明治時代1

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2.統一国家

明治時代1
1.戊辰戦争
 

幕末、黒船来航をきっかけに国の内外は混乱が続き、民衆は世直しを期待しました。1867(慶応3)年、世直しの潮流は人々を「ええじゃないか」の狂乱に巻き込んでいきました。
この年8月頃から、東海道筋、名古屋・京都・大坂に広がり、遂には江戸から広島辺りまで人々を集団乱舞に巻き込みました
空から伊勢神宮のお札が降ってきたということがきっかけに、人々は緋縮緬(ひちりめん)の着物を着て、女装の男、男装の女が入り乱れて、太鼓・笛・三味線を打ち鳴らして踊りまくりました。この様なお祭騒ぎの中で、強奪と破壊が行われました。

1867(慶応3)年10月14日、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還を奏上しました。これにより同日討幕の密勅を得た討幕派は肩透かしを食わされました。
この直後、朝召令が出されますが、11月中に上京したのは、十数藩に過ぎず、約200の諸藩は状況を注視していました。
こうした中、老中格兼陸軍総裁大給乗謨(おぎゅうのりたか)以下幕府の歩・騎・砲兵は上京し、旗本も京都に集結し始めました。一方薩摩・長州・芸州の3藩は大坂を拠点に京都周辺を固めました。

大政奉還の建白書を提出した土佐藩では、坂本竜馬は討幕派寄りで、後藤象二郎は徳川氏寄りの政権構想を考えていました。しかし、坂本は大政奉還が実現すると、実力で幕府を討つ必要はないと考えていました。討幕派と公議政体派の連合政権という現実的な案を後藤を通じて岩倉具視に提出していました。
こうした状況下、この年の11月15日、坂本竜馬と中岡慎太郎は、京都河原町の商家近江屋で暗殺されました。幕府見廻組によってといわれていますが、その下手人ははっきりしていません。

11月下旬、後藤や松平慶永(春嶽)は在京諸侯会議を開き、新しい統一政権の基礎を固めようとしました。しかし、大政奉還を進めた公議政体派に主導権を奪われると討幕派は考えました。
12月9日、王政復古クーデターが断行されました。薩摩・土佐・安芸などの諸藩兵が御所の門を固め、岩倉らが朝廷の実権を握って、王政復古の大号令が発せられました。
摂政・関白をやめ、将軍職を廃止し、旧体制は廃絶されました。かわって、天皇の下に、総裁・議定・参与の三職がおかれました。しかし、徳川慶喜の処遇の問題が残っていました。将軍職は廃止されても、慶喜は内大臣の官職にありました。
この夜、御簾の中の明治天皇の御前での小御所会議では、討幕派と公議政体派の応酬は激しいものがありました。しかし、慶喜の内大臣辞退と所領返上が、討幕派により強引に決定されました。

 

討幕派は独自の政権具体案を持っていませんでした。公議政体論に依るところが大きかったため、公議政体派の列侯会議開催の要求に反対できませんでした。
公議政体派は将軍職廃止と所領返上は別個のものであり、所領返上は不当であると反論しました。そして、列侯会議にかければ、巻き返しは可能と公議政体派は考えました。

1868(明治元)年1月3日、京都郊外で、薩長中心の新政府軍と旧幕府軍との間で戦闘が始まりました。鳥羽・伏見の戦いで、戊辰(ぼしん)戦争が始まりました。
これに先駆け、江戸や関東一円で、薩摩藩は旧幕府側を挑発していました。そのため、前年の12月25日、旧幕府側は薩摩藩邸を襲いました。押され気味だった討幕派は軍事力で打開することを狙っていました。
鳥羽・伏見の戦いでは、薩長新政府軍はその3倍の兵力の旧幕府軍を破りました。旧幕府軍の歩・騎・砲兵は傭兵で士気が上がらず、会津・桑名藩兵は士気は高かったのですが、薩長新政府軍の近代的装備に遠く及びませんでした。
この戦いで形勢を見ていた近畿以西の諸藩は薩長側につきました。討幕派は戊辰戦争開始直後に、開国和親の方針を列国に布告し、旧幕府が結んだ条約は遵守することを通告しました。

有栖川宮熾仁(たるひと)親王を大総督とする新政府軍は、東海・東山・北陸の三道から江戸を目指しました。1868(明治元)年3月15日を江戸城総攻撃の日と決めました。
新政府のリーダー達には、諸大名の土地人民を吸収する案がありました。大久保利通はその手始めに、大阪(明治維新で大坂は大阪となる)遷都で打開しょうと考えました。しかし、公卿の議定や松平慶永らは猛烈に反対しました。
この状況を見て、岩倉は三条実美(さねとみ)と図って、遷都を行幸にかえました。これが実現すると、江戸遷都が起こります。これも反対されますが、二度の行幸により、天皇は東京城(後、宮城)に移り、東京遷都となりました。

「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」から始まる五箇条の誓文は、江戸城総攻撃予定日の前日、1868(明治元)年3月14日に出されました。この年1月頃、由利公正(ゆりきみまさ)が議事所の規則の「議事之体大意」を執筆し、土佐藩士の福岡孝弟(たかちか)が列侯会議の盟約書として加筆し放置したものを、3月になって木戸孝允(たかよし)が加筆し、岩倉具視や三条実美らも加わって、誓文に仕上げました。
このため「列侯会議を興し」という部分が「広ク会議ヲ興シ」に改められ、流動的であった諸勢力を新政権に結集させ、一方では列侯会議を否定しました。
誓文が出された当初は、政治的な文書でした。新しい国家の不変の方針というものではありませんでした。起草した木戸自身もそう思っていましたが、後には、誓文が良くできた文章であることに気付きました。
後の自由民権運動の推進者たちは、維新の精神は人民の平等や自由の拡大で、誓文はこの精神を示したものであり、国会開設によりその精神は実現できるとして、運動の正当性を主張しました。

 

1868(明治元)年1月7日新政府は慶喜追討令を発しました。有栖川宮熾仁親王の東征大総督の下、東海・東山・北陸各道の先鋒総督や山陰・大和・九州の鎮撫総督、中国・四国の追討総督が任命され、各藩から分属されました。2月大総督府が設置され、錦旗を先頭に約5万の新政府軍が江戸に向かいました。
1月11日慶喜は江戸に着いた後、抵抗と恭順の間の主戦論と恭順論が交錯する中で、1ヶ月を過ごしました。フランス公使ロッシュは貿易独占と引換えに軍事援助をほのめかしました。イギリス公使パークスは、この様なフランス側を批判し、新政府による全国統一に期待をかけました。
列強は結局1月25日、局外中立を宣言しました。これは新政府に有利に機能しました。このため慶喜は2月になると恭順へと態度を固め、江戸城から上野寛永寺大慈院に移りました。

江戸城攻撃を前に、旧幕府側の勝海舟と新政府軍大総督府参謀西郷隆盛との会見が行われました。
勝はフランスと結んで主戦論を唱える小栗忠順(ただまさ)らに批判的でした。従来の封建的な割拠主義でない、統一国家が新しい国際関係に対応するには必要であると考えていました。
その勝が軍艦奉行から海軍奉行並、更に陸軍総裁を経て、軍事取扱になっていました。
3月13・14日、勝・西郷会談で慶喜の処遇や旧幕府軍の処置が会議されました。予備交渉は山岡鉄太郎を通じて行われました。
パークスは江戸が戦場になり、横浜での貿易に影響が及ぶことを恐れていました。この意向を受けて、西郷は江戸城攻撃中止を決意して勝との会議に臨みました。
勝はパークスの意向をキャッチしていました。パークスの影響力を利用して新政府軍の強硬意見を抑えようと考えていました。また海軍力の弱い新政府軍の後方を撹乱すると、旧幕府軍の海軍力を掌握している勝は西郷に圧力をかけました。
双方は2月中旬以降、関東で起こっている百姓一揆や打ちこわしが江戸の戦乱で更に激化することを恐れました。こうして総攻撃は中止されました。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は、旧幕府軍艦で江戸に戻り、近藤勇は隊を再編して甲府に出陣しますが敗退し、下総流山で4月4日偽名で新政府軍に出頭しますが見破られ、その後斬首されました。
4月11日、江戸城は新政府軍に接収され、慶喜は水戸藩に向かいました。この日、軍艦の接収に不満で、海軍副総裁榎本武揚(たけあき)は開陽・富士山・蟠竜などの艦船を率いて房州館山に向かいました。
歩兵奉行大鳥圭介は下総に2千余人を率いて脱出しました。これに譜代などの藩士が加わり、関東周辺はゲリラ戦の様相になりました。

これらを通じて上野(うえの)彰義隊が新政府軍への抵抗を行っていたため、彰義隊を叩くことの重要性を軍防事務局判事大村益次郎は知っていました。5月15日、大村の指揮の下で彰義隊と戦闘が行われ、1日で彰義隊は壊滅しました。
5月19日、江戸鎮台が設置され、その下に社寺・市政・民政の裁判所(これは法務機関でなく、行政機関です)が設けられ、7月17日には、鎮台は鎮将府となり、駿河以東の関東、更に陸奥・出羽が管轄下に置かれました。そして江戸は東京(当時は、とうけい)となりました。 

 

1868(明治元)年4月11日、仙台・米沢など奥羽諸藩の重臣達が白石に集まりました。新政府の会津・庄内2藩に対する不当な処置に反発したものでした。
会津藩に対する濡れ衣を弁護し、暗に薩長を弾劾した嘆願書は奥羽鎮撫総督府から却下されました。それが参謀世良修蔵(長州藩士)らの策謀であると知った仙台藩士は、世良を襲い暗殺しました。また奥羽諸藩は一揆を口実に会津・庄内征討の兵を引き揚げました。
5月3日、仙台・米沢など奥羽25藩、更に、新発田(しばた)・長岡など北越6藩の奥羽越列藩同盟が成立しました。仙台藩主伊達慶邦(よしくに)を盟主に、中心機関の公議府が白石城に置かれました。
7月に、輪王寺宮入道公現(こうげん)親王(後の北白川宮)が加わり、宮は討薩の令旨を仙台藩主と米沢藩主上杉斉憲(なりのり)に下しました。宮は軍事総督に推され、旧幕閣の小笠原長行(ながみち)・板倉勝静(かつきよ)らも参加しました。
この同盟の目的は、君側の奸の薩長を倒すというものでした。このため、白河口、平潟口、越後口、秋田口で戦闘が繰り返され、情勢が不利に傾くと、同盟からの脱落が相次ぎました。

会津の籠城は30日になろうとしていました。城内に藩兵の他、多くの老幼婦女がいました。弾薬・糧食は断たれ、死傷者は続出していました。米沢・仙台藩の降伏に次いで9月22日会津若松城は開城しました。飯盛山での白虎隊の悲劇はこの時のものでした。

北越では長岡藩を中心に河井継之助らの指揮する軍と参謀山県有朋・黒田清隆や西園寺公望(きんもち)らの新政府軍との戦いでした。
当時長岡藩家老上席の河井は、既に歴史の流れを見抜いていました。彼は長岡藩を武装中立に置き、新政府との交渉では戦闘を回避しょうとしました。彼は元々、日本国中が協力して世界に恥じない強国にしたいと思っていました。
小千谷で彼と対した22歳の新政府軍監岩村精一郎(土佐藩士、のち農商務相となる)は、河井を門閥の家老だと思い込み、一顧だにしませんでした。河井はなお嘆願しますが、聞き入れられず、交渉は決裂しました。戦闘は3ヶ月にわたりました。河井は受けた弾傷がもとで、亡くなりました。

 

1868(明治元)年8月19日夜、旧幕府の軍艦開陽・回天・蟠竜など8隻が品川沖から錨をあげました。海軍副総裁榎本武揚(たけあき)・陸軍奉行並松平太郎・前若年寄永井尚志(なおむね)らにフランス陸軍教官ブリュネー・カズヌープらも加わった総勢2千余人でした。新選組の土方歳三も乗艦していました。
榎本は、困窮の幕臣を蝦夷地に移住させ、開拓の名の下に幕権の回復を図ろうとしました。勝海舟は榎本に自重を求めていました。
大鳥圭介らは、その後各地を転戦し、仙台で榎本武揚らに合流しました。その後、新政府軍との間で宮古海戦などがあり、榎本達は蝦夷地に入りました。

12月15日、箱館奉行所としてオランダ築城技術によって造られた五稜郭を、榎本武揚達は占拠しました。戊辰戦争の最後の拠点をここに求めました。そして、旧幕臣を中心にした共和国を宣言しました。この共和国では、投票によって役人を選びました。その中に大鳥圭介や土方歳三もいました。
蝦夷地では、この榎本政権と新政府が並立しました。箱館裁判所(行政機関)が既に置かれていました。
新政府軍参謀黒田清隆(薩摩出身)は五稜郭及び弁天崎砲台に使者を送り、降伏を勧告しました。榎本は断固断りました。
新政府軍との間で激しい戦闘が続きますが、遂に共和国は滅亡し、1869(明治2)年5月17日五稜郭は開城し、榎本や大鳥は降伏しました。新政府軍との戦闘の中で、土方歳三は戦死しました。
投獄された榎本武揚はやがて出獄し、干拓使次官(後に長官になる)になっていた黒田清隆の下で、北海道開拓使に出仕するようになりました。大鳥圭介も新政府に出仕しました。
鳥羽・伏見の戦いから上野戦争・東北戦争・更に箱館戦争までを戊辰戦争と呼びます。

 

都落ちして、大宰府にいた五卿も京都に戻ることになりました。罪人扱していた福岡藩の態度は一変しました。
1868(明治元)年1月鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、将軍慶喜以下大阪城を出て、海路を江戸に向かいました。
1月7日、慶喜追討令が発せられると、譜代藩として終始佐幕の立場にあった小倉藩(前年に香春に藩庁を設置し、香春藩になっていました)も、藩を存続させることが優先されました。小倉藩も福岡藩も出兵の要請に応じました。

小倉藩は長州藩との戦いで疲弊して、その回復の最中のため出兵による多額の軍費の耐えられるかが藩中で議論されましたが、家老で軍事面の最高責任者の島村志津摩が出兵を決断しました。
小倉藩の出兵は2月9日を最初に、3度行われました。400人の銃隊で、藩の窮乏の中でも装備されたものでした。しかし、上京したものの、役割を与えられませんでした。その滞在費に事欠く状況でしたので、嘆願書を提出しました。やっと役目が与えられ、一部は関東二ノ手援兵に加えられ、残りは大坂での天皇の行在所の警衛に加えられました。

福岡藩は農兵を徴募し、遠賀郡から227人、鞍手郡から173人が農兵隊に組織されました。福岡藩は江戸攻撃に700人を出兵させました。しかし、加藤司書らの勤王派を弾圧し、五卿を冷遇していたため、突然出兵の総大将家老郡左近は帰国し、佐幕派の三家老を切腹させ、勤王の証を立てる慌てぶりでした。

二ノ手援兵で江戸に向かった小倉藩兵は、奥羽越列藩同盟が成立して孤立した奥羽宣撫使を救援するため、佐賀藩兵とともに奥羽戦線に出動しました。仙台・盛岡・角館・秋田・横手・新庄に転戦しました。
この他に7月になると、越後が膠着状態になり、小倉藩に出兵が要請されました。小倉藩は延1000人が出兵しました。福岡藩は2300人が奥羽越に出兵しました。

福岡藩の財政は赤字が累積し、借金は増える一方でした。一方の小倉藩の台所はもっと火の車でした。そのため知行の上限を決め、切り捨てた知行高を出兵の軍資金に充てました。そして、新政府にも多額の借用を嘆願しました。
1868(明治元)年3月、小倉藩主小笠原忠忱(ただのぶ)は、それまで滞在していた熊本から帰国しました。
1869(明治2)年2月福岡藩主黒田長溥(ながひろ)にかわって長知(ながとも)が家督を相続しました。

 

維新には草莽(そうもう)の力が大きかったといわれています。草莽は草むらで、在野を意味します。これには志士や豪農商あるいは農民まで含めることができました。
相楽(さがら)総三の家は下総の豪農でした。彼は尊皇攘夷の志士となります。薩摩藩士と知り合い、西郷隆盛や大久保利通にも近づきました。そして、薩摩藩邸を拠点とする浪士隊の総裁となりました。
この浪士隊は郷士・豪農商・脱藩士・農民500人で編成されました。関東でゲリラ戦を行い、薩摩藩の意を受け、江戸で撹乱工作を行いました。挑発された旧幕府軍は、1867(慶応3)年12月25日薩摩藩邸を襲います。これがもとで、翌年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こりました。

江戸を脱して京に入った相楽らは、東征軍の先鋒として、公卿を盟主とする隊をつくり、1月10日赤報隊と命名しました。1月12日、相楽らは年貢半減の建白を新政府首脳に提出し、この日、旧幕府領への年貢半減令が出されました。
年貢半減をスローガンに相楽らは、近江・美濃そして東山道を進みました。しかし、新政府は1月下旬には財政的に困難で、年貢半減令を取り消していました。相楽らはそれを知るよしもありませんでした。
赤報隊は総督府に従わない強盗無頼の党で、偽官軍だとされました。相楽は捕らえられ、弁明を許されず、3月3日処刑されました。赤報隊と同様の草莽諸隊がありましたが、同様の運命をたどったものが多くありました。

 

長州藩の奇兵隊をはじめとする諸隊は、戊辰戦争で各地を転戦しました。1869(明治2)年9月4日、大村益次郎の暗殺事件が起きました。翌10月、藩は常備兵力2千人を親兵として差し出すことを願い、11月に諸隊改編令を出しました。
その改編の真意は精選にあるとしました。これに対し、兵士達から幹部連中を告発する動きがありました。賞罰の不公平、幹部の不正、兵士の立場を無視した隊運営などの声が上がりました。しかし、藩当局はこれを無視し、精選改編を実行しょうとしました。
12月以降、諸隊員の約半数が脱退し、反乱しました。倒幕を果たすと、討幕派出身の維新の官僚と民衆の間には大きな隔たりがあることが露呈しました。

他国で天保以来発生していた一揆は、長州藩では起きていませんでした。そのエネルギーは討幕に振り向けられていました。このため、この年から翌年にかけて、凶作と米価高騰による一揆が長州藩でも起きました。
諸隊反乱と一揆発生に、木戸孝允は急遽帰郷しました。反対されている村役人を代え、農民が飢餓に直面しないように意見書を出し、諸隊反乱と農民一揆が結びつかないように対処しょうとしました。
維新政権が構築される時期の長州藩の反乱・一揆をきっかけに、全国的に内乱が発生すれば、これまでの努力が全て無になることを新政府の指導者達は深刻に考えました。
1870(明治3)年2月、西日本一帯に戒厳令が下され、徹底的な弾圧が行われました。こうして諸隊反乱や農民一揆は鎮圧されました。

江戸・慶応期から明治初年にかけ、きっかけさえあれば、農民一揆はどこでも発生しました。その要求は、凶作・米価高騰による生活困窮などの要求が、政権転換の混乱から出る権力に対する世直しの要求とも結びついて出てきました。
しかし、そういう中でも、一揆の主体は貧農や都市の貧民でした。このため、村役人や豪商達は彼らの攻撃を受けました。
維新が成立すると、そのいわゆる御一新が何であったか、人々は考え始めました。旧幕政の方が御一新の政道より良かったと、民衆は新政権に厳しい批判の目を向けました。
維新の激動期、脱藩し、天下を駆け巡り、王政復古に尽力した脱藩浮浪の徒がいました。彼らを新政府側につなぎ止めていくか、難しい問題でした。
彼らが不満の募る民心と結びつき、世直し一揆のエネルギーになることを新政権は警戒していました。そのため、明治元年から彼らの取締令が出され、旧籍への復帰が促されました。

 

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