明治時代3

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2.日清戦後の経営


明治時代3
1.日清戦争
 

明治の初めの征韓論以来、日本は朝鮮支配を念頭に、1875(明治8)年の江華島事件、1882(明治15)年の壬午軍乱、1884(明治17)年の甲申事変と軍隊を出動させました。そして、朝鮮の支配層の対立を利用し、その一方に加担して要求を実現しょうとしました。
朝鮮の支配層には、宗属関係にある清国に依頼しょうとする勢力と、親日派の対立があり、しだいにその対立は深刻化しました。1877(明治10)年の朝鮮の開国以来、日本商人の活動は活発になり、これに対する清国商人も進出して来ました。
軍事力を背景にして朝鮮に進出した日本と、宗主権を主張する清国は激しく対立しました。

1890(明治23)年の議会開設以来、日本国内では、自由党と改進党が中心になって民党勢力を形成し、民力休養・政費節減を掲げて藩閥政府を攻撃していました。
海軍増強の中心である建艦予算が、計画の杜撰さや海軍内部の腐敗により、議会で削減されました。1892(明治25)年8月の第2次伊藤博文内閣は、建艦予算実現を重要課題にしていました。
民党側の激しい攻撃に対抗するために、この内閣は藩閥政治家を網羅した元勲内閣として組織されました。しかしこの内閣での下での第4議会も紛糾し、建艦予算は1893(明治26)年の詔勅で実現しました。

この内閣は条約改正交渉をもう一つの重要課題にしていました。これも着手しょうとして、議会で激しい抵抗を受けました。
1892(明治25)年6月国民協会が結成されました。軍備充実・国権拡張・実業振興・民力育成を綱領に、当時の松方内閣の政策を支持しました。民党勢力に対しては、藩閥政府による超然主義の宣言に同調しました。
自由党が第4議会中に伊藤内閣に接近しました。この自由党の路線変更で、国民協会の路線と実質的には差異がないようになりました。国民協会は伊藤内閣に不信感を強め、反政府的な立場に立つようになりました。
政府批判の主題を、国権拡張に求め、伊藤内閣が着手しょうとした条約改正問題で、反政府運動を展開しました。これに同調したのが、立憲改進党でした。
改進党は民党として藩閥政府批判の立場に立ち、国民協会が主張する対外強硬論に同調しました。この動きに政府批判の諸勢力も巻き込まれました。1893(明治26)年国民協会急進派と大井憲太郎の東洋自由党などが連合して、条約改正案の内地雑居の条項に反対する対外硬派の大日本協会が結成されました。

1893(明治26)年7月外相陸奥宗光は条約改正案を閣議に提出しました。条約改正交渉に際し、外国人に内地雑居を認め、国内での商工業の自由を与えることが特に反対されました。
優勢な資本力の外国資本が、商工業や農業が未発達の日本に進入すれば、経済は混乱し、土地が収奪され、社会道徳や日常風俗まで外国人に乱されると対外硬派は主張しました。
その内容には、大日本協会の絶対反対から時期尚早まで多様な立場が含まれていました。
しかし、対外硬派が一致して主張するのは、現行の条約を厳密に適用すれば、外国人の経済活動は勿論日常生活も圧迫され、遂には困り、対等条約に応じざるを得なくなるだろうという現行条約励行論を主張しました。

1893(明治26)年11月28日第5議会は開会され、29日大日本協会の安部井磐根(あべいいわね)が議長星亨(ほしとおる)の不信任案を提出しました。農商務大臣後藤象二郎や次官が取引所創設に絡んで政商から供応を受け、星も収賄したというものでした。
自由党実力者の星は陸奥外相と提携し、自由党を民党から離脱させ、政府に接近させた中心人物とされ、党内にも反感を抱く者がいました。
不信任案は可決されましたが、星は辞任せず、衆議院は天皇に上奏しましたが、伊藤首相の画策で辞任させられず、遂に衆議院の除名処分で代議士の身分を剥奪しました。
反政府派は現行条約励行建議案を衆議院に提出しましたが、政府は議会を停会としました。
12月29日議会が再開され、陸奥外相は開国進取の方針は明治維新以来の国是であると演説し、翌30日衆議院は解散されました。大日本協会も解散を命じられました。

1892(明治25)年11月フランスで建造された軍艦千島が回航途中、瀬戸内海の愛媛県堀江沖でイギリスのP&O汽船会社のラベンナ号と衝突して沈没しました。
政府は横浜のイギリス領事館に提訴して、損害賠償を求めました。P&O汽船会社側は千島側に落度があったと申し立てました。それが退けられますと、会社側は上海のイギリス領事館に控訴しました。上海の控訴法廷で横浜の一審判決が破棄されました。
この事件はイギリスの枢密院に上告され、上海の控訴判決が破棄され、横浜領事裁判で再審議されることになりました。1895(明治28)年9月、和解が成立し、会社側が訴訟費用のほかに10万円を支払うことで解決されました。
反政府派の政府攻撃の材料にこの問題は取り上げられ、不平等条約の現実が訴えました。

第5議会の解散で、対外強硬論は沈静化することはありませんでした。公爵近衛篤麿ら貴族院の有志達は議会解散の不当を政府に忠告しました。新聞・雑誌の多くも政府批判をしました。
自由党では党批判のグループが離党し、民党主義を表に押し出さざるを得ませんでした。
1894(明治27)年3月1日総選挙が行われました。結果は、対外硬派の勝利にはなりませんでした。批判された自由党が議席を増やし、対外硬派の中心国民協会の議席は激減しました。
政府からの援助がありましたが、自由党の組織の基盤に、未だに民党主義の精神が失われなかったことが、その勝利にあげられます。
政府側と思われていた国民協会と民党主義を掲げてきた改進党などが連合した対外硬派は、自由党の選挙基盤を掘り崩すことはできませんでした。
第6議会の開会前に、対外硬派は組織の強化を必要としていました。
国民協会・改進党・中国進歩党・同志倶楽部・同盟倶楽部・旧大日本協会の対外硬6派に無所属の代表、谷干城ら貴族院の有志、新聞記者の代表を加えて対外硬派連合大懇親会が結成され、5月8日全国同志大懇親会が開催されました。
対外硬派を支持する新聞・雑誌記者が集まって5月13日全国同志新聞雑誌記者大懇親会が開かれました。

1894(明治27)年5月15日に開会されました第6議会は、終始混乱しました。
自由党は民党の建前上、第4議会で約束した行政整理と海軍改革が不十分だとして、政府の責任追及の上奏案を提出しました。5月31日上奏案が衆議院で修正可決され、天皇に提出されました。6月2日政府は衆議院を解散しました。

 

朝鮮では、開国以来日本商人が活躍していました。彼らは不平等条約での特権を持っていて、米・大豆・人参などの農産物を買占めたり、金地金を求めて内陸部に入って行きました。朝鮮人にはイギリス製の綿製品を売り込みました。
清国商人が中継貿易でしだいに日本商人を圧倒してきました。一方日本商人は粗悪な綿製品を持ち込みました。そのため朝鮮の在来綿織物業は没落し、綿作は衰退し、朝鮮の農村経済は混乱しました。
朝鮮の都市の商業資本にも日清両国商人が進出し、打撃を受けました。
1860(万延元)年崔済愚(チェ=ジェウ)が創始した東学が、こうした状況下で組織を拡大していました。西欧列強のアジア進出とともに朝鮮国内に浸透し始めたキリスト教が西学であるのに対して、東学が創始されました。
その教理は儒教や道教の考え方を基礎にして、封建秩序を否定し、人間平等を訴えました。1864(元治元)年教祖崔済愚は秩序を乱すものとして処刑されました。
崔時亨(チェ=シヒョン)が後継し、弾圧の中、秘密裏に布教活動は続けられました。

東学は農民・賎民、没落両班(ヤンバン)層の間で勢力を広げ、朝鮮南部で拡大していきました。
1992(明治25)年全州(ジョンジュ)に数千人の教徒が集まり、示威行動を起こしました。
翌1993(明治26)年首都漢城(ハンソン、現在のソウル)に潜入して国王に上訴するグループが現れました。また外国公使館や教会・住宅に張紙して、キリスト教布教を非難し、外国人の国外退去を要求する事件も起こりました。
この年4月崔時亨が呼びかけ、忠清道報恩(ボウン)で2万余人の集会がありました。西洋と日本を排斥するスローガンを掲げました。
1994(明治27)年2月全羅道古阜(コブ)郡で全ほう(王に奉)準(チョン=ポンジュン)が指導する民乱が起こりました。この蜂起を発端にした甲午農民戦争は、東学の指導で、東学以外の農民が参加した民衆反乱でした。
政府が弾圧したため、全ほう(王に奉)準は全羅道に潜伏しました。5月4日数千の農民が武装蜂起し、政府軍を打ち破りました。農民軍は民衆の支持を受け、5月末には全羅道の要衝全州を制圧しました。これに呼応して忠清道でも数千人の農民達が蜂起しました。

朝鮮政府は武力による鎮圧に失敗し、清国に出兵を要請しました。この内容の駐韓公使館からの電文を日本政府は受け、1994(明治27)年6月2日閣議に参謀総長らの統帥部首脳を参加させ、在外公館・在留邦人の保護の名目に派兵を決定しました。
清国を上回る6,000人の派兵で、日清開戦を予期したものでした。軍部は対清戦争を前提に軍備を整えていました。
陸軍は1890(明治23)年までには一応の編成・装備を整えていました。海軍は建艦計画が遅延していました。
参謀本部員は、朝鮮や清国で地勢や交通機関など作戦のための調査を行っていました。
6月5日大本営が設置され、広島の第5師団に動員令が出されました。9日清国軍は牙山(ヤーサン)湾に上陸しました。同日海軍陸戦隊に護衛されて、休暇で帰朝中の大鳥圭介公使(歩兵奉行であった旧幕臣)も仁川(インチョン)に着き、翌日ソウルに入りました。

1994(明治27)年6月12日日本軍の先遣隊が仁川に上陸しました。日清両国軍はソウル周辺で対峙しました。
東学の民乱は民乱側と朝鮮政府側の間で交渉が進み、政府が改革を約束したため全州和約が成立し、農民軍は全州から撤退しました。
日清両国は出兵の名目を失いました。それでも部隊が出港した後のため、増強され続けました。なんら成果もなく撤兵することに対し、日本国内では、政府への不満や非難が集中することが予想されました。
東学民乱が静穏化しても撤兵することは日本政府は考えず、この兵力を背景に利権を獲得しょうと考えました。日清両国軍が東学民乱を鎮圧し、その後に共同で朝鮮の内政改革を実現することを提案しました。
宗主権を主張してきた清国は、この提案を受け容れることはないだろうと政府は考えていました。
朝鮮の改革は朝鮮自身に任せるべきで、内乱平定後は両国軍隊は撤兵するべきだと、清国は日本の提案を拒否しました。
6月22日、日本と朝鮮との密接な関係から、朝鮮の安全と秩序の保障のため日本軍の撤兵は不可能だと通告しました。そして、日本が単独で朝鮮の内政改革に当たると宣言しました。

日清両国軍が対峙する状況になって、列国の調停工作が始まりました。特に影響を受ける英露両国が中心になって調停を行いました。
まずロシアが、朝鮮政府が日清両国軍の撤兵を要請していると、強硬に勧告しました。これに対し日本は、内乱は収まっていないし、日本には侵略の意図はない、平穏になれば撤兵すると約束して、勧告には従えないと回答しました。
日本の確約を一応了承して、ロシアは将来の発言権を保留して、調停工作を中止しました。
イギリスは中国に対して利害関係が列国の中で一番大きい国でした。日本との間では条約改正交渉が進行中でした。英露間では東アジアで対立が起きていました。この様な情勢下、日英間には敵対関係はありませんでした。
ロシアの朝鮮進出の可能性を考慮して、イギリスは日本軍は撤退するのが得策であるという立場で、日清両国の調停に乗り出しました。

日本政府は第三国の介入を排除して、日清二国間交渉にしょうとつとめました。
イギリスとの条約改正交渉は、日本側が譲歩し、1994(明治27)年7月16日日英通商航海条約が締結されました。これにより、日本の国際的地位が列国に承認されました。
朝鮮政府内の親日派は無力の状態でした。親清派の閔妃政権に対抗できる、国王の父大院君を担ぎ出すことを日本政府は策謀しました。
7月12日イギリスの調停は失敗しました。
大島公使は朝鮮政府に、清朝間の条約の破棄を迫り、ソウル・釜山(プサン)間の電話線敷設や日本公使館付属兵舎の設営などを要求し、7月22日まで回答するように通告しました。
これに対する回答が満足なものでないとして、強制的に承諾させた大院君を擁して、7月23日日本軍は王宮に入り、親日政権を組織しました。
この様な状況になった以上、列国の干渉を招く恐れがあり、急いで戦端を開く必要がありました。

 

1994(明治27)年7月25日豊島(ホンド)沖の兵員を乗せた輸送船を護衛していた清国軍艦2隻に対し、日本海軍は先制攻撃を行いました。陸上では、7月29日成歓(ソンファド)・牙山(ヤーサン)で日本軍は清国軍を破りました。
しかし、豊島沖海戦で沈没した輸送船がイギリス船であることが分かりました。第三国との間で問題が起きないように、宣戦布告し、第三国に局外中立の立場をとらせることが必要になってきました。
また作戦行動の展開に、糧食の確保や輸送の問題がありました。ソウル・釜山間や必要な道路の修築が必要で、人夫や糧秣の徴発が円滑に行われる必要がありました。
8月1日宣戦を布告しました。8月26日大日本国大朝鮮両国盟約を締結し、朝鮮政府に日本軍の軍事行動を援助するために、便宜を提供するように約束させました。
列国の干渉が始まらないように、早急に戦局を展開することが求められました。山県有朋が第1軍司令官として出発しました。
9月15日天皇は広島に着き、広島の第5師団司令部に大本営を置きました。
 

野津道貫(のづみちつら)の率いる第5師団は平壌(ピョンヤン)を目指して北上しました。ソウルから先発した混成旅団、釜山から北上する部隊、日本海側の元山(ウォンサン)から朝鮮半島を横断する部隊に分かれて進撃しました。
清国軍は平壌の城内とその周辺に1万数千人を配置していました。9月15日正面から混成旅団が攻撃しましたが、清国軍の抵抗にあい、1日目で糧食・弾薬が欠乏し、一時攻撃を中止しました。
元山・朔寧(サクニョン)支隊は平壌を迂回して包囲作戦を行い、側面からの攻撃が成功し、9月16日平壌城内に突入しました。清国軍は敗走して、平壌は陥落しました。 

9月17日伊東祐亨(すけゆき)中将率いる12隻の連合艦隊が、増援部隊を護送中の14隻の清国艦隊と黄海で遭遇しました。定遠(ディンユアン)・鎮遠(ジェンユアン)の巨艦を擁していましたが、清国艦隊は装備の改良の遅れ、弾薬不足で不利な戦闘になりました。黄海海戦の結果、黄海の制海権は日本側が掌握しました。

 10月24日陸軍大将大山巌が率いる第2軍が遼東半島花園河口に上陸しました。
第1軍は鴨緑江を渡り、九連城(チュウリエンチョン)を落とします。そこから、第5師団は鳳凰城から奉天(瀋陽シエンヤン)方向を目指します。第3師団は大東溝(ダアトンコウ)から大孤山(孤山グウシャン)・岫巌(岫岩シイウイエン)に進撃し、遼東半島を横断して海城(ハイチョン)方向を目指しました。
遼東半島での戦闘は、冬季のため兵士が凍傷にあったり、凍死する者さえ出ました。また清国軍の抵抗は激しく、戦線は伸び、苦戦を強いられました。第5師団は作戦を変更し、後方で兵站線の確保に努めました。
第2軍は上陸後、金州を落とし、海軍の支援を得て、大連(ダアリエン)・旅順(リュイシュン)を攻略しました。
旅順攻撃の際、先発の偵察隊が清国軍と遭遇し、戦死者を残し退却します。その戦死者の死体に陵辱が加えられたため、旅順占領時に市民・婦女子の区別なく殺害する事件がありました。
この事件は「ニューヨーク=ワールド」や「ロンドン=スタンダード」紙に報道されました。政府は対日感情の悪化を心配し、事実の否定に努めました。

日本軍は遼東半島の大半を制圧しました。1994(明治27)年11月第1軍司令官山県有朋は、奉天方面と山海関方面への攻撃を目指して、両方面の分岐点海城の占領を計画しました。
これに対し伊藤博文首相は、山海関の攻撃は清国政府の瓦解をもたらし、列国の干渉が予想されるとして、山東半島の威海衛(威海ウエイハイ)・台湾の攻撃を優先させるように大本営に進言しました。
強行策を主張する山県は病気を理由に解任され、帰国を命じられました。しかし、海城攻撃は第1軍第3師団によって強行されました。
海城は占領されますが、缸瓦寨(こうがさい、ガンワアジャイ)では激戦となります。第3師団はやっと缸瓦寨を占領しますが、追撃を中止し、海城に引き揚げました。第3師団は清国軍の攻撃受け、海城で籠城しました。この時の師団長は桂太郎でした。
翌1995(明治28)年2月増援された第2軍第1師団の一部とともに、第3師団は行動を開始しました。第5師団も参加して、3月上旬までに牛荘(ニュウチャン)・営口(インコウ)・田庄台(ディエンチャンタイ)を陥落させました。
田庄台の戦闘は、日清両軍とも2万の大軍が参加した最大規模の戦いでした。日本軍は田庄台市街に突入せず、周囲から火を放って、焼討ちにしました。

 

1894(明治27)年6月20日対外硬派の改進党・国民協会・立憲革新党・中立党の有志が東京に集まり、対韓同盟会を結成しました。
6月24日大井憲太郎・尾崎行雄・犬養毅・平岡浩太郎らが集まり、決議しました。
彼らの代表が伊藤首相や山県有朋枢密院議長を訪れて決議文を提出しました。
対外硬派は各地で懇親会や演説会を開き、朝鮮問題をテーマにしました。
対外硬派は自主外交から対朝鮮強硬論に論調を変えました。そして、対外硬派の藩閥政府批判は後退しました。
この時点で、世論は対外強硬論から日清開戦論に転化し、政府攻撃は挙国一致に変りました。
団体や様々の階層から出された従軍願、軍事費献金、義勇団の組織など記事が毎日の新聞の紙面をにぎわせました。

新聞は開戦とともに、豊島沖海戦、牙山や平壌の戦闘での日本軍の連戦連勝を報道しました。そして、武勇伝や戦争美談が紙面をにぎわしました。
10月第7議会が大本営がある広島で開かれました。臨時軍事費・関係諸法案が全会一致で可決されました。
挙国一致で国民各層を戦争に動員しました。しかし、清国や中国に対する敵愾心はそれらに対する優越感や蔑視に転化されていきました。
識者は清国をアジアの大国と認識していました。しかし、軍事的勝利によって、新聞・雑誌の論調は朝鮮・中国を野蛮な国と捉え、日本は文明国であるので、これらの国を指導するものであるというものでした。
国民の中国人に対する憎悪・蔑視は、自然に形成されたものでなく、新聞・雑誌の言論によって形成されました。

戦前の政府の予算規模は1億円位でした。臨時軍事費は2億2,500万円にのぼりました。1億円は公債募集しました。愛国心に訴えて、銀行や資産家から募集しました。地方官庁を通じて地方有力者に公債応募を督促しました。
公債募集は好調でしたが、金融市場の動きが低調になり、日本経済に悪影響を与えました。
軍需工廠に職工を引き抜かれ、工場では熟練職工が不足し、賃金が高騰しました。景気は後退し、中流以上の階層は買い控えをし、中流以下や下層社会の生活は深刻でした。
労務者の日当や職人の賃金は不況の影響を受けました。物価は高騰を続けました。

 

朝鮮派兵以降、日本政府は、朝鮮の内政改革を単独で実行するとして、日本軍を駐留させました。
日本政府が第一に着手した制度改革は、開化派の金弘集(キム=ヒュンジム)を中心とする軍国機務処を創設しました。
軍国機務処で、封建的身分制度の廃止や家族制度の改革を含む法令を可決し、発布しました。更に、封建的官僚制度の改革や財政改革などを打ち出しました。
こうした開化派による改革の推進は大院君派の反発を受け、改革の推進は困難になってきました。
朝鮮北部は戦場になり、南部は東学軍に占拠され、朝鮮政府の支配地域はソウルとその周辺に限られ、改革の効果も限られていました。
1894(明治27)年8月日本朝鮮暫定合同条款が締結されました。ソウル-釜山、ソウル-仁山間の鉄道・軍用電信の敷設、全羅道の開港場の取り決めなど日本政府の利権的な要求が含まれていました。更に内政改革を実施するため政務・法律の日本人顧問を日本政府が推薦するとしました。

平壌での戦闘の勝利を圧力に、日本政府は朝鮮政府内に指導権を確立するように、日本公使に従わない党派には強圧手段をとるように指示しました。
1894(明治27)年10月、外交手腕に批判があった大鳥圭介更迭し、井上馨内相を大物公使として任命しました。
井上は改革を推進するに当たって、障害になる大院君を政権から排除しました。そして政権を一元的に統轄するため、11月21日国王の親政とし、王室や政府機構の改革を網羅した内政改革要綱20ヶ条を容認させました。
更に、大院君の隠退の機会を狙って政権復帰を図ろうとする閔妃派を退かせ、朴泳孝(パク=ヨンヒョ)や徐光範(チェ=ファンファム)らの親日派を内閣に送り込みました。翌1895(明治28)年1月国王に14ヶ条の改革を宣言させました。

日清の開戦で国土が蹂躙される事態に、一時平穏を保っていた農民軍が再度武装蜂起しました。
1月中旬全ほう(王に奉)準率いる農民軍2万は、全州からソウルを目指して、公州(ゴンジュ)南方に集結し、19日攻撃を開始しました。しかし近代兵器の日本軍の前に後退を余儀なくされました。
12月4日から第二次攻撃を開始しました。激しい攻撃でしたが、遂には日本軍の優勢な火力の前に敗退しました。
この後も各地で農民軍は戦闘を行いますが、翌1895(明治28)年1月に組織的な抵抗は終わりました。
賞金がかけられた全ほう(王に奉)準は12月に捕らえられ、日本軍に引き渡されました。3月他の指導者とともに処刑されました。

慶尚・忠清・全羅道などは農民戦争で秩序が回復しておらず、平安・黄海道では日清両軍の戦場になり、租税収入は期待できない状態でした。この様な窮迫した財政で、改革を推進するのは不可能でした。
財政を立て直し、改革を推進するには500万円の調達が必要でした。初め日本の財界有力者達の引受で公債を募集する予定でしたが、朝鮮政府に対する信用がなく、失敗しました。
日本政府は臨時軍事費の中から300万円を支出し、朝鮮政府に貸し出すことにしました。3月末、借款条約は調印され、年利6分で、5ヵ年で償還するものとし、朝鮮政府が租税収入を抵当としました。

 

1894(明治27)年10月日清両国を調停しょうと、イギリスの外相は、日本への戦費賠償と列国が朝鮮の独立を保障することを条件に、共同干渉を行うことを提案しました。しかし、列国の同意が得られず、共同干渉は失敗しました。
この条件は日清両国政府に伝えられました。日本政府も講和問題を検討せざるを得なくなりました。
清国は打ち続く敗戦で、講和の機会を探って、11月にはアメリカに日本政府の意向の打診を依頼しました。日本も好機であるとして、清国側の全権委員の日本派遣を待って、講和は日清両国が直接交渉するという方針を通告しました。

1895(明治28)年1月下旬大本営で御前会議を開きました。朝鮮の清国からの独立、遼東半島・台湾の割譲、清国での列国と同等の特権の獲得、新開港場の設置の講和条件が決定されました。
連合艦隊との共同作戦で、大山巌が率いる第2軍が山東省栄城(ロンチョン)湾に上陸し、2月2日威海衛砲台を占領しました。連合艦隊は威海衛湾内の清国北洋艦隊を攻撃しました。
北洋水帥提督丁汝昌(ディン=ルウチャン)が連合艦隊司令長官伊東祐亨(ゆうすけ)に書を送り、全艦船と砲台・兵器を引き渡す代わりに、兵員の命を助け、帰郷させるように頼みました。それが容れられると、丁汝昌は責任を取って自殺しました。
この頃、清国講和使節張蔭桓(チャン=インホアン)が広島に到着しました。日本政府は全権委任状の不備を理由に拒否しました。使節が二流で主体的交渉能力がなく、講和条件だけを探られ、列国の干渉を招くことを日本は恐れました。
清国側も北洋艦隊が壊滅し、講和を結ぶ必要を感じ、実力者で、北洋大臣兼直隷総督李鴻章を全権大使に任命しました。

日本側全権には伊藤博文首相と陸奥宗光外相が任命され、日清講和会議は下関の春帆楼(しゅんぱんろう)で行われることになりました。
1895(明治28)年3月20日第1回会合が開かれました。清国側は、講和会議が開かれたので、休戦することを要求しました。これに対し、日本側は、到底清国側が受け容れられないような休戦条件を出しました。
休戦交渉は行き詰まっていました。3月24日第3回会合を終えて李鴻章一行が宿舎に帰る途中、自由党壮士小山六之助がピストルで李鴻章を狙撃し、重傷を負わせました。
この事件に衝撃を受けた政府は、遺憾の意を表明し、清国側の休戦要求を受け容れ、澎湖島・台湾方面での軍事行動を除いて、休戦することにしました。
李鴻章は快方に向かいました。4月に入って会議は再開されました。
日本側の講和条件が清国側に提示されました。清国側は、あまりに内容が過大で、到底受け容れられないと軽減を要求しました。
これに対し、日本側は、威圧的態度で会議に臨み、譲歩するのはわずかでした。

1895(明治28)年4月17日日清講和条約は調印されました。その内容は次のようなものでした。
清国は朝鮮の独立を認める。遼東半島・台湾・澎湖列島を割譲する。賠償金銀2億両(テール)支払う。
列国に認めている開市・開港場のほか、沙市(シャシ)・重慶(チョンチン)・蘇州(スウチョウ)・杭州(ハンチョウ)を開く。汽船の航行権を揚子江(長江チャンジイアン)は重慶まで、呉淞(ウースン)江は蘇州・杭州まで延長する。日本人の清国内の購買の自由、開市・開港場での製造業・機械輸入の自由を認める。
この講和内容は日本国内の世論の支持を取り付けました。

 

日清講和条約の調印の6日後の1895(明治28)年4月23日、ロシア・フランス・ドイツの駐日公使が相次いで外務省を訪れ、ほぼ同じような勧告を提出しました。
遼東半島が日本領になることは、清国の首都を脅かし、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和に障害になるので、遼東半島を清国に返還することを要求するというものでした。
遼東半島は朝鮮・満州、更に中国内地を将来支配するための重要拠点に位置付けられていました。
ロシアはシベリア鉄道を建設していました。遼東半島は将来ロシアが東洋に発展するのに重大な関係を持つ所でした。
ドイツは、露仏同盟締結によるヨーロッパにおける孤立状態を緩和するために、ロシアが極東問題に集中することは自国にとって得策と考えていました。
フランスは積極的ではありませんでしたが、露仏同盟の関係上同調しました。

日本政府は三国干渉に対して、イギリス・アメリカ・イタリアなどの諸外国に依頼して、三国干渉へ介入してもらおうと考えました。しかし、この政略に失敗し、5月5日三国の勧告を全面的に受諾することになりました。
この三国干渉は日本に大きな衝撃を与えました。
4月26日山県有朋陸相は旅順に向けて出発し、山県は強硬に再戦を主張する現地軍首脳を説得しました。
政党の反応は、自由党は三国干渉を痛恨事としながらも、政府の責任追求は示していません。対外硬派の中心国民協会は、臥薪嘗胆の必要を説き、国力の充実と軍備拡張を主張しました。改進党は激しく政府批判を行いました。
一般世論は沸騰しました。政府はこれに対し徹底的に弾圧して、新聞・雑誌は発行停止が続出しました。
国民の鬱積した無念の思いは、西欧列強の力に対する屈辱感になり、日清戦争後の軍備拡張を受容する素地になりました。
三国干渉後、朝鮮では金弘集が失脚し、日本政府の力で復帰していた朴泳孝は日本側から国王や閔妃に接近して権力を握ることになりました。
日本政府が狙っていた朝鮮支配は実現せず、ロシアの勢力が朝鮮政府内部に浸透していきました。

 

1.日清戦争↑|→2.日清戦後の経営

明治時代3

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