明治時代2

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7.明治憲法と議会
 

1882(明治15)年3月から伊藤博文は、伊東巳代治(みよじ)・西園寺公望(きんもち)らとともに、ヨーロッパで憲法の調査に当たりました。ドイツの憲法学者グナイストとその弟子のモッセ、オーストラリアの法学者スタインから講義を受けました。
スタインは次のような意見を述べました。国家組織を立憲君主制と共和制に区分すると、君主は立法・行政の上に立ち、君権が少しでも制限されると、共和制である、君主に固有の権限は憲法・国会にも制限できないとしました。
伊藤は、君主の主権は分割し得ない超憲法的なものであるという論理と、立憲制を法治主義として君主制に従属させる論理を得ました。井上毅(こわし)もシュルツェ「プロシア国法論」からほぼ同じ論理を学びとっています。
「統治権の総攬者」であり、「万世一系の天皇」という構想がしだいに形成されていきました。

憲法の起草作業の前に、伊藤博文はやっておかなければならないことが沢山ありました。宮内卿になって宮中の制度改革を行い、華族制度をつくって貴族院の基礎をつくり、内閣制度をつくって議会に動かされない官僚制の合理化を図りました。
同じ時期山県有朋は内務卿として地方制度・警察制度の改革に着手し、井上馨外務卿は条約改正交渉に全力を挙げていました。
1886(明治19)年秋から約1年半、伊藤博文・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らは、ロエスラーの意見を参照して憲法草案を作り上げました。
伊藤らの憲法起草方針は極秘とされましたが、明治19年2月から7月にかけて、東京日日新聞が報知・毎日・朝野・土陽新聞を相手に、議会制内閣是非の論争がありました。日日は議会内閣制の不可を主張しました。
君主の統治大権は一体不可分である、君主権制限を加えるものは立憲君主制でなく共和制である、議院内閣制はイギリスだけに発達したもので立憲君主制とは相容れない、ヨーロッパの君主権の衰微は君統が外国に由来し、万世一系の皇統を有する日本において議院内閣制を唱えるのは臣子の分を乱すものであるというものでした。
これに対する諸新聞は激しい論評を加えました。正論を容れることは王室の尊栄を保つ所以であり、君主権の衰微ではない、イギリスの議院内閣制、アメリカの大統領制など民主主義は世界の趨勢である、憲法に議院内閣制を規定しなくても、政府が議会の多数意見に反対しては永続するものではない、日日が主張するものは立憲君主でなく専制君主であるというものでした。

1888(明治21)年4月、憲法草案を審議するため枢密院が設けられました。枢密院は天皇の最高顧問機関でした。条約改正交渉で伊藤首相の退任を要求する声が高くなりましたが、伊藤博文は枢密院議長に転出し、黒田清隆が首相に就きました。
この年6月から翌年1月まで枢密院での審議が行われ、大日本帝国憲法とその付属法及び皇室典範が決定しました。この間天皇は欠かさず会議に出席しました。
1889(明治22)年2月11日の紀元節の日に憲法発布の式典が行われました。天皇は宮中正殿に文武官僚を集め、憲法発布の勅語を朗読し、憲法を黒田内閣総理大臣に授けました。
勅語で、祖宗から継承した統治大権に基づいて天皇が憲法を制定し、自らも子孫に到るまで憲法に従って大権を行使する旨を表明しました。また、憲法は臣民子々孫々までの不磨の大典であることを表明しました。

大日本帝国憲法は第一章天皇、第二章臣民権利義務、第三章帝国議会、第四章国務大臣及枢密顧問、第五章司法、第六章会計、第七章補則、全文76ヶ条からなっていました。
憲法に明確に規定されているのは、天皇大権の内容と臣民の権利義務、国家機関としての帝国議会と裁判所、及び国家財政の運用だけでした。
内閣と枢密院は、天皇を輔弼(ほひつ)し諮詢(しじゅん)に応えることしか規定されていませんでした。また陸海軍は天皇の統帥権(とうすいけん)・編成権の下にあることしかしめされていませんでした。元老も参謀本部も内大臣も憲法に規定はありませんでした。
天皇は万世一系で神聖不可侵であり、統治権を総攬するが、その施行は憲法の条規により、立法権は議会の協賛を経て行う。天皇は、緊急勅令及び公共の安寧秩序を保持するための命令を発するほか、官制権、陸海軍の統帥権と編成権、外交権及び戒厳布告・栄典授与・大赦などの権限を有し、これらはすべて議会の関与するところではありませんでした。

議会は法律案と予算案を修正したり、否決することはできましたが、勅令・命令によって法律の範囲を狭められており、予算案不成立の場合は前年度予算が執行される規定がありました。
基本的人権は列挙されていますが、法律の範囲内とか法律に定めたる場合を除くなどの条件が付けられていました。所有権は最大の保障が与えられていました。住居や親書の自由はやや本来的自由が認められていましたが、信教の自由は場合によっては限定される自由でした。
帝国議会は衆議院と貴族院の二院からなっていました。法律によれば、衆議院議員の選挙権は25歳以上の男子で、国税15円以上を1年以上納付する者、被選挙権は30歳以上の男子でした。1890(明治23)年の第1回総選挙の有権者は45万人(人口の1.1%)にすぎませんでした。
貴族院令で、貴族院議員は皇族、公・侯爵、伯・子・男爵の同爵から互選された者、勲労や学識があるとして勅選された者、多額納税者から互選された者からなっていました。

 

明治10年頃まで、地租改正による耕地・宅地・市街地の私有化に伴って、これまで不確定だった官有地・民有地の区分をすることが重要問題でした。測量・調査をして、所属の不明であった山林・河川地や入会山・入会地などの共同利用地を官有・民有地に区分していくのは内務省や地租改正事務局の仕事でした。
1880(明治13)年以降皇室所有地・皇室財産の確立が問題となり、明治17年から23年にかけて皇室財産の設定は完了しました。それらは、日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船などの株式1,000万円、佐渡・生野鉱山、350万町歩を超える山林・原野でした。
経常的な皇室費は国家予算の中に組み込まれ、年間300万円でした。従って皇室財産からの収益は、皇室の尊厳と慈愛を示すための出費と皇室財産の自己増殖に充てられました。
皇位の継承や摂政の規定、皇室財産の管理、皇族の監督などの皇室制度は皇室の家法である皇室典範で定められました。男系の男子のみが皇統を継ぐこととし、譲位を認めず、未成年あるいは故障のあるときは摂政を置くこととしました。
皇位継承順序の変更や摂政を置く場合は、皇族会議及び枢密顧問の議を経なければならないとしました。皇族の婚嫁(こんか)や海外旅行は勅許を要し、婚嫁の対象は皇族内部か、特に認許された華族の家に限られました。

皇室の防壁としての華族の組織を整備するために、1884(明治17)年から新しい華族制度が設けられました。旧来の華族に、国家に功労のある政治家・軍人・官吏などを加え、公・侯・伯・子・男の五爵に分けました。爵位は嫡出の男子に世襲され、華族の家を保護するために財産を与えて世襲財産の制をとりました。
維新以来、四民平等・一君万民の理念から特権階級を強化するのは逆行するものであるという考えがありました。また一代か世襲華族かという問題もありました。しかし、上院の基礎とするためには、一定の階級制を持つ華族制度をつくらざるを得ませんでした。
公家では五摂家と三条・岩倉、大名では徳川・島津・毛利を公爵に、九清華と30万石以上大名を侯爵にしました。維新の功臣では木戸・大久保の両家が侯爵、旧参議で在官する者は概ね伯爵を授けられました。

1885(明治18)年暮、太政官制度が廃されて、内閣制度が布かれました。内閣総理大臣と各省大臣が直接内閣を構成して行政府の長となり、宮中は行政府から区別されるようになりました。三条太政大臣は内大臣となって宮中に転じ、初代内閣総理大臣は伊藤博文が任命されました。
内閣制度では、内閣の一元化と、官僚の職務分担、選抜方法、能率、規律の明確化が意図されました。
1887(明治20)年に官吏の試験任用が始まりました。藩閥官僚から学閥官僚への転換のもとがつくられました。そして、官学万能、法学万能の風潮が次第に強くなっていきます。

山県有朋内務大臣はプロシアから招いたヘーンの助言で警察制度の改革を行いました。中央集権的な警察制度を確立し、政治警察を重視して強化し、農村には駐在所・派出所・交番所を配置して日常的な監督態勢をとりました。巡査は大部分が士族出身者でした。
1889(明治22)年、徴兵令が改正され、免役規定が全廃されました。中等以上の生徒・卒業生を短期現役や一年志願兵にして下級幹部の充実を図る狙いがありました。
軍紀の確立では、1882(明治15)年には軍人勅諭が出されています。勅諭で、天皇が兵馬の大権を掌握し、軍人との親しみを強調し、軍人が政治に関与することを禁じ、上官に対する絶対服従を命じています。

官僚制の整備と並んで、地方制度の整備が行われました。内務大臣の山県有朋を中心に1888(明治21)年の市制・町村制と、1890(明治23)年の府県制・郡制が制定され、翌年公布されました。
基礎となる町村を行政下部組織として強化するため全国の町村を合併して1/6にしました。その結果、自然の村落は字(あざ)としてのみ残されました。
市町村・郡・府県は等級選挙と複選法を採用しました。町村税納入額によって市は三級、町村は二級の等級選挙で有産者の利益代表を選出しました。郡会議員は、2/3が市町村会議員によって選出され、1/3が地価1万円以上の地主から互選されました。府県会議員は郡会・郡参事会・市会・市参事会の構成員によって選出されました。町村長は町村会によって選出されましたが、無給が建前で、名望ある資産家が就任するという考えに立っていました。
山県の地方制度のモデルはプロシアでした。しかし、日本の実情に合ったものかは疑問で、郡制は十分に定着しないまま大正期に廃止されました。

国会が開設されれば、地方が一層政治化することが予想されました。地方長官会議では、国会開設に備え人心を誘導する方策が問題となり、文部省は徳育の方針を立てて国民に示すべきだとしました。
こうして、1890(明治23)年、教育勅語が発布されました。文案は枢密顧問官の元田永孚(えいふ)と法制局長官の井上毅(こわし)によるものでした。
内容は、国民教育の源を国体の精華にもとめ、忠孝をはじめとする日常道徳と国憲・国法の遵守を説いたものでした。これにより、天皇は国民道徳の護持者の立場に立つことになりました。

 

1890(明治23)年7月、第1回総選挙が行われました。300人の衆議院議員が選出されました。投票率は92%、有権者は45万人で、人口の1.1%でした。その条件は、25歳以上の男子、1年以上選挙地の府県に居住し、1年以上国税15円を納入した者でした。議席は、自由党系130、改進党系40で、合わせて過半数を制していました。政府系の大成会は約80でした。
第1議会は1890(明治23)年11月に召集されました。予算案審議で政府と民党は対立しました。民党は政費節減・民力休養を掲げて大幅な予算削減を主張しました。その内容は、政費節減は官庁人員と俸給の削減であり、事業費の削減ではありませんでした。民力休養のためには、その削減で地租軽減と高利公債の償還に当てるとしました。
自由党系の各派は合同して立憲自由党となっていました。民党は立憲自由党と立憲改進党でしたが、立憲自由党内の派閥対立は強いものがありました。政府は民党の切り崩しを行いました。自由党内から土佐派の幹部を中心とする脱党議員が出て形勢は逆転し、予算の妥協案が成立して可決されました。

第1議会の結果は民党にとっても、政府にとっても喜べるようなものではありませんでした。第2議会では軍艦建造費・製鋼所建設費を含む予算原案の1割近くが削除されました。民党も海軍拡張に必ずしも反対ではありませんでした。議会は藩閥政府が信用できないとしたのでした。予算削減案を議決した議会は解散され、1892(明治25)年2月総選挙が行われました。
政府は選挙に対し大干渉を行ないました。予戒令(よかいれい)で民党壮士の運動を弾圧し、府県知事は警察官・郡町村吏員を指揮して民党候補者を圧迫しました。しかし選挙結果は民党163、吏党(政府支持派に対するこの当時の造語)137でした。

第1議会の白熱した論議は院外党員大衆の強い圧力と干渉の中で行われました。このため閉会後、立憲自由党は総理中心・代議士中心の組織に改めました。政党として中央集権化を進め、院外の干渉を排して、議会政党としての独自性を確立しょうとしました。
議会での審議に関連して、政党は綱領だけでなく具体的なプログラムを示さなければならず、地方の多様な利害をまとめた方針を示さなければならなくなりました。このため政党は現実的、妥協的なものになっていく結果になりました。
政党のスローガンの民力休養は、地租軽減に中心が置かれました。その要求は相対的に高地価の査定を受けている日本の西南部に強いものでした。一方、地方の諸産業に関係する議員は交通の発達や産業の保護を求める地方の要求を無視するわけにはいきませんでした。
対外関係の緊迫は民党も認めるところでした。政府の軍備拡張の緊急性の主張に対し、民党は対抗する論理を持ちませんでした。
1891(明治24)年5月、来遊したロシア皇太子ニコライ二世に、大津で警戒に当たっていた巡査津田三蔵が斬りつけ、負傷させた大津事件が起きました。政府は死刑の大逆罪を要求しましたが、大審院長児島惟謙(いけん)ら法官達は謀殺未遂での無期懲役の判決を下しました。司法権の独立を守ったと賞賛されましたが、一時はロシアとの間で戦争が起こるというような騒ぎでした。
この事件や同年の清国北洋艦隊が横浜に現れたこともあわせて、対外的な緊迫は一層高まりました。

予算削減をしたものの地租軽減を貴族院が否決したため、削除した予算が宙に浮きました。このため、井上毅は積極策を打ち出し、一般の関心をひきつけなければならないと主張しました。政策事業面で政党との協調点を見出そうとしました。初め民党は鉄道の国有化に反対していましたが、地方は鉄道の敷設・延長を希望し、施設鉄道の買い上げを修正して鉄道拡張を目指す鉄道敷設法が第3特別議会で成立しました。
しかし、民党は政府の攻撃をやめませんでした。政府不信・藩閥攻撃や民力休養の建前が変わることはありませんでした。政府と議会の対立は元勲総出動の第2次伊藤内閣と第4議会との間で頂点に達しました。
衆議院は予算の11%を削減し、政府はこれに不同意を表明し、衆議院は内閣弾劾上奏案を可決しました。事態は詔勅によって救われました。
議会は予算を再審議して製艦費を復活し、政府は行政整理と海軍の部内改革を約束しました。

 

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