明治時代2

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明治時代2
5.清と朝鮮事変
 

1878(明治11)年暮、参謀本部が設置されました。陸軍省の一部局であった軍令機関が軍事行政を司る軍政機関の陸軍省と併置されるようになりました。本部長は将官が勅任され、天皇の軍令上の機務に参画し、外国の形勢を調査偵察する任務を負いました。陸軍卿山県有朋が本部長に転出し、陸軍中将大山巌(いわお)が次長に任命されました。
1880(明治13)年11月、参謀本部長山県は清国の軍事調査書を提出しています。この当時清国はドイツの士官を招いたり、留学生をドイツに派遣したり、士官学校をつくり、士官を養成したり、ドイツ・イギリスから兵器・軍艦を求めて、最新・最強の軍備を組織しつつありました。これは支援されるのであればいいが、戦端を開く場合を予想すれば、警戒を怠るわけにはいかない、と山県は述べています。
この頃の清国の悩みは、辺境地帯の危機と日本の台頭でした。清国は辺境の朝貢国に囲まれていました。これらの国々を清国は属国とみなしていました。
その辺境で次のような事件が起こってきました。1879年の琉球の日本編入、1881年のイリ西境のロシアへ割譲、1885年の清仏戦争によるベトナム喪失、1886年イギリスの併合宣言によるビルマ喪失、1895年の日清戦争による朝鮮喪失。

1880年イリ地方を巡る清国とロシアの対立が激化し、双方が兵力を集結しました。翌年外交交渉により清国にイリ返還、清国から償金とイリ西方の割譲などが内容のペテルスブルグ条約が締結されました。
清国が列強との紛争に苦しんでいる時期に、日本は台湾・朝鮮から琉球問題へと触手を伸ばしました。清国の日本に対する警戒心は強いものがありました。李鴻章などは海軍力の強化を進めるべきだと主張しました。
清国が列強と紛争にならない限り、どこかで日本の海外進出と対立する局面が予想されました。ロシアの北方からの脅威が増大する中で、焦点となったのは朝鮮でした。これは後述します。

フランスは1862年ベトナム南境のコーチシナを併合し、カンボジアを保護領とし、1874年にはベトナムを事実上保護領としました。フランスの勢力が北ベトナムのトンキン地方に及ぶと、清国はこれに抗議し、軍事介入を決意しました。1883から84年にかけて北ベトナムで清国とフランスは戦い、清国は大敗しました。
この後外交交渉は再開されましたが、小規模な戦闘は続きました。1884年8月フランス艦隊は台湾の基隆(キールン)を攻撃しました。また清国の福州艦隊を攻撃し、壊滅しました。1885年春まで北ベトナムと清国国境地帯で戦闘が繰り返されました。1884年6月からを清仏戦争といいます。
1885年4月清仏戦争は停戦となり、6月天津講和条約が結ばれ、ベトナムは完全にフランスの保護領となりました。
参謀本部は清国・朝鮮各地に特務将校を送って情報の収集に努めていました。軍のアジアへの関心は一歩先んじていました。中国内陸西北辺境のイリと違い、近くの台湾や福州での戦闘の清仏戦争によって、大陸問題に一般の関心も向かいました。

 

1876(明治9)年の江華条約によって朝鮮は開国しました。釜山(プサン)が開港し、続いて元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)が開港しました。日本商人は治外法権・関税免除や日本貨幣の流通権などの特権と日本軍艦のデモストレーションで対外貿易を独占しました。
日本からの輸出品はイギリスの綿糸布などで、欧米先進国の商品の中継貿易でした。朝鮮からの輸出品は米・大豆など穀物と金でした。貿易量はそれほど大きくなく、日本製品の輸出はわずかでした。
しかし、朝鮮の都市の穀物流通経済への影響は大きなものがありました。米価の高騰は直接民衆の生活に影響がありました。反日・反貿易の空気は激しくなり、居留地に放火されるような実力行使が行われました。

朝鮮の政権は国王の妃閔(ミン)氏の一族によって支配され、国王の父の大院君(デウオングン)一派とは敵対関係にありました。閔氏政権は開国策に踏み切り、国内改革に着手し、日本に接近しました。保守派は反対運動を起こし、攘夷論者の大院君を担ぎ出そうとしました。
1881(明治14)年から閔氏政権は日本人将校を招いて、洋式軍隊を組織しょうとしました。兵制改革に対する不満と給与の不足や不正に対する不満が重なって、1882(明治15)年壬午(じんご)の年に、ソウルで兵士が反乱を起こし、大院君はこれをけしかけて、閔氏一派と日本公使館を衝撃させました。これを壬午の軍乱といいます。
閔氏政権は倒れ、大院君が登場し、改革は廃止されました。日本政府は直ちに陸海軍を派遣し、政府の謝罪、犯人の処刑、被害者への補償、開市や内地旅行権の拡大、軍隊の駐屯など謝罪と賠償の他に通商関係の権益の拡大を図りました。
大院君は日本の要求を拒否し、軍隊を動員し、清国にも軍隊の入京を求めました。清国は日本の行動を牽制し、大院君を逮捕して天津に送り、反乱を鎮圧するなどの思い切った行動に出ました。。このため日本は清国の調停に応じざるを得ませんでした。こうして再び閔氏政権は復活しました。
 
日朝間で済物浦(さいもっぽ)条約が結ばれました。日本への謝罪と犯人の逮捕、賠償金と補償金の支払い、公使館護衛のための軍隊の駐留権などが定められました。
壬午軍乱後、朝鮮に対して清国は支配権を強めました。閔氏政権は外交でも軍制改革でも清国の指導を受けるようになり、反日の傾向が強くなりました。清国は貿易面でも、急速に朝鮮市場に入って来ました。
この1882(明治15)年4月板垣退助が岐阜で刺客に襲われました。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が残されています。民権運動が勢いを強めていた時期に当たります。朝鮮政府の謝罪と被害の補償を要求する声は強かったのですが、軍事賠償の要求や権益の拡大は一般的には批判的でした。むしろ、政府の高圧的な態度が朝鮮を清国側に押しやり、清国の介入を招くことを恐れていました。

清国の行動は予想や恐れを越えました。清国は朝鮮の内政に介入し、その宗主権を強めました。
清国は朝鮮にアメリカ・イギリスなどとの条約締結を促し、列強との関係を深めることで日本の影響を阻もうとしました。こうした状況は清国に接近した閔氏政権、いわゆる事大党と、国王を中心にした開明主義を目指す金玉均(キムオクキュム)らの独立党との対立を深めました。
1884(明治17)年の清仏戦争での清国軍の敗北が伝えられました。この機会に、金玉均らはクーデターを起こし、閔一派を一掃しょうとしました。
彼らは日本に頼ろうとしました。彼らの計画に呼応したのは、後藤象二郎や福沢諭吉ら民間人でした。

駐朝公使竹添進一郎は独立党と連絡を持ち、日本は清国と機会があれば一戦を交える覚悟だと公言し、クーデターを煽りました。
1884(明治17)年甲申(こうしん)12月4日夜、ソウルの郵政局の落成式を狙って、独立党と日本人壮士は近くに放火し、飛び出した重臣を襲いました。王宮付近では騒ぎを起こして国王を連れ出し、王命で日本公使と日本軍に護衛を依頼させました。急を聞いて集まって来た閔派の重臣達を殺害しました。クーデターは成功し、独立党政権によって門閥廃止・地租法改正などの改革綱領が発表されました。
クーデター計画は独立党と日本公使館の合作で、福沢諭吉門下の日本人の壮士らが実行し、軍事力は日本守備隊約1個中隊300人に依存しました。このクーデタ事件を甲申事変と呼びます。

クーデターは独立党の仕業で、日本人の活動は隠すつもりでしたが、日本人壮士の活動が目立ち、日本守備隊の護衛下で暗殺が行われたことは誤算でした。
清国は直ちにこの事変に介入し、閔派からの国王救出の要請で、袁世凱(ユアンシーガイ)が1500人の清軍を率いて王宮を囲みました。日本軍は撃退され、公使と金玉均は日本公使館に撤退しました。
独立党政権は2日の命でした。公使らと金玉均は仁川から長崎に逃れました。公使館は焼失し、日本軍人や居留民の中には、清国軍や反日の朝鮮人によって殺害される者もいました。
この1884(明治17)年暮、井上馨は全権大使として軍艦を率いて仁川にやってきました。朝鮮政府の謝罪、日本人被害者の補償、公使館再建費用の負担などの条約を締結しました。
翌1885(明治18)年3月伊藤博文が全権大使になって天津の赴き、李鴻章との交渉の結果、4月清国との間で天津条約が結ばれました。
その内容は、日清両国は軍隊を撤兵する、両国は軍事顧問を送らない、将来朝鮮で変乱があって出兵する時は通告しあうというものでした。

しかし事変とその結末によって、清国の朝鮮に対する支配力は一層強まり、貿易上の日本の優位も次第に脅かされていき、立場は逆転しました。
世論は清国に対して次第に硬化していきました。その原因の一つにクーデターに対する日本の外交機関や軍隊の介入は伏せられて、清国軍の日本軍衝撃と居留民殺傷だけが伝えられました。
この当時の朝鮮と清国に対する一般的感情は次のようなものでした。
朝鮮に対して、弱小国であるという感覚が征服欲を生み、一方で独立を援助するという気持を生みました。ここには、神功皇后や秀吉の朝鮮出兵が想起され、江華事件以来日本が朝鮮に対して支配力を伸ばしてきたという考えでした。
清国に対しては、文明開化では一歩先んじているという優越感がありました。しかし同時に現在まだ大国であり、中国に対し永年の劣等感を抱いていました。欧米列強に対しては弱さを暴露されたが、逆に日本に対しては強い態度に出る清国に対し、侮蔑と敵意を抱いていました。

尾崎行雄は新聞社の特派員として、上海に行き、清仏戦争当時の清国見て、清国の軍隊が実戦に適さないこと、国内の不統一と官僚の腐敗、人民の無関心を伝えてきています。
清仏戦争は東アジアに対する帝国支配の開始の前兆でした。
北陸自由党の杉田定一も清国に渡りますが、列強のアジア蚕食に日本も加わるべきだという征清論者になって帰国しています。
福沢諭吉は甲申事変では積極的に手を貸しています。その前の壬午軍乱後に、論説を書いています。アジアの文明改進をめざす日本の目的は、清国によって阻まれた、朝鮮の清国の属邦化を日本は許すことはできない、目的を貫くには兵力に頼るしかない、殖産興業に用いた力を軍備増強に振り向けるべきだというものでした。
甲申事変後の1885(明治18)年3月、天津で伊藤博文と李鴻章が交渉している時、福沢諭吉は有名な「脱亜論」を書いています。その中で、アジアの一員とか、同文同種とかの連帯論を断ち切って、文明の名において欧米列強の仲間入りすることを宣言しています。
福沢は清国を文明の敵とし、自由党の人達も清国を自由の敵であり、欧米諸国を自由の旗手と見ました。

1885(明治18)年、大井憲太郎を中心とする関東の急進グループが、朝鮮開化派を援助するため渡鮮挙兵計画を立てました。未然に発覚して逮捕されました。この事件を大阪事件といいますが、国内運動の閉塞を打開する意図と、対外進出の意図がありました。

 

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