明治時代2

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明治時代2
4.困民党
 

明治政府は自由党を懐柔したり、弾圧しました。これに対し、専制政府転覆を目指して、自由党志士達は動乱を目的に暗殺・挙兵を計画した事件が起こりました。
1881(明治14)年5月の秋田立志会事件に始まり、福島事件(明治15年11月)・群馬事件(17年5月)・加波山事件(同9月)・秩父事件(同11月)・飯田事件・名古屋事件(同12月)・大阪事件(18年11月)・静岡事件(19年6月)と続きました。
政府の苛酷な税の収奪と地方公課の強要で、農民は窮乏していました。明治15年の松方デフレの進行で、状況はますます悪化し、特に生糸生産地の農民達は、国際的不況もあって、破滅の状況にありました。1883・84(明治16・17)年こうした農民達の騒擾が全国的に発生しました。

1882(明治15)年2月、元薩摩藩士三島通庸(みちつね、後に警視総監となる)が福島県令として赴任しました。着任するとすぐに、民権を主張する郡長・戸長・教員・書記官・巡査を更迭し、旧会津士族に土地を払下げ、授産金を与え、若松(会津若松)に与党の帝政党を結成させました。
その後、会津に「会津六郡連合会」をつくらせ、3月に若松を基点にした軍事と産業開発の三方道路建設に当たっての規則を議決させました。その内容は男女の別なく、15歳から60歳までの者に、2年間に1ヶ月と1日工事に従事させる、それができない者は夫賃を出すというものでした。
県道のこの道路を県会に諮問しないことに、自由党県議は怒りました。4月県会が開かれ15年度予算原案が提案されましたが、前年の33%増額、地方税の地租負担は前年の2倍半になっていました。その上三島県令は一度も県会に出席しませんでした。
この様な県令の議会軽視を議長の河野広中(後に衆議院議長・農商務相になる)や副議長の山口千代作は激しく非難しました。県会は宇田成一(以上3名とも自由党)議案総否決の動議を可決しました。これに対し三島は内務卿に原案執行の許可を申請し、15年度予算の執行を決めました。

6月、三方道路開発計画と予算が発表され、工事の前に郡長は戸長に3〜6月分の代夫賃の徴収を命じました。着工もしていないのに、さかのぼって代夫賃を徴収するのは施行手続きに反するとして、自由党連合会委員は連合会を開いて協議するように、郡長に申し入れました。しかしこれは拒否されました。
8月17日三方道路の起工式が強行されました。翌18日自由党員が帝政党員や県官僚に襲われ、重傷を負いました。村民達は自由党に同調しました。郡長は徴収命令を指示しました。戸長達は郡長排斥を県令に建言しました。県は若松士族を送り込み、自由党員と村民に暴行を加えました。会津は騒然となりました。
こうした中、会津自由党は連合会再開を訴え、若松裁判所に訴状を提出しました。しかし、裁判所は棄却を言い渡しました。
この間、多くの村民が夫役拒否を申し出ました。郡長は夫役に応じない者の夫賃として家財を公売する方針で臨みました。

若松裁判所で棄却された会津自由党は、宮城控訴院への上訴を決めました。11月25日上訴に向かった宇田成一は、訴訟費用として1戸10銭づつ集めたのが詐欺とされ、逮捕されました。上訴運動に当たった幹部達も逮捕されました。
指導者は逮捕され、家財は公売され、道路用地は無償で取り上げられ、道路工事は先の離れた場所が割当てられました。朝5時から夕方6時まで酷使された農民達の怒りは爆発しました。
11月28日、農民達1000人が弾正ヶ原に集まり、宇田成一らが逮捕されている喜多方署に向かい、抗議しました。投石によるガラス戸が破られると、抜剣した巡査が農民に斬りつけ、農民達は散乱しました。翌日一斉検挙され、会津で500余人、福島全体で約1000人が拘引されました。
会津の自由党員や農民だけでなく、河野広中以下福島自由党員も根こそぎ検挙されました。裁判では国事犯11名をはじめ、多くの者が処罰されました。この事件を福島事件といいます。
福島自由党の主流は、道路問題に深入りしたくなかったといわれていて、会津の闘争を余り援助していません。官側に放たれたスパイにより政府転覆の福島自由党の盟約があるとの情報がもたらされていました。検挙された事件の被告達は、拷問により自白を強要されました。
弾正ヶ原に集まっ他農民達は武器は何も持っていませんでしたが、三島は内乱の陰謀を企てた自由党員の犯罪と上申しています。

 

1882(明治15)年11月、自由党総理板垣退助と後藤象二郎は政情視察のためヨーロッパに旅立ちました。この外遊費が政府から出ていると、改進党系新聞に暴露され、党内でも問題になりました。
党内の内紛を乗り切りるため海運を独占していている三菱を攻撃し、三菱から資金を仰いでいる改進党に反撃しょうとしました。しかし、これは泥仕合に終りました。
福島事件以後の弾圧により、多くの自由党・改進党系政社が解散しました。翌年帰国した板垣らは海軍の拡張を主張し、解党をほのめかしました。この様な党勢の退潮と幹部の後退は、党内に危機意識を生み、弾圧に対し怒りが湧き上がり、急進グループが形成されていきました。
1883(明治16)年4月、福島事件で投獄された河野広躰(ひろみ、広中の甥)は出獄後、上京し福島グループの中心になり、三島暗殺、政府転覆へと突き進んでいきました。
1883(明治16)年末、自由党幹事大井憲太郎・宮部襄を中心に茨城県下館地方から群馬県甘楽地方にかけて急進グループが結成されました。

開港以来、輸出生糸の生産が年々盛んになっていました。しかし、明治15年からの国際的不況で糸価は下落し始めました。しかし畑を桑園に変えていた農家は、生糸生産を続ける以外の道はありませんでした。
土地を抵当に借金して経営を続け、不況の中で借金を重ねました。糸価は更に下落し、借金の返済に行き詰まりました。土地は生産会社や銀行とか名乗る高利貸の手に渡りました。
政府は物品税が200万円を超えるときは、地租を1/100に減らすとしていました。自由党はこれを取り上げ、減租運動に全国的に取り掛かりました。旧士族と上層農民によって結成された自由党は減租で農民を組織できると考えました。
しかし、貧農達は減租願いの意味を理解できず、減租請願は行き詰まり、上層農民の一部は運動から後退していきました。

こうした状況下で、群馬事件は起きました。「東陲(とうすい、東の果ての意味)民権史」では、この事件は次のように描かれています。
1884(明治17)年5月1日、高崎線開通式に天皇はじめ諸大臣が列席するので、これを衝撃しょうとしますが、開通式が延期されました。そこで5月16日、妙義山麓で挙兵し、生産会社を襲い、松井田警察署を襲いました。その後、高崎兵営を襲う予定でしたが、糧食が尽きたので、解散しました。
これは一部の急進自由党員の空想が、事実のように描かれていました。急進グループと農民達の意識には大きな隔たりがありました。

1884(明治17)年3月23日、群馬県北甘楽郡一の宮で自由党の大演説会が開かれました。この会の発意者は大井グループに属していました。この直後、この時密約があってその露見を恐れたのか、急進グループの手による殺害事件が起きています。
この事件の後、急進グループの主柱で、大演説会の発意者の一人であった県会議員が指導部を離脱します。これによって急進グループの指導部は自由党との関係は断たれました。この後の指導部は、かって豪農であったが当時は急速に没落した者達によって維持されました。
豪農として自由民権の洗礼を受けた在村知識人は、没落する中で、政治的には急進的立場に立ち、同じように転落していく貧農に挙兵を呼びかけました。5月14日に妙義山麓で大集会を開くことを告げて、各村を回りました。
この年、賭博犯取締規則が発効し、賭博開帳が取締られ、碓氷の博徒の親分は反権力の姿勢に傾いていきました。彼は急進グループの指導部に、猟銃や刀剣が手元に準備できたことを知らせてきました。

5月14日は雨であったため、決起は延期となりました。翌15日正午、まだ数人しか集まっていませんでした。岡部生産会社に借金のある農民達で、借金返済の督促を避けて山野をさまよっていた者達がおいおい集まって来ました。
博徒の親分からは、人数が集まらないので日延べしてくれ、との使いが来ました。すると、家に帰られない農民達が騒ぎ出しました。
急進グループは鎮台分営を襲撃するために武器がなければ決起できませんでした。農民達は生産会社を襲撃するつもりでしたので、すぐの決起を主張しました。
5月16日、農民達は生産会社の岡部方を取り囲み、ときの声を挙げて侵入し、破壊し、放火しました。彼らは警察署は勿論、高崎鎮台を襲うことはありませんでした。
5月20日、妙義山で首謀者ら4名が捕えられ、その後次々と逮捕され、6月2日には52名が前橋に送られた、と新聞は報じています。

 

1883(明治16)年11月、自由党の臨時大会が開かれました。党員離脱と運動の低調により、党財政は逼迫し、募金と減租運動が提案されました。地方党員は減租署名と募金、入党の呼びかけを開始しました。
農民側は、博徒を立てての高利貸との交渉が行き詰まり、地方官庁に対する高利貸説諭請願や法廷闘争、地方公課の節減交渉などの運動の代言人や知識人の参加に、自由党に大きな期待を持っていました。
埼玉県秩父地方でも、農民の指導者達が自由党に入党しました。彼らは30歳代の働き盛りの中農で、養蚕・製糸に従事していました。彼らは養蚕技術の導入、販路の開拓、資金の共同調達に常に主導的役割を果たしていました。
1884(明治17)年3月、自由党大会が開かれ、党の中央集権化が提案され、そのため党幹部を地方常備員に指名し、中央と地方の団結、地方の強化が図られました。大井憲太郎は群馬・栃木・茨木・埼玉・千葉の常備員に当てられました。
本当の党幹部の意図は、激化の傾向の地方党員の統制にありました。しかし実際には、大井自身も大井グループから自立していく地方党員を指導していくことはできませんでした。この大会の2ヵ月後、群馬事件は発生し、大井は常備員の辞職届を提出しています。

群馬事件を契機に逮捕者が続出し、明治17年の春からの大量の入党者を迎えながら、群馬県南北甘楽郡と埼玉県秩父地方の自由党の幹部は一挙にいなくなっていました。
7月20日秩父地方の生糸の初市が立ちましたが、糸価は低迷し、農民の借金返済の目途は立ちませんでした。8月秩父郡小鹿野(おがの)村の市に出かけた農民達は、その帰りに近くの山に集まり、借金8ヶ年賦払いの交渉に取組むことを話し合いました。借金延期をスローガンにした困民党の発足でした。
指導部は秩父郡吉田村の者が多く、自由党員でした。自由党員による困民党加盟が呼びかけられ、困民党は個人の説得により村々に拡がっていきました。指導部は各地の山林で集会を開きました。そして、その集会で農民達に借金の書き出しを呼びかけました。
困民党指導部は借金書き出しで各村に指導部を組織し、合法的な請願運動を展開しました。8月下旬に30人で発足した困民党は、わずか1ヶ月で約3000人の党員を組織しました。
借金返済猶予の交渉に、指導部は多くの農民とともに高利貸のもとを回りました。高利貸の中にはこの大動員を見て、一時身を隠したり、返答を延ばす者もいました。しかし、多くは不調に終わりました。
高利貸達は裁判所に催促して、多くの召喚状を農民に突きつけさせました。このため、請願を依頼したため早めの呼び出しになったと、農民達は村の指導部の総代達に迫りました。

田代栄助は大宮郷の名主を代々つとめる旧家の出でしたが、この頃は没落していました。田代は人々の争いを仲裁したり、身寄りのない貧しい人達を世話して、子分が200人もいて、侠客と呼ばれていました。この年田代は58歳で、困民党指導部に加わっていました。
10月12日、田代は下吉田村の井上伝蔵宅に出掛けました。ここに集まった指導部の者から、高利貸を打ちこわし、証書類を焼き捨てる蜂起の決行に対する同意を求められました。田代は一命をかける覚悟が一同にあるのかを確認して、同意し、指揮に当たることを引き受けました。
農民に蜂起への参加を呼びかける一方、困民党幹部は、富裕者から軍資金を調達するため強盗をし、また弾薬の調達製造や、食糧・武器・防具の準備を行っていました。
自由党幹事役の井上伝蔵は、自由党本部大井憲太郎に使いを出し、指示を求めました。しかし大井は代理人を送って軽挙を戒めるだけで、自身は10月29日大阪で開かれる自由党解党大会に出掛けました。

1884(明治17)年10月31日、集合地の埼玉県秩父郡上日野沢村を目指して、群馬県南甘楽郡や埼玉県秩父地方から農民達が蜂起しました。いわゆる秩父事件が起きました。農民達は動きを探っていた警察隊に捕らえられたり、追跡されたりしました。
11月1日、蜂起軍7・800人は埼玉県秩父郡下吉田村椋神社に集結しました。総理田代栄助・会計長井上伝蔵以下の部隊編成が行われました。
その夜進撃を始め、高利貸の家を焼き、村役場で公証簿を焼きました。そして、高利貸や富豪を襲って刀と軍資金を奪い、集まって来た農民達に武器を持たせて蜂起軍に加えました。
11月2日、郡役所や裁判所を襲い、書類を投げ捨てました。この頃蜂起軍は数千人に達していました。郡役所に革命本部の門標を掲げました。
11月3日、東京憲兵隊1小隊が到着しました。4日、憲兵隊2小隊、東京鎮台1中隊が到着し、警官隊430人、川越士族の臨時巡査53人が加わりました。
11月3日夕方、蜂起軍と憲兵隊の間で撃ち合いがありました。翌4日、1日の戦闘で捕虜になっていた巡査が突然蜂起軍の隊長に斬りつけ、隊長は重傷を負い、巡査は殺害されました。これを見た蜂起軍幹部の士気は喪失し、総理田代栄助は行方をくらましました。

蜂起軍本部は瓦解しました。秩父郡の北東の児玉郡に進出していた一隊は平野部を目指しましたが、鎮台兵と激突し、壊滅されました。
本部の残存部隊は信州を目指しました。群馬県南甘楽で村民の要求で富豪を襲って火を放ったりして、勢力を増強していきました。
11月7日、十石峠を越え、長野県南佐久に入り、銀行や高利貸を襲いました。ここで2000人ほどの農民が蜂起に参加しました。
11月9日、農民軍は馬流(まながし)村で高崎鎮台兵によって撃破され、壊滅されました。
農民軍の犠牲者の記録はなく、今もって正確には分かりません。世間に白眼視される暴徒であるため、農民や遺族達もひた隠しに隠しました。田代栄助を含めて埼玉側の死刑は10人、群馬側1人といわれていますが、重罪者や罰金刑の者は3000人を越したといわれています。獄死した者や負傷のために後に死亡した者、逃げて他所で密かに一生を終えた者なども多くいました。

秩父事件発生直前の1884(明治17)年10月29日、大阪で自由党は解党を決議しました。政府の厳しい弾圧下での党勢不振と、党幹部の手に負えぬ下部党員の動向が原因でしたが、直接の原因はこの年9月の加波山(かばやま)事件でした。
福島事件の報復を目指す河野広躰(ひろみ、広中の甥)らと、茨木・栃木の急進グループは結びつきました。三島暗殺・顕官暗殺を計画しますが、加波山(茨城県)に孤立しました。山頂に革命の旗を掲げ、県庁を襲おうと下山しますが、警察隊と衝突して破れました。
彼らは国事犯としてではなく、資金調達の強盗事件の強盗・殺人犯とされました。この事件は自由党急進グループの事件でした。このため、政府の弾圧は勿論、世論の攻撃を自由党は負い、解党を決意しました。
自由党解党後、12月には立憲改進党も大隈・前島らの首脳が脱退して、事実上解党しました。
この後も飯田事件・名古屋事件(同12月)・大阪事件(18年11月)・静岡事件(19年6月)と続きました。しかし、挙兵・暗殺・蜂起の計画は官憲により察知され、ほとんど未然に検挙されました。

 

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