明治時代1

北九州の歴史

ホーム

6.士族反乱

明治時代1
7.明治初期の北九州
 

企救郡は幕末からの騒乱で農村は疲弊し、小倉の町からも人々が逃げ出し、さびれていました。また、長州藩の占領下で腐敗と無法が横行し、1868(明治元)年には、天候不順で飢饉となりました。
1869(明治2)年も不作が続きました。農民は年貢の減免を願い出ました。検見に役人が派遣されましたが、賄賂により減免率が決まるなど農民の疑心暗鬼は募り、一揆が起こりそうな不穏な状況でした。

1869(明治2)年11月、企救郡新道寺村では、村人の信望の篤い組頭の原口九右衛門が役人に庄屋の不正を質しました。この会合を伝え聞いた農民達が庄屋の役宅を取り囲みました。庄屋の返事のあいまいさや投石により群衆が乱入しました。
役人・村役人は逃げ出しましたが、周辺の村々から大勢の者が集まって来ました。こうして企救郡百姓一揆は起こりました。
一揆は呼野方面に進み、頂吉・中谷村へと北進し、途中の庄屋の屋敷を打ちこわし、翌日には志井を経て横代村に到りました。長州藩は赤坂延命寺に駐屯していた干城隊を出動させ、説得に努めたため一揆は一旦引き下がりました。
この一揆に呼応して富野で起きた一揆は数千人に及びました。そして門司各地にに飛火しました。一揆は、打ちこわしを伴って郡内の広範囲に広がりました。

一揆の先々では村の有力者が説得に努め、長州藩は諸口を固めました。
横代村に到り、一旦引き下がっていた一揆は、そこに留まっていました。干城隊隊長は村役人や庄屋などの不正を調べると説得し、犠牲者は出さないことを条件にして、一揆を解散させました。一揆は終息しました。
翌年1870(明治3)年2月、長州藩は藩兵を引き揚げ、企救郡を日田県に移管することになりました。その直前、新道寺村の原口九右衛門他2名を拘引して日田県に引き渡しました。
原口九右衛門は首謀者として処刑されました。これに対し、村役人や庄屋は軽微な処分に留まりました。

 

1871(明治4)年11月、豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県が置かれました。この際に企救郡は小倉県の管轄下に入りました。小倉県参事に旧肥前藩出身の伊東武重が任命されました。事務引継ぎが当面の重要事項でした。これら事務には東京から連れて来た官員と旧日田県出張所の官員が当たりました。
幕末以来疲弊していた小倉も、西海道鎮台設置と県庁の設置により、ようやく再興の機運が出てきました。
同じく11月、県治条例が発布され、全県は全国一様に再組織されることになりました。そこで規定されている職制では、最高が令・権令で、どちらかを置くというものです。これに次ぐのが参事、権参事で、令を補佐し、いない時に代理をすることができました。これらの人事権は太政官にありました。

県の官員の定数は県治条例により定められています。石高が基準に定められました。それによりますと、小倉県は46人、福岡県は63人でした。しかし、廃県の職制は旧藩の門閥からなっていましたし、廃県の官員との間で緊張状態を生じさせる訳にはいけませんので、廃県の官員は据え置きとなり、当分の間士族の既得権は保証されました。
小倉県では旧藩の職制は200余人にのぼり、まずは半減することを目標にしました。翌年の1872(明治5)年6月には、85人になっていて、超過分も下級官員で、旧藩門閥による上級官員は大きく減少しました。

1871(明治4)年戸籍法が公布され、地域を区画し、その各区に戸長を置いて戸籍事務を担当させました。豊津県は区割りをしていましたが、小倉県が発足すると、区の再編成が行われました。
県下の企救・田川・京都・築上・下毛・宇佐の6郡を103区に区割りしました。企救郡は18区に区割りしました。
福岡県は県内を34区に区割りしました。遠賀郡は3区に区割りされました。同じ区でも福岡県は小倉県よりも大きな区画でした。

区制は戸籍法施行の区画でしたので、旧来の町村を廃止するものではありませんでした。そのため大庄屋や庄屋などの村役人はそのまま存続しました。しかし、戸長・副戸長と旧来の村役人の事務系統は錯綜し、権限争いが生じるなど問題が起きました。
そのため1872(明治5)年4月、太政官布告が公布され、大庄屋・庄屋・名主・年寄など全てを廃止し、戸長・副戸長と改称し、これまで取扱ってきた事務一切を取扱う権限を与えました。

区に大小を設けたり、役人の名称も様々で、区制の施行は全国まちまちでした。そこで1872(明治5)年9月大蔵省布達により大区が認められ、区制から大小区制に改編が進められました。
小倉県では郡を大区として9大区になりました。企救郡は第1大区となり、18小区からなっていました。福岡県は16大区になりました。遠賀郡は第5大区となり、36小区からなっていました。
大小区制の施行によって地方機構の画一化が図られましたが、地方の実情に沿わない面も出てきました。そこで小区の組み替えが行われました。小倉県の企救郡は18小区が7小区に統合されました。小倉が1小区に、他は藩政時代の手永の区画に相当する6小区に組み替えられました。県下他の大区も手永の区画に組み替えられました。
福岡県遠賀郡の第5大区は36小区が13小区に組み替えられました。その後、福岡県の16大区は9大区に整理されました。遠賀郡は第5大区から第4大区への番号変更に留まりました。

大区には区長が置かれました。区長は入札(投票)による公選で選ばれました。小区の戸長は小倉県は公選のようですが、福岡県は官選であったようです。
執務所として大区には調所が、小区には扱所が設置されました。調所は後の郡役所の前身のような形態でした。区・戸長らの給料や行政経費は税でなく、民費が充てられました。戸数と地価への割当で徴収されました。
大小区制の施行に続いて、府県会・区戸長会などの地方民会が各地で開かれました。民会は旧来の村の寄合の伝統を継承するものでしたが、自治意識が芽生え、政治的関心を高めました。

 

小倉の北西の響灘に藍(あいの)島があり、その西に白洲と干潟があり、暗礁が点々をしています。潮流が早く、この付近を航行する船が多いため、多くの船がここで難破しました。
藍島には密貿易船に対する遠見番所が設置されていました。藍島の漁民には密貿易船の監視・通報の上に、難破船の救助・積荷の保管や後始末などの役目が課せられていました。
 

企救郡長浜浦庄屋だった岩松助左衛門は難破船支配方に就き、1862(文久2)年白洲に灯台を建てることを小倉藩に願い出ました。
藩の許可は下り、灯台建設の活動を始めますが、活動費用は多額に上り、助左衛門は家財を売り払ってこれに充てますが、多額の借金が残りました。
時は幕末の混乱期となり、計画は頓挫します。1870(明治3)年着工しますが、1873(明治6)年事業は政府に移されて完成します。この前年、岩松助左衛門は灯台の点灯を見ずに、他界しました。現在、小倉城内に助左衛門が建設していた灯台を模した建物が建てられています。

白州灯台を模したもの

 

幕末、財政難に陥っていた福岡藩・小倉藩は、それぞれの藩の仕組法により、筑豊の石炭の採掘、販売を統制下に置き、藩財政の有力な収入源にしていました。
中原屋は田川郡赤池の小倉藩営の焚石会所に対して、金貸問屋資本として大きな影響力を持っていました。当主中原嘉左右(かぞう)は維新後も町年寄・商法方御用掛・御勝手元御用掛・会計局小頭試補などの要職に就いていました。
1869(明治2)年の「鉱山解放宣言」により石炭の採掘・販売は自由になりましたが、その取締機能は県に引き継がれました。石炭問屋の中原屋は県・郡の石炭興業政策の立案から参画し、特に経理面に関しては、郡役所の機能は中原屋に支配されていました。

中原屋は、1875(明治8)年頃には、田川郡の石炭の独占的販売権を掌握し、大坂・兵庫・横浜・東京を販路の拠点としました。地元では若松店を取引の中心としました。
山元からの石炭の買付・販売、鉱主への前貸し、出資経営参加、鉱山鉱区買収など石炭関係の活動を広く行いました。中原屋当主中原嘉左右は北九州きっての豪商になっていて、地域経済の重鎮でした
西南戦争で中原屋は陸軍より食糧や履物などの注文を受けました。また人夫の手配の依頼も受けました。西南戦争後も、第14連隊に米や石炭を納入しました。この後、蒲生・大里・徳力の銅山、呼野砂金を手掛けたり、仲間の朝霧炭坑を手掛けましたが、うまくいきませんでした。その後は、中央資本に斡旋するような石炭ブローカーとして活躍しました。また、商法会議所を設立して初代会頭に就いたり、地域の基盤整備に貢献しました。中原嘉左右は北九州の明治前半期を代表する経済人でした。

 

6.士族反乱←|↑7.明治初期の北九州

明治時代1

北九州の歴史

ホーム