明治時代1

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明治時代1
2.統一国家
 

幕府は廃止されましたが、地方の藩体制は残っていました。新政府は旧幕府領及びその家臣の領地を直轄地とし、当初は鎮台・裁判所を設置し、そこを府・県としました。
更に、戊辰戦争で抵抗した東北諸藩から没収地を取り上げ、そこにも県が置かれました。この様な体制が府・藩・県三治体制といわれるものでした。
維新当初の裁判所は地方の直轄地行政庁の呼び名で、元々長州の行政区画で郡に相当する宰判に由来するものといわれています。

この様な維新政権の実権を握っていたのは、薩長土肥出身の官僚でした。しかしまだ行政機構は確立していませんでした。政治家と行政官僚が未分化の状態で、彼らは自らで行政機構を作り出していました。彼らは有用な人材を登用し、彼らが必要とする能力のある者達だけで固めていきました。
1867(慶応3)年12月9日の王政復古の大号令の後、官制改革が短期間に繰り返されました。官制が変わるごとに、雄藩と公家勢力の連合から、薩長土肥の藩士層の進出が目立ち、公卿や藩主層はしだいに排除されていきました。

 

諸藩は戊辰戦争に巻き込まれ、藩体制の解体は一層促進されました。戦費の負担で累積赤字の藩財政を更に困難なものにしました。外国商人から債務を負っている藩も多数ありました。
この財政不安の上に、一揆や打ちこわしがあり、領主支配の無力ぶりが暴露されました。この様な藩体制の危機の中で、藩内での対立が表面化し、勤王・佐幕両派の対立は、一層藩体制の解体に拍車をかけました。
以上の他に、戊辰戦争遂行の主力であった諸藩の軍事力が大きな負担となっていきました。特に、西南雄藩の軍事力は大きなものとなっていて、藩上層部に対して兵士層からの不満が噴出していました。

1868(明治元)年10月、新政府は藩治職制を出して、門閥世襲の家老制度から執政・参政・公議人を置き、人材登用により藩政を画一化し、藩行政と藩主の家政の分離や議事制度を勧め、藩政を新政府の統制下に置こうとしました。
1869(明治2)年6月、版籍奉還と同時に、新政府は各藩の石高・諸産物・税収・藩庁費用・藩制職員・藩士・兵卒の員数を報告させました。そして、藩高の1/10を家禄としました。
翌1870(明治3)年10月には藩を大中小に分け、1/10の知事家禄を除いた残高を軍事費・藩庁費・士卒俸禄などに充てる禄制改革を実施しました。こうして藩の自主性は制限され、士卒の減禄が実施されました。

 

1868(明治元)年1月21日、参与由利公正(福井藩士)の建議で、会計基立金300万両の国債が募集されました。京・大坂・江戸の特権商人に強制的に募集されました。
新政府の財政的基礎は、旧幕府領と東北藩没収地石高から徳川家の静岡藩と戊辰戦争の軍功の賞典禄を差し引いた約730万石でした。しかし、戊辰戦争の緒戦時は、これをまだ収得できませんので、会計基立金をこれに充てました。
新政府は京・大阪・江戸や開港場などを支配下に置くことで財政的基盤を固めようとしました。
この年閏4月太政官札の発行決定と商法司・商法会所が設立されました。この年の通常歳入出のみで184万円の赤字で、これは通常歳入の1/2に当たりました。これを補うのに太政官札の発行や豪商からの調達、外国商社からの借入が行われました。それらは戊辰戦争の軍費、諸藩への貸付、殖産興業に充てられました。

会計官内に設置された商法司は「商法大意」を出して、旧来の株仲間を否定し、商法会所を通じて、全国の商品流通の掌握に取り組みました。これは三井・小野組などの特権資本と結んで、不換紙幣の太政官札を藩や豪商に貸付け、それを媒介に流通過程に関わり、物産を集積して輸出しょうとしました。
この頃、贋金、特に贋造二分金が氾濫していました。諸藩特に薩長土などが軍費不足を補うため当座の通貨として二分金を製造し、その軍隊が通過するとともに各地で使われました。

1869(明治2)年2月由利公正は会計官を辞し、翌年商法司は廃止され、これに代わって通商司を中心とする経済政策が登場します。
外国官判事から参与兼外国官副知事になっていた大隈重信は、3月由利の後として、会計官副知事になりました。
2月東京に貨幣会所が設けられ、疑いのある通貨はここで検査させ、後には旧貨の鋳造は全て中止、新たに造幣局を設置し、新貨が鋳造されました。7月造幣寮と改称され、長崎府判事兼外国官判事井上馨が造幣頭に任じられました。
また、大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文は、アメリカの貨幣鋳造、紙幣・公債証書の発行を調査し、意見書を1870(明治3)年12月大納言岩倉具視・参議大隈重信に提出しました。
これに基づき、翌1871(明治4)年5月、新貨条令が出され、1両を1円の基準貨幣として、10進法がとられ、金本位制の確立を目指しました。しかし、当時の貿易は銀貨中心で、現実は金銀複本位制でした。そして、しだいに銀本位制になっていきました。

貿易事務の一切を管轄する機関として通商司は外国官内に置かれましたが、やがて会計官に移されました。会計官権判事伊藤博文が東京府通商司知事、同じく五代友厚が神奈川県通商司知事、長崎府判事井上馨・東京府判事山口尚芳(なおよし)が大阪府通商司知事に任ぜられました。
通商司は、物価の安定、貨幣流通及び通商貿易の管理、商社・両替屋の設立、海運業・保険業の創設など経済全般を担いました。
通商司の下に通商貿易のための諸商社を設立して、これを統括する通商会社と、これらの商社運営に資金を供給する為替会社が置かれました。
この通商会社・為替会社は全国8都市に設置され、三井・小野組などの特権商人が参加し、その運営を担当しました。しかし、十分な効果を上げることができず、組織が破綻して赤字を出し、1871(明治4)年7月、通商司は廃止されました。
翌1872(明治5)年11月、新たに国立銀行条例が出されました。通商・為替会社は、米穀取引所や国立銀行などに改組されたり、あるものは解散されました。

 

領土と領民を返上する版籍奉還は、薩長土肥4藩主より上表文として朝廷に提出されました。これに対し、朝廷は会議を開き、公論を尽くして決すると回答しました。
この問題は、公卿・諸侯の上局会議にかけられ、公議所にも下問されました。封建制か郡県制のどちらに進むか、二つに分かれた公議所は封建・郡県折衷論を提出しました。木戸や大久保は断固郡県制を主張していました。版籍奉還を廃藩の第一段階と捉える木戸や大久保らの考える方向に進展し、版籍奉還は1869(明治2)年6月17日に許され、10日足らずで大半の藩主が版籍を奉還しました。
藩主は改めて知藩事に任命され、政府は知藩事に諸務改革を命じました。土地・人民の返還は名目的でしたが、もはや知藩事は政府から任命され、彼らは政府の地方官に過ぎない立場となりました。

 1869(明治2)年7月、兵部省が設置され、1870(明治3)年11月には徴兵規則が設けられました。1871(明治4)年2月、鹿児島藩兵4大隊・砲兵4隊、山口藩兵3大隊、高知藩兵2大隊・騎兵2小隊・砲兵2隊の計1万を親兵として兵部省管轄下に置くことを発令しました。
1871(明治4)年4月、石巻に東山鎮台、小倉に西海鎮台が設置されました。8月には東京・大阪・鎮西・東北の4鎮台8分営の設置の指令が出されました。これらの兵力に旧藩の常備兵が出されました。翌1872(明治5)年2月には、兵部省に代わって陸軍省・海軍省が置かれました。
なくなった大村益次郎の跡を継いだ陸軍卿山県有朋は、1873(明治6)年1月、徴兵制を前提として6鎮台の天皇制軍隊を建議しました。その直後、4鎮台は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となり、徴兵制は公布されました。

1871(明治4)年7月14日、廃藩置県は断行されました。その遂行には、親兵軍事力が背後にありましたが、戊辰戦争からこの時期までに廃藩をせざるを得ない状況にありました。
各地の農民一揆・打ちこわしが激しくなり、政府高官暗殺や反政府暴動が相次ぎ、藩財政は更に行き詰まりました。藩政改革の推進を急ぎ、政府の統制下におくことが必要でした。しかし、一挙に廃藩をやらなければ、予想外の事態の発生が予想されました。
下層の農民や都市における貧民、更に脱籍浮浪の徒などの重層の不満・矛盾の顕在化により、反政府分子弾圧を強化するとともに、一挙に廃藩することに政府首脳は傾いていきました。
また、藩が存在することに政府はその支配の限界を感じ、財政も不安定で、対外的に統一国家の体制を示すためにも、廃藩を早急に行うことが必要でした。

261藩が廃止され、そのまま県になり、琉球を除いて、全国は1使3府306県になりました。知藩事は免官となり、東京府にその後は住むようになりました。
1871(明治4)年11月、全国は1使3府72県に統合され、それぞれに開拓長官(この時は次官)・府知事・県令が任命されました。この後、府県の境界を確定するのに10余年がかかることになりました。
廃藩置県では、藩主層の抵抗はありませんでした。旧藩士の家禄や藩の負債は政府が肩代わりしてくれました。そして、藩主の実収入は保証され、知藩事ではなくなりましたが、華族という身分に変化はありませんでした。

 

明治天皇と追号された睦仁(むつひと)は、父は孝明天皇、母は権大納言中山忠能(ただやす)の娘慶子(よしこ)で、1852(嘉永5)年9月22日(太陽暦で11月3日)に生まれました。
1867(慶応3)年1月、父孝明天皇の急死の後即位しました。そして翌年9月、明治と改元しました。
1868(明治元)年11月、左大臣一条忠香(ただか)の三女美子(はるこ)の女御宣下(にょうごせんげ)が行われ、即日立后(りっこう)の儀が行われました。後の昭憲皇太后です。
明治政府の指導者達は、天皇と太政官を一体化し、権力の集中と政治の一元化を図ろうとしました。このため、天皇を取り巻く後宮勢力を一掃して、宮中改革を行うことが必要だと考えていました。
1872(明治4)年には宮中から女官の一掃が行われ、これ以降女官は新たに選択任命となりました。また翌年にも、女官36人が罷免されました。
天皇の側近には、国学者や有能な藩士が送り込まれました。彼らは宮中の気風を刷新し、新しい帝王学を授けました。
当時、民衆への布告では、天皇が日本の主人公であり、過去の悪政からの解放者のイメージを持って、その尊貴の所以を繰り返し説明しました。

神武天皇に由来する政治的征服者と、天照大神に由来する宗教的君臨者の性格を持ち、歴史の伝統と正当性に、解放者のイメージが加味されていきました。
1868(明治元)年9月の車駕(しゃが)東幸が行われました。その盛大さで沿道や東京では天皇の威光が誇示されました。東京市民には酒肴がふるまわれ、数日間にわたってお祭気分でした。
1872(明治5)年の西国巡幸以降、1885(明治8)年までの6大巡幸により、北海道から九州まで天皇のイメージを民衆に浸透させていきました。

幕藩体制化に於いて、藩主を生き神様として祭ることはよくありました。この藩主より上位であり、天照大神や神武天皇とつながり、伝統的権威を持ち、正統な支配者であり、解放者としての天皇を民衆は知らされていきました。
天皇の存在さえ知らなかった民衆でしたが、おかげ参りや抜け参りなどの伝統的な伊勢信仰がありました。天皇が全国を巡幸という形で表出することで、民衆の生き神様信仰が、神としての天皇に収斂されていきました。

 

王政復古では、天皇の古代的な神権的権威の復活が図られました。1869(明治2)年7月8日の官制局改革で、神祇官と太政官が置かれ、神祇官は官制の最高位に位置づけられました。
神祇官は皇室の祭祀や全国の神社・山陵を司り、神道の宣布することが主な任務でした。特に、神武・崇神天皇の時代を手本にして、神道を天皇と結び付けて国教の基本として体系化しょうとする神道国教化政策が推進されました。
天皇は天照大神をはじめとする神々と結び付けられていきました。五箇条の誓文は天皇が神明に誓う形が取られましたし、天皇の伊勢神宮への参拝や神武天皇が祭った八神、天神地祇、歴代皇霊を招いての天皇の親祭などが行われました。
1870(明治3)年1月3日、大教宣布がなされました。神々と天皇を結び付けて、天皇崇拝を核とする神道の国教化と体系化を狙ったものでした。宣布の機関としては神祇官の下での宣教使が当たりました。

神道の国教化と並行して、廃仏毀釈とキリシタン弾圧が行われました。廃仏毀釈は、1868(明治元)年3月の神仏分離令以後、幕藩体制下の仏教と民衆の関係に楔を打ち込む目的で展開されました。
政府の意図を越えて神社主導によって、仏教への攻撃が破仏や棄仏という行動にまで進みました。廃仏毀釈は、1869(明治2)年から翌年にかけて全国を席巻しました。
廃仏毀釈には、村々の寺の財産を何とかしょうとする動機も隠されていました。しかし、強調されたのは、仏教がいかに国家に害をなしたかを言い、敬神が天恩や国恩に報いる道であると説きました。
1871(明治4)年1月、境内を除いた全社寺領の上知を命じました。その後、氏子調の令を出しました。これは寺請制度に代えて氏神・氏子の関係を通して全国民を掌握しょうとしました。

政府は徳川幕府のキリシタン弾圧の政策を継承しました。そのため、1868(明治元)年、長崎の浦上キリシタンを各藩に配流することにしました。各藩に預けられたキリシタンに対する弾圧は苛酷なものがありました。
特に津和野藩に預けられたキリシタン達が残した記録は、陰惨なものがあり、その跡地乙女峠を訪ねる人々の涙を誘います。
改宗を迫る弾圧に対するキリシタン信者の頑強な抵抗や外国公使の抗議、岩倉米欧使節団の信教の自由に関する理解により、キリシタン禁制の高札は撤去されました。そして浦上キリシタンは逐次釈放され、帰村しました。3,380人が配流され、1,930人が帰村したといわれています。

 

氏子調べは2年足らずで中止されました。永年にわたる民衆と寺院の関係は、激しい廃仏毀釈運動にもかかわらず、解消するものではありませんでした。一方では文明開化が叫ばれました。
1871(明治4)年8月、神祇官は神祇省となり、翌年5月には、これに代わって教部省が新設されました。これにより、神道国教化から国民教化に重点が置かれました。祭祀は式部省の所管で、教部省は神社や仏教その他の宗教行政と国民教化を所管しました。そして宣教使に代わって教導職が置かれました。
神道の教義のみならず、人として守る普遍的な徳目が教導職の説教の題目に採り入れられました。そして、国民教化運動の総本山として、神仏合同の大教院が開設されました。教部省が国民教化に力点を置こうとすれば、民衆に対して強い影響を持つ仏教その他の勢力と妥協をはからなければなりませんでした。
 

幕末以来発展してきた天理教・金光教・丸山教などの民間宗教は弾圧されました。教義が神道国教化と一致していませんでした。そこでこれらの民間宗教は、国教化の枠内での変質を迫られました。これを受け容れた後は、教派神道として公認されました。
真宗門徒を中心に、各地で一揆が起きました。信教の自由の問題が条約改正と絡んで大きな圧力となり、政府指導者層にも神道国教化・国民教化政策に疑問が出されました。当時欧米にいた森有礼(ありのり)や西本願寺僧侶島地黙雷(しまじもくらい)が政府のこの政策を厳しく批判しました。
1875(明治8)年、大教院は解散し、1877(明治10)年には教部省は廃止となり、宗教行政は内務省社寺局に移されました。
 

全国の神社・神官は、明治元年以来、神祇官の下に置かれました。1871(明治4)年神社制度が確立しました。神社は神祇官の管轄下にある官社と地方官の下にある諸社に大別され、更に別格官幣社が置かれました。
全国の神社を皇室を中心に再編しました。別格官幣社は歴代天皇に対して功績のあった朝臣や武将を祀ったものでした。これに指定された靖国神社は、幕末維新期に新政のために尽くして斃れた者を祭祀する招魂社がそのもとで、1879(明治12)年、東京招魂社を改称したものです。旧幕府軍戦死者は靖国神社の祭神には入っていません。

全国の神官を任命制にして、世襲の神官の私有であった神社を切り離しました。そして、村落の末端の神社まで皇室の関係を基準にした社格で序列化しました。民衆の生活に根ざした信仰をピラミッド化し、頂点に伊勢神宮を置きました。

この神社制度とともに、記紀神話に基づく国家神道の祭祀に、宮中の祭祀は再編されました。1873(明治6)年10月に指定された祝祭日の元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)・孝明天皇祭(1月30日)・紀元節(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・神嘗祭(かんなめさい、9月17日後10月17日)・天長節(11月3日)・新嘗祭(にいなめさい、11月23日)は新年宴会を除いて、宮中祭祀による祝祭日でした。
春秋の皇霊祭(春分・秋分の日)は民間にあった祖先崇拝の習俗を天皇のそれに結びつけ、国家神道の中に取り込みました。
端午や七夕などの民衆生活に関係深い五節句は廃止され、神武天皇即位日の神武天皇祭、天皇の誕生日の天長節が祝日とされました。

国家神道を宗教政策とすると、開明化政策や信教の自由とは矛盾せざるを得なくなります。そこで、政府は神社は宗教でないとし、神社神道を宗教から切り離し、神社は祭祀のみに限定しました。
祭祀と宗教の分離により、宗教でない国家神道は、教派神道・仏教・キリスト教の上に立つ国家神道体制の道が開かれ、特異な国家宗教が誕生しました。こうして神社神道は、天皇制の正統神話と天皇を現人神(あらひとがみ)として崇拝する古代的信仰に固定され、近代的宗教として展開することはありませんでした。

 

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