明治時代3

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明治時代3
4.日英同盟
 

日清戦後、列強による中国分割競争が本格化すると、日本も仲間入りしなければならないと、支配層は焦燥感をかきたてられました。地租増徴を実現しょうとして藩閥内閣が相次いで倒れ、政党内閣が出現するに及んで、その危機感は一層強くなりました。
こうした状況下で藩閥官僚内部では、山県系官僚を中心に政党勢力の伸張に対抗して官僚機構を強化しょうとする方向と、伊藤博文らによる政党改造で支配体制を安定強化しょうとする方向がありました。
1899(明治32)年3月山県内閣は文官任用令を改正し、各省の次官・主要局長、府県知事など勅任官の任用も一定の試験に合格した者の中から採用するようにしました。
さらに、文官分限令・文官懲罰令で政党幹部が高級官僚に就任できる条件を制限し、政党の利害によって一般官吏を自由に免官や懲戒処分にすることを防止しょうとしました。
翌1900(明治33)年5月山県内閣は陸海軍省の官制を改正し、陸海軍大臣は現役の大将・中将に限定することにしました。これらは従来慣行で行われていましたが、明文化することによって内閣から独立させる体制を確立しました。

選挙権拡大の提案は議会に提出されましたが、日清戦争前は大勢を占めるに到りませんでした。日清戦後、衆議院では可決されながら、貴族院での阻止にあっていました。
第3次伊藤内閣は選挙法改正案を第12議会に提出しました。地主議会といわれた衆議院を商工業者に門戸を開きたいとの政府の意図がありました。しかし、衆議院が解散になったため、同じ政府案が第2次山県内閣の手で第13議会に提出されました。この時は、衆議院が大幅に修正して後退させたため、原案を支持する貴族院と対立し、成立しませんでした。
院外では、一方では進歩的知識人や労働運動指導者によって普通選挙運動は推進され、他方では地租増徴期成同盟に結集した商工業者達は、1899(明治32)年1月衆議院議員選挙法改正期成同盟会を結成し、渋沢栄一が会長に就きました。
第14議会が迫ると、全国商業会議所連合会が市の独立選挙区と市部選出議員を多数出せるような法改正を実現しょうと、大臣・枢密顧問官・両院議員・新聞社に働きかけました。

山県内閣は第14議会に再び選挙法改正案を提出しました。衆議院では議論が噴出し、政府が意図した商工業者に有利な選挙資格は認められませんでした。貴族院に送付されると、更に後退しました。
両院協議会で改正案は次のようにまとまりました。単記無記名、選挙人は直接国税10円以上を納付する25歳以上の男子、被選挙人は30歳以上の男子、1府県1選挙区の大選挙区を原則に、郡市とも人口13万につき議員1人を選出する、ただし人口3万人以上の市を独立選挙区とする。
これによって、議員定数は369人(のち市の独立区が認められ7人増加)となり、有権者数は98万余人になり、2倍弱の増になりました。しかし、国民全体からは2.2%にすぎませんでした。市部選出議員は17から61人に増えました。地主議会から商工業者や自作農にも門戸は開かれました。

14議会では治安警察法も成立しました。日清戦争直後の第9議会で制定された同名の治安警察法は政党の反政府活動を弾圧する目的でしたが、今回は社会運動の台頭に対応しょうとするものでした。
結社・集会・街頭行進・示威運動は事前に警察に届けることが必要で、軍人・警官・神官・僧侶・教員・学生の政治結社加入を禁止しました。そして女子・未成年者は、その上に政治的集会に出席することも禁止されました。警官は集会に臨監することが認められ、警官が秩序保持の必要があれば、集会・街頭行進・示威運動を解散することができました。またこの法律では、労働者や小作人の団結や争議行動を禁止しました。

憲政党は山県内閣の与党として第13・14議会を終えました。第14議会終了後に開始した政権参加の交渉に失敗しました。1900(明治33)年5月末、山県首相との最終交渉が不調終わり、政府との提携を断念し、党幹部は伊藤博文を訪れ、憲政党総裁への就任を要請しました。
伊藤は、列強による中国分割競争に日本が参加するためには、挙国一致の政治体制を構築することが必要だと考えていました。伊藤とその側近は政党結成に乗り出しました。盟友の井上馨が実業家工作を担当しました。
1900(明治33)年8月25日創立委員会が発足しました。創立委員には伊藤系官僚と憲政党幹部が中心で、憲政本党を離党した尾崎行雄もいました。党の名称は立憲政友会としました。
9月15日立憲政友会は結成されました。ここに藩閥政治家の伊藤博文が政党総裁に就任し、衆議院の過半数を占める政党が出現しました。

 

日清戦争の巨額な賠償金の支払いは、増税で中国の民衆から取り立てられました。中国分割により中国社会には資本主義の影響が及びました。海運の洋式化や鉄道敷設により、今までの運輸・交通手段で生活していた多くの者が失業しました。外国商品が流入し、小さな市場圏は崩壊し、伝統的な手工業者は職を失いました。
華北では、黄河の決壊が毎年のように起こり、旱魃が重なって、中貧農は土地を失い、半農奴的な労働者は流民化していました。
日清戦争終末の1895年春頃、華北各地で日本軍侵略に備えて武装自衛の動きがありました。また、宗教的秘密結社大刀会(ダアタオホイ)などの結社が結成され、地主・富豪に対し打ちこわしが行われました。
翌1896年大刀会は教会や洋式学校を焼打ちにし、教徒の殺害や店舗の略奪が行われました。この大刀会から義和拳が出てきました。これは護身術の拳の修行を行う宗教的秘密結社でした。

1897年11月山東省でドイツ人神父が殺害される事件が起こりました。ドイツはこの事件を利用して、1898年賠償金の支払いの上に、膠州湾の租借と鉄道などの利権を獲得しました。
義和拳も山東省で勢力を拡大していきました。派遣された政府軍も打ち破られました。山東巡撫は鎮圧を改め、義和拳を編制しなおし、政府の統制下に置こうとしました。義和拳の一部は義和団と称して反帝国主義のスローガンを掲げました。
この方策は列強の反発を買いました。政府はこの山東巡撫を更迭し、袁世凱(えんせいがい、ユアン=シーカイ)を山東巡撫に新任し、弾圧策に戻りました。
1900年に入ると、義和団は山東省北西部から河北省に活動の舞台を移し、5月には盧溝橋―保定間の鉄道を破壊しました。
この頃、義和団は農村は勿論都市の広範な民衆を結集しました。反帝国主義をスローガンに西洋人・日本人や腐敗した官僚を襲いました。
1900年5月下旬義和団は北京に殺到し、6月上旬には天津を占領し、華北一帯を制圧しました。

1900年5月下旬になると、北京駐在の各国公使団は義和団鎮圧を清国政府に要請し、大沽(タークー)沖に停泊中の各国軍艦に兵の派遣を求めました。
5月31日各国の士官・水兵423名が北京に入りました。6月3日イギリスの宣教師が殺害され、北京―天津間の鉄道の停車場が焼打ちちされ、不通になりました。
孤立状態になった北京に、各国公使館員と居留民は公使館内に籠城し、義勇隊を編成しました。
6月10日イギリスのシーモア海軍中将が率いる日・英・米・独・露・仏・伊・オーストリアの8ヶ国の陸戦隊約2千名が天津を出発しました。しかし、義和団に阻止され、前進できない状態になりました。
北京では義和団の勢力が圧倒的になり、籠城している者達は公使館区域外には出られなくなりました。教会堂や教徒の住宅は焼き払われ、教徒は殺害されました。
6月20日代表して交渉に出かけたドイツ公使が殺害されました。西太后や守旧派官僚は義和団を利用して列強の支配を排除しょうと考えました。6月21日8ヶ国に対し、清国皇帝は宣戦を布告しました。
公使館区域には800名の外国人が籠城していました。これに中国人のキリスト教徒3千余名が保護を求めて来て、ともに義勇兵として義和団と戦いました。籠城が長期化すると、死傷者が増え、弾薬・食糧・薬品が残り少なくなっていきました。

北京の列国の主導権は英・米・独・仏の四国公使会議にありました。日本は6月15日閣議で派兵を決めましたが、これら諸国の動きを見極めるため、歩兵2大隊の少数兵力を派遣することにしました。
欧米列強にはそれぞれ思惑があったり、直ちに大軍を派遣できない事情がありました。イギリスはボーア戦争で大軍を釘付けにされていました。アメリカはフィリピンのアギナルドの独立運動弾圧に精一杯でした。フランスはベトナムから派兵になります。ドイツは膠州湾駐屯兵以外は本国からの派兵が必要でした。ロシアは満州への派兵は積極的でしたが、北京進撃は消極的でした。
こうした状況の中で、日本は単独で大軍を派遣するのは賢明でないと判断していました。色々な交渉がありました。イギリスの派兵の勧めに対して日本は、財政上巨額の軍事費支出は不可能であると答え、イギリスは100万ポンドを提供すると申し出ました。日本の派兵に難色を示していたロシアやドイツからイギリスは了解を取り付けました。
情勢の緊迫化は、日本が地理的にもっとも近いことを列強が理解し、その結果、日本は本格的に派兵しました。

日本軍が天津に到着すると、連合軍は北京を目指して進軍を始めました。日本軍は連合軍の兵力の4割を占めていました。日本軍は義和団事件(北清事変)鎮圧の先頭に立って行動しました。
1900年8月15日連合軍は北京を占領しました。清国皇帝や西太后は山西省に脱出しました。講和条件を協議する各国公使会議が10月以降北京で開かれましたが、意見の調整はできませんでした。
ようやく1901年9月北京議定書(辛丑しんちゅう条約)が締結されました。事件元凶の処罰、4億5千万両(テール)の賠償金の支払い、大沽砲台の撤去、北京公使館区域と北京―海港間の列国軍隊の駐兵権が決められました。

1900年8月24日廈門(アモイ)の東本願寺別院が焼打ちにあったとして軍艦和泉から陸戦隊が上陸し、翌日には高千穂からも増派されました。28日には台湾軍2個中隊が先発し、後続部隊も出港の準備がされていた矢先、桂太郎陸相から派兵中止の電報が入り、先発部隊も途中から引き返しました。
東本願寺別院の焼打ちは、日本人により計画的に仕組まれたものであったことがイギリス領事から在日公使に報告され、イギリス公使からの抗議により、政府は派兵を中止しました。
出兵の準備は事件前より行われていました。台湾総督府民政長官後藤新平が事件直後廈門に乗り込み、陣頭指揮を取りました。後藤が台湾総督児玉源太郎と共謀して、事件の舞台回しを勤めたといわれています。
政府が義和団事件を利用して、華南特に福建省・浙江省を日本の勢力範囲に確保したいと考えていました。当時の政党勢力や実業家層も同じように考えていました。三井は1900(明治33)年福建省・浙江省で鉄道敷設の調査を行っていました。
廈門出兵は支配層の様々な関心を背景に実行されましたが、列国の抗議で中止せざるを得ませんでした。義和団事件を利用しての日本単独の大陸進出は失敗に終わりました。

義和団事件鎮圧には列強は共同行動を取りましたが、各国の関心はそれぞれ異なっていました。
ロシアの満州占領は続けられました。これに対し、政府内には青木周蔵外相のように、朝鮮政策を積極化して対抗するような意見が出てきました。
民間では国権派グループにより1900(明治33)年9月国民同盟会が結成されました。「支邦を保全し朝鮮を擁護する」をスローガンに国論の統一を目的にしました。
会の参加者には貴族院議長近衛篤麿(あつまろ)を中心とする東亜同文会の関係者が多くいました。
国民同盟会に関与した政党は憲政本党と、前年に国民協会を改組した帝国党でした。9月に立憲政友会が結成されましたので、これに対抗する反政友派が大同団結しました。
この他には、貴族院内の三浦梧楼(ごろう)や鳥尾小弥太などの国権派華族グループ、同じ考えの戸水寛人(とみずひろんど)ら帝国大学教授や玄洋社の人達も同調しました。
国民同盟会はロシアの満州進出に対応して活動を続けました。
憲政本党は党勢が沈滞していました。更に伊藤博文による新党結成の動きに党内は動揺していました。国民同盟会の結成により、憲政本党は対外問題を前面に掲げて党勢挽回を図ろうとしました。

義和団事件鎮圧の日本軍の慰問に訪れた奥村五百子(いおこ)は戦死・戦傷の惨状を見聞しました。奥村は翌1901(明治34)年2月に愛国婦人会を結成しました。
東伏見宮・近衛篤麿や、彼女が肥前唐津の東本願寺末寺の生まれであったので、旧藩主の小笠原長生などの支援を受け、発起人には公爵夫人一条悦子はじめ華族夫人、鳩山春子・下田歌子の有名夫人が名を連ねました。
全国に会員を拡張しました。内務省を通じて各府県知事に、陸軍大臣を通じて各将官・師団長に勧誘が行われました。2年後には会員2万6千人を数えました。
同じく1901(明治34)年2月内田良平らが黒竜会を結成しました。内田は福岡県出身で、早くから対外問題に関心を持っていました。
日清戦争直前に渡韓して東学党と接触し、日清開戦を画策しました。戦後はシベリアを横断してロシア情勢を探索したり、ロシアの極東進出に対抗して暗躍していました。
他方日本亡命中の孫文(スン=ウェン)と接触し、1899(明治32)年宮崎滔天とアギナルドのフィリピン独立運動を支援し、1900(明治33)年孫文の恵州挙兵を支持ました。
黒竜会結成はロシアが満州を占領し続けている情勢に対応したものでした。

 

1900(明治33)年9月伊藤博文が立憲政友会を組織すると、10月山県内閣は総辞職し、伊藤を後継首班に推しました。第4次伊藤内閣は、陸海軍大臣、外務大臣を除いて政友会員で構成しました。
山県系官僚は当初からこの内閣に反発していました。
星亨(とおる)は逓信大臣として入閣しましたが、星が牛耳っていた東京市会の汚職事件が発覚すると、星も関連していると糾弾されました。貴族院内の山県系官僚は反政友派を結集し、星の追い落としを図りました。議会開会前に星は辞任しました。
第15議会が開かれると、伊藤内閣は義和団事件で支出した軍事費を補填するため、1901(明治34)年1月酒税・砂糖税の増税法案を提出しました。衆議院は政友会が多数で、憲政本党も対外強硬であったため軍事費支出に賛成せざるを得なく、予算案は衆議院を通過しました。
増税案が貴族院に回付されると、委員会はこれを否決しました。内閣と貴族院との対立には、前年以来の恐慌の進展に対する税制政策の違いがありました。
藩閥官僚は増税による財源は軍事費のみに使おうと考え、政友会はその一部を党勢拡張のために関連する諸事業にも利用したいと考えていました。
政友会内に貴族院改革論議が高まりましたが、華族や藩閥官僚の特権を制限することは天皇制の根幹に触れることのため、実現はしませんでした。
伊藤は天皇の詔勅を奏請し、その後、両院協議会が開かれ、増税問題は解決しました。

第15議会も終了した1901(明治34)年4月不況下にあった財界から緊縮財政の要望が強くなりました。渡辺国武蔵相は明治34年度予算の執行方針として、公債支弁に政府事業を全面中止するという案を閣議に提出しました。
政友会出身の大臣達は一斉に反対しましたが、事業の繰り延べとの妥協案で解決しました。
4月15日の閣議に渡辺蔵相は明治36年度以降の予算編成の方針を提出しました。それによりますと、新事業は起こさず、公債募集も行わない、繰り延べた事業も37年度まで繰り延べるという緊縮財政の方針でした。
政友会出身の大臣は反対し、再び閣議は紛糾しました。逓信相に就任していた原敬は反対派の急先鋒でした。
渡辺蔵相排斥運動が起こりました。伊藤首相はこの混乱を収拾するため、渡辺蔵相を罷免し、井上馨を就かせることを考えました。
しかし、渡辺の兄が宮内省の要職にあり、蔵相就任に際しても宮中との関係があったといわれています。このため蔵相更迭を断行できず、伊藤は閣僚に相談することなく、単独で辞表を提出し、第4次伊藤内閣は崩壊しました。
これ以降貴族院は政党勢力の伸張に対抗し、民主的改革には反対するという姿をとるようになりました。
第15議会で、野党の憲政本党は増税案に賛成しました。そのため、今までの非増租運動を展開した民党のイメージはなくなり、党は分裂しました。

伊藤内閣総辞職の後、元老会議が開かれました。山県有朋や松方正義は後継首班を引き受けようとはしませんでした。
井上馨に白羽の矢が立てられました。陸相に桂太郎、蔵相に渋沢栄一、その他にも候補を考えていましたが、それぞれ断られ、井上は組閣を断念しました。
この様に元老から首相候補が出せない中、長州藩閥の桂太郎が推薦されました。
1901(明治34)年6月2日桂内閣が成立しました。閣僚はほとんど山県系官僚でした。
政友会の出現で元老達は政権担当に自信を失ない、維新の元勲でない次期世代の桂太郎が首相に就きました。

 

1900(明治33)年10月英独間で中国の河川・港を各国に開放し、両国は中国の領土保全を確約しあうという揚子江協定を締結しました。これは前年のアメリカ国務長官ジョン=ヘイの門戸開放・機会均等などの宣言を継承するものでした。しかし、直接的にはロシアの満州進出を牽制するものでした。
単独での中国進出が難しい日本は積極的にこの協定に加入することにしました。
1901(明治34)年1月ロシアは日本対し韓国中立化案を提案してきました。伊藤内閣の加藤高明外相はロシアの満州占領問題を切り離して、朝鮮問題だけを交渉することはできないと拒否しました。
前年ロシアの関東州総督と清国盛京将軍との間で旅順協定が締結されました。これはロシアが盛京省の軍事・行政権に介入し、南満州を事実上保護領化するものでした。
これを知った加藤外相は英独に共同抗議の打診をしましたが、積極的な反応はありませんでした。この後、ロシアと清国間で密約の交渉が行われていることを知った加藤外相は再び共同抗議を試みましたが、成功せずに1901(明治34)年3月日本は単独でロシアに抗議しました。日本の強硬な抗議を受け、国際問題になることを恐れて4月ロシアは交渉を中止しました。
一時的に譲歩をしましたが、ロシアは依然と満州に軍隊を駐留させていました。ロシアのこれ以上の進出を阻止するには、日本が根本的な対策を講じる必要がありました。この折に林董(ただす)駐英公使から日英独三国同盟の動きがあることを知らせてきました。

井上馨らは、ロシアの韓国中立化案によるロシアの対日接近に呼応して、日露協商を実現しょうと考えました。
桂太郎に政権交代した伊藤博文がアメリカに外遊する機会に、足を伸ばしてロシアと日露協商の話を始めることを、井上は伊藤を説得しました。
1901(明治34)年9月伊藤は日本を出発しました。アメリカを経て11月パリに到着しました。
この頃、ロンドンで日英同盟の交渉がかなり進捗し、桂内閣は日ロ交渉に着手することに消極的になっていました。
12月ペテルスブルグで、伊藤はロシア外相と交渉を開始しました。しかし、日本政府は既に日英同盟締結の方針を固めていました。ここに伊藤・井上らによる日露協商交渉は挫折しました。

駐英ドイツ公使が林公使に個人的意見の形で三国同盟案をしめし、この案でイギリスに働きかけることを勧めました。三国同盟案に山県有朋は同調しました。
1901(明治34)年6月までイギリスの反応は明確ではありませんでした。8月初め桂は伊藤と会見し、また他に元老とも会談して日英交渉の開始の了解を求めました。
日本は朝鮮に対する他国の侵略を防ぎ、満州のおけるロシアの権益はこれ以上は認めない、清国の門戸開放と領土保全を堅持することを交渉の基本方針としました。
イギリスは、ロシアの海軍力増強で海軍力の優勢が脅かされ、露仏の建艦計画の進行で劣勢に陥ることを恐れていました。極東における海軍力の優勢を維持するために、どこかの国と同盟関係を結ぶことが必要であり、日本の海軍力がそれに適合するものでした。
10月中旬から日英交渉は本格的に進められました。12月7日の元老会議で小村寿太郎外相は日英同盟が日露協商よりまさっていることを強調しました。ここに到り、井上は日英同盟支持を、伊藤は反対しない旨を知らせてきました。

1902(明治35)年1月30日、日英同盟は成立しました。日英両国は清国における利益を擁護しあい、日本が韓国に有する利益を認め、これが侵犯される場合は必要な措置をとる。日英が他国と戦争の場合、お互いに厳正中立を守る。他国に一国以上が加わる場合は日英は同盟国として参戦する。以上がその内容で、これと別約で、両国海軍の協同動作と施設提供、極東における優勢な両国の海軍力の維持が決められました。
伊藤らの朝鮮で利害関係があるロシアとの日露協商交渉は成功しませんでしたが、こうした動きはイギリス側を刺激し、日英同盟締結を促進しました。
イギリスは義和団事件鎮圧での日本軍の軍事力をロシアへの有効な抑止力と考えました。
日本は、日清戦争後の朝鮮を巡ってのロシアとの対立や中国分割競争などの新しい事態に於いて、日本の国際的地位は安定したものではありませんでした。日英同盟によって、強国ロシアと対峙できる条件ができました。

 

日英同盟の成立により海軍力の拡張を日本は義務付けられました。桂内閣は第3期海軍拡張案を1902(明治35)年12月に始まる第17議会に提出しました。
明治34年来の経済不況のため、財源を公債募集に求めることは無理でした。そこで桂内閣は、第2次山県内閣が5年間の時限立法で成立させた地租増徴法を更に継続させようとしました。
政友会も憲政本党も反対しました。政府と議会の妥協は成立せず、12月末衆議院は解散しました。
翌年の1903(明治36)年3月の総選挙で両党は提携して戦い、改選後の議席数に変わりはありませんでした。ところが、政友会総裁伊藤博文は幹部にも諮らずに政府首脳と会見し、地租増徴案の撤回を条件に妥協しました。
このため、海軍拡張の財源に鉄道建設の財源を振り向け、鉄道は公債で補充するという政府案を政友会は受け容れざるを得ませんでした。
伊藤や幹部の党運営に不満が爆発し、離党者が相次ぎました。

日英同盟が影響して、1902(明治35)年4月ロシアは清国に満州を返還するという条約を締結しました。撤兵は3期に分けて実施されるとして、10月に第1回が行われました。
しかし、この頃ロシア皇帝周辺で強硬策を取るべきであるという主張が強くなり、翌年1903(明治36)年4月の第2期撤兵は行われませんでした。
この情報は駐清公使内田康哉(こうさい)からもたらされました。小村外相・桂首相、元老の伊藤博文・山県有朋の四者が京都の山県の別荘で協議しました。
ロシアには撤兵の不履行を抗議する、これを機にロシアと朝鮮・満州問題について交渉する、朝鮮は日本の優先権を認めさせ、満州はロシアの優先権を認める(満韓交換論)という内容を申し合わせました。この方針は、四者に他の元老大山巌・松方正義・井上馨や寺内正毅(まさたけ)陸相・山本権兵衛海相も参加した御前会議で確認されました。
この対露交渉の方針が決定すると、桂首相は辞意を表明しました。この決意で伊藤博文に圧力をかけました。伊藤は元老として国務に参画し、政友会総裁として政府と対立するという二つの立場に立っていました。桂はこの機に伊藤を枢密院議長に祭り上げることを考えていました。
政友会の統率がうまくいってなかった伊藤も、元老の山県・松方の枢密院顧問就任を条件に受け容れました。

1903(明治36)年6月戸水寛人(とみずひろんど)・高橋作衛(さくえ)ら東京帝国大学教授と学習院教授の後七博士と呼ばれる人達は桂首相を訪ね、満韓交換論には反対で、開戦は止むを得ないとし、そのためには国民一致の世論の支持が必要であると主張しました。
七博士らは「満州問題に関する建議書」を元老・大臣に送付し、新聞にも発表しました。
この様な対露強硬論は政府・軍部内にも起こりました。こうして政府の内外にも対露強硬論が登場すると、民間でもその動きが出てきました。
対外硬派のグループが集まり、8月に会名を対露同志会とし大会を開き、宣言と決議を発表しました。日清戦後、我国はロシアに忍耐を強いられている、満州問題の根本的解決こそ国是を実現する道である、ロシアに撤兵条約の履行させ、満州開放を実現するように、政府の断固たる決意を要求しました。
9月になると、玄洋社の人々を中心に対露同志会の九州大会が開かれました。10月の第3期撤兵の期日を前に、対露同志会の全国大会が開催されました。
この頃、主要新聞は既に対露強硬論を展開していました。従来非戦論であった「万朝報」の黒岩涙香社長も開戦論に転じ、非戦論の幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三は退社しました。外交交渉による解決を主張していた「毎日新聞」も主戦論に転じました。新聞・雑誌の論調は圧倒的に主戦論に傾きました。

1903(明治36)年上半期輸出も伸び、経済界は満州問題を契機に戦争になることを好みませんでした。4月第2期満州撤兵不履行で外交関係が緊張すると、株価は下落しました。8月対露強硬論が高まると、経済界は軽率な主戦論を戒めました。
10月に第3期撤兵不履行がはっきりすると、主戦論が圧倒的になり、株式市場は暴落を続けました。不況が長引くと、経済界も開戦による景気の好転を期待して主戦論に同調することになりました。
都市労働者は不況により困窮していました。農村も同じく困窮していました。こうした民衆の不満を開戦論にぶちまけました。
12月対露同志会は開戦を要請する上奏文を提出しました。

主戦論が国民各層に広がる一方、社会主義者やキリスト教徒などによって非戦論が展開されました。1903(明治36)年5月に幸徳秋水は非戦の立場を鮮明にしました。幸徳をはじめ片山潜・西川光次郎ら社会主義者は非戦を主張しました。
キリスト教徒の内村鑑三は「万朝報」紙上で非戦論を展開しました。
10月「万朝報」が主戦論に転じると、幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三は退社しました。幸徳と堺は社会主義協会の支持を受けて平民社を創立しました。
11月平民社は週刊「平民新聞」を創刊しました。
自由民権運動以来のブルジョア民主主義を基本原則にして、自由を実現する平民主義、平等のためには社会主義、博愛のためには平和主義を主張し、その実現のために法の範囲内で世論を喚起し、多数の一致を得ると創刊号で宣言しました。
執筆人には西川光次郎・石川三四郎・安部磯雄・木下尚江らの社会主義協会員がいました。
日露開戦目前の1904(明治37)年1月には非戦論特集を出しました。しかし、非戦論は少数意見でした。

 

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