明治時代2

北九州の歴史

ホーム

2.明治14年の政変


明治時代2
1.自由民権運動
 

征韓論分裂後の1974(明治7)年になっても、世の中は不穏な情勢でした。板垣退助(土佐)は、下野した副島種臣(肥前)・後藤象二郎(土佐)・江藤新平(肥前)と会合していました。
板垣は後藤に国会開設の意志を告げ、賛同を得ていました。後藤は英国から帰国した小室信夫(しのぶ、阿波)と古沢滋(土佐)に起草させることを提案しました。4人の前参議と小室・古沢に前東京府知事由利公正(きみまさ、敦賀)、前大蔵大丞岡本健三郎(土佐)らが加わり愛国公党を組織し、1974(明治7)年1月12日、民選議院設立建白書を左院に提出しました。
藩閥有司専制を攻撃し、天下の公議・公論を伸張するために民選議院を設立をうたったこの建白書が、イギリス人ブラックの編集する新聞「日新真事誌」に発表されると、社会に大きな反響を呼び、論争を引き起こしました。それは、民選議院の設立によって、政治の主体を人民のものにするか、公議・公論を権力支配の範囲内に留めるかというものでした。

左院は、1872・3(明治5・6)年頃から民選議院の設立を政府に建議していました。これに対し、正院は規則の立案を命じました。正院では板垣がこの論議に熱心で、西郷も賛意を表していました。しかし、その民選議院の立案は日の目を見ず、征韓論分裂による明治6年10月の政変となりました。
板垣らの民選議院設立の建白書の提出で主張されていることは、議院設立は人民の選挙権というものでなく、維新の功臣として、士族や豪農商にその権利を保有させようというものでした。このことにより、板垣らの主張は上からの民権論、上流の民権論と批評されました。しかし、建白書を機に下流の民権論が台頭し、やがて明治10年代の国会開設運動へと展開していきます。

1873(明治6)年7月、木戸孝允は米欧の視察から帰国すると、「憲法制定の建言書」を提出しました。木戸は五箇条の誓文だけではもはや不十分だと考えていました。木戸は君民同治の憲法、つまり立憲制の憲法にすることが理想と考えていましたが、当面は天皇独裁の憲法をつくろうとしました。
大久保利通は、立憲・民主・専制の政体を折衷して国情に適合した政体をつくるべきだと考えていました。
民選議院設立に関しては、木戸も大久保も時期尚早であり、官選の議会を設けて経験を積む漸進論でした。

島津久光は、薩摩藩主島津忠義の実父として権力をふるい、公卿や藩主達の保守層を代表していました。政府は久光を内閣顧問や左大臣に就けて遇しましたが、久光は大久保や大隈に攻撃を加え、遂には太政大臣三条実美を弾劾するに及び、政府は久光を辞職させました。
参議兼文部卿の木戸孝允は、1874(明治7)年の征台問題に反対し、辞職しました。大久保が征台に賛成したのは、西郷と別れ、島津久光に攻撃された大久保にとって、不平士族の不満を外にそらさなければ、体制維持が困難と判断したからでした。

1875(明治8)年1月から2月にかけて大阪会議が開かれました。大久保と下野していた木戸と板垣との会談が開かれ、二人の政府復帰が成立しました。木戸と大久保の間に伊藤博文と井上馨が入り、板垣に近い小室信夫と古沢滋が加わりました。元老院を設置する、大審院を設置する、地方官会議を開く、参議と卿の兼任を廃止するとの条件を提示し、大久保との妥協を図りました。
大阪会議の結果、木戸と板垣は参議に復帰し、大久保・伊藤が参議に加わりました。元老院・大審院が設置され、地方官会議が開設されました。

この会議の結論である4月14日の漸次立憲政体樹立の詔書により、民間の運動を元気づけ、議院のモデルである地方官会議の開設は世間の関心を高めました。
6月第1回地方官会議が開かれました。ここでの大きな審議の一つが地方民会の問題でした。結論は、公選議員の制を採らず、区戸長の会同をもってこれに当てるとしました。しかし、各府県からの傍聴人は互いに連絡を取って、この問題に当たり、自由民権論が地方に広がる契機になりました。

 

民選議院設立の建白書の左院提出は、世論を喚起しました。しかし、藩閥を一掃して公議制度を確立するという目的は、政府からの圧力でそう簡単ではありませんでした。1874(明治7)3月、板垣退助は、政党は人民の自覚と活動に待たなければならないとして、高知に帰りました。
翌4月、板垣は高知で、片岡健吉・林有造らと立志社を設立しました。立志社設立を契機に、地域の事情に応じた地方政社が各地に結成されました。

1875(明治8)年2月、板垣退助は愛国公党の同志と図って愛国社を結成しました。板垣・片岡・林をはじめ福岡孝弟・岡本健三郎、自助社(阿波)の小室信夫、加賀の島田一郎、筑前の越智彦四郎、豊前の増田宗太郎、肥後の宮崎八郎、因幡の今井鉄太郎、他に安芸・伊予・讃岐・薩摩などから人々が参集しました。
彼らの考えは、基本的人権を基礎とする民権論と、天皇・国家に力点を置く国権論が表裏一体を成していました。
欧米先進列強の圧力の下で、これをモデルに急速に資本主義国家を形成せざるを得ない日本の民権運動の特質でした。そしてそれ以上に、この期の政社結成の担い手が士族層であったということが、その特質形成に寄与しました。
民選議院設立建白書の明治7年から明治11・2年頃までの民権運動が士族民権といわれるのはそのためです。

1877(明治10)年2月、立志社の林有造は、西郷起つの報を聞くと、密かに挙兵の準備を始めました。愛国社に参加した宮崎八郎らは肥後で、越智彦四郎らは福岡で、増田宗太郎らは中津で決起しましたが、この挙兵は失敗し、林らは捕らえられました。
この年6月、立志社の片岡健吉らは立志社建白書を提出しました。その中で、専制政府を痛烈に批判しました。民権運動の三大綱領となる国会開設・地租軽減・不平等条約の撤廃の輪郭がその建白書には現れています。建白書は政府に拒否されましたが、たちまち世間に流布しました。

1877(明治10)年9月、「海南新誌」に植木枝盛は、「明治第二ノ改革ヲ希望スルノ論」を発表しました。植木は、維新の変換の意義を評価しつつも、それは政府の変換であり、人民には無関係としました。
政府の変換であったが、政体の変革ではないという点に「第二ノ改革」論を打ち出しました。自由民権運動が当面めざすところは、「独裁ノ政体」である「明治第一ノ変革」から「立憲ノ政体」である「明治第二ノ改革」だと、植木は論じました。

佐賀の乱、萩の乱、西南戦争、士族の反乱は失敗に終わりました。この「明治第二ノ改革」を実現ためには各地の政社を結集し、言論で藩閥政府に対抗するしかありませんでした。
福岡の頭山満、越前の杉田定一、三重の栗原亮一、福島の河野広中らが高知に集まり、愛国社の再興を画策しました。1878(明治11)年4月、立志社を中心に再興を議決しました。9月各地の有志が大阪に集まり、愛国社第1回大会がありました。
この年の5月、大久保利通は暗殺されました。
第2回大会は1879(明治12)年3月大阪で開かれました。民権運動はしだいに基盤を広げていきました。そして、士族民権の性格を徐々に変えていきました。

 

1878(明治11)年5月14日、屋敷を出て、馬車で紀尾井(きおい)坂を通りかかった内務卿大久保利通は、6人の刺客に襲われ、死亡しました。大久保は私利私欲に無縁な人でしたが、有司専制の非難は避けることはできませんでした。
西郷隆盛・木戸孝允は亡くなり、維新の三傑中(西郷隆盛の名誉は後の帝国憲法発布を記念した大赦で回復します)ただ一人の生き残りとして、権力政治家として、参議兼内務卿の大久保利通に並ぶ者はいませんでした。
大久保の遭難が伝えられると、天皇の嘆きは深いものがありました。天皇が国政に関心を持つこと、形式的にも天皇を中心にした政治が行われることは、政府内の分裂を食い止め、人民の不満をなだめるのには必要なことでした。天皇はこの時かぞえの27歳で、大久保の死は天皇の役割に一層期待せざる得ないような状況になりました。
 
この年8月23日、竹橋門内に駐屯する近衛砲兵大隊の兵士が、制止する大隊長を殺害し、営内に放火し、大隈重信の屋敷に大砲を射ち込み、営門から出て増給を要求しました。
西南戦争の恩賞が下士兵卒に及ばず、逆に給与の削除があったための暴動だったといわれています。首謀者53人が死刑に、計394人が処分されました。
紀尾井坂の変と竹橋暴動は政局の厳しさを政府に知らせました。これ以降、支配体制の安定と強化に、政府は全力を上げました。この後、暴力は鳴りを潜め、組織と言論による反政府運動が表面化します。

1878(明治11)年の夏から秋にかけて、紀尾井坂の変や竹橋暴動などの政局の危機の中で、天皇の北陸・東海道大巡幸は行われました。明治天皇は明治9〜18年に5回地方大巡幸を行っています。人心をひきつけ、地方の統治体制や新政策を力づけることに尽力しました。
この年の巡幸の随行者は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、同井上馨、大警視川路利良以下300人、警固の警部・巡査400人の大部隊でした。
天皇は馬車に乗り、県庁・裁判所・兵営・警察署・学校・殖産施設を訪れました。王政復古の功労者や孝子節婦を表彰しました。地方官吏や区戸長などの有力者と会い、人々の生活に接することに心を配られました。
人々の間には、天皇に対する伝統的な崇敬がありました。そして、明治9年以来の巡幸によって、奉迎の手順や動員の仕方も整っていきました。軒先に国旗を掲げ、道の両側に竹を立ててしめ縄を張り、鏡餅やお神酒に玉串を供える光景が多く見られました。

 

1878(明治11)年4月10日〜5月3日、明治8年以来の第2回地方官会議が開かれました。議長は参議兼工部卿の伊藤博文で、議案は地方三新法と呼ばれる郡区町村編制法・地方税規則・府県会規則の三法案でした。
府知事・県令などの地方官は内務卿の指揮・監督下の行政官でした。地方官会議はこの地方官を地方人民の代表とみなしました。彼らは、官僚機構の中では地位は低く、府知事を除けば、勅任官でもなく、中級の局長クラスでした。しかし、管轄する区域は、幕藩体制での大大名に匹敵しました。

1871(明治4)年の廃藩置県で、260余藩をそのまま県に置き換え、府県は300余ありました。その年に大幅な統合が行われ、1876(明治9)年までに3府35県となりました。この府県の下にどのような行政区画を設けるかが問題でした。
政府は、江戸時代からの町村の区画を無視して、大区・小区を設け、区長や戸長が戸籍の編成・徴兵事務・徴税・地租改正などの事務を執行しました。
そのため大小区制と区戸長制は地方の実情に合いませんでした。大庄屋や庄屋と違い、区戸長は自治組織とは無縁の官吏でした。しかし、稼業を営むかたわら戸長の職を務めていたため、純粋の官吏でもありませんでした。
地方三新法の郡区町村編制法では、地方では郡、都市では区を設け、官吏である郡区長を置き、町村は従来の部落の自治に任せ、戸長は住民に選出させ、町村の国政事務はこの戸長に委託させる、との内容でした。
しかし戸長は、地方官会議と元老院に審議を経て、官吏の性格を持たせるべきではないかとの意見が取り入れられ、住民の総代と官吏の両面を持つものとされました。

地方三新法の府県会規則は、府県ごとに府県会を開いて、地方税によって賄われる予算や徴税方法を審議することが規定されています。
廃藩置県以来、各府県での知事・県令のもとに開設された種々の会議を地方民会と総称されていました。しかし、そこには統一的な制度があったわけではありませんでした。第1回地方官会議でも議論されましたが結論は出ませんでした。
第2回地方官会議で、正式に府県の議会を設け、公選の議員によって地方税の収支を議論させようとしました。これは、納税者の権利を認めざるを得ないことを示しています。

地租改革の結果、政府の経常収入の8割を地租が占めていました。
地租の4割に当たる府県の民費が徴収され、地租改革の費用、学校設立・維持の費用、警察費・戸籍調査費・徴兵下調費などの事務費が賄われました。また、区戸長の給料や旅費もこの民費で賄われました。
民費の内容は、国費を補うもの、地方限りのもの、町村限りものなど雑多でした。負担の方法も、地価割・戸別割・人口割など多様でした。、知事・県令が民費を気ままに賦課し、支出しているとして、一般の人々の不満は強いものがありました。
地方三新法の地方税規則は、この複雑な民費を整理し、区町村限りの費用は切り離し、他を地方税としてその税源や支出費目を規定し、府県会の審議に委ねました。
民費の性格をあらわす区町村限りの費用は、区町村の協議費に移されました。1880(明治13)年の区町村会法により区町村会は設けられましたが、協議費や区町村会の規定は細かく決められませんでした。町村を自治団体と認めたためと思われます。

地方三新法は人々の不満を緩和し、急激な民権運動を抑えようとする狙いがありました。しかし、地方の行政・財政体制を整備することや立憲制を前進させるに意味がありました。
部分的ですが、公選の議会ができました。府県会議員の選挙権者は地租5円以上の納入者、被選挙権者は地租10円以上の納入者と定められました。区戸長、総代人などを出してきた豪農層がこれに当たりました。

 

1879(明治12)年11月大阪で第3回愛国社大会が開催されました。大会参加者の中から士族中心の政社が減り、豪農政社が増えました。民衆の要求を受け、組織的に政治活動を展開してきた豪農民権家が愛国社へ参加してきました。
大会は国会開設の建議を巡って、立志社を中心とする土佐派と他の政社が対立しました。討論の結果、立志社の主張は否定され、その主導的地位は後退しました。翌1880(明治13)年3月の大会には、全国10万人の請願の代表が大阪に参集し、国会開設の請願運動が始まりました。
地租改正反対運動・民会などを経験して、豪農・農民層は実践的に活動してきました。これらの運動が愛国社の運動に合流することにより、民権運動は全国的運動に拡がっていきました。

第3回愛国社大会の前の同年7月、「朝野新聞」に千葉県の村会議員の桜井静(しずか)が起草した「国会開設懇請議案」が掲載されました。地方三新法に対する批判が込められ、地方自治権の確立には立憲政体の確立がなされること、国会開設・憲法制定によって実現されることが述べられています。そこには、地方民権家で、村議を通じた実践的活動からの主張が出ています。桜井のアピールは、在村的潮流を基礎とする民権運動を飛躍的に高めました。
在村的潮流の代表である豪農層を演説家に育て、自力で政社・結社を組織する力を培養した人々がいました。彼らは、新聞・雑誌を活動と武器とする都市民権家である民権派ジャーナリスト達でした。彼らは愛国社に加盟せず、政社の形態はとらず、言論団体として東日本で行動しました。その代表的団体は、嚶鳴(おうめい)社・共存同衆・交詢(こうじゅん)社・国友社などでした。
国会開設請願の波は、膨大な署名となって現れました。その数は約24万名だといわれています。運動の指導者層は豪農層で、江戸時代以来の名主クラスの層でした。そしてこの層を支えたのが中農層で、その下に一般の農民層の基盤がありました。この様な伝統的村落共同体の序列関係が民権運動の組織や行動を支えました。

1880(明治13)年3月15日大阪で第4回愛国社大会が開催されました。土佐立志社が前回大会で失いかけた主導権をどう回復するかにありましたが、運動の主導権は在村的潮流に奪われました。
3月18日、大会は会場を移しました。そして、国会期成同盟が愛国社とは別に発足しました。大会は第1回国会期成同盟大会に切り替わりました。
大会は最初から紛糾しました。土佐派は愛国社いわゆる立志社の主流による国会開設願望書提出が行われなければならないとし、他の政社との対立は避けられませんでした。しかし、この大会に寄せられた国民の関心は高いものがありました。
国会期成同盟規約が、福島の河野広中・岡田健長、宮城の村松亀一郎、土佐の植木枝盛・北川貞彦、福井の杉田定一、愛媛の小島忠里の7名により作成されました。

4月8日第1回国会期成同盟大会は閉会しました。この大会の異常な高揚に政府は驚き、4月5日大会の停止を目的に集会条例を公布しました。これは強力な政治活動制限法でした。
政府の採った政策は、人々の反感を買いました。この条例により警察官が演説会や政社を監視しました。警官の弁士中止、解散命令など、その横暴は目に余るものがありました。
請願10万人の委託を受けた大会代議員の意志である、「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」が起草されました。4月17日片岡健吉・河野広中の捧提委員は太政官に会見を求めました。しかし太政官は上願書の受け取りを拒否しました。更に元老院も受け取りを拒否しました。
委員はこの顛末を筑前共愛公衆会の箱田六輔に知らせました。箱田はこれを印刷し、全国に配布しました。これを知った全国の請願者達は激怒しました。
1880(明治13)年11月第2回国会期成同盟大会が東京で開催されました。

1879(明治12)年の植田枝盛の啓蒙書「民権自由論」には、自由は貴重なものであると書かれています。フリーダムやリバティの訳語として自由が定まったのは、ミルの「自由論」を中村正直が訳書「自由之理」として、1871(明治4)年に出してからといわれています。福沢諭吉は、自由は我がまま勝手なことではないと、その訳語について言っています。
「自由之理」は福沢諭吉の「西洋事情」や「学問ノスゝメ」、中村正直訳の「西国立志編」とともに、明治初期のベストセラーでした。
世間では、自由は我がまま勝手なことと受け取られる傾向がありました。自由はまずは解放でした。束縛や干渉からの解放、自己の欲望や才能の解放を求めるのは人間の本性でした。
「明六雑誌」で、津田真道(まみち)は、人の情欲も天性の自然であるという「情欲論」を主張しています。同雑誌で、西周(にしあまね)は、健康(まめ)・知識(ちえ)・富有(とみ)の三宝を尊重することが道徳の基礎だと「人世三宝説」を説きました。
これらの啓蒙家の言葉に、明治初期の人々は束縛から、身分制度や古い道徳律からの解放を求めました。しかし、それは士族や豪農商層に限定されました。彼らは一定の教養と財力を持ち、新聞や本を買い、仲間と勉強し議論し、時には人前で演説さえしました。彼らの関心は知識(ちえ)・富有(とみ)で、身につけた知識を活用する場を見つけ、立身出世することでした。

自由には思想・信教の自由から政治的自由に到るまで色々の自由があります。圧制からの自由という言葉に、当時の青年達は強く心を動かされました。フランス革命、マグナ=カルタや清教徒革命も歴史の学習から青年達に影響を与えましたが、最も影響を与えたのは、アメリカ独立戦争であり、イタリアの統一運動でした。
彼らにとってアメリカは自由の、フランスは平等の、イギリスは憲政の母国でした。これらへの傾倒は、自由と民権の意識が強く、政治的自由に結びつき、一方では、国の独立や統一という国権の意識と結びつきました。国権と民権が表裏一体のものであるという意識は、この頃は共通のものでした。
 
国会期成同盟の「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」は60件近い他の請願書・建白書の中で代表的なものでした。しかしそれは、国家も財政も政府だけのものでなく、国会を開いて人民とともに共議せよ、との抽象的一般的な参政要求であり、条約改正から国威宣揚に到る漠然とした国権の確立要求でした。
国会開設の手続きや国会の内容についてはほとんど触れられず、国会の開設を認めさせるのが運動の指導者の最大の関心事で、国会の内容や憲法の内容についての十分な議論や見通しを持たなかったことが、民権運動の弱点のひとつでした。
 

集会条例によって集会や結社の自由は規制されましたが、民権運動は前進して行きました。しかしこの規制の中で、地方の組織を固めて、運動を広めて行くことは大変なことでした。国家組織についてのあり方は、国会の必要性を理解するよりも理解が困難でした。
国会期成同盟会議の最大公約数は、地方の団結を広げ、国会開設を要求し続けることでした。憲法審議も大事だが、国会あっての憲法という意見が大多数でした。
しかしそれでも、各地の民権運動家達は憲法私案を残しています。憲法案を作り出すには、欧米各国の憲法を比較検討しなければならないし、それを我国の国情に合わせることも必要でした。嚶鳴(おうめい)社や交詢(こうじゅん)社のような知識人を中心とする団体で、その作業は始められました。
これらの団体の草案は、二院制の議会と政党内閣制を基礎としたイギリス議会を政治の念頭に置いていました。これに対し、植木盛枝や立志社の案は異色なものでした。また、各国の憲法を取捨する発想が間違っているとの意見もありました。憲法案、特に国家の組織構成について、民権運動では統一的な考えには到りませんでした。

 

1.自由民権運動↑|→2.明治14年の政変

明治時代2

北九州の歴史

ホーム