政治の確立を阻まれて、勤王派に反感を抱きました。6月に加藤司書、月形洗蔵ら勤王派を捕らえました。10月に加藤らは切腹、月形らは斬首、野村望東尼(ぼうとうに)らは遠島に処せられました。
この後、福岡藩は幕府方に傾斜していき、大宰府延寿王院に移った五卿を冷遇し、勤王派志士達の反感を買いました。

 

1864(元治元)年12月、高杉晋作は長府功山寺で挙兵しました、この挙兵に諸隊は呼応し、1865(慶応元)年2月には長州藩の実権は急進派に握られました。
長州藩は外に対して恭順、内には富国強兵で軍備を整備していきました。1865(慶応元)年9月、第二次長州征討の勅許を幕府は受け取りました。薩摩藩は再度の征長には反対でした。この頃より長州と薩摩は接近を強めました。

1866(慶応2)年6月7日、第二次長州征討戦は始まりました。四境戦争といわれるように長州藩を囲む4方面で戦闘が始まりました。6月3日、小倉口征長軍総督として、老中小笠原長行(ながみち)が小倉開善寺に入りました。小笠原長行は唐津藩主の子として生まれます。藩主になることはありませんでしたが、幕府権力の中枢を歩みます。
第一次長州征討の時も小倉が拠点となったため、農民は種々の供出と、夫役が課せられ、農作業に支障が出、米をはじめ諸物価は高騰しました。
第二次長州征討でも、戦争準備の諸物資の供出と夫役のため農民の生活は破壊されました。更に、農民を不足している従者として出陣させたため、農村の人手不足は深刻化しました。
九州諸藩から軍勢が小倉に集まり、小倉の町は騒然としました。先鋒を勤める小倉軍は、昔ながらの槍隊が主力で、まだ甲冑を身に着けていました。西洋銃を持つ洋式部隊はわずかでした。

1866(慶応2)年6月17日未明、長州軍の田野浦急襲で小倉口の戦闘は始まりました。西洋式装備の奇兵隊・報国隊が上陸しました。その威力に小倉軍は圧倒され、大里方面に後退しました。
田野浦・門司での戦いの後、長州軍は赤間関に引き揚げ、小倉軍は大里を中心に陣を固めました。
7月2日、長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。翌日まで激戦が続きました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。しかし、応援の諸藩の軍や、幕府軍はこれを眺めるだけでした。小倉口総督の小笠原長行の前線視察は1回しかなく、戦場に姿を見せず、ほとんど本営の開善寺に籠もっていました。
前年の1865(慶応元)年9月小倉藩主忠幹(ただよし)は亡くなり、後継の豊千代丸はわずか4歳でした。幼君を擁して小倉軍は戦っていました。長州軍は進攻を一時中断しました。
小倉軍は体制と整え、延命寺台場の守りを固めました。肥後熊本軍が赤坂・鳥越一帯の守りにつき、その後に幕府軍が配備されました。
 

7月27日、長州軍の進攻が始まりました。下関の亀山八幡宮下堂崎港を発って門司白木崎に上陸し、大里を経て、馬寄(まいそう)・藤松・新町と進み、激しい戦闘となりました。赤坂・鳥越は小倉藩にとって小倉を守る最終防衛地でした。
長州軍は家老長岡監物に率いられた肥後軍の攻撃を受けました。連戦連勝の長州軍はこの戦闘で大きな損害を受けました。
しかし、長岡監物は、諸藩の兵や幕府軍が戦列に加わらず、長州軍が海上より赤坂台場を攻撃しているのに対し、小倉沖に回送された幕府軍艦が攻撃しないのを見て、小倉口総督小笠原長行への不信は決定的となりました。

7月28日、肥後軍は夜陰の中を赤坂・鳥越から引き上げました。翌29日夜半、小笠原長行は幕府軍艦で小倉を脱出して、撤退しました。将軍家茂急逝の報せを聞いた後の行動でした。諸藩の兵も肥後藩の引き上げで、それぞれ帰国してしまいました。

赤坂・鳥越激戦址の碑

孤立した小倉藩は軍議を開きました。その結果、防戦に努め、時機を見て開城し、その後は要地に於いて戦うというものでした。しかし、肥後軍帰国後も、長岡監物の指示で残っていた竹崎律次郎の主張を受け、長州軍の進攻しないうちに城を自焼し、不退転の決意で、要地に於いて決戦に出るということに家老小宮民部は決めました。
1866(慶応2)年8月1日、城内に火が放たれました。城は煙に包まれました。城下は大混乱になりました。幼君豊千代丸を守る一行は田川郡に向けて小倉を発ちました。

 

田川に通じる街道は撤退する小倉藩士や避難する町人達で大混乱していました。2年前に江戸より戻っていた島村志津摩(しづま)は、前年には小倉軍の最高責任者になっていました。小倉城自焼の煙を紫川河口東浜台場で見た島村は、田川郡との境の金辺(きべ)峠に向かいました。

島村は金辺峠を拠点に、企救郡内からの農兵の集めて、反撃に出ることを決めました。領内を長州軍からの侵略から守るとの郷土防衛意識をもって志願した農兵が数多く集まりました。
藩庁を田川郡香春(香春町)に移して、8月2日に採銅所で軍議を開きました。ここで、家老小宮民部は、肥後藩細川家に頼ることを主張しました。参加者が少ないため、翌日香春で再度軍議が開かれ、ここで島村と小宮は対決し、島村の決戦論が大勢を占めました。
幼君豊千代丸を守る一行は、頂吉(かぐめよし)を越え、採銅所に入り、添田を経て筑前領に入り、秋月を経由して肥後に入りました。
 8月2日、小倉に入った長州軍は、本営を広寿山福聚寺に置きました。四境戦争で兵力に限界のある長州軍に対して、8月7日島村は奇襲をかけました。以後企救郡内の山野で島村志指揮下の軍を中心に、遊撃戦が展開されました。

金辺峠にある島村志津摩の碑

田川に到る街道の金辺峠に展開する島村志津摩を総括とする軍は、本営を高津尾に進出させ、中津に到る街道に展開する小宮民部を総括とする軍は、狸山口に本営を構えました。この二手から長州軍前線を攻撃しました。
9月に入って、長州軍と戦っている石州口と芸州口は休戦になりました。しかし、小倉口の戦闘は依然と続いていました。休戦になった前線から小倉に増援の諸隊が到着しました。
10月4日夜明けに、長州軍は高津尾と狸山口の二方面に総攻撃をかけました。圧倒的大軍に対する高津尾での島村指揮下の軍の必死の防戦にも関わらず、しだいに金辺峠に後退していきました。狸山口から攻防の激しい金辺峠方面に一部の兵力を割きました。しかし、狸山口でも至る所で苦戦しました。
小倉藩首脳は小倉軍の戦力からして、もう限界と感じていました。大宰府の都落ちの五卿を護衛している肥後藩士と同地に滞在している薩摩藩士に、止戦の調停を依頼しました。しかし、長州軍と金辺峠で戦い続けている島村志津摩を説得できるかが心配でしたが、不本意ながら島村は同意しました。

交渉は難航しました。10月21日、今までともに戦ってきた企救郡の農兵達と決別し、島村率いる軍は金辺峠から退きました。22日には、狸山峠を守っていた軍も後方に退きました。
香春藩庁は下関に使者を派遣して交渉しましたが、難航しました。特に人質の件で、互いに妥協点を見出せませんでした。一部始終を聞いた島村は、幕府から預かった小倉藩領を全て放棄して、他国に移住することを提言し、12月21日小倉藩は長州藩に告げました。

1866(慶応2)年末、家中の者の家族が肥後に旅立って行きました。この状況に長州藩からは、打開に尽力したい旨の使者がありました。小倉藩では屈辱的講和に不穏な動きがありました。この事態を収拾すべく、島村志津摩に家老就任の要請がありました。
長州方と徹底抗戦を主張した藩士数十名が赤心隊を結成しました。強硬な態度の赤心隊を島村は説得し、決起を思い留まらせました。
1867(慶応3)年1月22日小郡で、小倉藩の使者と長州藩の重役の間で、止戦協定が締結されました。小倉領企救郡1郡を長州藩が預かるというものでした。2月6日、島村は熊本の豊千代丸、母貞順院に拝謁して、報告しました。

 

一時添田に移っていた藩庁を香春に戻し、3月18日、小倉藩を香春藩として発足しました。その後、肥後に退避していた者達に帰国の触れを出しました。長い戦乱と肥後への退避などで、藩財政は極度に悪化していました。
この様な状況下、幕府には天領日田よりの米を要請し、大坂の豪商からの献金はじめ、領内富豪には寄金をさせました。
この様な状況を理解してもらうため、家老島村志津摩は上洛し、老中らに小倉城自焼以来の経過と、惨状を説明し、長州藩の企救郡預かりのもとになっている、長州征討の大義名分である毛利侯の罪科を許し、小倉藩の本領安堵をして下さるように懇願しました。その結果、15万石は安堵されました。

島村が上洛している間の5月14日、小宮民部は隠居謹慎となり、失脚しました。小倉城自焼の責任が問われたと思われます。なお、家督はその子が、知行そのままで継ぎました。
1867(慶応3)年6月1日、第9代藩主忠幹(ただよし)の名で、豊千代丸の家督相続願いが出されました。しかし、忠幹は2年近く前に死去していました。長州藩との関係悪化があり、表向きは病気療養とされていました。
豊千代丸は、滞在先の熊本で、忠忱(ただのぶ)と改名し、第10代藩主として家督を継ぎました。忠幹死去の報には、長州藩主毛利敬親は使者を派遣して見舞いました。長州藩との関係もしだいに好転してきました。
第二次長州征討での敗戦は、幕府の権威を失墜させました。薩長は討幕の密勅を得ようと懸命でした。追い詰められていた幕府は薩長の仲介をしていた土佐藩の大政奉還論に乗りました。
幕府は土佐藩の大政奉還の建白を急がせました。1867(慶応3)年10月14日、討幕の密勅が下された日、大政奉還は奏上されました。

 

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