明治時代1

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明治時代1
3.小倉県・福岡県
 

1867(慶応3)年5月小倉藩と長州藩の間の和議が成立すると、企救郡は長州藩の管轄となりました。長州藩は広寿山福聚寺にあった本営を小倉京町の広島屋に移し、統治を始めました。
1869(明治2)年6月版籍奉還で黒田長知は福岡藩知事、小笠原忠忱(ただのぶ)は香春藩知事に任じられ、旧領を支配しました。

1869(明治2)年8月長州藩が版籍奉還を行い、企救郡は政府の直轄となり、日田県の管轄に入りました。香春藩は企救郡の復帰を願い出ましたが、戻されませんでした。
政府は小倉に裁判所(当時の行政機関の名称、現在の裁判所とは異なる)を設置しましたが、長州藩は撤退しませんでした。11月に企救郡で百姓一揆が起こり、これをきっかけに長州藩は引き揚げました。
1870(明治3)年3月企救郡は長州藩が引き揚げ、政府直轄の日田県の管轄となり、日田県知事松方正義の企救郡巡視が行われました。

 

香春藩は田川郡香春から藩庁を仲津郡錦原(にしきはら)に移し、1870(明治3)年1月錦原を豊津と改め、豊津藩と改称しました。
藩庁建設には、行事の飴屋(当主玉江彦次郎)、大橋の柏屋(柏木勘八郎)、宇島の万(よろず)屋(小今井助右衛門)、当時は香春にいた小倉の中原屋(中原嘉左右)ら藩内の豪商達の出資がありました。
1869(明治2)年10月島村志津摩は香春藩執政を辞職しました。前年、香春藩は家老職を廃止して、執政職制に切り替えていました。島村の辞職の翌月、小宮民部が小倉城自焼の責任を負って自刃しました。

小倉藩が長州藩に敗戦した後、藩士や子弟は田川・京都郡に散在していました。窮乏した藩財政の中で、藩校思永館を復活させました。本館を香春に置き、領内11箇所に支館を置きました。

1869(明治2)年3月香春思永館は育徳館と改称し、藩庁豊津移転に伴い1870(明治3)年1月藩校育徳館として開校しました。育徳館は藩士・農民の区別なく入学を許しました。
この年10月、仲津郡大橋村(行橋市大橋)に育徳館分校として大橋洋学校が開設されました。教科は英語・洋算が主でした。生徒は育徳館から選ばれました。翌年1871(明治4)年オランダ人ファン=カステールが英語・ドイツ語講師として招聘されました。
 1872(明治5)年8月学制発布があり、藩校育徳館は一旦廃校となりますが、その後私立育徳学校になりました。

育徳館の正門(豊津高校)

翌年大橋洋学校は育徳学校に吸収され、カステールは豊津に移りました。短期間の在任でカステールは豊前を離れ東京に戻りましたが、豊前での洋学発展に残した足跡は大きいものがありました。

 

1868(明治元)年政府は戊辰戦争の戦費調達のため、金札を発行しました。これを太政官札といいます。このうちから諸藩に貸付け、藩財政補填に充てられました。他方、政府は通貨一元化のため、諸藩の藩札の発行を禁止しました。
福岡藩では太政官札の価値は下がるし、維新政府の前途に懐疑的であったため、太政官札を当面の財政需要に充てました。このため金融難になり、産物買占めの資金不足に陥りました。
その打開策を太政官札の贋造に求めました。一会計方の建策に基づき、藩首脳の協議の下に実施されました。贋造されたのは太政官札ばかりでなく、二分金・一朱金・二分銀なども贋造されました。

当時政府は大藩に北海道の開拓を命じていました。福岡藩は後志(しりべし)国久遠(くどう)・奥尻の二郡を担当していました。贋札は主にここでの物資買付に使用されました。
維新前後、多くの藩で財政難のため贋貨がつくられ使用されました。1869(明治2)年には外国公使達の抗議を受け、政府は正貨と贋貨を一対一での交換を余儀なくしました。贋造に対し政府は猶予期間を設けましたが、福岡藩はその限度を越えました。
贋金は藩領周辺でも使用され、1870(明治3)年6月日田県知事松方正義は上京して政府に訴え、民部省は厳罰主義を政府に提言しました。

弾正台の福岡藩に対する内偵が進められ、1870(明治3)年7月一斉捜査が始まり、藩首脳を拘引して取調べが行われました。
事件の糾明が続けられ、その間西郷隆盛・三条実美らを通じて減刑運動も行われましたが、成果は上がりませんでした。
1871(明治4)年7月弾正台は藩知事黒田長知を罷免閉門、大参事以下5人を斬首、他42人が流罪・閉門に処せられました。
新藩知事には、戊辰戦争の征東大総督有栖川宮熾仁親王が就任しました。廃藩置県の公布12日前に黒田氏の筑前支配は終わりました。

 

1871(明治4)年太政官布告により東山道鎮台が石巻(宮城県)に、西海道鎮台が小倉に配置され、西海道鎮台の分営が博多と日田に置かれました。この鎮台と東京の1万人の親兵を背景に、この年7月廃藩置県が断行されました。
廃藩置県で豊前では、豊津藩は豊津県に、小倉新田藩は千束(ちづか)藩と改められ千束県に、中津藩は中津県になりました。筑前では藩名が県名となり、秋月県・福岡県に、筑後では三池県・久留米県・柳川県となりました。企救郡は日田県の管轄のままでした。
 

この後1871(明治4)年11月豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県が置かれました。この際に企救郡は小倉県の管轄下に入りました。小倉県の県庁は小倉室町に置かれました。
同じく筑前は福岡県になり、筑後は三潴県になりました。

1876(明治9)年4月太政官布告により小倉県は廃止されて福岡県に合併されました。
8月には三潴県を廃止し、そのうちの筑後が福岡県と合併し、旧小倉県のうち宇佐・下毛両郡が大分県に移管され、現在の福岡県が確立されました。

小倉県庁の建物の一部(のち医院)

 

1873(明治3)年6月筑前一帯を巻き込む一揆が発生しました。いわゆる筑前竹槍一揆です。この年、筑前一帯は旱魃に見舞われました。筑前嘉麻郡の金国山の山頂で昼は旗を揚げ、夜は火を焚いている者がいました。米相場師の通報者でした。
米価高騰に悩む嘉麻郡の農民達は、田川郡のその元締のもとに、通報中止を掛け合いに行きました。しかし、交渉は不調で乱闘となり、十余人の農民が捕まりました。
嘉麻郡の医師が回状を書き、捕らわれた農民の奪回を呼びかけました。これを機に、6月16日竹槍・鎌を持った農民が集まり、元締や付近の富豪の家を打ちこわしました。農民達は大隈に入り、上穂波、下嘉麻に分かれて福岡県庁を目指しました。一揆は宗像郡から粕屋郡に広がり、上座・下座・夜須・御笠郡が、更に怡土・志摩郡も呼応し、一揆は筑前全域に広がりました。

福岡県は、6月18日兵士数百人を嘉麻・穂波郡に派遣しますが、抑えることはできませんでした。一揆は沿道の富豪・役人宅・役場・学校を打ちこわし、朝倉・早良・那珂郡では、被差別部落を襲撃し、焼打ちしました。
県庁内部では硬軟両方の意見がありました。一揆の説得を行いましたが効を奏せず、力で抑えることになりました。6月20日東方向から集結して県庁に乱入した一揆に対し発砲したため、一揆側は退却しました。西方向及び南方向から集結した一揆も阻止されました。
6月22日には福岡で一揆勢は見られなくなりました。25日には、熊本鎮台からの兵士も到着しました。

一揆は参加者20〜30万人といわれていますが、7月5日にはすっかり収まりました。
一揆の参加者の検挙が始まりました。63,940人が処分を受け、4人が死罪となりました。
一揆の被害は、4,590軒の家屋が破壊され、そのうち2,247軒が焼失でした。そのほとんどが被差別部落でした。
一揆側は1871(明治4)年の穢多(えた)・非人の解放令に反対して、従来通りの措置を要求し、被差別部落を焼き払ったのです。農民達は根強い差別意識を持っていたことが分かります。新政府反対一揆には、この様な一面も持っていました。

 

西海道鎮台は、4ヵ月後には鎮西鎮台と改称され、熊本に本営が移されました。2年後の1873(明治6)年徴兵令が公布されるとともに、鎮西鎮台は熊本鎮台となり、熊本及び小倉に営所が設けられました。
1874(明治7)年12月歩兵第26大隊が熊本から小倉に移駐しました。1875(明治8)年4月この部隊を主体に歩兵第14連隊が創立されました。
この年、年度兵や補充兵が入営して2個大隊の連隊が編成され、翌1876(明治9)年福岡に第3大隊を分屯させ、連隊の編成が完了しました。

西国で不平士族の蜂起が頻発していました。1876(明治9)年10月熊本で神風連の乱が起きると、熊本の不平士族は秋月や萩に急使を派遣して決起を促しました。
萩の乱を起こした前原一誠の弟が第14連隊初代連隊長陸軍少佐山田頴(えい)太郎でした。陸軍卿山県有朋は先手を打って陸軍少佐乃木希典(のぎまれすけ)に交代させました。
乃木の実弟も前原党で、事情は山田と同じでしたが、乃木は私情に溺れず任務を全うするとして信頼を得ていました。
神風連の乱では熊本鎮台は虚を突かれて司令長官・県令以下数十人が斬殺されますが、翌日には鎮圧されました。
この情報は秋月に届かず、秋月の乱を起こした旧藩士達は秋月を発ち、萩勢との合流を図り、途中旧豊津藩士達を糾合するため豊津を目指しました。
既に熊本の情報が入っている小倉では豊津に一隊を派遣し、これを鎮圧しました。

 

1877(明治10)年2月15日鹿児島の私学校の生徒は西郷隆盛を擁して挙兵しました。西南戦争の始まりです。これ以前の2月6日熊本鎮台司令長官陸軍少将谷干城(たてき)は、第14連隊に不穏な状況に対処するため、長崎警備に1個中隊の派遣を命じました。
2月13日連隊に熊本集結準備命令が下されました。翌日一部部隊が小倉を出発し、乃木連隊長は熊本城における作戦会議に出席しました。鎮台の本隊は熊本城に籠城し、第14連隊は城外で、城内と呼応して西郷軍と対峙する命令が下されました。

福岡駐屯の第3大隊も、長崎分遣隊にも熊本集結の命令が下され、連隊全員が出動しました。高瀬(玉名市)から熊本城に強行入城するように命令が下されました。
2月19日一部の隊だけが入城しました。本隊は22日田原坂付近に到着しました。一方の西郷軍は22日に熊本城を包囲し、第14連隊の南下を知って、これを阻止するための部隊を植木に進出させました。
同日、第14連隊は植木を過ぎた所で、西郷軍と衝突しました。この激戦の中で連隊旗が奪われ、乃木連隊長は自刃しょうとしますが、部下によって止められました。翌年連隊旗は再授与されました。
1912(明治45)年明治天皇崩御の後を追った乃木夫妻の自刃は、軍旗を失ったことの責によると伝えられています。

西郷軍は田原坂を占拠しました。3月4日から20日まで田原坂で政府軍と西郷軍の間の死闘が繰り返され、ようやく兵力に勝る政府軍が田原坂を占領しました。
4月14日、落城寸前の熊本城に八代・日奈久に上陸した背面からの政府軍が入城し、政府軍の正面を阻止していた西郷軍は、翌15日退却を開始しました。

この後人吉・宮崎・都城で西郷軍は抵抗しますが敗退し、遂に部隊を解散し、多くの西郷軍が政府軍に降伏しました。
西郷隆盛は残った者を率いて、鹿児島城山に着きました。9月24日政府軍は総攻撃を行い、西郷隆盛・桐野利秋・村田新八は戦死しました。

西南戦争での政府軍の動員は58,000人、戦死6,527人、負傷9,200余人。西郷軍動員40,000余人、戦死4,000人弱、行方不明1,300人、負傷約10,000人でした。第14連隊の損害は戦死361人、負傷750人で、当時連隊編成が2,000人と思われますので、過半数を消耗する戦争でした。

 

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