明治時代1

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明治時代1
6.士族反乱
 

日本は国際法に基づいて国家の独立を確立することが至上の方針でした。戊辰戦争前後、37の諸藩が列強から武器や軍艦を購入したり、藩の経費を補完するため借款した外債を処理することは、国家的課題の一つでした。
幕府老中小笠原長行(ながみち)とアメリカ公使書記官ポートマンの間に交わされた、江戸・横浜間の鉄道敷設の約束の再確認を政府は拒否しました。プロシャ人の北海道の鉱山の開発権・経営に対して、外国資本を排除しました。これらは幕末以来の列強の日本への侵食に対して国権の回復を図るものでした。
しかし、政府はイギリス公使に、そしてイギリス資本に多くを依存しました。1875(明治8)年ロシアとの間で樺太・千島交換条約を締結しました。政府部内に異論もありましたが、日本は樺太(サハリン)を放棄して、全千島列島と交換しました。ここには早くからのパークスやアメリカ公使デ=ロングの勧めがありました。

後進国日本の国権の対処の仕方は、先進列強との力関係に規制され、欧米諸国への屈従を内包していました。一方東アジアに対した場合、自らを欧米並みの先進国と位置づけて、対アジア政策を遂行しょうとしました。
近隣の中国・朝鮮に対し、朝鮮を日本の統一国家形成と不可分に考え、征韓し、制韓することは、欧米資本主義の洗礼を受けた日本が中華思想に基づく中国中心の東アジア世界に楔を打ち込み、中国の冊封体制打破を目指すことでした。
1871(明治4)年7月日清修好条規は調印されました。日本が対清交渉の準備に取り掛かると、パークスは介入しょうとしました。しかし、日本はこれを拒否しました。
日本側全権大使は大蔵卿伊達宗城(むねなり)、清国側全権大使は李鴻章でした。李は清朝洋務派官僚の代表的人物でした。清国内には、従来の体制を維持しょうとする意見と、日本と新しい国際原理に立った関係を樹立しょうとの意見があり、李は後者の立場に立っていました。
審議は清国側の原案に沿って行われました。清国側のペースで交渉は進められて、条約は調印されました。1873(明治6)年4月外務卿の副島種臣が清国に渡り、日清修交条規は批准書が交換されました。
この過程を見てみますと、日本は欧米列強から不平等条約を押し付けられますが、清国に対しては日本は不平等条約を押し付けようとしました。条約は一種の日清同盟的内容を含んでいましたが、欧米諸国はこれに反対しました。日本はその圧力に屈し、同盟でなく単なる善隣であるとの条文の解釈をしました。朝鮮に対し、宗属的支配権を持った清国との対等な条約を結ぶことにより、日本は朝鮮に対し、一段高い国際的地位を得ようとしました。

 

1871(明治4)年12月、琉球島民が難破して台湾東海岸の八瑶湾(パーヤオワン)に漂着し、原住民に66人のうち54人が殺害される事件が起きました。この情報は翌年4月日清修好条規改正交渉の柳原前光公使より外務省に報告されました。
1873(明治6)年3月備中小田県の漂流民が台湾の原住民に略奪される事件が起きました。この年、外務卿副島種臣が特命全権大使として清国に向かいました。副島の派遣は日清修好条規の批准書の交換のためとされましたが、台湾事件の交渉が主な目的でした。
副島はアメリカのルジャルドンを伴いました。彼は、列強は現在の状況ではアジアに進出して干渉することはない、だから日本は台湾問題を利用して台湾に出兵せよと主張しました。駐日アメリカ公使デ=ロングの紹介で、副島は彼を雇い、北京に伴い、相談役としました。
清国側から台湾は化外(かがい、支配の及ばない)の地であり、事件は化外の民が行ったものであるとの言質を得ました。
丁度その頃、政府内は征韓問題で揺れていました。清国は朝鮮の内政・外交に不干渉の意向である、と判断されました。
明治6年10月の政変で政府は分裂しました。これにより一時延期された台湾問題は、翌1874(明治7)年2月の閣議で征台の軍が派遣されることに決まりました。それと同時に朝鮮に遣使が決定されました。

佐賀の乱が起こり、士族反乱の噴出がありました。大久保らは前年の征韓論反対とは打って変わって、台湾・朝鮮問題に強硬な態度を取りました。
1874(明治7)年4月西郷隆盛の弟陸軍中将西郷従道(つぐみち)は、台湾蕃地事務都督として、台湾に兵を率いて出発しょうとしていました。しかし、これには内外から反対がありました。参議・文部卿の木戸孝允は辞表を提出し、山県有朋や伊藤博文も反対しました。
イギリス駐日公使パークスは、台湾に多くの商社を持っているイギリスの貿易への影響を考えて反対し、他の国も反対しました。更にアメリカも態度を急変させました。
4月28日佐賀の乱を平定した大久保は、5月4日大隈や西郷従道と出兵を中止しょうと会いましたが、西郷は既に艦を出航させていました。
台湾に到着した軍を西郷は3軍に分けて、6月1日より征台を進めました。9月大久保自ら全権となって北京で交渉しました。交渉は難航しましたが、イギリス公使ウェードの調停で10月末決着がつきました。
その内容は、清国は日本の征台が義挙であることを認め、償金50万両(テール、約75万円)を支払い、日本軍は撤退するというものでした。

 

朝鮮では、1873(明治6)年末頃から、朝鮮国王李煕(りき、イキ)の妃閔(びん、ミン)氏一派が、宮廷の実権者である大院君の海禁策及び内政の失敗を機に、その排斥を図りました。この政争により大院君は失脚しました。
1875(明治8)年5月日本の軍艦が釜山に入港しました。そして、ソウルの入口に当たる江華島付近を測量し、9月朝鮮側と交戦しました。江華島砲台は破壊され、永宗城(ヨンションソン)を占領して民家を焼き払い、大砲などを捕獲して長崎に帰港しました。これが江華島事件です。
1876(明治9)年2月、政府は陸軍中将兼参議・開拓使長官黒田清隆を全権として、元老院議官井上馨を副全権として、艦船と兵員を江華府に派遣して、日朝修好条規(江華条約)を締結・調印しました。
政府は軍艦を派遣して、朝鮮に開国を迫りました。これは列強の朝鮮開国要求の露払いをするもので、その支持を得て行われました。
また、朝鮮を挑発し、一戦を交えることを辞さない薩摩派と外交ルートで朝鮮に条約締結を強要しょうとする長州派の両面性を持つ外交でした。

 

1874(明治7)年1月征韓論に敗れ下野した板倉退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らによって、民選議院設立建白書が発表されました。自由民権運動はここに端を発します。政府が危惧したのは、反政府運動や民衆の抵抗と結びつくことでした。

自由民権運動がどのような経過を経て発展していくかは、次の時代のことです。この時代、民衆の抵抗と結びつかない反政府行動である士族反乱が起こってきます。
維新早々の士族の反政府行動は、草莽とか脱藩浮浪の徒というように、統一国家形成過程で切り捨てられたり、はみだした者達の抵抗でした。その攻撃は藩庁攻撃や高官暗殺の形をとり、下層の世直しの動きと結びつく恐れを秘めていました。しかし、征韓論以降の士族の反乱は性格を異にしていました。
1874(明治7)年2月政府の政策に不満を持った佐賀の士族達は、前参議江藤新平と前秋田県権令島義勇(よしたけ)を担いで、1万2千人が県庁や佐賀城を攻撃しました。これが佐賀の乱で、1ヶ月で鎮圧されました。
太田黒伴雄ら熊本の士族達は神風連を結成し、攘夷論を展開していました。1876(明治9)年10月廃刀令に端を発し、政府の開化政策に反対し、神風連は挙兵します。これが神風連の乱です。2日目に乱は鎮圧されました。この神風連の乱に呼応して、同月開化政策に反対し、征韓断行を要求して旧秋月藩士宮崎車之助らが挙兵しますが、翌月鎮圧されました。これが秋月の乱です。
同じく同月、開化政策反対、征韓断行を要求して、旧長州藩士は前参議前原一誠を担ぎ挙兵します。これが萩の乱で、鎮圧後前原ら8名が処刑されました。
これらの士族の反乱で見られるのは、征韓断行であり、士族の特権擁護でした。地租改正や徴兵令、あるいは樺太・千島交換条約などを批判した前原一誠の萩の乱なども、底流には士族が困窮しているのに権力の座にある者が私利私欲にふけっているという、没落士族層の立場からの憤懣でした。

1873(明治6)年井上馨や山県有朋らの汚職の疑惑が表面化しました。政府の高官の多くは維新間もなく華美な生活をし、蓄財に励む風潮に流されていきました。
その一方で、士族の特権を廃止していきました。1876(明治9)年3月には廃刀令を、8月には金禄公債証書発行条例を公布しました。
版籍奉還後、領主層の華族と家臣の士族には、家禄と賞典禄をあわせて秩禄が支給されていましたが、国家財政が困窮したため廃止し、公債が支給されました。これを秩禄処分といいます。
公債は上に厚く、下に薄いものでした。したがって多くの一般士族は進行するインフレと、いわゆる士族商法で公債を手離さなくては得なくなり、一握りの特権領主層のみが公債を資本にして、大地主・ブルジョアへの道を進みました。

 

西郷隆盛は1827(文政10)年鹿児島下加治屋町で、下級武士の長男として生まれました。幕末開明派の旗頭藩主島津斉彬(なりあきら)に見出され、明治維新を成し遂げた中心人物でした。
1873(明治6)年10月征韓論に敗れた西郷は参議を辞任し、鹿児島に戻りました。隠遁生活をすることを決めていた西郷を、世間は許しませんでした。
西郷辞任で近衛兵(親兵が改称)の動揺が激しく、鹿児島出身の将校が西郷の後を追いました。また司法省警保寮の動揺も激しく、西郷に同調する鹿児島出身の幹部らが部下の羅卒(巡査)らとともに帰国しました。その数600人といわれています。
西郷は行き場のない士族を集めて、独自の教育をする私学校を創設しました。それは篠原国幹(くにもと)主宰の銃隊学校と、村田新八主宰の砲隊学校を中心とする軍事訓練を中心の士官養成学校でした。
西郷は私学校の生徒に文武両道の教育を施し、一方では、開墾をするなど農業や畜産などの産業育成を図ろうとしました。清廉潔白な西郷を慕って私学校には多くの士族が集まりました。
県令大山綱良(つなよし)も西郷に傾倒し、私学校の幹部を鹿児島県の区長に任命しました。
中央政府は鹿児島県では地租改正も秩禄処分も手出しができませんでした。鹿児島は西郷王国と呼ばれました。
政府内では長州派の木戸孝允などが、鹿児島県政や西郷を厳しく批判しました。それは同郷の内務卿の大久保利通への厳しい目でした。

各地で相次ぐ士族の反乱の報せは鹿児島にも届き、政府への不満は鹿児島でも高まっていました。鹿児島の士族の動向を探るため、政府は密偵を鹿児島に潜入させました。このことが発覚し、密偵は私学校の生徒に捕らえられました。そして、西郷の暗殺が潜入の目的であると、拷問の末自白させられました。
1877(明治10)年1月29日私学校の生徒達は決起し、各地を襲って、大量の武器・弾薬を奪いました。大隅半島の根占にいた西郷は、この報せを聞いて、2月3日鹿児島に戻りました。
私学校の幹部は反政府運動の旗頭になることを西郷に求めました。西郷は事態の収拾を考えましたが、佐賀の乱の江藤新平の斬首以降、首謀者はほとんど極刑に処せられていました。
2月5日私学校で会議が開かれました。幹部達の意見は二つに分かれました。しかし、政府の罪を問う出兵に収斂していきました。2月12日陸軍大将西郷隆盛・陸軍少将桐野利明・同篠原国幹の連名で、率兵上京の届が県庁宛に出されました。

2月14日私学校生徒を中心とする薩摩士族1万3千人は東京を目指した進軍を開始しました。
九州各地からの士族が西郷軍に合流し、総勢4万余人になっていました。2月22日政府軍が籠城する熊本城を包囲しました。
2月26日元老院議官柳原前光(さきみつ)を勅使として鹿児島に派遣し、征討の布告、西郷・桐野・篠原らの官位の剥奪の伝達、県庁への指令を行いました。
政府は各地より援軍を送り、福岡より上陸して南下しました。西郷軍はこれを迎撃するため、主力を北に向かわせました。3月3日熊本の北、田原坂で両軍が激突しました。
両軍の弾と弾とが空中でぶつかるほど激しい戦いで、弾薬の乏しくなった西郷軍は敵陣に切込みを行いました。しかし、増強される政府軍に対し、西郷軍への補強は絶え、武器弾薬は底をついてきました。
3月20日政府軍は総攻撃をかけ、遂に西郷軍は敗走しました。西郷軍は敗走を重ね、宮崎県の山中に追い詰められました。西郷は作戦に一切口を出さず、指揮は全て部下に任せていました。8月16、西郷は初めて命令を出しました。それは兵の解散命令でした。
残った兵とともに西郷は鹿児島に帰って来ました。そして、城山に立て籠もりました。9月24日政府軍は城山総攻撃を開始しました。銃弾を受けた西郷は自刃しました。県令の大山綱良以下2,764人が刑に服しました。

1873(明治6)年以降、農民一揆は高まっていました。徴兵令や学制、その他の政策に対する反抗もありましたが、約半数は土地や租税関係のもので、地租改正に絡むものでした。
内務卿大久保利通は、相次ぐ農民の抵抗の前に、地租率の引き下げを決意しました。1877(明治10)年減租令が出て、地租率が3/100から2.5/100に引き下げられました。
西南戦争に到る士族反乱と農民一揆が結びつくことはありませんでした。それを分断するように、大久保によって減租令は出されました。
しかし、決定的原因は、士族の反乱が士族の特権擁護に過ぎなかったことでした。西南戦争終結で、士族の反乱は終止符を打たれました。この戦争中の5月、木戸孝允は病死しました。大久保利通は翌1878(明治11)年5月暗殺されました。

 

台湾事件は、発生翌年の1872(明治5)年4月清国駐在公使柳原前光によって外務省に報告され、大蔵大輔井上馨により琉球国の処置に関する建議が正院宛に提出されました。
琉球をこのまま放置することはできない、版籍を収めさせ、制度や税制を内地と同一にするべきと論じました。
外務卿の副島種臣も琉球王尚泰(しょうたい)を華族に列し、その外交権を日本が掌握するとの意見を具申しました。正院は琉球問題を左院に諮問しました。
1872(明治5)年6月、左院は回答しました。事実上の属国化は認めつつ、これまでの歴史的事実を考慮して、一定の距離を置こうとしました。1871(明治4)年の変革以来、琉球は朝廷の支配下に入りましたが、これまで通り薩摩に従うという琉球支配層の希望通りの回答でした。
はじめ外務省が主導権を握っていた対琉球政策は、1874(明治7)年以降、内務省の管轄に入り、井上建議のように強行策となりました。

日清間の緊張関係の中で、政府は琉球に対して強圧的態度となりました。それは琉清関係の廃絶であり、天皇の下での中央集権的国家機構に琉球を包含することでした。
これは琉球藩王体制を揺るがすものでした。琉球の支配層は頑強に抵抗しました。琉球問題が国際化することに神経を使い、他方では士族反乱・朝鮮問題・地租反対一揆と内外の問題の解決を迫られました。
この様な情勢と琉球側の抵抗で、琉球処分は5年を要しました。内務大丞松田道之は2度琉球に渡り、3回目は警官・軍隊を動員して処分を完了しました。
1879(明治12)年、琉球藩は琉球県となり、県庁は首里に置かれ、初代県令は鍋島直彬(なおよし、旧肥前鹿島藩主)が任命されました。
王族や士族を中心に抵抗は続きました。しかし、処分官の松田道之は強権と威圧で制圧しました。琉球藩の動向はスパイ網でキャッチされ、支配層内の分裂と民衆との亀裂を利用して、処分は進められました。

琉球処分は国際間の争点にならないように進められました。琉球処分は清国との関係が基本でしたが、朝鮮問題とも微妙に関わり、それと同時に列強との関係を無視してはできませんでした。
大久保は琉球に熊本鎮台の分営を設置することを急がせました。1876(明治9)年7月、分遣隊を那覇に駐屯させました。琉球側は不安を訴えましたが、琉球だけの問題でなく、政府は日本全体の観点から軍事的関心を持っていました。
琉球処分は日本からの一方的強行策でした。清国は日本の強行策に抗議し、日清修好条規にも背くとしました。
1879(明治12)年5月から8月にかけて、グラント前アメリカ大統領が日清両国を訪れ、日本は宮古・八重山の先島を清国に譲り、代わりに日清修好条規を改め、日本が清国内陸部の通商を含む、列強並の権利を得るとする案を提示しました。

1880(明治13)年10月奄美大島を日本、沖縄・久米島・沖縄諸島を琉球王国、宮古・八重山の先島を清国とする分島・改約案で日本と清国は妥結しました。
しかし、清国がロシアとの国境に関わるイリ問題(新疆の西北部)に直面したため調印が延び、遂には廃案をなり、沖縄は分割を免れました。
政府は沖縄を分割し、それを切り捨てることにより外交上の権利を獲得しょうとしていました。
沖縄は徴兵制・地租改正・市町村制・衆議院議員選挙などに於いて、府県制特例の名の下に、明治末から大正初年まで政治的差別を受けていました。
北海道と沖縄は差別的政治機構に置かれました。北海道は当初から開拓使の下、官主導の開拓の実験場として多額の国費が投資されました。沖縄は国費に収奪されました。投資と収奪の差はありましたが、ともに内国植民地の様相がありました。

 

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