明治時代2

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明治時代2
6.条約改正問題
 

1883(明治16)年、鹿鳴館は東京内幸町に落成しました。華やかな夜会や舞踏会が催されました。鹿鳴館は条約改正交渉に絡む一つの演出でした。その華やかな夜会は、上っ面の欧化主義のシンボルでした。しかし、少しづつ庶民の間にも西洋化の動きは浸透していきました。
洋装の導入は立って働くことの実質面な便宜から考えられました。1872(明治5)年12月、太陽暦が施行されるのとほとんど同時に、官吏の礼装が洋服に改められました。官庁・軍隊・学校を通して明治の洋装化は浸透していきました。それ以前は武士の礼服の裃は幕末頃には廃れ、和装の礼装としては、紋付羽織袴が登場していました。
1875(明治8)年の開校式にお茶の水女子師範は女子の制服に袴を取り入れました。1885(明治18)年、東京女子師範は制服を洋服にしました。
軍隊の制服は、1875(明治8)年に服装規則が定められ、1886(明治19)年に大改正が行われ、軍帽・肩章・階級章などが整備されました。軍隊の影響は下着や靴に強く出ました。洋式の下着のシャツやズボン下は都市では早くから利用されました。日清戦争の大動員がその動きに拍車をかけました。
学校の制服は上級学校に限られました。小学生には学帽と徽章が普及しました。

1876(明治9)年、政府は国道・県道・里道を区分し、全国の主要道路の管理区分と維持負担区分を定めました。日本の道路は車を通すようにつくられていませんでしたが、明治10年頃から1頭ないしは2頭立ての乗合馬車が普及しました。
東京では明治15年頃から軌道の客車を馬が曳く鉄道馬車が幹線道路を走りました。市電や自動車が普及するまでは、鉄道馬車は交通の花形でした。
乗合馬車のほかは人力車がもっぱらでした。東京や横浜などの都市だけでなく、人力車は全国に普及していきました。それまでの駕篭は駆逐されました。最盛期は明治20年頃から日露戦争頃にかけてといわれています。一人を運ぶのに一人の力で済むというので、それまでの駕篭や馬と比べて効率的で、安価に済みました。

 

1871(明治4)年11月に派遣された岩倉使節団以来、不平等条約改正の必要は唱えられていました。
暴行や傷害を受けながら外国人の加害者が無罪・微罪で釈放されるという事件が起きていました。そのような例は少なかったのですが、国内の規則や規制が整ってくると、その枠外にある外国人の行動が国権を侵害するものとして強く意識されてきました。
1876(明治9)年からの寺島宗則外務卿の条約改正交渉は、税権の回復が主な目的でした。しかし、明治10年代に入ると、税権回復に交渉を限定し、法権問題を棚上げにすることは許されなくなりました。
1879(明治12)年に井上馨は外務卿に就任しました。井上は法権・税権両面の回復を改正交渉の目的にしました。
列国は条約の改正に当たって、対価を要求しました。日本はそれに対し、譲るものがないというのが本音でした。たった一つの切り札は内地開放でした。内地開放とは外国人の内地旅行や内地通商の制限を撤廃し、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めることでした。
1882(明治15)年井上は内地開放と引換えに、法権の回復を図るという方針を打ち出しました。この後の交渉は内地開放を前提に、どのような条件下で日本の法権を認めるかという問題になりました。

1887(明治20)年春の改正案は列国代表と合意に達しました。その中で、条約批准交換後2年以内に内地を開放するという他に、法権を回復するための2条件が必要とされました。一つは、2年以内に日本が泰西主義(欧米主義)の刑法・治罪法・民法・商法・訴訟法及び司法組織を整備することでした。もう一つは、内外人交渉を行うために、外国籍の判事・検事を任用することでした。
反対の声が上がりました。政府の法律顧問であり、刑法・治罪法の草案を作ったフランス人のポアソナードは改正条約草案に対する意見書を提出しました。
外国人法官の任用は訴訟人の利害や国の負担からしても弊害が大きく、国民が官職に就く権利を奪うものであり、法の制定に列国の承認を求めるのは立法権の侵害であり、国会開設に際し条約改正草案に対する国民の不満は高まり、内乱を醸成して外患を招きかねないという内容で、ポアソナードは草案の棄却を求めました。
1887(明治20)年6月に欧米視察から帰国した農商務大臣谷干城(かんじょう、西南戦争の際の熊本鎮台司令官)も条約改正に反対しました。泰西主義の法を制定することは外人の歓心を買おうとするものだ、と谷は思っていました。
また谷は改正交渉が一部の外務担当者によって行われている秘密主義を批判し、1890(明治23)年に国会が開くのを待って議会と世論に訴え、上下が一致し、万一に備えての軍備を充実させて交渉に望むべきだと主張し、大臣を辞任しました。
この頃改正条約の内容も世間に伝えられ、世論は沸き立ちました。

活動を休止していた旧自由・改進党員の活動が活発化し、条約改正中止、言論・集会の自由を求める請願書が殺到しました。この時の大きな問題は条約改正の失敗と欧化主義でした。欧化主義への反動は国粋主義の台頭をもたらしました。
この年の前年1886(明治19)年、国民感情を刺激する事件が2件起きました。
鎮遠・定遠などの軍艦を備えた清国北洋艦隊が8月長崎に入港しました。上陸した水兵の暴行を制止しょうとした巡査との間で乱闘が起こり、双方に死傷者が出ました。当時の日本海軍より優勢な艦隊乗組員による事件だけに、国民の清国に対する敵意と警戒心を強めました。
10月イギリスの貨客船ノルマントン号が紀州沖で難破沈没し、乗組員は救助されましたが、日本人の船客とインド人の火夫・水夫は水死しました。神戸イギリス領事は海事審問の結果、船長以下の処置に誤りはなかったと判定しました。
政府は船長を神戸のイギリス領事裁判所に告訴し、裁判は横浜に移され、船長は3ヶ月に禁固となりました。しかし、賠償は行われませんでした。
条約改正に対する関心と欧化主義への反感は、この様な事件発生が背景にありました。

1887(明治20)年9月、井上馨外務大臣は辞職しました。政府は1881(明治14)年以来野にあった大隈重信を外務大臣に任命し、条約改正交渉に当たらせました。大隈は国別に交渉し、次のような条約案をまとめました。
外国人法官の任用は大審院の判事に限る、外国人が被告になった場合にのみ合議裁判とする、法典の制定は列国に通知するに留める、5年後領事裁判を廃止する、という内容でした。
1889(明治22)年4月、この内容がロンドンタイムスに掲載され、ジャパンメールに載せられると、再び反対運動が起こりました。外人法官の任用は日本の国権を傷つけるということと、内地雑居と土地所有の容認に対する危惧が反対の内容でした。
資力に富む外国人が日本の主要な土地を買占め、日本を領土とするのではないかという心配や、優勝劣敗による人種衰亡論や企業衰退論が唱えられました。
10月大隈重信の辞職が決まった日に、玄洋社員来島恒喜(くるしまつねき)による爆弾によって大隈は隻脚を失いました。
その後、条約改正交渉は青木周蔵・陸奥宗光の2代の外務大臣によって行われました。1894(明治27)年、日清開戦直前に日英通商航海条約が調印されました。
アジアにおける国際情勢の変化が、イギリスに対して日本の価値を高め、日本の国家体制・法制度・議会制度の整備により改正を阻む要因が少なくなったため、これまで難航していた法権の回復が無条件で獲得できました。

 

欧化主義のシンボルは鹿鳴館でした。欧化主義は洋装・ダンス・洋食に始まり、音楽・美術そしてローマ字化運動にも及びました。ヨーロッパにならうことはヨーロッパと並び立つためでした。独立と富強を達成するためにヨーロッパ的新帝国をアジアの一角に建設すること、これが欧化主義の本心でした。
列強によるアフリカの全面分割の開始、ドイツの南洋諸島の占領、フランスのベトナム併合、イギリスのビルマ併合、ロシアのシベリア鉄道着工、この様な情勢の緊迫が井上馨の欧州的帝国建設を主張させました。
欧化主義に反対した谷干城は、アジアの盟主は日本であり、ヨーロッパ諸国の東洋政略が日本への脅威に働くだけでなく、日本のキャスティンブボードを強めることを期待しました。そのため我国の軍備を充実しておくことが急務だと主張しました。
列強の対立を利用してアジア政略に日本が参加すること、そのためには必要な軍備は整えることは欧化主義でも反欧化主義でも同じ立場でした。
谷は土佐出身で、軍の中では反主流派で、政治的には保守派・藩閥批判派でした。この頃の軍の中心であった山県有朋は次のように考えていました。カナダ太平洋鉄道とシベリア鉄道の敷設で、英露両国がアジアの覇を競う日が近づいていました。日本は単独で列強と対抗できないが、対立しあう強国のバランスを動かす実力を持たなければならない。1880年代後半、明治17・8年頃からの世界情勢の変化の中で、山県の考えも井上や谷と同じでした。

山県有朋は主権線と利益線を区別して考えていました。主権線とは国境のことであり、山県は自国の独立のためには主権線の防御だけでなく、利益線を確保しなければならないと主張しました。利益線とは勢力範囲を表すもので、後には生命線という言葉が使われました。山県の利益線は朝鮮をさしていました。
朝鮮は日本列島にとって大陸から突き出された刃ということができますが、反対に日本の大陸への橋がかりということもできました。征韓論以来、朝鮮を日本の勢力下に治めたいという野望は消えることはありませんでした。
朝鮮は一方で日清の対立の焦点であり、一方ではイギリスとロシアの対立が激化すれば、両国が争うところであると山県は考えていました。そして、朝鮮は東アジアの形勢を制する要地にあり、これを他の強国の支配にゆだねるわけにはいかないと考えていました。
朝鮮に対する野心や壬午事変以来の清国に対する敵意は、清国に対する対立を決定的にしました。イギリスとロシアの対立では、ロシアの南進を阻み、イギリスの立場を選びました。

日本は被侵略の恐れはありませんでした。そのため孤立主義の道も可能でした。反主流派の将官三浦悟楼(ごろう、長州出身)などは、自国の防衛を主眼にして、各地に郷土防衛軍を編成すべきで、自国防衛には贅沢な海軍拡張を中止すべきであると主張しました。
過大な軍備を持つには、日本の国力・民力は貧弱だというのが根拠でした。一般会計歳出の中での軍事費の割合は、明治15年17%、17年23%、19年25%、21年28%、23年31%で、10年足らずに2倍近くに増加していました。
しかし、アジアにおける帝国主義の横行をよそに、孤立の道を守るかということができるかは大変疑問でした。
海外発展の夢を朝鮮から大陸にでなく、南方へ進出する可能性は征韓・征台以来問題点でした。朝鮮から大陸が北進論で、南進論はジャワ・ボルネオ・フィリピン・南洋諸島が対象でした。しかしこの地域は既に列強の支配が行き渡っていました。

 

1887(明治20)年9月井上馨外務大臣が辞任してからも、政府を攻撃する声は衰えませんでした。地租軽減、言論・集会の自由、外交の挽回を三大事件といいますが、この年に一層激しくなった運動を三大事件建白と呼びました。
建白運動の先頭を切ったのは高知民権派でした。その中心人物は後藤象二郎でした。
公然たる政府攻撃は禁止されましたが、懇親会・デモ・演説会や元老院や政府顕官の訪問・説得などの活動は広がる一方でした。集会条例違反・官吏侮辱などでの処分が続出しました。

政府は都下の壮士の往来に神経を尖らし、12月25日保安条例を発布しました。この条例で、秘密結社や結社間の連絡通信を阻止するために必要な予防措置の権限を内務大臣に与えました。屋外の集会はいつでも解散でき、内乱を陰謀し、治安を妨害する恐れありと判断すれば、一定期間皇居から3里以外の地に退去を命じることができると定められました。
1887(明治20)年12月26〜31日にかけて退去させられた者は570余人にのぼりました。その中に、星亨(とおる)・尾崎行雄・片岡健吉・中江兆民などがいます。この時の内務大臣は山県有朋で、指揮を執ったのは警視総監の三島通庸(みちつね)でした。

建白運動で、対立していた自由・改進や政府反対の勢力が合流する動きを示しました。これを分断するために、政府は大隈重信を入閣させて条約改正事業を継続させようとしました。
1888(明治21)年2月大隈は外務大臣に就任し、改進党系は攻撃の矛先を緩めました。しかし、明治23年の国会開設が迫ってくることもあり、反政府勢力の団結の気運はむしろ高まっていきました。
後藤象二郎は「危急存亡」の四字を掲げて、国家の危急に当たって、人民の奮起と団結を訴えました。後藤はアジア情勢の緊迫化を日本帝国の危急存亡に結びつけていたのです。そして、国会開設を迎えるに当たり、地方が団結して組織を強め、国会議員選出の地盤を固めることを説きました。国会が強固な背景を持ち、一致団結すれば議院内閣や租税軽減は夢ではないとしました。
後藤の遊説は大きな反響を呼びました。それだけに、1889(明治22)年3月後藤が逓信大臣として入閣すると、失望と非難の声があがり、大同団結運動は分裂しました。

条約改正反対運動は息を潜めていた民権派を活気づけさせ、同時にナショナリズムの傾向を強めました。欧化主義に対する反発は国粋主義・国民主義を登場させました。これまで欧化が進歩であることを疑うことは少なかったのですが、列強に対する警戒心が大きくなるに従い、反発は強くなっていきました。
民権派は、アジア情勢の緊迫に対し、平和主義・民主主義を貫くことがどんなに困難な問題であるか感じていました。この様な状況が民権派と保守派の提携を可能にしました。

 

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