明治時代3

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明治時代3
2.日清戦後の経営
 

1895(明治28)年3月23日比志島義輝大佐率いる混成支隊は澎湖列島に上陸し、短時間に清国軍の組織的抵抗を排除し、すべて占領しました。
しかし、戦闘での被害よりも、コレラ・チフス・赤痢患者が続出し、大きな犠牲を払いました。
講和条約で清国が台湾の割譲を認めたことに、台湾島民は憤慨しました。
伊藤内閣は講和条約の批准が終わると、樺島資紀(すけのり)を総督に任命しました。清国側全権李経芳(リー=ジンファン)と折衝させ、6月2日に台湾の引渡手続が完了しました。

1895(明治28)年5月29日北白川宮能久(よしひさ)親王の率いる近衛師団は台湾三貂(サンディアオ)海岸から上陸しました。基隆(キールン)の敗戦を聞き、直前に割譲反対運動をしていた人達によって樹立された台湾民主国の大総統以下の要人は脱出しました。
この報せで、台北(タイペイ)の民主国軍は混乱し、6月7日日本軍は台北を占領し、17日には台湾総督府を開きました。
しかし、これ以降中南部の土豪や民衆による本格的抵抗が始まりました。台湾占領に5万の兵力が動員されました。これは当時の陸軍総兵力の1/3に当たりました。
10月21日に台南(タイナン)が落ち、組織的な抗日武装闘争は終わりました。日本軍の戦闘による死傷者より、マラリヤ・赤痢による戦病者や死者が多く出ました。北白川宮師団長もマラリヤで戦病死しました。

 

日本は三国干渉に直面しました。日本が単独で東洋の覇権を握ることは、東アジアに対して列国の利害関係があるため、困難なことでした。いずれかの国と同盟を結ぶ必要がありました。しかし、それには帝国主義列国と対峙できる国際的地位を得ることが必要でした。
独占資本の形成を条件にして成立する帝国主義への発展は、日本の資本主義の実態からは難しく、国家主導による帝国主義への転化の形態をとりました。軍備拡張と産業育成はそのために推進された施策でした。

1895(明治28)年4月山県有朋陸相は、陸軍は現状の7個師団を維持し、編制と装備を充実するとしました。しかし、この年9月参謀本部は攻勢防御ができる兵力として14個師団以上を提案しました。
海軍は、一国か他に一・二ヶ国を加えた連合国の派遣する海軍力に対抗する艦隊の整備を要請しました。
陸海軍の拡張費は、陸軍は8年間で約9千万円、海軍が10年間で約1億8千7百万円、これに軍事的意味が大きい製鉄所創設費約4百万円の合計2億8千万円になりました。その財源は清国からの賠償金で賄うことにしました。
産業育成策は、鉄道の敷設・改良、電信・電話・航海事業の拡張、日本勧業銀行・農工銀行の創設、治水事業、台湾経営が挙げられました。
以上の施策を含む明治29年度政府提出予算は約2億円で、日清戦争前に比べて倍増していました。
軍拡費を除いた予算の財源は、増税と公債募集で賄うことにしました。増税は地租軽減を要求している政党勢力に受け入れられないことが予想されたため、登録税を地方税から国税に編入し、営業税の新設、酒造税の増徴、葉煙草専売の実施でこれに充てることにしました。

第2次伊藤内閣は第9議会に予算案を提出しました。政府は政党の支持を取り付け、戦争中と同じに挙国一致体制で議会を乗り切ろうとしました。
開会直前に朝鮮の王妃殺害事件が起こり、国民協会を除く対外硬派は、政府に対し遼東半島返還とともにこの事件の責任を追及しました。
伊藤内閣は自由党との提携が必要になりました。この提携は、藩閥政府が掲げていた超然主義を修正するものであり、自由党にとっては民党からの脱皮でした。
これ以降藩閥官僚と政党勢力が提携して政権を担当するというのが常態になり、大正期の政党政治まで続きました。
この提携により、政府は第9議会を乗り切ることができました。議会終了後、1896(明治29)年4月自由党党首板垣退助が内務大臣として入閣しました。
この頃の伊藤内閣は、井上馨が駐韓公使に就任し、山県陸相が辞任し、松方蔵相は意見を異にして閣外に出ていました。更に、陸奥外相が病気で辞任し、松方蔵相の後任の渡辺国武蔵相が意見を異にして退任しました。
伊藤首相は内閣を改造し、松方を蔵相に、新党の進歩党の大隈重信を外相に起用しょうとしました。しかし、板垣内相が対立関係にあった大隈入閣に反対し、松方も入閣に同意せず、8月下旬伊藤内閣は総辞職しました。

進歩党は、伊藤内閣を攻撃していた改進党以下の対外硬派が提携して、1896(明治29)年3月1日結成しました。大隈重信が事実上の党首でした。諸派の連合のため党の一体性に欠けるところがありました。そのため、党幹部は大隈が薩派の松方正義と連携することを画策していました。
伊藤内閣の総辞職により松方と大隈が連携し、1896(明治29)年9月第2次松方内閣、いわゆる松隈(しょうわい)内閣ができました。
この内閣は薩派の藩閥官僚が中心で、進歩党は内閣の連帯責任や言論・集会・出版の自由を認めるように要求し、大隈は外相として入閣しました。
内閣成立直後、言論人で内閣書記官長に就任した高橋健三が関係する雑誌「二十六世紀」が宮内大臣と伊藤博文が結託していると問題にしたため、この雑誌とこれを転載した新聞「日本」を発行禁止にし、早速言論・出版の自由が破られましたが、進歩党側が譲歩しました。

第10議会では、貨幣法案が成立しました。従来日本は金銀複本位制を採ってきましたが、欧米列国並みの金本位制が確立しました。金本位制は経済界の反対で実現できませんでしたが、日清戦後、急激な企業勃興と軍備拡張で、金本位国から兵器や鉄鋼製品・機械類の輸入が増大することになり、金本位制の実施の条件がつくられました。そして、清国からの賠償金が金準備の問題を解決しました。
第10議会が閉会すると、大隈外相は農商務大臣も兼任し、1897(明治30)年4月には、進歩党幹部が外務・農商務省の次官・局長ポストに就任しました。また、進歩党や与党幹部が各県知事に任命されました。8月になると、各省に新設された勅任参事官に与党幹部が就任しました。これに対し官僚勢力は反発しました。
松方内閣は次年度明治31年度予算案編成で、財源難に直面していました。清国からの賠償金の使途は決まり、前年秋からの金融逼迫は長期化して公債募集による歳入不足の補填は不可能でした。そのため、地租増徴策を採ろうとしました。選挙基盤が地主階級の進歩党は、この増税案を受け容れることはできませんでした。
反発していた薩派官僚は、自由党や国民協会などの一部と新党結成を画策しました。
11月進歩党は政府との提携解消を宣言し、辞表を提出し、大隈も閣外に去りました。12月自由党との提携は失敗し、国民協会も内閣反対を表明しました。12月下旬衆議院を解散し、松方内閣は総辞職しました。

後継内閣首班に、3度目の元老伊藤博文が選ばれました。組閣に当たり伊藤は、政党は党利を追い、官僚には方針がなく、経済界は異常な企業勃興により資本不足で外資導入に依存するしかない、こうした状況では元老一致の支持が必要であるとの上表文を提出しました。
伊藤は挙国一致の内閣を考え、自由・進歩両党の板垣退助と大隈重信に提携を交渉しました。しかしいずれも、2・3の閣僚と内務大臣の椅子を要求し、交渉は不調に終わりました。
第3次伊藤内閣は形の上では超然内閣でしたが、農商務大臣の伊東巳代治の力で自由党との提携を維持することができました。
1898(明治31)年3月総選挙が終わると、自由党側から板垣入閣を要求しました。しかし伊藤首相はこれを拒否したため、提携は解消され、伊東農商務相も閣外に去りました。
総選挙後の特別議会に地租増徴法案が所得税や酒税の増税案とともに提出されました。各政党はこれに反発し、本会議で圧倒的多数で否決されました。政府は直ちに衆議院を解散しました。

 

地租改正が行われてから20年以上が経っていました。地租の基礎になる地価は経済変動により変っていましたし、地域差も出ていました。そのため地価を全国的に修正することが必要でした。
地価修正案が提出されれば、それには賛成してもいいという者も政党の中にはいましたが、政府はその声を聞かず、全面的に敗北しました。
しかし、地租増徴法案の実現以外には、国家財政を安定することは不可能でした。このため政府は何らかの方策が必要になりました。
伊藤首相は政府党の結成を考えました。その新政党の担い手を実業家に期待しました。しかし、その反応は期待はずれでした。
三菱の総帥で、日本銀行総裁の岩崎弥太郎は進歩党の大隈重信と親しい関係でした。渋沢栄一は趣旨は賛成であるが、第一銀行などの事業に影響があるとして、政党への参加は拒否しました。
この様に新政党に参加しょうとする者は少なく、藩閥勢力内部からも反対がありました。その中心は山県有朋でした。

伊藤博文、山県有朋はともに元勲・元老として藩閥官僚の頂点に立っていました。
ふたりは長州藩の下級武士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾に学び、幕末は木戸孝允・高杉晋作の下で活躍しました。
維新後は伊藤は開明派官僚として政治改革に尽力しました。山県は軍人として新しい軍隊をつくることに尽くしました。
木戸が病気で亡くなり、大久保利通が暗殺されますと、ふたりは藩閥政府の中心に立ちました。伊藤は憲法を制定し、立憲体制の整備につとめ、山県は軍備拡張や軍制改革につとめました。
議会開設後、伊藤は議会運営に当たり、政党との妥協も必要だと考えました。山県は、政党は徒党的なものと考え、これに対しては強圧姿勢で臨もうと考えました。
日清戦後、政治が藩閥政治家と政党の提携によって進めざるを得なくなると、ふたりの対応も違ってきました。
伊藤は政党と提携を行ったり、対立している政党指導者を政権に参加させ、挙国一致体制をつくろうとしました。
山県の周辺には軍部や官僚を中心にした勢力が集まり、宮内省や枢密院などの天皇周辺、貴族院・内務省・司法省などの保守的官僚を結集して、山県閥として隠然たる勢力を擁していました。
 

伊藤が政党結成に乗り出した頃、政党側にも変化が起こり出しました。平岡浩太郎は自由民権運動以来の旧友を集め、民党の大合同を説きました。これを機に有志が集まり、準備会がつくられ、一方では自由・進歩党の板垣退助と大隈重信を説得し、両党は解党しました。
1898(明治31)年6月22日新党が結成され、党名は憲政党とつけられました。
憲政党が総選挙では過半数以上を占めることは予想されました。そこで、伊藤は大隈と板垣に組閣させるしかないと提案し、天皇に奏上しました。
6月27日大隈と板垣に組閣の大命が下されました。陸・海軍大臣が選任できるかが問題でしたが、伊藤の斡旋で、桂太郎陸相と西郷従道(つぐみち)海相の留任の勅命が下されました。
大隈・板垣両人に組閣の大命が下されたことからこの内閣は隈板(わいはん)内閣と呼ばれまた。大隈が首相で、外相を兼務し、板垣は内相に就きました。陸・海軍大臣以外の閣僚は憲政党員で構成されたため、隈板内閣は我国最初の政党内閣になりました。 

1898(明治31)年8月10日の総選挙で、憲政党は圧倒的多数を占め、陸・海軍省を除いた各省の次官・局長、更に8府県の知事に憲政党幹部は就任しました。しかし、進歩党系の閣僚が多かったため、自由党系は不満でした。
この頃尾崎行雄文相の共和演説事件が起きました。金権政治を批判した演説の中で、たとえ話で共和政治になれば、三井・三菱は大統領の候補者になるであろうと述べました。
政党政治の出現に危機感を抱いていた官僚勢力は、宮中・枢密院・貴族院などに働きかけて倒閣のための攻撃目標にし、自由党系の星亨(ほしとおる)の率いる関東倶楽部は尾崎文相の処分を要求し、板垣内相さえも批判的発言をしました。
10月下旬天皇の不信任の意向が伝えられ、尾崎文相は辞任しました。後任問題で、進歩・自由両派の対立が表面化しました。
大隈首相は独断で進歩派の犬養毅(つよし)を推し、10月27日就任させました。翌28日板垣内相以下自由派大臣は辞表を提出し、自由派次官・局長らも辞任しました。
10月29日自由派だけで大会を開き、憲政党の党名や綱領をそのまま引継ぎました。10月31日大隈首相以下進歩派の閣僚も辞表を提出しました。11月3日進歩派は党名を憲政本党として大会を開きました。ここに政党内閣を実現した憲政党は4ヶ月で分裂しました。

 

日本に敗北した中国では、苛酷な講和条約を受け容れた西太后(せいたいごう、シイタイホウ)や李鴻章達は力を失っていきました。
日清戦争の戦費を清国はイギリス・ドイツ両国から借款していましたが、講和条約の賠償金と遼東半島返還に伴う支払いもロシア・イギリス・ドイツ三国からの借款に依存するしかありませんでした。
新興国日本に清国が敗れ、台湾を割譲したことから列強は争って中国分割競争に乗り出しました。
フランスは、清仏戦争で確保したベトナムの隣接地への進出を狙っていました。1895(明治28)年雲南・広西・広東省の鉱山開発の優先権を得て、ベトナム鉄道を清国内の鉄道と接続することを認めさせました。1897(明治30)年には海南(ハイナン)島の不割譲を約束させ、翌年には広州(クアンチョウ)湾の租借権を得て、広西・広東省の不割譲を認めさせました。
ロシアは1895(明治28)年上海に露清銀行を設立し、1896(明治29)年に東清鉄道の敷設権を得て、1898(明治31)年には旅順・大連の租借権を得ました。
ドイツは、1897(明治30)年にドイツ人宣教師が山東省内で殺害されると、膠州(ジアオチョウ)湾を占領し、翌年その租借権を得て、山東省内の鉄道敷設権と鉱山採掘権を得ました。
最初に中国に進出していたイギリスは、1898(明治31)年揚子江(長江)沿岸の各省の不割譲を約束させ、香港の対岸の九竜(チウロン)半島を租借し、山東半島東端の威海衛を租借しました。
日本は、1898(明治31)年台湾の対岸の福建省の不割譲を約束させました。

列強による中国分割は、中国各地で民衆の反侵略闘争を激化させました。
この様な危機的状況で、清国政府内では康有為(カン=ヨウウェイ)らの変法派が登場し、李鴻章らの洋務派の政策を批判しました。
彼らは、日本の明治維新の改革精神を見習い、人材登用、議会開設、民営企業の保護奨励などを要求し、洋務派官僚による企業や市場の独占に反対しました。
1898(明治31)年変法派は清朝内の皇帝派と提携し、光緒帝の変法下詔に成功しました。制度的改革を中心に、上からのブルジョア的改革を指向しました。
しかし、変法は西太后一派の反撃にあい、約100日で覆されました。康有為(カン=ヨウウェイ)や梁啓超(リャン=チイチャオ)らは一時日本に亡命しました。
この戊戌(ぼじゅつ)政変の頃、首相を辞任した伊藤博文は清国を訪れていました。列強に立ち遅れず、強力な国内体制を整備する必要を、伊藤は痛感しました。

小村・ウェーバー協定、山県・ロバノフ協定後、ロシアは朝鮮進出に積極的でした。1897(明治30)年海軍用地などの租借を韓国政府に要求し、韓国軍隊の指導をロシア士官らに、財政顧問をロシア人にしたり、露韓合同条約を締結して、日露間の協定は空文化しました。
この様なロシアの進出は韓国内で反発を招き、反露運動が起きました。このため、ロシアは朝鮮から後退を余儀なくされました。しかし、旅順・大連の租借によりロシアの中国進出の拠点ができました。
1898(明治31)年4月第3次伊藤内閣の西徳三郎外相と駐日公使ローゼンとの間の西・ローゼン協定が締結されました。日露両国は、韓国の内政に干渉せず、軍事・財政顧問の派遣は相互に協議し、ロシアは日本の韓国での商工業と居留民数の優越的地位を認めるというものでした。
これは、山県・ロバノフ協定よりロシア側の譲歩が見えますが、日本はロシアの旅順・大連の租借を黙認しました。

隈板内閣末期から、山県系官僚達は次期首班は山県だと思っていましたので、大隈内閣の崩壊とともに、清国に外遊中の伊藤博文の帰国を待たずに、第2次山県内閣は発足しました。
この内閣は山県系官僚で構成され、政党勢力には拒否反応を持っていました。
前の隈板内閣で自由・改進派は対立し、自由派は桂太郎陸相に近づきました。山県内閣で桂は留任していました。桂は自由派、分裂後の憲政党との工作を担当しました。山県内閣は憲政党の要求を受け容れ、提携は成立しました。
選挙基盤が地主階級にありましたので、憲政党は地租増徴をそのまま認めることは困難でした。政府は大幅に譲歩しました。更に、多数派工作を有利にするために議員歳費を増額しました。また宮内省からの巨額の金銭で、山県首相は議員を直接買収しました。
この頃帝国主義列強による制覇戦を展開しょうとする情勢に、政府はもとより政党も地租増徴を認めざるを得ない状況にありました。
この頃から憲政党はブルジョアジーや藩閥官僚を標的にする傾向をしめし、自由民権運動以来の民党から体制政党への転身を図ろうとしていました。

1898(明治31)年12月20日地租増徴法案は衆議院を通過しました。
これに先立って野党の立場に立つ憲政本党は地方の声を受け、山県内閣反対と政党内閣確立を宣言しました。中央では地租増徴反対同盟会が結成されました。谷干城が幹事長に就きました。
憲政本党は民党としての立場に立っていました。そこで、地租は地主に関わる問題で、貧しい一般小作人とは無縁で、地主階級は米価の高騰で大きな利益を収めていると地租増徴論者から反発されました。
こうして、日清戦後の負担をどの階層が担うかとの問題になっていき、地主階級とブルジョアジーの対立が表面化しました。
1898(明治31)年12月10日東京・大阪・京都の商業会議所が貴族院議長に地租増徴を請願し、15日帝国ホテルに代表的ブルジョアジーが集まり、地租増徴期成同盟を結成し、渋沢栄一が会長に、大倉喜八郎らが幹事に就きました。

台湾占領後も、山岳地帯で抗日武装闘争は続けられ、台湾総督府は守備隊と警察による掃討と投降の呼びかけを行いました。
日本は台湾の領有により、初めて植民地支配を経験することになりました。
台湾総督は陸海軍の大・中将が任命され、軍政中心の行政が行われました。治安確保のため、10戸を1甲、10甲を1保とする保甲制度に現地住民を編入しました。1898(明治31)年から土地調査事業を行い、地租の増徴を図りました。更にアヘン・樟脳(しょうのう)・塩の専売で財政基礎の確立を図りました。
1899(明治32)年縦貫鉄道の建設が始まりました。三井物産が台北に進出して砂糖の独占的買付に乗り出し、1900(明治33)年台湾精糖株式会社が創立されました。政府の利子補給を受け、発展していきました。
台湾には糖業以外近代的工業は興らず、米をはじめとする農業、林業、鉱業などの原料供給地とされました。
総督府の官吏と内地からの商人らが結託して暴利をむさぼる腐敗が横行しました。
そして統治の最初より、現地住民に対し、教育勅語と日本語教育が強制された皇民化政策が採られました。

 

三国干渉によって後退した朝鮮政府への影響力を挽回することが大きな課題でした。
井上馨公使は政府に建策して、朝鮮に貸与していた300万円の借款は条件を緩和する、鉄道・電信線は朝鮮政府に有利な方策を採る、日本軍によるソウル守備は朝鮮政府からの正式な以来を取り付けることにしました。
しかし、朝鮮王室のロシアへの接近は一層強まりました。そして、親日派の朴泳孝が政府から排除され、日本に亡命しました。
井上公使は、国王や王妃の対日感情を良くするために、清国からの賠償金のうち300万円程度を王室に寄贈して歓心を買おうとしましたが、たいした効果もなく、公使を辞任しました。
後任に長州藩出身の退役軍人の三浦梧楼(ごろう)が就任しました。朝鮮王室は日本軍人が指導していた訓練隊を解散し、アメリカ人教官が育成していた侍衛隊に変えました。日本の影響は決定的に後退しました。

1895(明治28)年10月8日三浦公使は大院君を擁してクーデターを強行しました。日本の守備隊による大院君を利用しての政変は、甲申事変、日清開戦直前に続いて3度目でした。
三浦公使、宮内府と軍部顧問の岡本柳之助、公使館書記官の杉村濬(ふかし)、公使館付武官・軍部顧問の楠瀬幸彦中佐らが密議して計画を練りました。これに、漢城新報社長の安達謙蔵周辺の新聞社員・壮士、公使館付巡査が加わりました。
10月7日夜半、岡本が大院君を説得しました。余り乗り気でない大院君を日本守備隊と領事館巡査が囲み、解散させられた訓練隊がその前面で、王宮に向かいました。壮士達は既に王宮に乗り込み、日本守備隊は王宮警備の侍衛隊を撃退して、彼らは王宮の奥深くに侵入しました。
閔妃や宮内大臣を惨殺し、閔妃の死体を庭に引き出し、油をかけて焼きました。

王妃虐殺事件は大きな波紋を呼びました。事件も目撃者にロシア人電気技師と侍衛隊のアメリカ人教官がいたため、米露両国公使をはじめ各国公使は三浦公使を問い詰めました。
事件に日本政府も驚きました。放置することができず、外務省政務局長小村寿太郎をソウルに派遣し、真相の究明に努めました。
政府は三浦公使を解任し、事件関係者47人を朝鮮から退去させました。対外的に、政府は関係者を不問にする訳にはいかず、広島で裁判にかけました。
楠瀬中佐や日本守備隊長馬屋原少佐ら軍関係者も広島第5師団の軍法会議にかけられました。
翌1896(明治29)年1月全員証拠不十分で無罪とされました。

日本政府は後任公使に小村寿太郎を任命し、井上馨を特派大使で派遣しました。日本の朝鮮政策は更に後退しました。クーデター参加の訓練隊は解散され、朝鮮側関係者も処分されました。
クーデターによって成立した親日の金弘集政権の政策は後退しましたが、幾つかの開化政策を断行しました。1895(明治28)年11月の断髪令は民衆の反発を買い、反日感情が爆発しました。
12月になると、東学農民軍や一般民衆による反日義兵闘争が各地に展開され、親日派の地方官吏が多数処断され、日本人も襲われました。
翌1896(明治29)年1月朝鮮は国号を大韓と改め、国王を皇帝としました。
2月王宮を護衛する親衛隊が義兵闘争を鎮圧するため地方に出動すると、2月11日皇帝は仁川に停泊していたロシア軍艦に出動を依頼し、ロシア公使館に移りました。
親露内閣が成立し、金弘集ら親日派大臣は殺害、または処刑されました。これ以降、朝鮮に於いて日本はロシアと妥協と協調よってしか政策を推進することはできなくなりました。
5月の小村公使とウエーバーロシア公使との間の小村・ウエーバー協定、6月のロシア皇帝戴冠式の特派大使の山県有朋とロバノフ外相との間の山県・ロバノフ協定でも、韓国内での両国の権利は対等の立場で締結されました。

 

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