明治時代1

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明治時代1
5.改革令
 

1871(明治4)年戸籍法が公布され、翌明治5年から6年にかけて明治5年の干支を採った壬申(じんしん)戸籍が編成されました。
この戸籍では、華族・士族・平民の身分に関わらず、屋敷・家屋を単位にした家の戸主を定め、その戸主が家に関する一切の責任と権限を持たされました。
戸主は自分を筆頭に、総員の姓名・年齢・続柄・職業・寺・氏神などを申告し、構成員の婚姻・養子縁組・分家などの家族の変動を届けなければなりませんでした。
国民は四民平等でしたが、天皇に対する臣民一般と捉えられ、華族・士族・平民との族称は、この戸籍にも記載されました。戸籍の記載順序は尊属・直系・男系が上位とされ、戸主・祖父母・父母それから妻子・孫・兄弟・姉妹等の順序で卑属・傍系・女系が下位とされました。

戸籍事務は地方の末端の戸長が担当しました。こうして家は戸主・戸長・地方官・中央政府という上位者に掌握されました。戸長は各府県内の区割りである大区・小区の長の一つで、一般的には小区の長を指しました。この小区が幾つか合わさった大区の長を区長といいました。
区長は官選、戸長は官あるいは民選で、地方によって異なっていました。しかし、この大区・小区制は、それまでの地域の歴史・伝統や旧名主・庄屋達を軽視したため、後に修正を余儀なくされました。

 

1872(明治5)年11月28日徴兵の詔と太政官の告諭が出て、その15日後、徴兵令が発布されました。この間に太陽暦が採用されたため、徴兵令発布は明治6年1月10日になります。太政官告諭の中で、血税という文字がありました。この文字で血を絞り取られるという噂が流布し、血税一揆が発生しました。しかし、これは徴兵反対の一揆発生のきっかけの一つに過ぎませんでした。
実情を無視した上からの政策に抵抗するものであり、徴兵が農民にとっては夫役の性格を持つものと農民は考えました。

実態が分かると血税一揆は減少しますが、徴兵忌避に民衆の抵抗は移っていきました。徴兵の免役条項は次のようなもので、身長が5尺1寸未満の者、病弱や不具の者、官吏、所定の学校の生徒、洋行修行者、陸海軍生徒、戸主、その相続者や養子ならびに家族中特殊の関係にある者、犯罪者、代人料270円を納めた者等でした。
徴兵は家を単位に、家の責任者やその跡継ぎは、徴兵に応じなくてよいということが原則でした。徴兵対象者は次三男以下の者でした。そこで、該当者は検査前に分家したり、他家に入籍したり、絶廃家を再興して戸主になることにより、その原則を活用し、民衆は徴兵を忌避しました。
戸籍は杜撰でしたので、戸長が書類をごまかすこともありました。また、適用地域外であった北海道や沖縄に転籍したり、検査前に逃亡したり、失踪する者もいました。
明治9年度の20歳の仕丁100人中、徴兵された者は6人しかいなかったといわれています。そのため、相次いで徴兵令が改正されました。明治12・16、そして22年の改正を経て、徴兵制度は確立されていきました。

 

1872(明治5)年7月、壬申地券が発行されました。地主に地券が与えられ、落地や隠田がないようように全国の土地が点検されました。
地券には、土地の所在地、地番、面積、持主名、地価が記入されました。この地価は持主に売買を前提にして申告させました。
廃藩置県により、政府はそれまでの幕藩領主から土地所有権者になりました。一方で農民一揆が発生し、他方では歳出が増大するという矛盾を克服し、対外的にには強力な統一国家を構築するために、根本的な財政改革が重要な問題でした。

1873(明治6)年7月地租改正法が公布されました。これまでの貢租が土地の石高を基準にして課せられたのに対し、地租は地価を課税の基準にしました。税率は特別の場合を除いて3/100としました。これまでは物納でしたが、金納にしました。地租は地券を交付された土地所有者が納めることにしました。
大まかに言えば、日本の西では減租、東は増租、耕地・郡村地は減租、市街宅地や山林原野は無税から有税になりました。
しかし、地租改正による増減の総和はほぼ貢租を継承するものでした。土地負担の平準化が行われましたが、階層的にはその偏差は縮小されず、地主や富農には有利なものでした。

地租の金納は、中下層の農民を米どころか土地まで売って払わなければならないはめに追い込みました。西南戦争前後の米価騰貴による利益は余裕ある地主や富農、あるいは換金のための米を一手に買い占めた政商に集まりました。
以降のデフレによって、日本資本主義の原始的蓄積が進行しました。地租改正は結果として日本の寄生地主制形成の道を開き、日本資本主義の特質の一翼を形成しました。

 

1872(明治5)年10月政府は娼妓(しょうぎ)解放令を発しました。公認された売春婦などの年季奉公人の人身売買を禁じ、その借金を破棄させ、彼女達を解放するものでした。
しかし、これは彼女達を解放するものではありませんでした。抜け道があり、彼女達が希望すれば、そうしなくてもいいというものでした。

1871(明治4)年8月穢多(えた)・非人の解放令が通達されました。江戸時代の士農工商の身分外の穢多・非人などの名称はやめ、平民同様にするというものでした。
この解放令は幕藩体制を解消し、御一人の天皇と万民、その万民は平等であるという天皇制創出を旗印にしましたが、実質的には骨抜きにされました。
被差別部落民には改めて新平民の名が付けられ、戸籍には旧穢多、新平民と注記されて、密かに差別されました。この問題は最近に到るまで残されました。

 

1871(明治4)年7月文部省が設置され、翌1872(明治5)年8月学制がしかれました。大中小の学区と学校制度が構想されました。華士族・農工商・婦女の別なく教育が受けられるというものでした。
しかし、これは机上のプランでした。実際の学制実施では、明治6年の就学率が28%、明治11年では41%でした。学校の設置・維持費は住民の負担でしたし、授業料も高額の規定だったため民衆は反発しました。

学校では従来の往来物などが使われる反面、先進諸国の翻訳ないしは紹介が広く使われました。福沢諭吉の「西洋事情」や「学問ノススメ」などもその一つでした。
教科書の出版では、国語と地理の教科書が多く、国語では作文・習字の教科書が多く、地理は地方誌が多かったといわれています。歴史は比較的少なく、そこでは万国史(日本以外の外国史)が多く取り上げられました。

 

キリシタン解禁はなし崩し的に行われました。キリスト教は佐幕ないし維新に立ち遅れた藩の子弟に受け容れられました。主としてプロテスタントでした。そのピューリタニズムが士族の精神と結びつきました。
彼ら子弟達の結びつきをバンドといいますが、横浜・札幌・熊本のバンドが有名です。
1876(明治7)年1月熊本洋学校出身の青年達により熊本郊外花岡山上で、奉教の決意が固められました。この熊本バンドには中央に対する抵抗の姿勢があったため、布教拡大には白眼視と弾圧を伴いました。
熊本洋学校廃校後、教師だったジェーズの紹介により、熊本バンド30数名が設立されたばかりの同志社英学校に入学しました。いまだ未整備だった同校の校風が、彼らの働きにより一変しました。そして彼らの中から同志社の教師になる者も出てきました。

文明開化を鼓吹して、明六社は「明六雑誌」を発行しました。発起した年の明治六年から名称は付けられました。
当時のメンバーは、福沢諭吉・西周(にしあまね)・加藤弘之など10名でした。共通するところは、1820〜30年生まれで、下級武士出身で、兵学から蘭学に入り、蘭学から洋学に転換し、幕末に幕臣として仕えた者が多く、過半数が幕末までに西洋を見聞しています。
しかし1875(明治8)年政府が言論統制を厳しくすると、「明六雑誌」を中止し、明六社は解散しました。

文明開化は、生育過程を抜きにして、文明の木の実を直輸入しました。文明開化が富国や強兵と直結したため、政府は率先して旗振りをしました。
文明開化は対外的な体面を強く意識したため、民衆の生活を細かく規制しました。それを列挙しますと、春画類の販売・男女混浴の浴場の禁止、刺青・裸体・婦人の断髪・軒下に木石を積む者・家の前の掃除や下水ざらいを怠った者の罪を問いました。
立小便や店先・往来に向かって子供に大小便をさせることや、他人の争いごとに口出しできないと、民衆にとっては文明開化はやっかいなものでした。
一方では、舶来かぶれも出てきました。しかし、文明開化のシンボルの舶来品が物に留まらず、人権思想や参政権の要求が人々の間に浸透してくると、官に対する民が自覚され、上からの文明開化政策は破綻しました。

 

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