明治時代1

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明治時代1
4,米欧使節と政変
 

1871(明治4)年11月12日岩倉具視を大使とする米欧遣外使節団が横浜港を外輪船のアメリカ号で出発しました。そのメンバーは木戸孝允・大久保利通をはじめ当時の政府首脳の大半が含まれていました。この一行に米欧留学の華・士族や女子留学生が加わりました。旧藩主では、福岡藩の黒田長知、留学生としては、金子堅太郎・団琢磨・中江兆民ら、女子留学生には津田梅子ら5人がいました。
使節団の目的は当時条約を締結している国々を歴訪し、米欧先進諸国の文物を見聞して日本の近代化に役立て、期限を迎える条約の改定の商議を行うことでした。
条約を改正しょうとすれば国際法によらなければいけませんが、それに抵触する国内法を改正しなければいけません。それには時間がかかりますので、条約改正の延期を申し出ようとしました。
条約の改正より国内の体制の整備が急がれました。そのため制度・法律の理論と実際、理財・会計に関する法規と方法及び現状、各国の教育の諸法規と実情の調査が視察の対象となりました。

政府首脳の大半が国外に出ることは大変なことでしたが、当初予定していた10ヶ月余りの期間であれば、参議西郷隆盛・板垣退助らのいわゆる留守政府で十分統制できると考えられていました。
それでも廃藩置県後の間もない期間であるため、使節団首脳と留守政府との間では、12条にわたる約束が取り交わされました。新しいことや改正することは期間中に行わないことが約束されました。しかし、この約束は守られませんでした。
留守政府の下で、学制改革・徴兵令施行・地租改革・身分改革・太陽暦の採用・国立銀行条例施行などが行われました。
兵部省を廃止して、陸軍・海軍二省が設置されたり、神祇省が廃止して教部省を設置したのも留守政府によってでした。

約束違反までして留守政府が行ったことの背景には、政府内の暗闘と反目がありました。1869(明治2)年9月、民部・大蔵二省が合併されました。これを木戸孝允にパックアップされた大隈重信・伊藤博文・井上馨らが掌握しました。これに岩倉具視と結ぶ大久保利通・副島種臣・広沢真臣らが対立しました。
翌1870(明治3)年7月民部・大蔵二省は分離、大隈の参議昇格で木戸派と大久保派は妥協を図りました。しかし、同年の工部省設置で木戸・大隈派の巻き返しで、大久保の管轄下の民部省の権限削減が行われました。

廃藩置県直後の1871(明治4)年7月、太政官三院制が採られました。天皇の下に正院を最高の輔弼(ほひつ)執行機関とし、公家出身の三条実美が太政大臣、岩倉が右大臣、参議には薩摩の西郷、長州の木戸、土佐の板垣、肥前の大隈で構成されました。左院は議長以下議員らで、右院は省長・次官で構成されました。

この時点で、大蔵省の権限は、租税の徴収と各省の予算決定の実権をはじめ、財行政及び司法権の一部をもつというものでした。卿は大久保、大輔(たゆう)は井上馨、少輔(しょうゆう)は津田出(いづる)、大丞(だいじょう)は谷鉄臣・安場保和(やすばやすかず)、権大丞は松方正義でした。
大久保が米欧に出向くと、大蔵省の実権は井上に移りました。参議になった大隈は後任の大蔵大輔に井上を推薦しましたが、徐々に井上と対立していきました。これにより大隈は木戸派から大久保派に接近していきました。

1873(明治6)年5月、予算削減をめぐって大蔵省と各省が対立し、特に司法・文部両省との対立が激しくなりました。井上と司法卿の江藤新平及び文部卿の大木喬任(たかとう)との対立でした。江藤及び大木は肥前の出身でした。
5月7日国家財政を顧みず事を急ぐ政府を非難する意見書を提出して、井上は渋沢とともに辞職しました。かっての岩倉・大久保派と木戸・大隈派の対立は大久保・大隈派と木戸・井上派の対立様相になりました。

 

明治4年に戻って、米欧使節団を見てみます。12月6日サンフランシスコに一行は着きました。一行はこの地方の視察と見学を終えてアメリカ大陸を横断し、首都ワシントンに向かいました。
1872(明治5)年1月21日一行はワシントンに着きました。1月25日岩倉大使や木戸ら副使4人は5人の書記官とともにホワイトハウスを訪れ、グランド大統領と会見しました。大使と副使は衣冠で、書記官は直垂(ひたたれ)に帯剣という格好でした。27日には一行は議事堂を訪れ、上下両院で歓迎を受けました。

1872(明治5)年2月3日から条約改正に関する交渉が始まりました。しかし、使節団の今回の目的は条約を改正して調印するというのではありませんでした。
国務長官フィッシュは条約締結の権限がないとすれば、草案書への調印の権限はあるのかと問題にしました。そのため、大久保と伊藤が改正の委任状を要請するため帰国することになりました。
大久保・伊藤は、3月24日に東京に戻り、翌日正院で改正の要旨を述べて、全権委任状を請いました。外務卿の副島種臣や大輔寺島宗則らの反対は強かったのですが、5月14日委任状は下付されました。この間、木戸らは対米交渉を行いましたが、日本側の希望する関税自主権・領事裁判権や居留地問題など厚い壁がありました。
6月17日、大久保・伊藤は寺島とともにワシントンに着きました。彼らは岩倉・木戸らと協議しました。しかし、事態打開策はなく、同日対米交渉は打ち切りとなりました。使節団はワシントンを出発して、7月3日ボストンからイギリス船でヨーロッパに向かいました。

 

1872(明治5)年7月14日使節団をイギリスのリバプールに着きました。イギリスには同年11月16日まで滞在しました。
使節団は、島国であるイギリスを、貿易国で工業国であることが日本と決定的に違うと認識しました。
ヨーロッパでは一般的に立法権が公選の議員によって握られており、その根源には富強の基本である財産権の尊重を置かなければならないと考えました。国家の富強を目指すには国民が一致して財産を重んじるというブルジョア国家の基本を認識しました。

11月16日使節団はドーバー海峡を渡ってフランスカレー港に着きました。パリでは1年前のコミューン蜂起の砲弾の跡が残っていました。
使節団は労働問題をブルジョア国家が直面する問題と捉えました。パリ・コミューンを弾圧した大統領ティエールを賞賛しました。
使節団のパリ滞在は太陰暦の明治5年11月16日から太陽暦の明治6年2月16日までの2ヶ月間となります。この間に我国では太陽暦が採用されました。

「北九州の歴史」でもこれまでの歴史上の日付は全て太陰暦でした。旧暦明治5年12月3日が太陽暦に切り替わり、明治6(1873)年1月1日になりました。これ以降の日付は太陽暦で表記します。

ベルギーやオランダでは国王と謁見しました。一行は1873(明治6)年3月9日、ドイツのベルリンに到着しました。国王ウィルヘルム1世と謁見し、ビスマルクやモルトケと会見しました。鉄血宰相ビスマルクは、いかにして弱肉強食のヨーロッパで、弱小国プロシアがウィルヘルム1世の下でデンマーク・オーストリア・フランスと戦ってドイツ帝国を成立させたかを、使節団に熱弁をふるいました。

3月28日大久保は帰国の途につきました。内政・外交とも急迫を告げ、留守政府は木戸・大久保に帰国を命じました。しかし、木戸は帰国を延ばしました。
木戸と大久保の間で意見の衝突がありました。条約委任状で大久保・伊藤が帰国した際、木戸は勝手な行動と批判しました。今回は木戸が勝手に帰国を延ばし、4月16日帰国の途につきました。
3月29日使節団はロシアのペトログラードに着き、皇帝と謁見しました。ロシアからデンマークに入り、スェーデンを経て再びドイツに入り、イタリア・オーストリア・スイスを訪ね、7月20日フランスのマルセーユを発ち、帰国の途につきました。1873(明治6)年9月13日、使節団は横浜に着きました。

 

留守政府の召還で大久保・木戸は帰国しましたが、約束を無視して留守政府は新政策を実施していました。その政府内では征韓論が沸騰していました。
外遊していた木戸を除くと当時の参議の出身は薩摩1、土佐2、肥前3になり、薩長土肥の均衡は崩れていました。またこの年1873(明治6)年5月の官制改革で、参議は内閣を構成する議官で、立法や行政事務を論議し判断すると権限は強化されました。薩長閥に対する土肥側からの巻き返しでした。
木戸・大久保は岩倉・伊藤の帰国を待つことにしました。8月17日閣議は西郷の遣韓大使派遣を決めました。西郷は遣韓大使派遣と征韓という二段構えの考えを持っていました。

征韓論は幕末より論議されていました。江戸時代、儒者の間には朝鮮の文化や学問、特に朱子学に対し敬意を持っていました。しかし、一方では、神功皇后の三韓征伐以来の属国であるという、古くからの伝統的な優越意識を朝鮮に対し持っていました。
幕末に国学者によりその優越意識は強調されました。また列強による外圧が加わると、その反動として朝鮮に対する侵略意識は強められました。
李氏朝鮮では19世紀に入ると、限られた貴族による独裁政治が行われました。この政治は勢道(せいどう)政治と呼ばれました。

勢道政治を改めるため、1863(文久3)年幼い国王の父に政治を任せました。国王の父は大院君と尊称されていました。
大院君は権力を国王に集中しました。しかしその時代認識は遅れていて、対外貿易を禁じる海禁策をとっていました。そしてキリスト教を弾圧し、フランス人神父や多くのキリスト教徒を殺害しました。
維新直後、対馬藩主宗氏を介して朝鮮と交渉が行われました。しかし、大院君は外交交渉には応じようとしませんでした。朝鮮側の対日態度を口実に征韓論が表面化しました。日本政府の指導者達は、朝鮮制覇は自明の必然と考えていました。

遣韓大使問題に対し、木戸・大久保そして帰朝した岩倉は反対しました。彼らは米欧列強と日本の落差を認めることが一番と考えていました。相次いで一揆が起こる国内状況を見て、彼らは留守政府のやり方を批判しました。そこには留守政府に奪われた主導権回復の意図がありました。
明治5・6年、一揆・村方騒動が全国的に起こっています。明治6年6日には福岡県下でも一揆が起こっています。「1.明治初期の北九州」で述べたいと思います。

岩倉は木戸が病気がちで閣議に出られないため、大久保を参議にしょうとしました。木戸と大久保の間に対立がありましたが、留守政府を前にしては二人の意見は一致しました。
岩倉は木戸の了解を得て大久保に参議就任を要請しましたが、大久保はこれを固辞しました。西郷は閣議の開催を強く迫りました。1873(明治6)年10月10日ようやく大久保は参議就任を承諾しました。この時同時に外務卿副島種臣の参議就任が決まりました。
10月14日岩倉帰朝後初めての閣議が開かれました。病欠の木戸を除いて全員出席しました。遣韓大使問題は大久保の強硬な反対で、結論は翌日に持ち越されました。翌15日西郷が欠席し、2名欠席で閣議は開かれました。このままでは西郷の辞職が明白なため、三条・岩倉は西郷の遣韓大使を認めました。大久保は参議辞任を決意しました。木戸も辞表を出しました。

1873(明治6)年10月17日の閣議には西郷以下の征韓派は全員出席、非征韓派は全員欠席しました。西郷は上奏裁可を三条に求めました。三条は1日の猶予を求めました。翌18日、三条が倒れました。三条は辞表を出しました。
10月20日岩倉に三条の代行をさせる勅命が下りました。大久保が岩倉に強行にてこ入れしました。23日岩倉は参内し、天皇に上奏しました。その意見書には全権大使として米欧各国を見てきた上での決断で、征韓不可が貫かれていました。
この日西郷は参議・陸軍大将・近衛都督の辞表を提出しました。翌日岩倉の意見を認める勅許が下されました。他の征韓派も全員辞表を出しました。これが、西郷が征韓論に敗れた明治6年10月の政変です。

 

政変後、政府の陣容は大久保ら薩長派が主導権を握りました。薩長のバランスの上に新たな大久保体制が発足しました。大久保の意見により参議と各省の卿は兼任となりました。
1873(明治6)年11月、内務省を設置し、大久保は内務卿に就任しました。この内務省を中心にその両翼に大蔵省と工部省がありました。大蔵卿には木戸派から大久保派に移った大隈が、工部卿にはこれもまた木戸から大久保に接近した伊藤が就任しました。この三省が官僚数でも歳出額でも大きな比重を占めました。
この時の長官の出身地によって、その出身県の官僚が相対的多数を占めることになりました。このことは、維新当初の出身藩による郷党的派閥でなく、官僚機構が整備されてくると、薩長土肥の範囲内では、機構と結びついた少数の実力者中心の派閥形成が優先されました。


旧幕臣層は幕末以来洋学などの通じて科学・技術を身につけ、実務に精通する者が多く、旧幕府の陸海軍の軍事官僚もそのような人がたくさんいました。旧幕臣層は、技術・実務官僚、軍事官僚として大久保体制を支えました。
内務省の機構は、国内の安寧・保護の事務を管理する所で、6寮1司2課よりなっていました。その権限は殖産興業政策の推進、行政警察権、府県の指導があげられます。
司法省の管轄下にあった警察権のうち、行政警察を内務省に移し、司法警察は司法省に残しました。そして、東京警視庁を設置し、東京の警察権を大警視川路利良(としよし、薩摩)が掌握しました。
行政警察は、人民の権利の保護、健康生命の安全、風俗の規則、国事犯の探索・警防を担当しました。行政警察の予防の力が及ばず、法律に背く者が出た時、その犯人の探索・逮捕するのが司法警察の職務としました。

 

幕末の幕府や藩営軍事工業の基礎の上に開始された官営工業の運営の中心機関が工部省でした。工学の開明、諸鉱山の管轄、鉄道・電話・灯台・礁標の建設修繕、艦船の製造修理、銅・鉄・鉛類の精錬鋳造、各種器械の製作、海陸の測量などを担当しました。
官営事業の創設・拡大に多くの費用が支出されましたが、その事業の中心は鉄道と鉱山でした。鉄道は1870(明治3)年、東京・横浜間、神戸・大阪間が起工され、それぞれ、1872(明治5)年と1874(明治7)年に開業しました。1877(明治10)年には大坂・京都間が開業しました。技術はイギリスから移植され、狭軌が採用されました。

電信線の架設も1869(明治2)年からイギリス技師の指導の下、東京を中心に開通しました。
鉱山経営は1873(明治6)年より積極的に行われました。外国資本の介入を排除し、鉱物資源の国家的独占を図りました。
こうした工部省を中心にした初期殖産興業は、列強資本主義国をモデルに、その技術導入をせざるを得ませんでしたので、多数のお雇外国人に依存しました。

お雇外国人による技術移植策と在来産業との間は大きなものがありました。この様な工部省による事業は、外圧に対応した強兵的要素の強いものでした。これに対し、大久保の内務省を中心に政策が立案されました。
その殖産興業策は、紡績・海運・開墾・牧畜・農業指導・博覧会など広範なものでした。軽工業部門の保護・育成、勧農政策の推進など富国的側面に比重がかけられました。
大久保は米欧に比べて商工業の未発達を痛感しました。大蔵省を掌握した大隈も商工を振興しないと、農業も発展しないと認識していました。
この考えに立つ具体案として、農業・加工部門に重点を置いた官営模範工場を設置し、直輸出事業を行い、府県への勧業及び補助金・貸付金を付与しました。
輸出の中心であった生糸の品質改良・生産増加・技術習得などを目的とした富岡製糸場・新町屑糸(くずいと)紡績所、愛知及び広島紡績所などの官営模範工場が建設されました。
農業・牧畜の保護・育成のための内藤新宿試験場や三田育種場、取香(とっこう)種畜場・下総牧場などがあります。
西欧技術の模倣、外人依存からしだいに自力立脚に移行していきました。それとともに、保護主義も提起されます。海運業では政府が岩崎弥太郎の三菱を助成し、日本沿岸ないし大陸への航路の外国船の独占を排除しょうとしました。また、銀行資本の三井の保護・育成を行い、上からの富国策いわゆるブルジョア化を推進しました。

 

北海道には、1869(明治2)年7月開拓使が設置され、その運営は薩摩出身で大久保の配下の開拓次官(後長官)黒田清隆が掌握し、北の地に薩摩閥の牙城が築かれました。
アメリカの農務局長官ケプロン以下のお雇外国人を雇用して、測量、地質・鉱物調査、農業、工業、石炭採掘、交通、運輸、土木その他を開拓使主導の下に行いました。
機械・造船・漁網などの生産から味噌・醤油・ビール・ワイン・缶詰などの消費財の生産に至る、広範な官営工業が札幌・函館・根室などに建設されました。
1874(明治7)年7月、移民扶助規則が全廃され、屯田兵制度が実施されました。この制度をはじめ、士族移住、クラーク博士招致、札幌農学校設立、更に囚人労働など北海道の開拓は官主導で行われました。

しかしながら、開拓を行った屯田兵や士族が特権を持っていたわけではありません。戊辰戦争で敗れた者たちが多く、開拓使が薩摩閥の牙城であったことを考えれば、官の保護は知れたことであったと思われます。
まして一般開拓農民の労苦は想像に余りあります。北海道の厳しい自然相手にする、民衆の不屈のたくましさが北海道開拓・殖産興業を支えました。
この地には古くからアイヌの人々が先住していました。開拓使は酋長の行政的役割を廃止しました。アイヌにも和人と同様の私有権を認めました。そして部落が有する漁業権を廃止し、和人の移住を歓迎し、アイヌの職業及び住居移転の自由を認める同化政策が採られました。
土地所有の観念のないアイヌの人々は私有権を認めることがどういったことか理解できず、それらの政策はアイヌの人々の実態を無視するものでした。アイヌの人々は次第に持っている物を失い、滅びの道を歩くことになりました。
1878(明治11)年11月、政府は、アイヌは戸籍上は平民と同様としながら、以降は、区別する時は「旧土人」の名称を使うように通達しました。

 

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