明治時代2

北九州の歴史

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7.明治憲法と議会


明治時代2
8.明治中期の北九州
 

1874(明治7)4月、板垣退助は高知で立志社を設立しました。立志社設立を契機に、地域の事情に応じた地方政社が各地に結成されました。ここに自由民権運動が形を現してきました。
1875(明治8)年2月、板垣退助は同志と図って愛国社を結成しました。土佐・阿波・加賀・筑前・豊前・肥後・因幡・安芸・伊予・讃岐・薩摩などから人々が参集しました。筑前からは越智彦四郎・武部小四郎、豊前からは増田宗太郎・梅谷安良らが参加しました。
愛国社結成大会後、越智が矯志社、武部が強忍社、箱田六輔が堅志社の社長に就く政社を組織し、民権伸張を主張しました。彼らの政社結成は、廃藩置県後の士族の困窮と新政府への反発、征韓論に共鳴し、政府の軟弱外交攻撃が始まりでした。しかし秋月・萩の乱で、これら政社の幹部から逮捕者や逃亡者を出し解散しました。
明治10年になると愛国社再興の機運が生まれました。翌年1878(明治11)年9月大阪での愛国社再興大会には、九州・四国・山陽・山陰・北陸・東海から代表20余人が集まりました。福岡からは進藤喜平太・頭山満が出席しました。
翌年の第2回愛国社大会には箱田六輔らが出席しました。この大会から帰った彼らは、この年1879(明治12)年4月玄洋社の前身の向陽社を設立し、社長に箱田六輔が就きました。教育機関として向陽義塾を開き、教師には人参畑の婆(ばば)さんと呼ばれた高場乱(たかばおさむ)らがいましたし、塾生にも来島恒喜(くるしまつねき)・月成勲(つきなりいさお)らがいました。

1878(明治11)年10月、第1回県会議員選挙が行われました。翌年3月、第1回県会が県令渡辺清、議長中村耕介の下で開かれました。
1879(明治12)年11月、福岡県各郡区の有志約800人が博多聖福寺に集まり、条約改正と国会開設の請願を決め、筑前国共愛公衆会を結成しました。
12月、向陽社は玄洋社と改めました。初代社長には平岡浩太郎が就きました。
1880(明治13)年1月、筑前国共愛公衆会は元老院に国会開設請願書と条約改正の建白書を提出しました。2月には民権派最初の憲法私案「大日本憲法大略見込書」を起草しました。同年、同会は筑前懇親会と改称されました。
1880(明治13)年3月、愛国社第4回大会が大阪で開かれました。大会は第1回国会期成同盟大会に切り替わりました。
同年11月、第2回国会期成同盟大会が東京で開かれ、筑前国共愛公衆会も代表が出席しました。

玄洋社社長は平岡浩太郎に続いて、箱田六輔が2代目で、1888(明治21)年箱田が自決すると、進藤喜平太が3代目になりますが、頭山満が実権を握っていました。
玄洋社は結成とともに国権拡張の国権論に傾いていきました。1889(明治22)年の玄洋社員の来島恒喜による大隈外相襲撃事件、1892(明治25)年の選挙大干渉への参画があります。その後、社員の大陸派遣、中国の孫文や朝鮮・インドの亡命志士への援助など皇道アジア主義路線を進みました。
玄洋社設立を契機に、福岡県の政治運動は国権拡張と民権伸張に分かれ、対立していきました。

1881(明治14)年10月大隈重信罷免の明治14年の政変があり、その直後、1890(明治23)年に国会を開くとの詔勅が発せられました。この月末板垣退助を総理とする自由党が結成されました。
九州の民権運動家は直接これに参加しませんでしたが、翌年の1882(明治15)年3月、自由党系の九州改進党を結成しました。福岡県からは吉田鞆次郎・岡田孤鹿(ころく)・中村耕介ら県会議員と玄洋社の箱田六輔・頭山満らが出席しました。しかし玄洋社は、尊皇・国体護持・国粋保存を提唱する熊本の紫溟(しめい)会の加盟が認められなかったことに難色を示し、加盟しませんでした。
1884(明治17)年になると、群馬事件・加波山事件・秩父事件が起き、10月自由党は解党しました。翌1885(明治18)年九州改進党も解党しましたが、親睦会として会合を継続することにしました。これは後の中村耕介や岡田孤鹿らによる政談社の設立につながっていきます。

1886(明治19)年2月、政府は安場保和(やすばやすかず)を県令に就任させます。安場の起用には民党抑圧の意図がありました。安場は旧熊本藩士で紫溟会とも関係のある国権派でした。安場は県会を握っている自由党系の政談社と対立しました。
安場は県会を無視し、議案が否決されても内相に請願して、強行実施しました。そして、民党への対抗として玄洋社と手を握りました。1886(明治19)年12月県会議員の吉田鞆次郎が壮士に襲われ、負傷しました。この後テロが続発しました。被害者は政談社のメンバーでした。
1889(明治22)年2月には玄洋社を中心に国権派は筑前協会を結成しました。

条約改正交渉は秘密裏に行われていました。1889(明治22)年4月、大隈改正案の内容がロンドンタイムスに掲載され、ジャパンメールに載せられると、反対運動が活発化しました。
福岡の政談社も条約改正の建白書をまとめて、倉富恒二郎・吉田鞆次郎が上京して提出しました。筑前協会も条約改正阻止の運動を展開しました。
1889(明治22)年10月18日黒田清隆内閣の閣議を終え、外務大臣大隈重信が外務省に入ろうとした時、玄洋社社員来島恒喜(くるしまつねき)が爆弾を投げつけました。大隈は右足切断の重傷を負い、来島はその場で自決しました。
条約改正はその後進展せず、1894(明治27)年日清開戦直前に、日英通商航海条約が調印され、法権回復がやっと実現しました。

1890(明治23)年7月1日、第1回衆議院議員選挙が行われました。優勢と見られていた政談社派は、福岡県8区定員9人に対し、岡田孤鹿・十時(ととき)一郎だけで、筑前協会・筑後同志会の非自由派と官僚中立派が7人でした。
官僚系からは末松謙澄(けんちょう)が当選しています。末松は豊前京都郡の生まれで、新聞記者を勤め、伊藤内閣の法制局長官・逓信大臣・内務大臣を歴任しました。
1891(明治24)年12月25日、松方正義内閣総理大臣は議会を解散し、翌1892(明治25)年2月15日に第2回総選挙が行われました。内相品川弥二郎は選挙の大干渉を行い、民党派を弾圧しました。
福岡県の吏党と民党の衝突で、死者3名、負傷者65名を出しました。玄洋社は安場保和知事を助け吏党の選挙干渉に協力しました。
定員9名のうち自由党からは岡田孤鹿ただ1人が当選しました。しかし、全国的には民党の圧勝でした。品川内相は選挙干渉の責任を取って辞任し、松方首相も辞任し、安場知事も更迭されました。

 

地方三新法の一つ郡区町村編制法の公布により1878(明治11)年10月、第1大区が廃止されて企救郡が置かれ、小倉室町の第1大区調所は企救郡役所と改称されました。第5大区は遠賀郡となり、芦屋町の第5大区調所は遠賀郡役所と改称されました。
企救郡長には津田維寧(これやす)が、遠賀郡長には不破国雄が任命されました。企救郡役所は郡長のほか郡書記15人、遠賀郡役所は14人の機構でした。所管事務は、庶務・戸籍・地理・兵事・社寺・駅逓・勧業・土木・国税・地方税・地券・学事・衛生・会計などでした。
郡が設置されると、小区も廃止されて、新しく複数の町村をまとめる町村分画が定められました。これは藩政時代の旧町村を勘案して設けられました。複数の町村にまとめられた町村分画に公選の戸長が1人配置されました。
福岡県では1882(明治15)年、町村分画の改正が行われました。遠賀郡では一部に留まりますが、企救郡では大幅な改正が行われました。
政府は1884(明治17)年太政官通達によって、戸長民選を官選に改め、町村分画の規模を拡大し、町村事務の効率化を高めようとしました。福岡県でも改めて町村分画の改正が行われました。
1887(明治20)年には企救郡・京都郡に対し、県から町村分画内での町村合併の通達がありました。

三新法の府県会規則により、福岡県でも第1回県会議員選挙が行われました。選挙区は19、議員総数56人、議員任期は4年、2年毎に半数改選することになっていました。被選挙人は25歳以上男子、3年以上県内居住、地租10円以上の納入者でした。選挙人は20歳以上の男子、地租5円以上の納入者でした。
三新法が施行された当時は、区町村会については立法措置はとられませんでした。1878(明治11)年太政官通達により、各府県はほとんど町村会を開設しました。
1879(明治12)年福岡県は町村会規則を通達しました。被選挙人は20歳以上男子で、その町村に居住し、町村内に不動産を有する者とされました。選挙人は20歳以上男子で、その町村に居住し、町村内に不動産を有する戸主とされました。議員任期は2年でした。

数か町村共通の問題については臨時町村連合会を開くことが認められました。1880(明治13)年、政府は区町村会法を制定しました。これにより、臨時町村連合会は常設の町村連合会になっていきました。
区町村会の運営は区町村の裁量に任されていましたが、支障が出たり、自由民権運動を助長する動きがあったため、1884(明治17)年区町村会法の改正がありました。選挙資格は20歳以上の地租納入者に統一され、府知事・県令は町村会に対し広範な統轄権を行使することになりました。戸長は議長として県令の認可により大きな権限を持つようになりました。
この当時の町村は後の字(あざ)とされる区域ですので、行政課題を遂行するには狭すぎ、連合町村会に付託されることが多くなりました。

三新法の地方税規則は包括的は地方財政に関する法令で、その運用には別に種々の規則が制定されました。1879(明治12)年、福岡県では地方税徴収規則・戸数割規則・地価割規則・営業税雑種税規則が通達されました。
地租の1/5以内を前年度の課税額を基礎に、地価割が課税されました。
貧富の等級を定めて、1戸毎に戸数割が課税されました。
営業税雑種税は営業を免許したものに課税するものです。営業税は3種に区分されました。1つは諸会社及び卸売商、2つは仲買商、3つは小売商および卸売・小売に区分できない雑商でした。雑種税は運輸・運搬業、演劇場、興行、興行娯楽施設、飲食業、物品の換金営業など営業税の対象にならない営業のほか、芸をもって身を立てる人に対して賦課するものでした。
1880(明治13)年4月地方税規則は改正が行われました。その後同年11月、明治15年、17年に改正されました。

明治16年度の福岡県の予算を見てみます。支出は、県庁・郡区役所の吏員及び町村の戸長などの人件費が全体の36%、警察・司法の機構に関わる経費が27%、以上で63%になりました。他は教育の経費が13%、治水と道路・港湾整備が16%などでした。
収入は、地租割44%、戸数割20%、営業税では商業が13%で工業が4%に過ぎません。これを見ると、農業以外の産業が未発達であったことが分かります。また、雑種税は工業の営業税を上回っていました。
町村費は三新法施工後もしばらく慣習的に徴収されましたが、1884(明治17)年の区町村会法改正で法的根拠を与えられました。戸長役場を維持し、町村会を開き、土木事業と学校の維持管理、公衆衛生などの町村費に充てられました。

1888(明治21)年の市制・町村制が制定され、翌年公布されました。しかし、この当時100戸以下の小町村は全体の7割を占めていました。そのため、市制・町村制を実施するには町村合併が前提条件になりました。
町村合併の結果、企救郡は15町72村が1町16村に、遠賀郡は82村が19村になりました。そして、1889(明治22)年4月第1回町村会議員選挙が行われました。
市町村の具体的な条件を明示した規定はどの法令にもありませんでした。しかし、市については人口25,000人以上の市街地という基準が示されましたが、町村についての区別はありませんでした。

後に門司市へと発展する文字ヶ関村は小森江・門司・田野浦村の三村が合併したものです。1889(明治22)年の人口は3,060人でしたが、同年門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され、門司築港会社が築港工事を開始しました。
さらに、九州鉄道会社が門司-高瀬間を開設させ、博多の仮本社から門司清滝に本社を移しました。門司は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を始めました。明治26年には22年に比べ人口は5,052人増え、2.6倍になっていました。文字ヶ関村は爆発的に膨張する行政需要に対する対応を迫られ、1894(明治27)年7月門司町となりました。
1889(明治22)年当時、小倉は既に15,072人の人口でした。城下町の小倉町に、長浜浦・平松浦が加わって小倉町になりました。
商工業都市として、郡役所・警察署・電信局・裁判所・旅団司令部などの所在地でした。
1889(明治22)年の若松村は人口2,764人でしたが、翌年には若松築港会社が設立され、その翌1891(明治24)年は若松‐直方間の筑豊興業鉄道が開通し、石炭の集散地及び積出港として急速に成長しました。1891(明治24)年に若松村から若松町になりました。

 

1873(明治6)年11月内務省が設置されると、警察事務は司法省から内務省に移されました。それまで司法と警察は混交の状態にありました。
1875(明治8)年3月政府は全国的に統一された警察制度をつくりました。機構とともに警察官の名称も羅卒(らそつ)に改めました。
1877(明治10)年1月内務省から達しがあり、警察出張所を警察署、屯所を分署に改称されました。小倉警察署の下に大里・香春・赤池・添田・行事・曽根分署、芦屋警察署の下に黒崎・赤間・若松分署が置かれました。
1886(明治19)年7月地方官官制改正によって警察署・分署を廃止併合して、一郡に一警察署が配置されました。遠賀郡は芦屋警察署、黒崎・若松分署が置かれ、企救郡は小倉警察署、大里・曽根派出所が置かれました。
福岡・小倉・久留米は県下では都会であったため、巡査交番所が設置されました。地元の寄付金によって建設され、警察署に無償で貸与されました。小倉警察署の管轄では、大門町・旦過橋・原町に設置されました。

幕藩体制下では裁判権は藩主が握っていました。維新後もしばらくはそのままでした。1871(明治4)年7月司法省が設置され、民事・刑事裁判を管掌するようになりました。しかし、府県は大蔵省の管下にありました。県庁では聴訟課が司法・警察事務を所管していました。
1872(明治5)年4月江藤新平が司法卿に就任すると、司法事務の刷新を図り、司法権を行政権から独立させる司法の近代化を進めました。
1875(明治8)年、司法と行政の分離がなお不十分であったため大審院を創設し、司法行政の司法省と裁判所が区別されました。
福岡県聴訟課は福岡県裁判所に改組され、小倉には旧小倉県庁の建物内にその支庁が置かれました。
1876(明治9)年9月府県裁判所は地方裁判所になりました。地方裁判所は二府県以上管轄できるようになったため、福岡県は長崎裁判所の管轄下になり、福岡と小倉は長崎裁判所福岡支庁と小倉区裁判所になりました。
1880(明治13)年7月上等裁判所は控訴裁判所、地方裁判所は始審裁判所、区裁判所は治安裁判所に改められました。治安裁判所は従来警察署が取扱っていた違警罪の裁判を行うだけで、ほかの区裁判所が扱っていた裁判は始審裁判所に移管されました。このため、小倉の商工団体の豊前国商法会議所が主体になって小倉に始審裁判所を誘致する運動が起こされました。
1883(明治16)年1月2月福岡始審裁判所小倉支庁が開庁されました。1890(明治23)年11月小倉治安裁判所は小倉区裁判所、福岡始審裁判所小倉支庁は福岡地方裁判所小倉支部に改称されました。区裁判所は企救郡・遠賀郡、地方裁判所はこの二郡に田川・築上・京都郡を管轄しました。

1882(明治15)年7月の壬午軍乱と1884(明治17)年12月の甲申事変に、歩兵第14連隊は使節や公使館護衛のために朝鮮に派遣されました。これらの事変により朝鮮を巡る清国との間で対立が激化し、軍備の増強が始まりました。
1885(明治18)年小倉城内に歩兵第12旅団本部(のち司令部)が開設されました。第12旅団は歩兵第14連隊と翌年福岡で創設される歩兵第24連隊の指揮をすることになりました。
歩兵第14連隊の医療機関として小倉営所病院が城内三の丸開設され、1888(明治21)年小倉衛戍(えいじゅ)病院と改称しました。1899(明治32)年北方に移転し、小倉陸軍病院と呼ばれました。現在の国立小倉病院です。

1886(明治19)年陸軍省は全国の枢要の地に砲台を建築し、沿岸防備を厳しくすることにしました。当時西日本には、世界屈指の戦艦定遠・鎮遠を擁する清国北洋艦隊の脅威がありました。
特に関門地区防衛のため下関・門司地区に敵艦隊と砲撃戦を行う砲台と、砲台などの背面防御が目的で小口径砲を備えた堡塁が築かれました。
門司側は、手向山・笹尾山・矢筈山・古城山・和布刈砲台、富野・高蔵山堡塁が築かれ、対岸の下関側の砲台・堡塁と呼応して関門海峡防御に当たりました。
関門要塞には1890(明治23)年には第4要塞砲兵連隊が置かれ、各砲台に配属されました。
1895(明治28)年関門要塞は下関要塞と呼ばれるようになり、1899(明治32)年制定の要塞地帯法により下関要塞地帯と呼ばれました。この区域は1945(昭和20)年の終戦まで機密が保持されました。

 

1876(明治9)年の金禄公債証書発行条例により武士階級は完全に崩壊しました。生活窮乏による不満が募り士族の反乱は起きました。
士族達は自由民権を唱えて政治結社に参加する者もいましたが、県庁の役人や巡査などになりました。中には金禄公債を抵当に商売を始める者もいました。政府は士族の不満を抑えるため士族授産を奨励しました。
1880(明治13)年旧小倉藩士蔭山是也(これや)は県から授産資金15,000円を借入れ、資本金5万円で炭塊社(たんかいしゃ)を興しました。戸畑の中ノ島(現在の若戸大橋の下付近で、現在はない)に工場を建設し、フランス人技師の指導で炭塊(練炭)を製造しました。コークス製造まで拡げ、輸出を目指しましたが、資金不足と販路を見出せず挫折しました。
炭鉱経営に乗り出した松本潜(ひそむ)・安川敬一郎兄弟は福岡藩士徳永貞七の二・四男で松本・安川家を継いだ士族でした。玄洋社初代社長の平岡浩太郎も士族出の豊国炭鉱経営者でした。

1872(明治5)年10月、政府は国立銀行条例を公布し、本格的な銀行業務を開始させました。1876(明治9)年の金禄公債証書発行条例公布とともにこれを資本に銀行設立が許可されました。
福岡県では、1877(明治10)年11月福岡の第17国立銀行、翌年11月久留米の第61国立銀行、同12月豊前大橋の第87国立銀行、柳河の第96国立銀行が営業を開始しました。
後の銀行の統合整理で福岡の第17・柳河の第96は現在の福岡銀行に、久留米の第61は住友に、豊前大橋の第87は安田に移行しました。
流通経済の発展にともなって各地市街地に商法会議所が開設されました。1881(明治14)年2月豊前国商法会議所が小倉の石炭商中原嘉左右(かぞう)を会頭に開所されました。会議所の仕事は物産統計の作成や学識経験者を招いての研究会の開催でした。

1872(明治5年)10月我国初めて新橋-横浜間に汽車が走りました。1889(明治22)年12月博多-千歳川(筑後川の久留米の対岸)間に九州で初めて鉄道が開通しました。これは九州鉄道会社によるものでした。
1886(明治19)年2月着任した安場保和県令は九州鉄道民設許可を取り付け、1888(明治21)年8月九州鉄道会社が設立されました。初代社長は前農商務省商務局長高橋新吉で、仮本社を博多馬場新町に置きました。
北九州で最初は、同社により1891(明治24)年2月遠賀川−黒崎間が開通した時でした。同年4月黒崎−門司間が開通しました。門司まで開通すると、現在九州鉄道記念館になっている赤レンガの二階建ての建物が九州鉄道の本社となり、博多の仮本社から門司に移転しました。その裏に門司駅のホームがありました。黒崎−門司間は黒崎・小倉・大里・門司の4駅でした。

黒崎−小倉間は現在の鹿児島本線とは違い、海岸沿いでなく、内陸部を通り大蔵を経由するルートでした。戦時に敵の艦砲射撃を受けやすいという理由でした。八幡村に官営製鉄所が開所し、戸畑村では築港が行われ、海岸ルートの要望が高くなり、1902(明治35)年12月海岸ルートは開通します。
九州の二番目の鉄道として、筑豊の石炭輸送を目的に筑豊興業鉄道が1889(明治22)年8月設立されました。1891(明治24)年8月直方-若松間が開通しました。
豊州鉄道も出願して認可されますが、資金難のため発足が遅れました。

九州鉄道茶屋町橋梁

鉄道の開通は港湾の整備を促進しました。1889(明治22)年3月門司築港会社が設立されました。企救郡長津田維寧(これやす)に協力を要請し、福岡県が経営する予定でしたが、資金難のため民間に委ね、豊前6郡の有志が出願に名を連ねました。企救郡からは斉藤美知彦・青柳四郎・守永久吉・福江角太郎・植村治三郎が名を連ねました。大倉喜八郎・渋沢栄一・安田善次郎・浅野総一郎らに働きかけて資本参加を得ました。
福岡県庁勧業課で鉱業を担当していた石野寛平は坑業組合の結成につとめ、結成されると官を辞して組合総長に就き、筑豊の石炭産業の近代化につとめました。坑業組合総長を辞した後、若松の築港事業に専念します。1889(明治22)年若松築港会社を出願します。しかし、資金不足のため三菱に援助を乞い、1892(明治25)年開業し、石野寛平は社長に就きました。

政府は三池炭坑は官営にしましたが、筑豊は自由掘でした。1872(明治5)年、芦屋・若松の焚石会所が廃止され、石炭の水運の川ひらた(五平太舟)は自由化されました。翌年からは他県移出も認められました。筑豊では自由掘時代に入りました。
1880(明治13)年杉山徳三郎は目尾(しゃかのお)で竪坑掘削に着手し、翌年実用化しました。排水問題を解決し、巻上機の実用化、爆薬使用により石炭採掘の大規模化が進められました。
福岡県は小坑乱立とそれに伴う石炭乱売を一掃するため、1885(明治18)年坑業組合を設立しました。初代組合総長に石野寛平が就きました。
1888(明治21)年から翌年にかけて、撰定坑区制が実施されました。最小で19万坪、最大25万坪、総借地面積1500万坪で24坑区の選定が行われました。
この頃から地場石炭資本が確立され、一方では中央資本が筑豊に進出しました。
1888(明治21)年の払下げで、三池炭坑は4,555,000円で落札され、三井の経営に移りました。三池炭坑事務長には、それまで官営坑山に勤めていた団琢磨が迎えられました。後に団は三井合名会社の理事長になりますが、1933(昭和7)年血盟団事件で暗殺されます。

遠賀川を利用して石炭を運ぶ底の浅い舟を川ひらた、別名五平太船と呼びました。1889(明治22)年頃の最盛期には8,000隻を数えました。
坑業組合水運部は1886(明治19)年同業組合を組織させ、運賃協定・配船を担当しました。しかし、実際は個別交渉で、運賃の上昇を抑えることはできず、炭坑経営を圧迫しました。鉄道が開通し延長していくと、陸運と水運の比率は1894(明治27)年には半分になりました。大炭坑は鉄道に大きな発言力を持っていました。中小の炭坑は依然として川ひらたに依存していました。

北九州における近代工業の草分けは千寿製紙といわれています。東京日本橋の洋紙商三河屋の川上正助は組合を組織し、組合の製紙会社を計画し、旧徳島藩主蜂須賀家の賛助を得て、創立委員長小室信夫で会社設立を出願します。
工場を当初東京北千住に建設予定でしたので、千寿製紙の社名としました。しかし当初の場所の条件が悪く、将来性を考え、小倉の紫川河畔の中島に、1889(明治22)年工場建設に着工しました。1891(明治24)年開業しました。
日清戦争後工場増設の過大投資と技術的に難点があり、明治末には会社は解散し、大株主だった蜂須賀侯爵家が単独経営に乗り出しますが、1924(大正13)年王子製紙に合併されました。
北九州の本格的な機械製作工場は家入安によって創立されました。家入は工部大学機械科を卒業した技師で、長崎造船所・大阪鉄工所に勤務しました。
1889(明治22)年守永勝助らと家入鉄工場組合を組織し、1891(明治24)年門司小森江で開業しました。船舶と炭坑機械の製作・修理を行いました。
のち門司鉄工(株)と改称しました。家入は社長を追われ、後に退職し、会社も解散になりました。

エネルギー源として石炭の需要が拡大するにつれ筑豊の石炭が注目を浴び、中央資本も進出して来ました。この輸送のために北九州では鉄道と港湾の建設が行われて、近代産業が勃興する基盤が構築されました。
こうして北九州に産業開発だけでなく、商業・金融・運輸などの諸分野に大手資本は誘引されました。これに互して活躍した地元商業資本に守永・神崎グループがあります。
江戸幕末期、守永家は広島屋の屋号で、酒造・質屋・製塩事業を営んでいました。明治期、本家の守永久吉は呉服商、分家の守永勝助は酒造業を家業としました。
江戸幕末期、神崎家は神田屋の屋号で酒・醤油醸造業を営んでいました。明治期、本家の神崎徳蔵は呉服商、分家の神崎岩蔵が醤油醸造、神崎慶次郎が酒造業を家業としました。両家は家業の呉服・醸造業を発展させ、有価証券取引に進出しました。

両家は企業設立で出資したり、発起人になったり、企業を設立したり、各種団体の役員に就いたりして北九州の各分野で経済活動を行いました。両家はしだいに守永・神崎グループとして活動していくようになります。関与した事業を列挙します。
豊州鉄道・東筑炭田鉄道・長門鉄道・唐津鉄道・豊州電気鉄道・関門汽船
小倉築港・門司小森江海面埋立
門司石炭取引所・筑豊骸炭製造合資会社の開業・設立
第87国立銀行頭取守永勝助・支配人神崎岩蔵
北九州最初の私立銀行豊陽銀行を両家で設立
両家は独自に活動したり、他の地元資本や中央資本との協同活動を繰り広げ、北九州で指導的地位を占めました。そして後には小倉市政にも進出しました。しかし、1901(明治34)年の金融恐慌を契機に守永・神崎グループは衰退していきました。

 

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