明治時代2

北九州の歴史

ホーム

1.自由民権運動←|→3.近代産業の成立


明治時代2
2.明治14年の政変
 

1879(明治12)年4月御前議事式・公文上奏式を定めて、御前会議の形式や詔勅裁可の手続きが整えられました。次いで、陸海軍卿は大元帥である天皇が陸海軍を統帥し、観兵式や大演習に親臨するなど軍事に精励することを上申しました。
6月三条・岩倉両大臣は、天皇はいかにあるべきかを総括的に述べた意見書を奏上しました。その内容は天皇と政府は一体であること、天皇は参議・諸省卿を信頼して直接政務を聞き、指示を与え、不満な点を指摘ほしいということでした。

前アメリカ合衆国大統領のグラント将軍が世界周遊の旅の途中に日本を訪れました。1879(明治12)年7月4日の最初の天皇との謁見は形式的なものでした。8月10日天皇とグラントの会談が行われました。
国会開設問題については、にわかに国会を開くことは危険で、漸進的に国民を教育することが必要であるとグラントは述べました。外債は国家にとって最も避けなければならない事柄だとしました。また、琉球問題については日本が多少譲歩し、台湾事件以来日本に抱いている清国の不満を和らげるのが得策と、グラントは述べました。

1880(明治13)年3月、内閣日則が定められました。朝9時に大臣・参議以下が出勤し、10時から天皇臨席の下に大臣・参議が要務を奏上し、火・金曜に各省卿が担当を陳述し、大体正午に到るというのが定例でした。
天皇の政治的発言はこの頃から少しずつ影響力を持つようになりました。財政いわゆる外債問題についての天皇の意思表明は断固としたものでした。
財政は困難な状況にありました。殖産興業の努力にもかかわらず、貿易の失調が続いていました。諸改革のための外債と金禄公債などの内債がかさみ、西南戦争の戦費を紙幣増発で賄ったため物価が高騰し、このために金納地租の実質価値が落ち込んでいました。
1880(明治13)年5月、参議兼大蔵卿大隈重信は大規模な外債募集で、一気に紙幣整理を断行する案を閣議に提出しました。外債募集に対する不安があったため、閣議は紛糾しました。これに対し天皇は勅諭を出して、これに決着をつけました。その内容は、外債の募集は国の独立を脅かすことになる、財政を緊縮して国を救う道を考えなさい、というものでした。

元老院に付託された国憲起草作業は、明治9・11・13年と草案を作成しましたが、政府に意に沿うものではありませんでした。国会開設に関しても政府は統一見解を持ちませんでした。
この当時、国会と憲法のあり方について、大臣・参議の意見はばらばらでした。各参議の意見は天皇に上奏されました。これに対し、天皇は侍講の元田永孚(ながざね、えいふ)に意見を求めました。元田は横井小楠の弟子でした。欧米流の立憲制と、天皇中心の国体とをどのように結合するかが憲法論の最大の問題でした。
岩倉具視の諮問を受けて、太政官大書記井上毅(こわし)は、ドイツ人法学者へルマン=ロエスラーの助力でこの問題に取り組んでいました。ロエスラーは井上に次のように答えています。大臣の任命権は国王が占有し、大臣は議会ではなく、国王に対してのみ責任を負う。プロシアでは、前年度予算執行制であるため、議会の租税承諾権は制限され、この点でも大臣は国会から独立している。
国王の大権と政府の議会からの独立性の確保は、天皇の大臣任命権と予算不成立の場合の前年度予算執行制にあることを、井上は確認しました。
井上毅は憲法起草の手続きと、憲法起草の方針を天皇自ら明示されることを求め、大臣に提出する綱領と、天皇に上奏する大綱領にまとめました。
 

1881(明治14)年1月、大隈重信・伊藤博文・井上馨の三参議の間で、熱海で会議がもたれました。国会を開くことで三人の意見は一致しました。しかし、大隈は独断で、急進的な憲法意見を上奏しました。これに対し、伊藤は大隈の抜け駆けとして激怒しました。大隈が福沢諭吉と共謀していることを、伊藤は確信しました。
大隈が自分の路線をつらぬけると思い、自分の政治勢力へ過信していたのに対し、伊藤は政府内勢力に対し敏感で、長州閥を背景に、薩摩閥の動向や天皇側近グループの影響力を十分考えていました。内閣を一つのまとめるのは自分しかいないとの自負を持っていました。

政府主導の憲法制定に、伊藤は井上毅の意見にかなりの確信を持っていました。井上もまた、政府の憲法起草作業を伊藤に要請し、決断を求めました。
これに対し、大隈は自分には野心はなく、福沢とも関係はないと弁明し、伊藤との関係も一様収まり小康状態になりました。内閣が一致して、プロシア流の欽定憲法制定の方向に踏み切るのは、開拓使官有物払下げ事件による世論の沸騰に驚いてからでした。

 

西南戦争後の財政難を緩和するため、また官営事業が民業を圧迫するという民権運動家の攻撃を避けるため、政府は不利な事業を切り捨て、払下げによる資本回収を図って、官営事業の民間払下げを行いました。
工場払下げの指令は、1880(明治13)年の「工場払下概則」に従って、内務省・工部省・大蔵省・開拓使に対して発せられました。しかし、厳しい条件のため、実際には官営事業の払下げは行われませんでした。その中で、開拓使が経営する北海道の官営事業だけが、特殊な扱いを受け、大きな政治問題となりました。
開拓使は、1872(明治5)年から10年計画であったため、1881(明治14)年で期限が来て、廃止になることが決まっていました。そのため、開拓使の高級官吏は自ら官有物払下げを出願しました。
開拓使の事業を継続するために、退官して北海社を設立して民営事業として行うので、寛大な条件の払下げを認めてほしいとして、開拓使書記官らが払下げを出願しました。開拓使長官の黒田清隆は、開拓使の存続延期を願っていましたが、財政上それが許されないと知ってからは、強く北海社設立を推進しました。黒田にとって開拓使の事業は夢であり、薩摩閥の高級官吏の身の振り方にも心痛していました。
開拓使の官営事業は幅広く行われていました。払下げ出願には、北海道の輸送と販売のための施設の比重が高く7割を占めていました。生産施設としては、農・牧・水産の施設と輸出・移出向けの加工工場が中心でした。
開拓使の事業の中で大きな比重を占める幌内の炭鉱と鉄道、岩内の炭鉱、それに農商務省所管の紋別の製糖所は、この出願には含まれていませんでした。幌内の炭鉱と鉄道は当時まだ建設中でしたし、岩内の炭鉱は関西貿易商会へ払い下げる話が進んでいました。

開拓使書記官らの払下げ出願は、余りに異例のことなので、閣議では難航しましたが、黒田の強硬な主張で裁可を得ました。出願の事情を知った新聞は、社説で連日攻撃しました。
そしてそれは、開拓使批判から藩閥政府批判、遂には国会即時開設要求へと発展しました。大臣・参議に過失があって、それを正さないのであれば、国会を開いて弾劾し、信任を問うしかないという論理でした。
官有物払下げに対する非難が高まるにつれ、これに反対したと伝えられる大隈重信の評判は高まりました。これに反して、黒田以下の薩摩閥は悪者にされました。
政府内部の大勢は、次のように考えていました。憲法奏議以来、大隈と福沢は通じていると思われる。開拓使を潰し、薩摩閥を傷め、大隈を売り出す策略に違いない。うしろで資金を提供しているのは三菱で、開拓使船舶の払下げを拒否されているのをうらみに思っているというものでした。
大隈はそんなことがあるとは知らず、1881(明治14)年7月からの天皇の東北・北海道の巡幸に随行していました。

払下げが公平を欠くという非難は政府の中にもあり、開拓使の利害にこだわるべきでないという声も出てきましたが、黒田は承知しませんでした。この問題での攻撃は、政府にとっては予想外の不意討ちでした。
天皇の巡幸には、左大臣有栖川宮、参議大隈・黒田・大木、内務卿の松方正義が随行していました。右大臣岩倉具視は京都で療養中でした。東京の内閣は重大な決定をできる状態ではありませんでした。結局、天皇の帰京の10月初旬まで待つという状態でした。

政府部内の批判的グループは、天皇側近の佐々木高行・元田永孚ら宮廷派に、元老院の幹事・書記官や陸軍の反主流谷干城・鳥尾小弥太らを加えて、中正党と名乗りました。中正党は民権運動やイギリス流の議会主義にも、また藩閥政府に対しても批判的な立場を取りました。
彼らは、開拓使官有物処分の停止、大隈の排除、立憲制への準備の開始を求めて建言や様々な行動を開始しました。伊藤らは政府にある程度の改良を加えることを条件に彼らの協力を得ました。

天皇の帰京の前に、大隈・大木を除く7人の参議と岩倉の意志が統一されました。立憲政体創立の方向の聖断、官有物払下げ処分の中止、大隈の免職を天皇に求めました。大隈の処分は薩摩閥の陰謀ではないかと、天皇はなかなか承知しませんでした。薩長一致が崩れ、内閣が瓦解するとの大臣・参議の上奏に押し切られました。
1881(明治14)年10月12日、官有物払下げ処分の中止、明治23年をもって国会を開くとの詔勅、大隈の免官が発表されました。同時に、河野敏鎌(とがま)・前島密(ひそか)・北島治房・矢野文雄・小野梓(あずさ)ら自由主義的官僚も免官されました。これを明治14年の政変といいます。

政変の直後の10月末、自由党が結成されました。板垣退助が総理、中島信行が副総理、後藤象二郎・馬場辰猪(たつい)・島本仲道・末広鉄腸・竹内綱らが幹部でした。この動きは、前年11月の第2回国会期成同盟大会当時からありました。
結成された自由党は土佐派と馬場・末広ら国友会系の都市知識人が中心で、嚶鳴(おうめい)社は入っていませんし、地方政社の勢力は十分代表されていませんでした。これは、土佐派の主導権回復を図って政党結成が急がれたことがあげられます。さらに、政変を通して、嚶鳴社などの都市的知識人と、期成同盟系、特に板垣らの間の亀裂が深まったことがあげられます。
九州では、嘉悦氏房らが九州改進党を結成しました。自由党系とされますが、自由党との提携は薄かったといわれています。
自由党と同じ立憲主義政党でありながら、自由党と対立する立憲改進党が、1882(明治15)年4月、大隈重信を総理として結成されます。河野敏鎌・前島密ら元政府高官、沼間(ぬま)守一の嚶鳴社、矢野文雄らの三田派、小野梓らの鴎渡社らによって構成されました。
自由党・立憲改進党に対して、政府を援ける目的で、1882(明治15)年3月立憲帝政党が結成されました。東京日日新聞の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽(さくら)、東洋新報の水野寅次郎らが中心でした。主権在君の欽定憲法の制定を目指しました。政党結成に政府当局が手を貸したのは、政府の危機意識の現れでしたが、やがて、政府当局者が手を引くとともに、立憲帝政党は自然消滅しました。

 

1.自由民権運動←|↑2.明治14年の政変|→3.近代産業の成立

明治時代2

北九州の歴史

ホーム